ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。
まず、次の引用文を読んでいただきたいのである。
「死刑の存廃は一国の文化水準を占う目安である」(はしがきp.3) 「…こうしたことの全ての背景に、われわれは、強いヒューマニズム精神こそ が死刑廃止への情熱を支えていることを、自覚していなければなりません。」 (p.20)これは、団藤重光氏の『死刑廃止論』から引いてきたものである。わたしはこ の本を読んで、死刑廃止に反対の立場を採ることを決めたといえるのである。 「ここっ、このかかっ、書き方はっ、ななんだっ!! てっ哲学的に考えて死刑 廃止を支持するに至った人間は、ぶっ、ぶぶっ文化的に劣っていて、ヒューマ ニストじゃあないって言いたいのかっ、えっ。けっ。けっ、けっ。けっ。こっ、 ここれだから***は困るんだ。***以外は人間じゃあないと思い込んでやがる。 けっ。どうせ+++なんて人間とも思っていないんだろう。けっ。ちちっ、ちき しょうっ。++にしやがって。こここうなったら、徹底的に反論してやるぞ、ぎょ ぎょっ、玉砕覚悟で***に立ち向かってやるぞっ。ててっ、徹底抗戦だっ。じ、 人民戦線だっ。む、む、むーんっ。」と、このように沈思黙考してみたのであ る。
この問題は、応用倫理学の授業で発表しようと思っていたのであるが、夏休み の間に図書館などで調べていくうちに、簡単には決着の着かない問題であるこ とがわかったので、とりあえず今まで調べ考えてきたことをここに載せようと 思う次第である。これを読んでご感想を頂ければ幸いである。
そのうち、ベンサムやミルの死刑についての意見も載せるつもりなのである。
死刑全廃は35カ国、通常犯罪についての死刑廃止は18カ国、事実上の廃止 は27カ国で、計80カ国。ちなみに、国連加盟国は93年8月現在184カ国である。 国家の総数は190カ国。新しいデータが欲しいのである。
言論や思想、皮膚の色などを理由として不当にとらわれた非暴力の人々 (良心の囚人)の釈放を目指し、政治犯の公正な裁判、拷問や 死刑の廃止を求めている国際民間団体。1961年、英国の弁護士ピーター・ ベネンソンにより設立。1991年5月現在では、150カ国に会員110万人以上。77 年にノーベル平和賞、78年に国連人権賞を受賞。
1968年の国連総会の決議(2393)
1989年12月15日、「死刑廃止を目指す国際人権B規約第2選択議定書」
(死刑廃止条約)を採択。
(刑法第十一条:死刑)死刑は、監獄内において、絞首して執行する。
(刑法第一九九条:殺人)人を殺した者は、死刑または無期若しくは
三年以上の懲役に処する。
(憲法第三十一条:法定手続きの保障)何人も、法律の定める手続きに
よらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、またはその他の刑罰を科せら
れない。
(憲法第三十六条:拷問および残虐な刑罰の禁止)公務員による拷問及
び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
最高裁は1948年に死刑を合憲としている。
確定判決に一定の重大な瑕疵がある場合に、その判決を取り消して事件の
再審理を求める非常救済手続きを再審という。
再審は、1963年の「吉田がんくつ王再審無罪判決」で注目を集めたが、当時は
再審開始の条件はきわめて厳しかった。
1975年5月20日の最高裁の白鳥事件再審決定で、「疑わしきは被告人の利益に」
という刑事裁判の原則を再審にも適用し、新証拠と他の全証拠を総合的に評価
して確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせれば足りるという基準が示
されて以来、いくつかの事件で再審が相次いで開始され、流れが大きく変わっ
た。
残忍で冷酷な犯罪を犯したのだから命をもって償うべきだ。刑罰は犯罪に よって侵害された社会が、正義を回復する手段だ。(存続論)
死刑は国家権力による殺人だ。犯罪の背景には社会の矛盾や不公平などが あり、それらの要因をそのままにして犯罪者だけ処罰しても事態は改善されな い。(廃止論)
犯人が責任能力者である以上は、自己の行為の責任を負わせるのが当然で
ある。「犯罪の背景には社会の矛盾や不公平などがあり、それらの要因をその
ままにして犯罪者だけ処罰しても事態は改善されない」という見解に立てば、
一切の責任は問い得ないことになり、人間社会の秩序は保てない。そこで、責
任能力という基準に立って、能力あるものには責任を負わせるという規範が設
けられ、その原理のうえに道徳的・法的責任を問う制度が発達したのである。
「…死刑廃止論の論拠の一つとして、凶悪犯人にとっても、その生命は至上の
ものであるから、これを国法の力を持って奪うことは許されないという思想も
あるようだ。しかし、他人の生命を雑草のように奪い去って平然たるような行
為者に対し、なにゆえにその生命を保証してやらねばならない合理的根拠があ
るといえるのだろうか。死刑廃止論とは、そのような凶悪行為者に対してまで、
犯人の生命だけは保証してやるという不合理な規範を設けることに他ならない。…
良民の生命に対する保護の怠慢を看過する死刑廃止論の不合理を許容すること
は出来ない。」(pp.11-12)(植松氏)
「…なるほど、被害者側の感情を満足させることは、それじたいとして、 正義の要請に違いありません。しかし、無実の者が処刑されるということは、 そんなこととはまるで釣り合いが取れないくらい大きな不正義であります。た とい、わずかの可能性であるにしても、無実の者が処刑されるという「犠牲」 において、被害者側の感情を満足させることは、正義の見地から言っても、と うてい許されることではありません。」(pp.11-12)(団藤氏)
刑罰は一般市民に対する威嚇となり、犯罪を予防する効果がある。死刑は この効果が特に強い。犯罪抑止効果を実証したデータもある。(存続論)
復讐と威嚇では社会の秩序は維持できない。実際に、死刑廃止国の犯罪発 生率は、廃止前と比べても大きな変化は見られない。(廃止論)
もともと犯罪の増減は刑罰の軽重だけに支配されるものではない。死刑廃
止がそのまま犯罪増加に繋がらなくても、それをもって、死刑の犯罪抑止力な
しということの証明にはならない。
「…しかし、懲役や罰金に犯罪抑止力があるとの推論を肯定しながら、死
刑にだけそれがないと推論するのは奇妙な独断である。…死刑の存在が死刑の
対象となる犯罪に対する予防効果を有するかいなかについては数字的証明はな
いけれども、当該犯人による後続被害の発生を防止することだけは確実である。…
死刑廃止論が犯人の生命の保護を強調することに目がくらんで、新たな良民の
生命の失われる結果となる事例を防ごうとしない暴論たることを看過してはな
らない。…この弊(当該犯人による後続被害の発生)を防ぐには、仮出獄を許
さない終身の自由刑(自由の剥奪を内容とする刑罰。懲役・禁錮・拘留の総称。
⇔財産刑。)を持って死刑に代えるということも一つの方法ではあるが、その
ような刑は死刑よりも残酷であると廃止論者は言い、これを論外に置くのを例
とする。」(pp.13-14)(植松氏)
「…常識的に考えても、殺人犯人が死刑が怖いから殺人をするのを止める ということは、ほとんど有り得ないのではないでしょうか。…百歩譲って、死 刑の廃止による凶悪犯罪の増加ということがある程度実証されたと仮定しても、 私は、かりそめにも無実の者の処刑という人道上絶対に許すことの出来ないよ うな大きな不正義の犠牲において、刑事政策を優先させることは、とうてい認 めるわけには行きません。それでもなおかつ刑事政策を優先させるべきだとい う議論をする人がもしいるならば、私はその人の人間としてのセンス を疑わざるを得ないのであります。」(p.14)(団藤氏)
「…全体主義の国においては知らず、いやしくも個人の尊厳を認める自由主義 の国においては、死刑というものが絶対に必要不可欠だという証明がないかぎ り、死刑の正当性を認めることは出来ないのです。」(p.63)(団藤氏)
残忍な犯罪の犠牲者やその遺族の感情を考えれば、犯人を許せなくなる。死刑 廃止論は、加害者に甘く、被害者感情を無視している。(存続論)
凶悪犯罪を肯定しているのではなく、殺人を憎むからこそ死刑に反対する。犯罪者にも家族がおり、死刑はそれらの人々を遺族に変えてしまう。(廃止論)
「犯罪者にも家族がおり、死刑はそれらの人々を遺族に変えてしまう」という ような作用は、自由刑についても存在することで、論ずるに足りない。死刑に そのくらいの副作用があることにつき感傷に浸る必要はない。(植松氏)
誤判の問題は裁判制度を改善することによってしか解決しない。死刑が確定し ても、法務省での記録を改めて精査するなどの執行は慎重にしている。(存続 論)
裁判が絶対に正しいものではないことは、無実の罪で処刑された例や死刑囚の 再審無罪事件で明らか。死刑が一度執行されたらもはや救済できない。(廃止 論)
「死刑が一度執行されたらもはや救済できない。」これは有期自由刑でも同様の現象である。自由刑ならば生物としての生命は保たれるけれども、精神的内容を重視する人間生活としての「生命」に不可逆的変更を加えるものであるという意味で、誤判による自由刑の被害もまた回復不能である。
「…誤判はあってはならない。けれども、それは死刑の問題とは別の次元に属する。それを死刑に特有の如くに取り上げるのは誤魔化しであるというべきである。」(p.14)(植松氏)
死刑事件以外の場合の誤判と、死刑事件の誤判とでは、質的な違いがある。
「…学者によっては、誤判は死刑に限ったことではないのだから、死刑存
廃の議論には、誤判の問題は括弧に入れて、およそ「人を殺した者」に対して
死刑を科する道を残しておくべきかどうか、という純粋な形で問いと答えを出
さなければ、議論に夾雑物が入ってくるという意見の人がいます。これは制度
ということを忘れた議論だと思います。哲学の議論ならこれでいいか
も知れませんが、法律の議論としては、これでは通らないのです*1。」(p.6)
「…誤判の問題は何も死刑事件に限りません。…たとえば、懲役刑などにして
も長いこと刑務所に入って、後で無実だということが分かってだされても、失
われた時間、失われた青春は再び戻っては来ないという意味では、これもたし
かに取り返しがつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な利益
であろうとも人間が自分の持ち物として持っている利益ですが、これに対して、
生命は全ての利益の帰属する主体であるところの人間そのものです。死刑は全
ての元にあるその生命そのものを奪うのですから、同じとり返しがつかないと
言っても、本質的にまったく違うのであります。その区別がわからな
い人は、主体的な人間としてのセンスを持ち合わせていない人だというほかあ
りません。…死刑事件における誤判の問題は、決して単なる理屈の
議論ではないのであります。」(pp.29-30)
「…死刑事件については、たとい「百人」「千人」に一人であろうとも、いや
しくも無実の者の処刑が許されてはならないのではないでしょうか。というこ
とは、とりもなおさず、死刑を廃止する以外にないということだと思うのです。」
(p.51)(団藤氏)