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団藤重光『死刑廃止論』批判草稿

序.はしがきを読んで


出典:団藤重光著、『死刑廃止論(第5版)』、有斐閣、1997年


「初版のはしがき」から

死刑廃止の問題は、単なる頭の問題ではなく本質的に心の問題であり、ま た、単なる机上の理論の問題ではなく実践の理論の問題であり、さらには実践 そのものの問題である。(p.9)


・後半の部分は当然である。「死刑を廃止すべきかどうか」という問いは、 「べき」が付くからには倫理の問題である。

・しかし前半の「死刑廃止は頭ではなく心の問題である」とはどういうこ とか。文字通り脳ではなく心臓の問題だということか?

・まあ、出来るかぎり好意的に推測するに、「死刑廃止は理論、理屈の問 題ではなく、尊厳ある人間の感情の問題なのである」ということだろうか。

・しかしこれは絶対に納得できない。われわれ倫理学者はあくまで正しい 議論、みなを納得させる理論をつくり出さなければならない。でないと誰も説 得できない。われわれは少なくとも学者であるかぎり、他人が頭で理解できな いことを力ずくで心に強要するわけには行かないのだ。

・また、頭の問題ではないというのであれば、このような本を書く必要はそもそ もない。


死刑の存廃は一国の文化水準を占う目安である。わが国には、経済的繁栄 の反面において、心の貧困があるのではないか。(p.10)


・死刑廃止論者による超暴言。このような発言にこそ、日本の文化水準の 低さが顕著に現れている

・死刑の存廃は決して一国の文化水準を占う目安ではない。死刑制度を廃 止した国が死刑制度を存続している国よりも文化的に優れているなどとは言え ない。それどころか、日本がこのようなもの言いにふりまわされて、また先進 国と呼ばれる国にならって死刑制度を廃止するのであれば、それこそ日本人の 心の貧困を示すものとなろう。

・また、死刑を廃止している国でも、核実験を行なうような国もある。そ のような国よりも、仮にも平和憲法を持つ日本の方がよほど文化水準が高いと 言うべきではないのか。

・繰り返す。死刑の存廃はクジラ漁の存廃と同様、文化水準とは無関係で ある。


「改訂版のはしがき」から

世論だけが政府にとって拠りどころになっているようであるが、バダンデー ル氏は、本文中でやや詳しく紹介したように、世論に単純に追随することはデ モクラシーではなくデマゴジーだと言い切った。これは味わうべきことばでは あるまいか。(p.12)


・この本によると(p.11)、ロベール・バダンデール氏はフランスの法務大 臣であった人で、ミッテラン大統領の下、フランスの世論(死刑存置派が国民 の62%)を押し切って死刑廃止を遂行した人である。

・死刑制度存続の世論が強い日本では、このフランスの例が死刑廃止論者 によってやたらと引き合いに出される。曰く、「国民の総意を待っていてはい つまで経っても死刑は廃止されない。上からの改革でなければだめだ」。

・しかし、これではデマゴギーでないどころかデモクラシーでもない。こ れはテロリズムか、良く言って愚民思想に基づいた専制政治である。

・死刑制度は一国の文化水準を占う目安ではなかったのか。一体、国民を 納得させられない政策を強引に行なうような国家が、どれほどの文化的価値を 持つというのか。


「第三版のはしがき」から

右の日米の比較統計からも推測されるように、日本は、さいわいに、世界 でももっとも治安状態のよい国なのである。死刑廃止の条件はすでに揃ってい る。(p.17)


・本書によると(p.17)、1991年の日米の殺人罪の(人口10万人に対する)発 生件数の比率は9.8倍だそうだ。

・しかし、もちろんこれで死刑廃止の条件が揃っているとは言えまい。そ もそも死刑廃止の条件などというものをわたしは知らない。治安が良ければ-- 「治安が良い」と言っても殺人は多少は起こるのであるが--死刑を廃止してよ いのか。治安が良ければ刑法そのものを廃止しても良いのか。

・それに、真偽のほどは議論の余地があるにせよ、もしかしたら 死刑制度があるからこそ治安が良いのかも知れないのである。そう 簡単に死刑廃止の条件が揃ったなどと言ってもらっては困る。


万が一にも、この人たち(死刑確定者)が次々に執行されるようなことにな れば、この平和なわれわれの社会において何と言う血腥いことであろう。それ は形式的には確定判決の執行とはいえ、実質においては、殺戮である。それは 平穏な社会に波乱をおこさせるものであり、秩序維持の名においてむしろ秩序 を乱すことになる。(p.18)


・毎度おなじみの死刑制度=国家による殺人議論である。この論法に対し てはこう言えば十分であろう。「あなたの論法によると、懲役などの自由刑は タコ部屋への強制収容と強制労働、罰金刑はカツアゲということになりますが、 あなたは国家による刑罰そのものをも否定する気ですか?」


物質的・技術的な物の考え方が横行している現代の思潮の中にあって、もっ と人間的な、あるいは倫理的・精神的な、ヒューマニスティックな考え方が取 り入れられなければならないのではないか。法の分野においては、格別にそれ が要請されるのではないか。(p.22)


・団藤氏は至るところで「ヒューマニスティックな」、「ヒューマニズム」、 「人道的」という言葉を用いられる。しかしわたしはこの言葉とこの言葉を安 易に用いる人を軽蔑し憎まざるを得ないのである。

・一体「人道的humanistic」とは何か。それは「自然的(本性的)natural」 というのと同じぐらい曖昧な概念であり、どのような立場にでも使えるテロリ スト用語なのである。

・たとえば、日本人はペットを飼えなくなったとき、普通は殺さずにどこ かに捨てる。他方、イギリス人はペットが飼えなくなると、飼い主は普通殺す そうだ。

・両者のやり方のうち、いったいいずれが「人道的」と言えるのであろうか。

・おそらく日本人は自分のやり方の方がより「人道的」だと考えるであろ うし、イギリス人も同様であろう。

・また、安楽死の賛成者、反対者もお互いに自分のことをより「人道的」 だと言って譲らないであろう。

・そして状況は死刑廃止論においても同じなのである。自分たちの方がよ り「人道的だ」というのは、常にとは言わないまでも、大抵の場合は全く根拠 レスな主張であり、そういうことによって示されるのは、「自分たちの意見の 方が正しい」という、未だ正当化されていない愚かしい信念だけなのである。 (以後、このような考え方--人の道に合う、合わないという議論に典型的に見 られる考え方--を「自然法的誤謬」と呼ぶことにする)

・「自分の方が正しい」という素朴な信仰に裏打ちされた告白を聴くのは もうたくさんである。そのような人が誰かを説得できるとすれば、彼らの理性 ではなく感情に訴えることによってのみである。そしてそれはもはや学問的営 みではない。新聞の勧誘となんら変わるところはない。


万が一にも誤判によって無実の人が処刑されるようなことがあれば、それ は言語に絶する不正義であって、それはあらゆる死刑=正義論を根底からくつ がえす。しかも、裁判が神ならぬ人間の営みである以上は、誤判を絶無にする ということは性質上不可能である。


・さて、誤判は言語に絶する不正義である、というのは本当であろうか。

・たとえば、通り魔殺人と誤判による死刑のいずれがより不正であるかを 考えてみよう。

・通り魔殺人において、ある人が無実の者を意図的に殺 害するのは明らかに不正であろう。

・また、誤判による死刑において、国家が無実の者を事故的(非意 図的)に殺害するのも不正であろう。

・しかし、通り魔殺人に比べて、誤判による死刑の方が「言語に絶する不 正義」であると言えるだろうか?殺人を犯す者は悪意から人 を殺す確信犯であり、誤判による死刑はいわば善意から誤っ てなす過失犯であると考えられるのに?

(ただし、中には悪意から誤判を生み出す裁判官もいるかもしれない。しか し、まさか団藤氏は日本の裁判官のすべてがそのような悪意に満ちた邪悪な存 在であるとは考えていないであろう)

・否、誤判は言語に絶する不正義ではない。このようなことを主張する人 は、国家が悪意から誤判を生み出し、無実の者を殺すのを楽しんでいる、と考 えているに違いない。

・確かに死刑制度があるかぎり、誤判の可能性はなくならない。しかしだ からと言って、死刑存置論者が悪意から誤判を生み出そうとしているとは言え ない。その論法で行くと、自動車を運転する者は全員、悪意から交通事故を生 み出そうとしている、ということになる。しかしこれは明らかに誤った推論で ある。

・結論。事故は不正であるとは言えるが、言語に絶する不正義であるとは 決して言えない。したがってこの点に関するかぎり、誤判がある以上必ず死刑 制度は廃止されるべきだと言うことはできない。


論者によっては、誤判は滅多にあることではないから構わない、たまには あっても仕方がない、という。何という非人間的な言い方であろう。私はそう いうことを言う人の人間的なセンチメントを疑うのである。(pp.27-28)


・「人間は間違うものだ、たまに間違っても仕方がない」という主張はそ れほど非人間的なものであろうか。むしろ「誤る可能性が絶対にない限り、人 間は何をすることも許されない」という完璧主義の方がよほど非人間的ではな いのか。わたしはそういうことを言う人の人間的なコモンセンスを疑うのであ る。

・わたしは交通事故が起こって死者がでることは非常に残念だと思うが、 たまにはあっても仕方がないと思う。NASAのスペースシャトルがたまに爆発す るのも仕方がないと思う。たまに飛行機が墜落するのも仕方がないと思う。

・一体わたしは非人間的な人間なのだろうか。人間的な人間は誰もこのよ うには考えないのだろうか。


(第4版と第5版のはしがきに関しては、取り立てて言うべきことはない)


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 07/07/97
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