倫理学第2演習発表用

9/24/96

「ベンサムの刑罰論」

4回生 児玉聡


何かご意見なさってくれる方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jp まで。


目次

  1. 序論
  2. 法と刑罰の目的
  3. 刑罰が持つべき性質
  4. 刑罰を科すのがふさわしくない事例(刑法の守備範囲)
  5. 法と道徳の区別
  6. ベンサムの刑罰論の問題点
  7. おまけ(1):ベンサム・『道徳と立法の原理序説』・功利原理
  8. おまけ(2):参考文献(コメント付き)

使用テキスト:Jeremy Bentham, An Introduction to the Principles of Morals and Legislation, Oxford 1996.


1  序論

 ジェレミー・ベンサム(1748-1832)の『道徳と立法の原理序説』(以下『序説』)は、功利主義の古典の一つとして知られている。しかしベンサム自身がその序文に書いているように、この本はもともと功利主義を解説するためだけに書かれたものではなく、刑法典への導入部分として書かれたものであった1。この本の大部分が、犯罪の分類と刑罰の分析に費やされているのも、このためである。そこで本論文では、功利原理を基礎とした彼の刑罰論がどのように展開されているのか、を考察してみようと思う。そしてとりわけて倫理学に関連の深い、法と道徳の区別に関する彼の議論に焦点を当てて考えようと思う。
 まずここでベンサムの提示した功利原理the principle of utilityを簡単に紹介しておこう。これまでにベンサムの功利原理に対して多くの批判がなされてきたが、本論文はその紹介が目的ではないので、ここでは立ち入らないことにする。
 「人間は自然によって、苦痛と快楽という二人の王の支配の下に置かれてきた。彼ら苦痛と快楽だけが、われわれのすることを決めるだけでなく、われわれのすべきことをも指示するのである。(ch.1.1)」という有名な比喩で、『序説』の第一章「功利原理について」は始まるわけであるが、続いてベンサムは功利原理(または最大幸福原理)を次のように定義している。「功利原理とは、利害関係のある人の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、あらゆるすべての行動を是認または否認する原理である(ch.1.2)」やさしく言えば、功利原理によると、関係者の幸福(快楽)を増やし不幸(苦痛)を減らす行動は善く、また幸福を減らし不幸を増やす行動は悪い、ということになるのである。というのも、ベンサムにとって幸福は快楽と同義であり、快楽(または苦痛の欠如)のみが唯一の善であるからである(ch.10.10)。そしてある行動が功利原理に適合していれば、それは正しい(少なくとも不正ではない)行動と呼ばれるのである(ch.1.10)。またベンサムは、「他のすべてのものを証明するものは、それ自身は証明され得ない」から、この原理を証明することは不可能であると説いている(ch.1.11)。

2  法と刑罰の目的

 さてベンサムによると、社会の幸福とはその成員である個人の幸福の合計に他ならないのであり(ch.1.4)、政府の仕事とは刑罰と報償によって社会の幸福を増大させることである(ch.7.1)。そしてほかのすべての行動と同様に、政府の政策が正しいのは、功利原理に適合しているとき、すなわちその政策のもつ社会の幸福を増進させる傾向が、社会の幸福を減少させるいかなる傾向よりも大きいときである(ch.1.7)。
 したがって法の目的が何であるかは明らかである。「すべての法が共通に持つ、または持つべき一般的目的は、社会の全体幸福を増大させることである。そこで第一には、社会の全体幸福を減じる傾向のあるものすべてを、可能な限り除外することである。すなわち、害悪を除外することである。(ch.13.1.1)」つまり、社会の幸福を増大させることが法の目的であり、またそのような法のみが功利原理によって承認されうる。
 それでは刑罰は功利原理によってどのように正当化されるのだろうか。一見して、刑罰は少なくともそれを受ける者に苦痛を与えるのであるから、功利原理から考えて正しくないことであるように思える。ベンサムも「すべての刑罰それ自体は悪である(ch.13.1.2)」ことを認めている。それゆえ、他のすべての行動と同様に、刑罰が功利原理によって正当化されるのは次のときに限る。「功利原理に基づいて、刑罰が仮にも容認されるべきであるなら、それは、より大きな悪を除外することが刑罰によって保証されるときに限る。(ch.13.1.2)」
 このように刑罰は功利原理によって正当化されるわけであるが、具体的には次のような目的を持つ(ch.13.1.2.foot)。

  1. 刑罰の第一の目的は、犯罪者当人と社会のその他の人々の行動を統制することである。(犯罪予防)
  2. 刑罰の二次的な目的は、犯罪の被害者やその犯罪を知って犯罪者に対して悪意を抱くに至った人々の復讐心を満足させることである。(応報刑的発想)
このうち、1の目的は、犯罪者に対しては、精神を矯正することか、犯罪をすることを物理的に不可能にすることで果たされる(いわゆる特別予防論)。社会のその他の人々に対しては、犯罪者は罰せられるという、いましめexampleという形で果たされる(いわゆる一般予防論)。そして、刑罰の最も重要な目的は、この一般予防にあるとしている。また、2の目的についてベンサムは、それが3の副産物として「ただでgratis」果たされる限りは、有益であり考慮されるべきであると認めているが、いかなる刑罰もこの目的だけのために科されるべきではない、としている。なぜなら、「—統制の方法の結果を除けば—刑罰によってはそれがもたらす苦痛と等しい大きさの快楽というものは決して生み出されない」からである(ch.13.1.2.foot)。
 さらにベンサムは、刑罰の1の目的に従属する実践的な4つの目的を掲げている(ch.14.3-6)。
a. 刑罰の第一の目的は、できる限りすべての犯罪を防止することである。
b. 刑罰の第二の目的は、犯罪者ができる限り害悪の少ない犯罪をするようにしむけることである。
c. 刑罰の第三の目的は、犯罪者が必要以上の犯罪を犯さないようにしむけることである。
d. 刑罰の第四の目的は、できる限り少ない費用(犠牲)で犯罪を防止することである。
それではこれらの目的を果たすために、刑罰が持つべき性質とはいかなるものであろうか。

3 刑罰が持つべき性質

「何のために」刑罰があるのかはすでに明らかになったので、次に「どのようにして」刑罰の目的が果たされるのかを、すなわち刑罰の持つべき性質の考察に移る。

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(罪刑専断主義から罪刑法定主義へ・犯罪と刑罰のつりあい・「感情」による刑罰から「勘定」による刑罰へ・犯罪の定義offence)

4 刑罰を科すのがふさわしくない事例(刑法の守備範囲)

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5 法と道徳の区別

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6 ベンサムの刑罰論の問題点

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7 おまけ(1):ベンサム・『道徳と立法の原理序説』・功利原理

7.1 ベンサムについて

Who was Jeremy Bentham?2

The philosopher and jurist Jeremy Bentham (1748-1832) was born at Houndsditch, London, on 15 February 1748. He proved to be something of a child prodigy神童: while still a toddlerよちよち歩きの幼児 he was discovered sitting at his father's desk reading a multi-volume history of England, and he began to study Latin at the age of three. At twelve, he was sent to Queen's College Oxford, his father, a prosperous attorney裕福な事務弁護士, having decided that Jeremy would follow him into the law, and feeling quite sure that his brilliant son would one day be Lord Chancellor大法官 of England.
Bentham, however, soon became disillusioned with the law, especially after hearing the lectures of the leading authority一流の権威 of the day, Sir William Blackstone (1723-80). Instead of practising the law, he decided to write about it, and he spent his life criticising the existing law and suggesting ways for its improvement. His father's death in 1792 left him financially independent, and for nearly forty years he lived quietly in Westminster, producing between ten and twenty sheets of manuscript a day, even when he was in his eighties.
Even for those who have never read a line of Bentham, he will always be associated with the doctrine of Utilitarianism功利主義の学説 and the principle of `the greatest happiness of the greatest number最大多数の最大幸福'. This was his starting point for a radical critique of society社会の根本的批判のための出発点, which aimed to test the usefulness of existing institutions, practices and beliefs against an objective evaluative standard. He was an outspoken advocate遠慮のない主張者 of law reform, a pugnacious criticけんかっぱやい批判家 of established political doctrines like natural law and contractarianism社会契約説, and the first to produce a utilitarian justification for democracy. He also had much to say of note特筆すべき on subjects as diverse多様な as prison reform, religion, poor relief貧民救済, international law, homosexuality, and animal welfare. By the 1820s Bentham had become a widely respected figure, both in Britain and in other parts of the world. His ideas were greatly to influence(非常に影響することになるのであった)the reforms of public administration made during the nineteenth century, and his writings are still at the centre of academic debate, especially as regards social policy, cost benefit analysis, and welfare economics.
Research into his work continues at UCL in the Bentham Project, set up in the early 1960s with the aim of producing the first scholarly edition of his works and correspondence往復書簡, a projected total of some seventy volumes!

7.2『道徳と立法の原理序説』について

『序説』の成立
 『序説』っていうのは、1780年にほぼ出来上がっていて、印刷して親しい友人なんかに配ってたりするんですよね(この時の書名は『形法典案序説』)。けど、実際に出版されたのは1789年のことでした。フランス革命の年だったんであまり注目されなかったとか…。
 舞台裏で何があったのかっていうと、ベンサムは最後の章に問題点を見つけたんです。最後は第17章で「法学の刑法部門の限界について」という章なんですが、ここでベンサムは、刑法と民法の区別を説明しようとして、はたと止まってしまった。ベンサムはそれを説明するためには、法と法体系についての論理的構造を説明する本を一冊書かなくちゃいけないって考えたんです。それが1783年に出来上がったけど、生前は出版されず、1946年に発見され、今回のベンサム全集に収録された『法一般についてOf Laws in General』という作品なわけです。
 そうこうしている内にウィリアム・ペイリーが『道徳及び政治哲学の原理』っていう、(神学的)功利主義の本を出しちゃう。この本は、ベンサムの『序説』を読んで書いたんじゃないかってぐらい、ベンサムの思想と似てるんです。それでベンサムの友人達は心配して、ベンサムに早く『序説』を出版するよう何度も薦めたわけです。そこでベンサム仕方がないってんで、言い訳がましい序文を書いて1789年に出版したんです。

『序説』の構成
 『序説』って、実は道徳と立法の導入の本でも、そのテーマを全般的に取り扱っている本でもないんですよね。特に、道徳(私的倫理)の問題なんてのはほんのちょっとしか出てこない。これは基本的には、刑罰についての本なんです。しかも一般的な立法の話じゃないから、民法とか憲法はでてこないんです。
 『序説』は三つの部分に分けて考えると分かりやすいんです。

  1. 功利原理とそれに反する原理、および快楽と苦痛の区別について(第1〜6章)
  2. 人間の行為の分析について(第7〜11章)
  3. 刑法典への導入部分(第12〜17章)
主眼は3にあるんです。1と2は、3の刑罰論を理解するためにあるわけなんです。もちろんその刑罰論の部分も導入部分であるからして、完全なものとはいえないんだけど。この3つがそろって、この本は刑罰についての本としては前例がないほど完成しているといえるんです。
 1について補足しておくと、この部分を読めばベンサムの功利主義の全てがわかるって考える人が多いんですが、けどちがうんです。他の著作によって補足されてる部分も読む必要があるんです。例えば、『序説』では、ベンサムは幸福の配分distribution of happinessの仕方についてはほとんど書いてないんです。そしたら、20世紀になってベンサムはぢ行為功利主義者ぢだってレッテルを貼られちゃったりしたわけです。でも、『序説』は刑法典を作るための本だから、あんまり幸福の配分は関係なかったんです。幸福の配分については、所有権や配分が主なテーマになる民法関係の著作の中でもっと詳しく書かれてるんです。3
 3は、やたらに細かい犯罪や刑罰の分類についての話なんだけど、ベンサムがこんなに細かく書いているのには、理由があるんです。ベッカリーアとかは、非常に一般的な話だけして、刑罰の細かい分類とかするのはぢ大変なしかもつまらない作業だぢからって避けてんです。ベンサムは、それじゃあだめだってんで、つまらないのは覚悟でやったんです。
 『序説』は一見すると異質なトピックがでたらめな公正で並べてあるように見えるけれども、実は構成が良く考えられている作品なんです。まず功利性原理の説明と弁護からスタートして、それが個人の行動と社会の法律の両方を評価する上で、唯一の受け入れられる究極的基準だって言ってます。功利性原理とはぢ利害関係のある人々の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、同じことを言い換えて言うと、その幸福を促進するか妨害するように見えるかの傾向に従って、あらゆるすべての行為を是認または否認する原理(p. 12)」であり、ベンサムが後に言うように、ぢ具体的なところでは政府であるが、それと同様に道徳全般の領域においても正・不正の基準4,A#であるということなんです。
 それで次には、快楽と苦痛という原因がこの基準(制裁)への服従を得るための効果的な手段だって、一般的な言葉を使って説明されています。そしてもし行為が、幸福の増加をさせるために功利性原理にしたがってなされるのなら、快楽と苦痛の様々な形式や計り方についてどういう理解が必要かって話になるんです。次に功利性原理に従わせるための唯一ではないにしても主たる手段は、不服従に対する刑罰によって支えられている法律だってベンサムは言って、次に人間の本性の様々な特徴を調べて分類していくわけです。というのも外的の要因と同様に人間の本性というのは、刑罰の過酷さや程度を決めるものだからです。それから、立法家が指導するべき人間の意図的な行動の本性と動機とを分析するんです。
 続いてベンサムは、人間の行為が結果として持ちうる害悪の形態について議論して、刑罰の目的が、人間の苦痛は最小限にしつつ法律にちゃんと従ってもらう、というものであるとき、刑罰の量と性格を決めるべきルールを決めます。最後に、人間が侵害したり、脅かしたりするさまざまな利害に言及して、功利性原理から法的犯罪として扱われるべき行為の形態を分析するんです。また、功利性原理に逆らうものだけど、ぢ私的倫理ぢと彼が呼ぶものの統制に任せておいたほうがよい行為の形態についても議論するんです。そして、刑法と民法の区別に関する困難についての素描でこの本は終わるわけなんだけど、このことについては後に書かれた『法一般について』の中で綿密な議論がなされているんです。この本のおおまかな性格っていうのは1789年に付け加えられた締めくくりの注に示されています。5

7.3 功利原理について

 「…伝統的な見方によれば、一般にいかなる倫理学説についても、(i)いかなる行為が正しい行為かを明らかにする理論と、(ii)いかなるものがそれ自体で(目的として)善であるかを明らかにする理論の二つが必要である。ベンサムやミルの古典的功利主義では、(i)に相当するのは、「可能な行為のうちで、最善の結果をもたらす行為が正しい」とする、いわゆる目的論的あるいは帰結主義的原理であり、(ii)に相当するのは、「快楽、あるいは苦痛の欠除が唯一の目的としての善である」という価値の快楽説(hedonism)である。…」6

CHAPTER 1. OF THE PRINCIPLE OF UTILITY
第一章 功利原理について

1. Nature has placed mankind under the governance of two sovereign masters, pain and pleasure. It is for them alone to point out what we ought to do, as well as to determine what we shall do. On the one hand the standard of right and wrong, on the other the chain of causes and effects, are fastened to their throne. They govern us in all we do, in all we say, in all we think: every effort we can make to throw off our subjection, will serve but to demonstrate and confirm it. In words a man may pretend to abjure their empire: but in reality he will remain subject to it all the while. The principle of utility recognizes this subjection, and assumes it for the foundation of that system, the object of which is to rear the fabric of felicity by the hands of reason and of law. Systems which attempt to question it, deal in sounds instead of sense, in caprice instead of reason, in darkness instead of light.
But enough of metaphor and declamation: it is not by such means that moral science is to be improved.

1.(快楽と苦痛によって支配された人間)
 人間は自然によって、苦痛と快楽という二人の王の支配の下に置かれてきた。彼ら苦痛と快楽だけが、われわれのすることを決めるだけでなく、われわれのすべきことをも指示するのである。彼らの玉座には、一方には正・不正の基準が結わえられ、もう一方には、原因と結果の鎖が結わえられている。彼らは、われわれのすること・言うこと・考えること全てにおいて、われわれを支配している。われわれがこの服従から逃れようといくらあがいたところで、結局それは、われわれが彼らに服従していることを証明し、確かめるのに役立つに過ぎない。口では彼らの帝国から抜け出したと言うことはできても、実のところは依然として帝国の支配下にいるのだ。しかして功利原理(最大幸福原理)は、われわれのこの服従を理解しており、この服従を功利原理の学説の基礎として考えている。功利原理の目的は、幸福という建物を、理性と法律の手によって建てることなのである。功利原理に異議を唱える学説は、本物ではなくそれらしいものを使い、理性ではなく気まぐれを使い、光ではなく暗闇を使っているのだ。
 だが比喩や熱弁はもうたくさんだ。こんなやり方では、道徳科学は良くなりはしない。

2. The principle of utility is the foundation of the present work: it will be proper therefore at the outset to give an explicit and determinate account of what is meant by it. By the principle of utility is meant that principle which approves or disapproves of every action whatsoever, according to the tendency which it appears to have to augment or diminish the happiness of the party whose interest is in question: or, what is the same thing in other words, to promote or to oppose that happiness. I say of every action whatsoever; and therefore not only of every action of a private individual, but of every measure of government.

2.(功利原理とは何か)
 功利原理がこの本の出発点になっている。そこで最初に、その意味の明快明確な説明をするのがふさわしいであろう。功利原理とは、利害関係のある人の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、あらゆるすべての行動を是認または否認する原理である。同じことを言い換えて言うと、問題の幸福を促進するか妨害するように見えるかの傾向に従って、ということだ。わたしは、あらゆるすべての行動について、と言った。ゆえに私的個人のすべての行動だけでなく、政府のすべての政策についてもそうなのである。

3. By utility is meant that property in any object, whereby it tends to produce benefit, advantage, pleasure, good, or happiness, (all this in the present case comes to the same thing) or (what comes again to the same thing) to prevent the happening of mischief, pain, evil, or unhappiness to the party whose interest is considered: if that party be the community in general, then the happiness of the community: if a particular individual, then the happiness of that individual.

3.(功利性とは何か)
 功利性とは、あらゆるものにある性質であり、その性質によってそのものは、利害関係のある人に対し利益や便宜や快楽や善や幸福(これらすべてはこの場合同じことになるのであるが)を生み出す傾向を持つのであり、または、(再び、同じことになるのだが)利害関係のある人に対し損害や苦痛や悪や不幸が生じることを妨げる傾向を持つのである。もし利害関係のあるのが社会一般であれば、社会の幸福であり、特定の個人であれば、その個人の幸福である。

4. The interest of the community is one of the most general expressions that can occur in the phraseology of morals: no wonder that the meaning of it is often lost. When it has a meaning, it is this. The community is a fictitious body, composed of the individual persons who are considered as constituting as it were its members. The interest of the community then is, what?--the sum of the interests of the several members who compose it.

4.(社会の利益とは何か)
 社会の利益というのは、道徳の言いまわしに現れる表現のうちでもっとも一般的な表現で、しばしばその意味が見失われてしまうのも無理はない。その言葉が意味を持つとしたら、こういうことである。社会とは擬制的な組織体であり、いわば社会の成員を構成しているとみなされる個々人によって成り立っている。それでは、社会の利益とは何であろうか?それは、社会を構成している個々の成員の利益の合計である。

5. It is in vain to talk of the interest of the community, without understanding what is the interest of the individual. A thing is said to promote the interest, or to be for the interest, of an individual, when it tends to add to the sum total of his pleasures: or, what comes to the same thing, to diminish the sum total of his pains.

5.「個々人の利益とは何であるのか」を理解しないで、社会の利益について語るのは無駄である。あることが個人の利益を促進する、または個人の利益のためになる、と言われるのは、そのことがその人の快楽の合計を増加させる傾向を持つか、同じことになるが、その人の苦痛の合計を減少させる傾向を持つ場合である。

6. An action then may be said to be conformable to the principle of utility, or, for shortness sake, to utility, (meaning with respect to the community at large) when the tendency it has to augment the happiness of the community is greater than any it has to diminish it.

6.(功利原理に適した行為とは何か)
 そこである行動が、功利原理または簡略に功利性に適合すると言われるのは、(社会一般に関して言うと)その行動の持つ、社会の幸福を増進させる傾向が、社会の幸福を減少させる傾向よりも大きいときである。

7. A measure of government (which is but a particular kind of action, performed by a particular person or persons) may be said to be conformable to or dictated by the principle of utility, when in like manner the tendency which it has to augment the happiness of the community is greater than any which it has to diminish it.

7.(功利原理に適合した政府の政策とは何か)
 同様に、政府の政策が—それは特定の人または人々によってなされるある種の行動にすぎないのだが—功利原理に適合する、または功利原理に命じられていると言えるのは、その政策のもつ社会の幸福を増進させる傾向が、社会の幸福を減少させるいかなる傾向よりも大きいときである。

10. Of an action that is conformable to the principle of utility, one may always say either that it is one that ought to be done, or at least that it is not one that ought not to be done. One may say also, that it is right it should be done; at least that it is not wrong it should be done: that it is a right action; at least that it is not a wrong action. When thus interpreted, the words ought, and right and wrong, and others of that stamp, have a meaning: when otherwise, they have none.

10.(すべき、すべきでない、正、不正等はどう理解されるべきか)
 功利原理に適合する行動について、ぢそれはなされるべき行動だぢとかまたは、少なくともぢそれはなされぬべき行動ではないぢと常に言うことができる。また、ぢそれがなされるのは、正しいことであるぢとか、少なくともぢそれがなされるのは誤りではないぢということができ、ぢそれは正しい行為だぢとか、少なくともぢそれは誤った行為ではないぢということができる。このように解釈されたとき、すべきや、正しい・誤っているという言葉や、そしてそういった他の言葉は意味を持つのである。そうでなければ、それらの言葉は意味を持たない。

11. Has the rectitude of this principle been ever formally contested? It should seem that it had, by those who have not known what they have been meaning. Is it susceptible of any direct proof? it should seem not: for that which is used to prove every thing else, cannot itself be proved: a chain of proofs must have their commencement somewhere. To give such proof is as impossible as it is needless.

11.(この原理の正しさを証明することは不必要かつ不可能である)
 この原理の正しさについて今までにはっきりと異論が唱えられたことがあっただろうか?自分が何を言っているのか分かっていない人々によって異論が唱えられたことはあったと思える。この原理には何らかの直接的な証明の余地があるであろうか?そうは思えない。というのも他のすべてのものを証明するものは、それ自身は証明され得ないからである。証明の連鎖はどこかにその始まりを持たねばならない。そのような証明を与えることは、不必要であるのと同様不可能でもある。

CHAPTER 10. OF MOTIVES第十章 動機について
§ii. No Motives either constantly good or constantly bad

いかなる動機も常に善いわけではない、あるいは常に悪いわけではない

10. Now, pleasure is in itself a good: nay, even setting aside immunity from pain, the only good: pain is in itself an evil; and, indeed, without exception, the only evil; or else the words good and evil have no meaning. And this is alike true of every sort of pain, and of every sort of pleasure. It follows, therefore, immediately and incontestibly, that there is no such thing as any sort of motive that is in itself a bad one.

10.(いかなる種類の動機もそれ自体としては悪い動機とは言えない)
 さて、快楽はそれ自体善いものである。いやむしろ、苦痛から免れていることを除けば、それは唯一の善である。そして苦痛はそれ自体悪であり、実際、例外なく、唯一の悪である。こういう意味でなければ、善いと悪いという言葉はなんの意味も持たない。またこれはすべての種類の苦痛と、すべての種類の快楽に関して等しく真である。したがって、このことから、直接にまた疑いなくわかることは、いかなる種類の動機もそれ自体として悪いということはない、ということである。

8 おまけ2:参考文献(コメント付き)

8.1 国外

8.1.1 Mack, M. P., Jeremy Bentham: an odyssey of ideas 1748-1792, London 1962.
(永井義雄の『ベンサム』の研究書欄に載っていた。かなり重要な文献らしいがいまだ見たことはない。)

8.1.2 Lyons, D., In the interest of the governed, Oxford 1973.
(永井義雄の『ベンサム』の研究書欄に載っていた。奥野さんが薦めていたのはこれか?『序説』の解説におけるハートの文では、心理学的快楽主義と功利性原理との衝突の問題を扱っているところが引用されていた。加藤研究室にある。)

8.1.3 H. L. A. Hart, Essays on Bentham, Oxford University Press, 1982.
(加藤研究室に2冊あるのを発見。誕生日に一冊くれないかな…。また、ハートは『序説』に長い序文を書いている。)

8.1.4 John Dinwiddy, Bentham, Oxford University Press, 1989.
(これも加藤研究室で発見。読みやすそうな本。ディンウィディ教授は1977-83年の間、ベンサム全集の編集主幹だった人。9月11日にルネで購入。1300円ちょっとだった。)

8.1.5 H. L. A. Hart, Blackstone's Use of the Law of Nature, Butterworth's South African L. Rev., 1956
(伊藤正巳、田島裕『英米法』p.384にあった。こんな雑誌日本に存在するのだろうか?)

8.2 翻訳

8.2.1 ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』山下重一訳、世界の名著、中央公論社、1967年
(もちろん家にあるが、この訳は全17章のうち第10章までしか訳がない。鈴木さんの情報によると、経済学部の図書室に完訳があるそうでだが、まだ見たことはない。)

8.2.2 J・D・フィンチ『法理論入門』田中成明、深田三徳訳、世界思想社、1977年
(付属図書館で見かけたので借りる。ブラックストーン、ベンサム、オースティン、ハートなどなど。2-05/,AN/154。)

8.2.3 J・R・ディンウィディ『ベンサム』永井義雄・近藤加代子訳、日本経済評論社、1993年
(荻原隆「ベンサム-自然権思想と功利主義」藤原保信ぢ飯島昇藏編『西洋政治思想史Ⅱ』の参考文献欄にあった。原著は加藤研究室にある。最近僕も買った。)

8.2.4 堀經夫・大前朔郎監訳『イギリス社会思想家伝』ミネルヴァ書房、1978年
(この本は、『フェビアン・トラクト』というフェビアン協会の雑誌に載っていた伝記を集めたものである。ここに、V・コーエン/井上琢智訳ぢジェレミー・ベンサムぢといのがある。経済学部でたまたま見つける。経済18/5-1/Igi)

8.3 国内

8.3.1 土屋恵一郎『ベンサムという男』青土社、1993年
(奥野さんにお借りしている。普通の本なのに3400円もするのでとても買う気にならない。)

8.3.2 永井義雄『ベンサム』叢書「人類の知的遺産」第44巻、講談社
(品切れ。京大付属図書館から借りている。加藤先生と蔵田さんがお持ちになっている。古本屋で見かけた方はご一報ください。)

8.3.3 深田三徳『法実証主義と功利主義・ベンサムとその周辺』木鐸社、1984年
(京大では人文研にある。鈴木さんも南部さんから借りられてお持ちだそうだ。7月19日付けの吉村さんの情報では、阪急高槻駅のそばの古書浪漫にあるそうだ。7/22、1600円で購入。教訓。古本屋は時間通りに開かない。)

8.3.4『社会思想事典:第6章功利主義(永井義雄)』中央大学出版会
(永井義雄が『ベンサム』の中で「読め」と書いている。付属図書館にある。EB/5/,A<1。まだ借りていない。)

8.3.5 井原吉之助「ベンサムの功利主義体系」龍谷大学論集・龍谷学会336号、1960年
(永井義雄の『ベンサム』の研究書欄に載っていた。人文研の方が調べてくれたところ、京大付属図書館BNCにあるらしい。AN00251085。と思って探しに行ったが実はなかった。どうも龍谷大学経済学研究叢書の間違いらしい。これは近くでは阪大本館か滋賀大経済学部にあるようだ。なかなか重要そうな論文なのに。)

8.3.6 石井幸三「ブラックストンの法思想(1)、(2)」竜谷法学10巻3号、12巻2号
(『法思想史』の参考文献欄にあった。人文研にある。コピーした。多い。)

8.3.7 西尾孝司『イギリス功利主義の政治思想』現代情報社、1971年
(下の本の古い版。これも見つからない。根性が足りないんだろうか?)

8.3.8 西尾孝司『増訂イギリス功利主義の政治思想』八千代出版、1981年
(永井義雄の『ベンサム』の研究書欄に載っていた。重要な文献のようだがいまだ見つからず。)

8.3.9 西尾孝司『ベンサム『憲法典』の構想』木鐸社、1994年
(法学部にある。当面の興味とはずれていそうなのでとりあえずは借りない。)

8.3.10 岩佐幹三『市民的改革の政治思想』法律文化社、1979年
(永井義雄の『ベンサム』の研究書欄に載っていた。付属図書館にある。2-40/,A8.3.11 安平政吉「ベンサムの刑法理論—その『最大幸福の原理』を主題としてー」『刑法雑誌』2巻1号
(法学部書庫にある。昭和26年となっていたと思う。古い。コピーした。卒論のテーマと大分重なっているのでとても役に立つ。)

8.3.12 矢崎光圀『法哲学』現代法学全集、筑摩書房、1975年
(付属図書館で見かけたので借りる。)

8.3.13 伊藤正巳、田島裕『英米法』現代法学全集、筑摩書房、1985年
(付属図書館で見かけたので借りる。)

8.3.14 中山研一編『現代刑法入門』現代法双書、法律文化社、1977年
(付属図書館で見かけたので借りる。)

8.3.15 田中浩編『トマスぢホッブズ研究』御茶ノ水書房、1984年
(付属図書館にある。HD/13/,AD1。水谷助教授が、ホッブズの国家論と刑罰論を押さえておくようにと教えてくださったので。この中に深田三徳ぢホッブズとベンサム、オースティンぢという論文がある。この論文のみ8/1にコピーする。)

8.3.16 長島伸一『大英帝国-最盛期イギリスの社会史』講談社現代新書、1989年
(19世紀のイギリス社会、特にその後半の大衆社会の成立とその文化的側面を知るのには便利である。)

8.3.17 望月礼次郎『改訂第二版英米法』青林書院、1990年
(加藤研究室で発見。イギリスの刑法史的な本を探しているんだが…。)

  1. 1777年、ベルンのぢ経済学会ぢが刑法典の計画のため懸賞論文を募集したときに、ベンサムが応募するために書きはじめたものであるが、例のように遅筆のため応募をとりやめたものである、と山下重一訳『道徳および立法の諸原理序説』の解説(p.24)にある。
  2. University Collage London (UCL)のホームページから引用。この大学が現在ベンサム全集を作成中。
  3. 以上、F. Rosen, 'Introduction', An Introduction to the Principles of Morals and Legislation, Oxford 1996., pp. xiviii-l.参照。
  4. Fragment on Government, Preface to 2nd edn., (CW), p. 509.
  5. 以上、H. L. A. Hart, 'Bentham's Principles of Utility', An Introduction to the Principles of Morals and Legislation, Oxford 1996., pp. lxxxii-lxxxvii.参照
  6. 内井惣七『自由の法則 利害の論理』ミネルヴァ書房、p.164

おつかれさま


Last modified on 9/18/96
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