出典:団藤重光著、『死刑廃止論(第5版)』、有斐閣、1997年
・まず、この節で登場する国連の「世界人権宣言」、「自由権規約」は日弁連 のホームページで日本語、英語共に読める。さらに、1989年の「死刑廃止 条約」は死 刑制度の廃止に向けてというホームページで読める。こちらは団藤氏の試 訳である。
団藤氏: こうした各人の生命権を含む人権は、<自由権規約>の前文にも 明示されていますとおり、まさに、「人間の固有の尊厳に由来する」ものであ ります。このように人権が人間の尊厳、人間の人格的価値に由来するものであ ることは、もちろん学説もひろく認めるところです。ヨンパルト教授のいわれ るとおり、「人間の尊厳」から「人命の尊重」が出て来るのです。そして「人 間の尊厳」は、人間の主体性を前提としますから、根本的には人間像の問題に なるわけです。
こういうことが死刑問題の議論の原点、出発点になるわけです。(p. 138)
・なるほど、生命権を含む人権あるいは人命の尊重は人間の尊厳に由来し て、人間の尊厳は人間の主体性を前提とするので、根本的には人間像の問題に なる、というわけですか。「ふむ、ワトソン君、ぼくには彼の言っていること がまったくわからないな」
・しかし、まあ、よくわからないとはいえ、一応「人権の本質は人間の尊 厳に由来している」ということは頭に入れておいて次に進もう。この一文が正 確には何を意味しているのか、悲しいかなわたしにはまったく理解できないし、 本当に議論の原点に立ち返る気があるのならば、もう少し説明してくれてしか るべきだとも思うのだが。
団藤氏: 前に最高裁判所の大野正男裁判官の補足意見に対する平川宗信教 授のコメントを紹介しましたが、(八六頁)、教授はあの中で「人権は、多数の 意思で存否が決まるものではない」ことを強調しておられます。これは卓見だ と思います。教授の強調されるとおり、人権問題は、人間の人格的な価値の問 題であって、世論の問題ではないのです。そういう意見の人が多いかどうかに かかわらず、人間の人格の尊厳という価値の問題として、いわば先験的なもの だということになりましょう。(pp. 140-141)
・なるほど、「人権は世論によって決まるものではない。時代・場所超越 的に存在するものだ」ということか。たとえ市民の多くが納得しなくても、人 権は正しく、それゆえ死刑廃止も正しく、それゆえ納得しない市民の方が誤っ ているのであり、彼らの意見は無視してでも死刑は廃止されなければならない、 と。(ただし、団藤氏はこの直後に「(死刑廃止に消極的な)世論調査の結果が 間違えているのだ」と主張しているが)
・さて、ここで団藤氏の死刑廃止論のアプリオリ的性格 が徐々に明確になって来る。すなわち、「たとえ市民が全員反対したとしても 死刑は廃止すべきである」、そして(後に見る)「たとえ誤判の可能性が現実に は無限小になろうとも、死刑はその制度が本質として持つ誤判可能性のゆえに 廃止されるべきである」という考え方である。
団藤氏: ところで、ちょっと話題が変わって、先日、どの新聞かの投書欄 で読んだ一読者の意見であったかと思いますが、死刑を廃止するためには、社 会契約説にまで遡って、廃止論者が一〇〇%にならなければ駄目だ、というよ うな趣旨のものに接しました。随分突拍子もない議論をする人がいるものだと も思いましたが、本当の原点にまで立ち返って議論をしなければならないとい うことを言っている点では、やはり大切なものを含んでいますので、ここに少 しばかり触れておくことにしたいと思います。
ルソーの社会契約説については後に述べますが(二四八頁)、 要するに、わ れわれは社会契約を結ぶときに、「目的を欲する者は手段をも欲する」という ことを前提として、「各自が殺人者の犠牲にならないために、もし自分が殺人 者になったときは、自分が死刑になることをもあらかじめ承諾しているのだ」 という論理によって、死刑制度を肯定しているのです。投書者はこれを頭に置 いて、そういう社会契約が成立している以上、社会全員の合意によってのみ死 刑制度の否定が可能になるのだ、と言いたいのでしょう。しかし、これはすべ て裁判には--死刑判決をも含めて--不可避的に誤判が伴うものであることを忘 れた議論です。ルソーの論理からいえば、社会契約の際に、各人が仮に自分が 誤判によって無実なのに死刑にされることがあっても、それでもかまわないと いうことを、承諾するのでないかぎりは、いまの議論は通らないでしょう。そ んなことを承諾する人がいるはずはありません。本当に自分が殺した場合に、 自分の生命を提供するということならばわかりますが、自分が殺しもしないの に死刑になることをあらかじめ承諾するといったことはあり得ないことです。 ルソーの社会契約説による死刑制度肯定論は、誤判論の前には砂上の楼閣のよ うに崩れ去ります。むしろ逆に社会契約上、死刑制度が基礎づけられないとい うことが出て来るわけです。そもそも啓蒙思想の考え方をそのまま現実の立法 論に当てはめることが、おかしいのです。ついでながら、ルソーの『エミール』 の思想は、やがてペスタロッチを通じて、むしろ死刑廃止論につながるもので あることをも、付け加えておきましょう。(pp. 141-142)
・あっというまにルソーが論駁されてしまった。驚くべきことである。
・わたしは社会契約論がそもそも嫌いであるから、それほどルソーのため に議論をする気にもなれないが、団藤氏の論駁の仕方も相当なものなので、一 言だけ述べておきたい。
・「本当に自分が殺した場合に、自分の生命を提供するということならば わかりますが、自分が殺しもしないのに死刑になることを あらかじめ承諾するといったことはあり得ないことです」とある。しかし、団 藤氏に是非尋ねてみたいのだが、たとえば、「自分が盗みもしないの に刑罰を受けること(つまり、誤判によって死刑以外の刑罰を受ける 可能性があること)をあらかじめ承諾するといったこと」も果して「あり得な いこと」なのだろうか。もしあり得ないとすると、社会契約論の下では刑罰制 度は全く成立しないことになる。反対にもしあり得るとすれば、死刑の場合に も社会契約が成立する可能性はあり得るのではなかろうか。
・たとえば、わたしは、次のような社会契約であれば参加しても良いと思 う。「各自が殺人者の犠牲にならないために、もし自分が殺人者になったとき は、自分が死刑になることを承諾する。ただし、各人が仮に自分が誤判によっ て無実なのに死刑にされることがあっても、誤判の可能性が自分が納 得できる低さにあり、司法も日々誤判防止に努力しているのであれば 、それでもかまわないということを、承諾する」。みなさんはいか がであろうか。
・ついでながら、揚げ足取りになって申し訳ないが、「そもそも啓蒙思想 の考え方をそのまま現実の立法論に当てはめることが、おかしい」のであれば、 啓蒙思想が産んだ最たるものである人権などというわけの分からない代物をそ のまま現実の立法論に当てはめることもおかしいのではないか。もちろん、人 権思想は社会契約論に比べ、いまだに圧倒的な人気を博しているのだが。