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反死刑廃止論

団藤重光「死刑廃止論の出発点」批判


団藤重光「死刑廃止論の出発点」

出典:佐伯千仭+団藤重光+平場安治編著、『死刑廃止を求める』、日本評論社、1994年


被害者感情の問題

死刑廃止を考えるときにまず問題となるのは、被害者感情−−被害者本人 が殺されるときどんなに悔しかったか、遺族たちがどんな思いをしているか− −です。死刑存置論者が根拠とするのもそこですが、廃止論者も被害者感情が わからなければなりません。被害者の痛みがわかる、生命の価値というものが 痛切にわかる人であって初めて、本当の死刑廃止論者になれるのです。


(批判1)大変不評な前回の佐伯批判に引続き、今回は「本当の死刑 廃止論者」ミスター団藤重光批判をしまーす。前回のこだまの文章 に関して、「人の挙げ足をとるな」とか「もっと好意的にテキストを解釈しろ」 とか「全文を引用するな」などなどの御批判をいただきましたが、今回もこり ずに全力を尽くして同じ調子で行きまーす。

まずは被害者感情の話です。応報論の話です。これを理解していないと 「本当の死刑廃止論者」にはなれないそうですから、みなさん心してください。


以前、民主党のデュカーキス氏がアメリカ大統領候補になったときに、演 説会場の聴衆から「あなたは死刑廃止論者だと聞いているが、仮にあなたのお 嬢さんが殺されたら、あなたはどうするか。それでも死刑廃止を唱えるか」と 質問されて、「私は娘が殺されても、死刑廃止の信念は曲げない」と答えたこ とが、選挙を戦ううえでたいへんなマイナスで、敗因のひとつになったという ことを聞きました。

その話をしてくれたのはアメリカのグリーンバーグ教授ですが、彼は、 「デュカーキス氏は、ことばが足りなかったんだ。もしそのときに、『自分だっ て犯人を絞め殺しても足りないくらいに思うけれども、そういう個人的な感情 にかかわらず、それでも死刑は廃止すべきなんだ』というふうにいえば、ライ バルだった共和党のブッシュ候補にも勝てたかもしれない。単純に『自分の娘 が殺されても死刑廃止の信念を曲げない』と言ったものだから、みんなたいへ んがっかりした」と言っていました。


(補足1)アメリカ人は「一を聞いて十を知る」などということは間違っても ない、と言いたいようです。


しかし、だからといって被害者感情を生のままぶつけて、やられたからや りかえせ、というのでは、単なる復讐です。法律は、主観的なぶつかりあいに 介入して客観的によりよい方向で解決していくためにあるものですから、個人 の復讐心をストレートに出すことを認めるものではありません。法律が考える べきことは、被害者感情をもう一度よく反省して、それをどう処理していくか であって、被害者感情に対しては、損害賠償や国家補償はもちろんのこと、被 害者に対する精神面での救済措置を充分に整えるべきなのです。

被害者の遺族にしても、犯人を死刑にすれば満足するのかといえば、そう はいえないのではないでしょうか。


(補足2)だんだん怪しげな雲ゆきになって来ました。もしかすると「遺族は 殺人者に対して復讐心など持ってはならない」というような(正論に見えるだ けに)恐ろしい結論が待ち構えているのではないでしょうか。


被害者感情の昇華

一九歳の長男を強盗に殺されたドロセア・モアフィールド夫人が、一昨年、 日本にもやって来て死刑廃止論の講演をしました。息子は大学生で近くのスー パーでアルバイトをしていて強盗にあったのですが、犯人は、カウンターにい る店員だけでなく、顔を見られたというので店内にいる人たち全部を殺したと いう、きわめて残忍な事件で、彼女は、長いあいだ、犯人をどんな酷い目にあ わせてでも殺してやりたいと思って夜も眠れない位の年月をすごしたそうです が、そのうちに、そんなことで果たして本当に自分の気持ちが救われるのか、 と翻然と悟るところがあって、こんどは熱心な死刑廃止論者になって世界中を 講演してまわるようになったのだそうです。むしろ犯人を生かしておいて心底 からの反省を促し、遺族や社会に対して真剣に償いをさせるべきだというので す。個人的な被害者感情を昇華することによって、より高次の社会的救済への 道をみつけたわけです。心を打つ話でした。


(批判2)どうですか、心を打たれましたか?わたしはまるで『発心集』を読 んでいるかのような錯覚に捕らわれましたが。

少なくともわたしが思うに、自分が愛するものを他人に殺されたら、普通 は怒ります。その怒りを鎮めろ、と言うのは全くの正論ではありますが、誰も がそうできるわけではありません。世の中にはカール・ルイスのように足の速 い人もいれば、アキレスのように徒競走で亀にも負ける人もいるのです。みん ながみんなこのドロセア・モアフィールド夫人のようになれるわけではない、 とわたしなどは思うのですが、どうでしょうか。「不合理なことはわかってい る。殺人者を殺してもわたしの最愛の人は戻って来ないことは重々承知だ。し かしそれでもわたしはその殺人者が死刑になることを要求する」という人に向 かって、「あなたも早く悟りなさい」などとは少なくともわたしには言えませ ん。

筑波大学の土本教授もこんな風に書いておられます。

廃止論者は、しばしば「犯人が死刑になっても被害者が生き返るわけでは ないし、遺族には空しい虚ろな気持が残るに違いない」、「アメリカ人のマリ エッタ・イェーガーさんが自分の娘が強姦され殺害されたのに死刑廃止論者に なった例に見られるように、応報感情も昇華されることがある」という。こう いう議論は一見高尚であるが現実性に乏しい。まず、イェーガー氏のような遺 族は例外中の例外であって、一般の遺族感情を代表するものとはいえない。加 えて、仮に遺族が応報感情の昇華といわれるような心境となったとしても、そ れによって理不尽に殺害された被害者自身の被害そのものが償われるものでは ない。(「存廃論の合意点を探る」、法律時報69巻10号、26頁)

ところで、「むしろ犯人を生かしておいて心底からの反省を促し、遺族や 社会に対して真剣に償いをさせるべき」だと考え直したのは、果たして犯罪者 に対する思いやりからなのでしょうか、それともある意味非常に残酷な気持か らなのでしょうか。わたしには二通り考えられます。また、「十分反省した。 かくなる上は責任をとって死なせてくれ」という犯罪者がいた場合はどうした らいいのでしょうか。やはりその人は死ねないのでしょうか。


死刑問題の原点

ただ殺すというだけなら、本人に気付かれないように射殺したり毒殺した りしてもいいわけですが、それでは刑罰にならない。日本の法律でも、死刑囚 が心神喪失の状態にあるときは死刑の執行を停止しなければならないことになっ ています。死刑囚に刑罰の執行だということを意識させて行なわなければいけ ないのです。死刑も刑罰である以上、殺すことが目的ではなく、自覚させ反省 を促すという意味があるからです。ということは、反省させることこそが本質 的なのです。


(批判3)本当に「死刑は反省させることが目的」なのでしょうか。そうする と、死刑制度とは、「反省した者を絞首する」制度なのでしょうか。悟った者 を殺すのではあまりに理にかなっていません。

教育刑的な観点から死刑を考えるとすれば、「更生させることがまずもっ て(合理的に考えて)不可能な者」だけを殺すべきでしょう。この場合、現行刑 法にある「心身喪失の状態にあるときは死刑の執行を停止しなければならない」 という条項は残酷なだけなので無くした方が良い、ということになると思いま す。

繰り返しますが、「反省させることこそが本質的」というのはおかしいで す。それでは死刑制度は「発心していない者を発心させてから殺す」制度になっ てしまいます。教育刑の発想の問題点については、最後に少しだけ述べたいと 思います。


そもそも殺人罪の規定は、人の生命を守るためです。だから、法は生命が なによりも大切なものだという根本の考え方を踏み外してはならないと思いま す。法が人命を尊重する立場で、生命を奪う死刑という方法を認めるのは、法 の本来の立場に反するものです。


(批判4)これは「法は殺人を禁じているにも関わらず、死刑制度によって殺 人を認めるという矛盾を犯している」という、よくある論点です。しかし、法 はある人が他の人の自由を奪ったり、お金をむりやり取ったりするのを禁じて いる一方で、自由刑や財産刑によって犯罪者の自由や財産を合法的に奪ってい るわけです。上のような議論を認めると、全ての刑法が「法の本来の立場に反 する」ことになるのではないでしょうか。


死刑の問題は、こうした原点に立ち戻って論じなければなりません。現行 法が死刑制度を認めていることを前提として、これを廃止するかどうかを議論 するのは、そもそも間違っているのです。もっと根本的に、およそ死刑制度と いうものを肯定するだけの根拠があるのかどうか、を真剣に考えなければなら ないのです。


(批判5)たしかに死刑制度は、ちょうど近代市民革命によって倒されること になるアンシャン・レジームのようなものなのかも知れません。しかし、アン シャン・レジームに根拠がないからといって、直ちに革命を起こすことが正当 化されることにはならないのと同じように、現行の死刑制度を肯定するだけの 根拠があるかどうかわからないからといって直ちにそれを廃止すべきだ、とい うことにはならないでしょう。それは、役に立たない盲腸は直ちに切り取るべ きだ、というようなものです。やはり、あえて廃止するというのならそれ相応 の積極的な根拠を述べるべきでしょう。せめて死刑廃止論におけるジョン・ロッ クが登場して欲しいものです。


およそ人権は人間の尊厳を基礎にするものですが、生命に対する権利は人 権の最たるものです。人間の尊厳は、本質的に言って、本来、政策だとか世論 の動向などで左右されるべきものではありません。もちろん、法制度である以 上、こうした視点を端的に無視してすむとは思いませんが、死刑制度があらゆ る見地からみて現在の日本にとって絶対に必要だということが積極的に肯定さ れないかぎり、軽々しく存置論を採ることは許されないというべきです。


(批判6)おそらく死刑存置論者も「市民の人権と生命を守るために死刑制度 を無くすべきではない」というでしょう。これでは堂々めぐりです。

わたしが思うに、死刑を廃止するかどうかは、要するにコスト・ベネフィッ ト(損得勘定)の問題なのです。たとえば、ある国の状況では「市民の人権と生 命をより良く守るために死刑制度をなくすべきである」ということになるかも 知れないし、またある国では「市民の人権と生命をより良く守るために死刑制 度を存続させるべきである」ということになるかも知れないわけです。きちん と損得勘定をすることなしに、いつの時代のどの国でも「市民の人権と生命を 守るために死刑制度を廃止すべきである」とは言えないと思います。(しかし 死刑廃止論者の大半はそう言わんばかりです)

(ところで団藤氏にぜひ「なんとか制」廃止論を、「なんとか制があらゆる 見地からみて現在の日本にとって絶対に必要だということが積極的に肯定され ないかぎり、軽々しく存置論を採ることは許されないというべきです」という 調子でやってもらいたいものです)


誤判の可能性

原点の話になりましたから、ここで、ルソーの社会契約論のことに触れて おきましょう。彼は死刑制度を承認するのですが、その論理はこうです。社会 契約で、各人は自分が誰かに殺されないように生命を保障してもらう必要があ る、その目的のためには、各人は、万一、自分が人を殺したときは自分の生命 を差し出すことにあらかじめ同意する、目的の承認は同時に手段の承認をも含 む、というのです。一見、巧妙な論理ですが、人権の本質論が脱落している点 を別論としても、彼のこの社会契約論には、じつは誤判の可能性の視点が大き く抜け落ちているのです。つまり、ルソーは、まったく冤罪というものを考え ないで論理を展開しているのです。自分が冤罪で死刑になることをあらかじめ 承諾する者がどこにいるでしょうか。裁判は全知全能の神ではなく人間がおこ なうのですから、誤判は必ずあります。ですから、社会契約論から死刑の基礎 付けはできないのです。


(批判7)わたしはそもそも社会契約説に懐疑的な意見を持っているのであま り弁護するつもりはありませんが、これは「議論AにはBという観点が抜けてい る」という一見もっともらしいが中身は全くないことが多い論法です。「ユー クリッド幾何学には非ユークリッド幾何学の観点が抜けているからまるでだめ だ」と言えないのは明らか(でもないか)ですが、ルソーの議論に誤判の観点が 完全に抜けているからといって、「社会契約論から死刑の基礎付けはできない」 とはっきり言い切れるのでしょうか。

「わたしは自分が交通事故で死ぬ可能性があるとしても、自動車はやはり 便利なので自動車廃止論には賛成しない(ただし交通事故はできるだけ無くす ように努力すべきである)」という人達が社会契約して自動車交通を存続させ ることは考えられないでしょうか。同様に、「わたしは自分が誤判で死刑にな ることがあるとしても、死刑制度はやはり有益なので死刑廃止論には賛成しな い(ただし誤判による死刑はできるだけ無くすように努力すべきである)」とい う人々が契約を結ぶことは十分に考えられないでしょうか(いやいやそんなこ とはない)。

確かに「自分が冤罪で死刑になることをあらかじめ承諾する者」はおそら くどこにもいないでしょうが、「自分が冤罪で死刑になる可能性 をあらかじめ承諾する者」はいてもおかしくありません。さきほど 言ったように、問題はコスト・ベネフィットなのです。原発を廃止することに 反対の人は必ずしも「自分が原発の事故によって死ぬことはない」と考えてい るわけではなく、おそらく多くの人は「自分が将来原発の事故によって死ぬこ とはなきにしもあらずだが、それでも原発を廃止するよりも存続させた方が自 分が今後受ける利益はおそらく大きいだろう」と考えていると思います。

(ロールズ先生ならどういうんでしょうね)


冤罪の可能性を否定したり軽く見たりするのは、裁判を知らない人だと思 います。いままででも死刑囚のなかで再審で無罪になった人は何人もいました し、また、実は、再審請求を却下された人のなかにも無実の人が絶対にいなかっ たとは言い切れません。実際、加賀乙彦さん(精神医学者、小木貞孝博士のペ ンネイム)の『ある死刑囚との対話』に出て来ますが、実在の人物であるその 死刑囚の手紙によれば「同囚の中で『本当にこの人はやっていないな』という のが一人いた」そうです。同囚の間のことですから、裁判官などよりも、本当 のことがよくわかると思うのですが、おそらく二○〜三○人くらいの同囚のな かに一人は本当に無実だと確信できる人がいたというのは、おそるべき事態で す。死刑存置論者は、冤罪など滅多にあることではないと言いますが、稀にあ るだけでも問題は深刻かつ重大なのです。しかも、ここでも推測されるとおり、 死刑因のなかの冤罪の割合は決して低いとはいえないのではないかと思われる のです。


(批判8)まあ、無実の人を死刑にするのは最高裁で裁判官を務めていた団藤 氏を含めた司法関係者であるわけだから、あまり自慢げに「おまえらなんも裁 判のことをしらんやろ。裁判ではこんなに誤判があんねんで」と言っても仕方 がない気がしますが…。とにかく現在の死刑制度が続くかぎり、誤判の可能性 が少しでも減るように努力してもらいたいものです。

また本当に「二○〜三○人くらいに一人」冤罪の人が死刑宣告をされてい るのならば、コスト・ベネフィットの観点からいってかなり問題かも知れませ んが、これは憶測の域を出ていないのではないでしょうか。まあ、詳しいこと は分かりませんが。

しかし毎年起こる交通事故の方が人数は多いので、団藤氏にはぜひ先に自 動車廃止論を唱えて欲しいものです。


もしも無実の者が処刑されるとしたら、国が法の名において殺人を犯すこ とになるわけですから、こんな不正義なことがあるでしょうか。これは個人が 個人を殺すより、比較にならない位大きな不正義だと言わなければなりません。


(批判9)この議論には思わず目が点になります。団藤氏という方は刑法論に おいて「故意」と「過失」を全く考慮に入れない方なのでしょうか?国家が 誤って個人を殺すのと、個人が意図的に 個人を殺すのと、いったいどちらがより大きな不正義なのでしょうか。もっと 良く考えてみると、国家とは人が運営するものですから、国家の犯す誤りは結 局は人の犯す誤りです。すると人が誤って殺人を犯すことは、人が意図的に殺 人を犯すことよりも「比較にならない位大きな不正義」だということになるの でしょうか?


被害者のことを本当に考えるためにも

被害者の遺族の苦しみというのは、殺された人が生き還って来ないかぎり 絶対に消えるものではないでしょう。しかし、世間は、犯人を死刑にすればそ れで被害者感情も処理されて一件落着と考えてしまいがちです。被害者感情を 考慮すればこそ、むしろ死刑はなくしたほうが、世間は被害者の遺族たちの辛 さを深く考えるようになるでしょうし、ほんとうの同情も湧いて来ると思うの です。


(批判10)団藤氏は被害者の遺族に対する世間の気持ばかりを考慮して、肝 心の被害者の遺族そのものは「本当に考えて」いないようにわたしには見えま す。それに先ほども述べましたが、被害者の遺族の中には、「殺人者が死んで も被害者は生き返らないが、それでも殺人者が死刑になった方が死刑にならず に生きながらえているよりもましである」と考える人もいるかもしれません。 もし被害者のことを本当に考えるのであれば、わたしたちはそのような気持ち も尊重しないわけにはいきません。

また最後の、「被害者感情を考慮すればこそ、むしろ死刑はなくしたほう が、世間は被害者の遺族たちの辛さを深く考えるようになるでしょうし、本当 の同情も湧いて来ると思うのです」という文は、残念ながらわたしには全く理 解不能です。死刑をなくしたら、世間は「ああ、遺族の人は殺人者を殺したく て殺したくて仕方がないだろうに。しかし死刑制度は廃止されてどうしようも ないわけだから辛くて辛くて仕方なかろうなあ」という風に深く考えるように なるということでしょうか。まことに意味不明な文章です。


一九九四年四月に、「死刑廃止を推進する議員連盟」が出来ました。その 設立のさいのスピーチで、会長に選ばれた田村元氏(元衆議院議長)が、「被 害者の立場をぬきにして死刑を廃止することはできない。そのためには、無条 件の終身刑が必要だと思っている」と言われました。私は、人間はどんな人間 でも改善不能ということはないと信じていますので、無条件の終身刑の考え方 には本来賛同できないのですが、しかしこの際、田村氏がこう言われるのはもっ ともだと思います。とにかく死刑廃止を実際に実現しなければならない。被害 者感情を無視できない以上は、実際問題として段階的に進むほかないと思うか らです。私の心配は、最後は恩赦の運用で賄えるだろうと思います。

別に、死刑の執行猶予の提言もあります。たしかにひとつの面白い考えで すが、もともと毛沢東思想に由来するので、洗脳の思想には批判が必要ですし、 また、実際問題としては、死刑に執行猶予を認めると裁判官が多少とも安易に 死刑判決を下すようになると思いますから、私自身はさしあたり賛成しかねま す。やはり、全面的な死刑廃止または少なくとも全面的な執行停止の方向で考 えるべきだろうと思います。(だんどう・しげみつ)


(批判11)最後に、上の文に対する批判と同時に自分のこれからの課題とし て、次の問いを提出しておきます:「責任の議論と教育刑の議論は両立し得る のか」

いったい、犯罪者は教育されて人格が改善されたならば、刑務所から解放 されるべきなのでしょうか?団藤氏が無条件の終身刑に反対される理由からす ると、少なくとも彼はそのように考えているように思われます。

しかし、殺人者が反省して「善い人」になれば過去の罪はもう償ったこと になるのでしょうか?あるいは逆に、反省して「善い人」にならない限り、そ の人はいつまでもいつまでも刑務所の中に閉じ込められておくべきなのでしょ うか?


以上の団藤氏の議論にも残念ながら見るべきものはありません。彼の意見 では死刑廃止論者の喝采は受けられても、反死刑廃止論者の賛同は得られない でしょう。


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 01/07/98
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