(じんこうにんしんちゅうぜつ abortion)
人為的に妊娠を中止すること。堕胎。
日本では刑法によって禁止されているが(第2編第29章「堕胎の罪」第212-216条)、 母体保護法(1996年に優生保護法を改正したもの)によって事実上、 妊娠第21週目の終わりまで(22週未満)の中絶は当事者の同意があれば 自由に行なうことができる。
カトリックの公式見解では、1869年にピオ九世が受精の瞬間に魂が注入されると 述べたので、人工妊娠中絶は一切禁止されるべきものである。この見解に基づき、 カトリック教徒の多いアイルランドやブラジルでは中絶が全面禁止されている。 しかし、かならずしもすべてのカトリック信者がこのように考えているわけではない (詳しくは『いのちの法と倫理』を見よ)。
イギリスでは1967年に妊娠中絶法が制定され、 妊娠24週以内であれば登録医と相談の上で中絶を行なうことができる (金城『生命誕生をめぐるバイオエシックス』13頁を参照)。
米国では、1973年、テキサス州中絶法の違憲性をめぐってロー対ウェイド(Roe vs. Wade)事件が起こり、連邦最高裁判所の判決で、胎児の生存可能性以前(=七ヶ月未満) であれば、中絶は女性のプライバシー権に含まれる事柄であり、 州法によって禁止することは違憲であるとされた (これも詳しくは『いのちの法と倫理』を見よ)。
プロ・ライフの項も参照せよ。
16/Dec/2002
これまでの生命倫理学では人工妊娠中絶の問題は「胎児は人格を持つかどうか」 という論点が大きな問題になっていた。いわゆるパーソン論というテーマである。 パーソン論が問題になるのは、 「胎児が人格であるならば、中絶は殺人であり、許されない。 胎児が人格でなければ、中絶は殺人ではないから、許容可能である」 という議論の流れが想定されているからである。 代表的にはトゥーリーやエンゲルハートやファインバーグの議論である。 (このあたりの経緯を 簡単に知りたければ加藤尚武の『脳死・クローン・遺伝子治療』を参照せよ。 詳しく知りたければ加藤・飯田監修の『バイオエシックスの基礎』、 シンガーの『生と死の倫理』などを参照せよ。なお、シンガーの本では、 「脳死」と対比される「脳生」という基準も紹介されている)
だが、胎児が人格であることを仮に認めたうえでも、人工妊娠中絶を正当化する 議論もありえる。代表的なものはJ・トムソンの「人工妊娠中絶の擁護」 であり、トムソンは「腎臓の悪い有名バイオリニストが、 知らない間に自分の腎臓につなげられていた」という有名な例を用いて、 胎児の保護は不完全義務であるが完全義務ではない、 という議論を展開している。 (この議論も簡単に知りたければ 加藤尚武の『合意形成とルールの倫理学』第5部などを参照し、 詳しくは『バイオエシックスの基礎』などを参照せよ)
最近では江原由美子もトムソンの議論に類似した議論を用いて 女性の自己決定権を支持している。彼女は、 従来の人工妊娠中絶の議論は妊娠した女性と胎児に議論が限定されがちで、 妊娠にかかわった男性や社会一般も考察の対象に加えるべきだとも 論じている。 (江原『自己決定権とジェンダー』参照)
選択的人工妊娠中絶についてはまた今度。
24/Jan/2003追記