ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。
「なかには、自転車置き場がないのなら、自転車に乗らなければよかろう、歩け、とか言う人もいます。信じられない意見だと思いませんかっ?こ、こういう人はわれわれ善良な一般市民が「自転車に乗る自由」を奪われても平気なのですっ。たとえば、言論の自由を奪われて、狂産主義についての発言が一切禁止されたとしたら、こういう人たちは何というのでしょうか?狂産主義について語れないのなら、四本主義について語れ、とでも言うつもりでしょうか?そうです、われわれは明らかに「自転車に乗る自由」を奪われているのです。車椅子に乗る人が、スロープを必要とするように、盲人が点字を必要とするように、チャリダーにはチャリ置き場が必要なのですっ。」
ここら辺の文章には、ぼくもおおいに共感を覚える。「自転車に乗る自由」という肯定的な発想がすごい。この論調でいくと、京都市はまさにわれわれの「自由」を奪う悪役である。
「さらにもう一つ、大きな問題があります。それは、この自転車撤去の条例には効き目がない、つまりいつまでたっても駅前においてある自転車の数が減らない、ということです。自転車撤去されても人々は、京都市に反感を覚えこそすれ、決して反省などせず、また同じ場所に自転車を置くのです。小生も同様です。これでは条例の意味は全くないに等しい。いやむしろ、法律に対する市民の尊重が失われる、という意味でマイナスでさえあります。また、税金の無駄遣いです。しかも、この条例を効果あるものにするために、自転車撤去を徹底的に行なう、ということは、人手や人件費などの問題から不可能でありましょう。また、撤去された自転車を返してもらうときに払う、あの理不尽なお金の値段をつり上げる、というのもある程度以上は不可能でありましょう。なぜなら、その料金があまりに高ければ、自転車を取りに行くよりは、新しい自転車を買った方が安上がりだからです。」
効力のない法律を作ると、法律に対する尊敬が失われる、というのはベンタムも説くところである。確かに、ぼくの周りの人も、自転車を撤去されて反省の色を示す人は少ない。おれは他人の迷惑にならないところに止めている、とか、おれは絶対に撤去されないところに止めているから大丈夫、だとかいう人もいる。こういう人々はだんだん法に対する全般的な尊敬を失っていくのではないだろうか。政府としては、悪法も法である、と言って法を守ってくれるのを期待するよりは、理不尽でない法を作るべきである。
「戦後しばらく、法によって禁止されているにも関わらず、闇市が全国ではやりました。なぜでしょうか?それは、生きるために必要だったからです。同様に、われわれ通勤・通学者にとっても自転車は生活のために必要なのです。だからこそ条例に触れるのを承知で、自転車を道端に置くのです。自転車置き場がないがゆえにっ。不合理な条例を作って犯罪を生み出しているのは、京都市、京都市長なのです。児玉さん、われわれは自由を勝ち取るために今こそ立ち上がらねばなりませんっ。小生とともに京都市の横暴に対して闘おうではありませんかっ。京都市長っ、自転車撤去する前に先にわれわれの税金で自転車置き場を作れっ!!」
…残念ながら、京都市民でもないぼくは先頭に立ってまで運動を起こす気はない。そこまでするほど死活問題ではないし、時間も金もないからだ。しかし、この人の言うように「撤去するなら自転車置き場を作ってから」という主張は全くもって正しいと思うので、何か手伝えることがあれば、手伝いたいとは思っている。このメイルもしくはぼくの意見に対して何か意見があれば、ぜひメイルを送って欲しい。