ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。
「ところで、児玉さんは自転車が撤去されている現場に立ち会ったことがあるでしょうか。あの光景は涙なしには見ることが出来ないものです。通勤・通学のためにやむなく自転車を置いているだけで、放置しているわけではないのにも関わらず、『放置自転車は皆さんの迷惑になります』とかなんとか言う放送を垂れ流しながら、冷酷無慈悲残虐の至り、われわれ納税者の、か弱き一般市民の、何の罪もない無抵抗の自転車を、彼らはトラックの中に放り込んでいくのです。これが国家権力の横暴といわずして何というべきでありましょうか。ナチ、きゃ、きゃつらはナチですっ。無抵抗のユダヤ人を強制収容所に連れて行くのですっ。だから小生、自転車撤去の現場に立ち会ったときはいつも、はかなき抵抗ではありますが、涙ながらに大声で『ドナドナ』を歌うことに決めております。」
かなり変った方のようである。ところで、置きっぱなしの自転車を「放置自転車」というのではないのだろうか?まあ確かに、放置という言葉には「捨て置いている」というニュアンスがあると言えないこともないが。
「きゃつらのやり方の最大の問題は、「自転車置き場を作らずに撤去を行なう」ということです。これではまるで、ある嵐の晩に、行く当てもない旅人を宿から追い出す残忍な主人のようではありませんかっ。皆が納得するやり方は、まず自転車置き場を作って、それでもそこらへんに置いておく人たちがいれば、そういう自転車だけを撤去する、というものでしょう。いくら通行人の邪魔になるからといって、自転車置き場も作らずに撤去するとは、なんと馬鹿げた条例でしょうか?恥です、恥っ。これは徳川綱吉の生類憐れみの令にも比肩される悪法です。このような条例をそのままにしている京都市長は、はっきりいって京都市のつらよごしですっ。僭主ですっ。もはや人間じゃありません、魔女ですっ。き、きゃつめに、ぎぎぎ、ギロチンをっ。」
ちょっと問題発言の気もするが、彼の気持ちも分からなくはない。確かに自転車置き場を作らないで撤去する、というのはおかしいと思う。
「京阪出町柳には、自転車置き場があるそうですが、小生の使っている阪急河原町駅のそばには、小生の知る限り駐輪場はありません。あれば有料であってももちろん使います。しかし、ないのです。小生は環境問題にひとかたならぬ関心を持っていますし、金銭にも余裕がないので、車を持っていません。家から駅まで自転車で15分、歩くと30分以上かかるので、自転車を使います。当たり前です。健康のために、といって毎日往復30分以上の時間を無駄にするわけには行きません。市バスもありますが、バスは遅いし、また、やはり排気ガスの問題があります。要するに、自転車が健康的にも、金銭的にも、時間的にもベストな交通機関なのです。それなのに、京都市はなぜこれほどまでにわれわれチャリダーを迫害するのでしょうか?」
「チャリダー」とは、関西弁で自転車乗りのことである(『京大教員新聞号外〜これが関西スラングだっ〜』)。彼の言うとおり、京都にいると自転車を持つことが何か犯罪のように思えてくる。ぼくの友人の自転車も、買い物のためにちょっとコンビニに立ち寄って、ほんの2・3分で戻ってきたら、すでに撤去されていたそうである。だから最近は自衛のために、自転車に乗ったままコンビニに入っていくのだそうである。