反死刑廃止論目次へ

団藤重光『死刑廃止論』批判草稿

1.死刑廃止を訴える(講演)


出典:団藤重光著、『死刑廃止論(第5版)』、有斐閣、1997年


団藤氏:法は世の中にそのあるべき姿を示すのでなければなりません。国民 に対して生命の尊重を求めながら、法がみずから人の生命を奪うのを認めると いうことでは、世の中に対する示しがつかないのではないでしょうか。(p.5)


・おなじみの死刑制度=国家による殺人議論である。この議論を突き詰め れば刑法そのものを否定することになるのは明白である。ベンタムの言う通り、 刑罰はすべて、それだけを切り取って考えれば人間に苦痛 をもたらすものであるから、その意味では純然たる悪なのである。

・前にも書いた通り、罰金刑を犯罪人がそれを課されるに至った文脈から 切り離して考えれば、それは国家による単なるカツアゲということになる。団 藤氏はこれも「世の中に対する示しがつかない」と言うのであろうか。しかし まさか団藤氏も刑法そのものを否定することはあるまい。刑法が無くなれば彼 は仕事が無くなってしまうであろう。


団藤氏:学者によっては、誤判は死刑に限ったことではないのだから、死 刑存廃の議論には、誤判の問題は括弧に入れて、およそ「人を殺した者」に対 して死刑を科する道を残しておくべきかどうか、という純粋な形で問いと答え を出さなければ、議論に夾雑物がはいって来るという意見の人がいます。これ は制度ということを忘れた議論だと思います。哲学の議論ならこれでいいかも 知れませんが、法律の議論としては、これでは通らないのです。(pp.6-7)


・この文章は、ぼくが死刑廃止論に首を突っ込む動機となった、超あたま に来る一文である。団藤氏許すまじ。

・しかし冷静になって考えてみよう。誤判の問題と死刑の問題を切り離し て別々に考察することが、果たして「制度ということを忘れた議論」なのだろ うか。

・「人を殺した者」に対してどのような扱いをすべきか、というのは法の理 論的な問題である。それに対して、誤判の問題は法の運用上の問題であり、実 践上の問題である。この二つを切り離して考えることはできないのであろうか。

・確かに、「人間を殺した者」に対処するのは、誤ちを犯す人間であるか ら、上の理論的な問題をより厳密に言うと、「人を殺した者」に対して 誤る可能性のあるわれわれ人間はどのような扱いをすべき か、であるはずであり、哲学者も法学者も最終的にはこの問いに答えなくては ならない。

・しかし、哲学であろうが法学であろうが物理学であろうが、人間の可謬 性を考慮に入れないで、まず純粋な形で考えることは十分意義のあることでは ないだろうか。

・人間の頭は多くのことを同時には考えられない。だからわれわれはまず 誤判の可能性を抜きにして(あるいは誤判の可能性が起こり得ないシステムが 確立したと想定して)死刑の問題を考え、また別に誤判一般の問題を考え、そ してその後に誤判の可能性を考慮に入れた死刑制度の可否を問うべきではない か。

・団藤氏の言うように死刑制度に誤判の問題が切り離せないのは認めるが、 決して別々に考慮できない問題ではない。


団藤氏:なるほど、被害者側の感情を満足させることは、それじたいとし て、正義の要請に違いありません。しかし、無実の者が処刑されるということ は、そんなこととはまるで釣り合いがとれない位大きな不正義であります。た とい、わずかの可能性であるにしても、無実の者が処刑されるという「犠牲」 において、被害者側の感情を満足させることは、正義の見地から言っても、と うてい許されることではありません。このように、法や裁判の本質である正義 の見地から言っても、私は絶対に死刑制度というものは置いておくべきではな いと思うのです。(p.12)


・続いて団藤氏は誤判の問題が「死刑廃止論の最後の決め手になる(p.12)」 と言っている。誤判があるかぎり死刑制度は不正義であり続ける、というわけ だ。

・さて、団藤氏はこの議論を普通に読むかぎりでは、「誤判の可能性が全 くなければ」死刑を行なうことは正義に叶っている、と言っているようである。 しかし、実際の死刑制度において誤判の可能性はなくならないから、死刑制度 を存続させることは不正だと言うのである。

・すると、「誤判の可能性が全くない場合に限り、死刑を行なう」という 制度があれば、それは不正ではなかろう。そしてたとえば、「現行犯の殺人に 限り、死刑を行なう」という制度であれば、それは(極端な懐疑論を唱えるの でなければ)理論的にも実践的にも可能であると言われるかも知れない。

・しかし、犯行時の精神状態が考慮されるとすれば、現行犯の場合でも誤 判の可能性は完全には無くならない。すると「誤判があるかぎり死刑制度は不 正である」という死刑廃止論者の主張を批判するために「誤判が無ければ」と いう仮定を立てるのは、おそらくはSFの世界でないと不可能であることになる。

・死刑制度の運営上、誤判が無い、ということはありそうにない。それは ちょうど自動車交通が存在するかぎり、交通事故の可能性があり、レポートの 採点があるかぎり、字の善し悪しで評価が変わる可能性があるのと同様である。 (後者は全員がワープロを使えば別であるが)

・したがって賢明な反死刑論者の採り得る立場は「たとえ誤判が起こり得 るとしても、それが社会に対して、死刑を廃止した場合よりも大きな不正感を 生み出さないかぎり、死刑制度を存続する方が正しい」であるように思える。 そしてこの立場に立てば、この反死刑廃止論者は非常に誤判の多い死刑制度の 下では死刑廃止論者となりうるのである。

(中断)


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 07/25/97
All rights unreserved.