医学部定員増に対する提言

 日ごろよりわが国の医師育成に関し、ご尽力賜りますことに感謝を申し上げます。
 さて、日本医学教育学会では、地域における医師不足・偏在を受けて、数年来多くの医学部・医科大学で入学定員が増加していることに関して、医学教育を担う専門家集団として重大な関心を払ってまいりました。
 医学部入学定員を増加させ、ひいては質のよい医師数を増加させることは、わが国の医療の質の向上に資するものであり、国民の期待にこたえる施策であると評価できます。しかし一方で、単に数の増加のみを目指すならば、医療の質の低下、医療費の増大などきわめて重大な影響をもたらしかねないと考えます。医学教育を主題として集まった学会であるわれわれとしては、医学部定員の増加による医学教育の質の低下は最も危惧することであり、きわめて大きな関心を抱いております。
また、医学部定員増は「医師不足に対する施策」として進められていますが、どのような根拠とプロセスに基づいた計画であるのか、将来の疾病構造や医師需給の見通しも含めて社会に対して明示することが求められていると考えます。
 当学会では、「医学教育のあり方特別委員会」において『医学部定員増加対策特別委員会』を設け、この領域に造詣の深いメンバーによる突っ込んだ議論を経て緊急提言をまとめました。
 つきましては、別添のとおり提言いたしますので、特段のご理解を賜りますとともに、国民のための医療の充実のために貴省の積極的なご支援をお願い申し上げる次第です。
 

Ⅰ この提言について

  わが国では高等学校卒業後、6年間の医学教育の後に医師国家試験合格を経て医師免許が与えられ、その後2年間の臨床研修が義務づけられている。6年間の医学教育は医学知識の習得だけではなく、問題解決能力やコミュニケーション能力、診察技法などの臨床技能・態度教育が重視される。なぜなら医師は、患者や家族と適切にコミュニケーションし、正しい手技で診察を行い、問題点を抽出し、その解決方法を見いだす能力を必要とされるからである。このため大教室で知識を伝授するよりも、小グループ(6〜8名)学習によりコミュニケーション能力、チームワーク、リーダーシップ、問題解決能力を養い、その後、臨床現場でマンツーマン教育により態度・技能を身につけさせる教育(問題基盤型学習:PBL[注1])に比重が置かれるようになっている。このような医学教育カリキュラムは、さまざまな国民のニーズに応えることのできる医師を育てるために欠くことのできないものであり、医学教育には多くの時間と手間と教員を必要とする所以である。
 その一方で、医学教育の現場は危機的な状況にある。医学部の教員数は欧米など先進国と比較しても極めて少ない。そのため教員は、研究や診療にも従事しており、多忙を極めている。研究業績は重要な評価対象でありながら、教育の負担で十分な研究時間を確保できない。診療に従事する教員は、厳しい診療実績を求められ,教育や研究に費やす時間や労力の確保が困難となっている。さらに昨今の医師の大学離れにより、深刻な状況は加速されている。
 このような現状をみれば、医学部入学定員増にともなって単に「教室の拡張」や「機器や教材の追加」といった対策のみでは医学教育の質を担保することはできない。不十分な施策の結果、医師の質を低下させ、ひいては国民の健康を損なうことがないよう、以下の諸点について適切な対応を望むものである。

  1. 人的資源の確保
  2. 物的資源の確保
  3. 教員に対する教育・研究支援
  4. リスクマネジメント
  5. 教育評価の構築

 
Ⅱ 提言

1.人的資源の確保
 教員の増員は必要不可欠である。例えば1学年の定員が95人から120人に増えると、1〜4年生の小グループ学習では4学年で16グループ増えるため、新たに16人の教員を必要とする。臨床実習を行う5年生(通年)、6年生(半期)ではマンツーマン教育のため、新たに37人の教員を必要とする。合わせて53人の教員の増員を必要とする。これは専任教員と仮定した必要数であり、診療や研究を行いながら教育に携わる教員となれば、より多数の教員を必要とする。
 さらに医学教育の質を向上するために、以下に述べる人的資源の確保を必要とする。
A.安全な臨床技能教育のためのシミュレーション教育施設(スキルスラボ:[注2])では、設備の管理や機器の使用指導を担当する専任職員が不可欠であり、定員増にともなってシミュレーターが増えれば、その必要性は増し、適切な管理のためには少なくとも2人の専任職員を要する。
B.コミュニケーション教育において患者役を演じる模擬患者の必要性は年々高まっているにも関わらず、その養成や質の維持は各大学の努力と一部のボランティアに任されている。医学部4年生では共用試験OSCE(実技試験)に合格して初めて臨床実習に参加する(5年生に進級する)ことが認められるが、120人の試験を担当する模擬患者は少なくとも12人必要である。
C.診療現場で行うマンツーマン教育では、教員は診療を平行して行う必要があるため、診療の質を維持するための診療補助職員(クラークなど)を各診療部門で少なくとも1人確保する必要がある。

2.物的資源の確保
 大教室の改修・増築に加え、小グループ学習のための学習室を増員6〜8人毎に新規に確保する必要がある。実習室は顕微鏡などの実験機器増設や空調など大規模改修を必要とする。解剖実習室はホルマリン対策などの問題で実習室そのものを拡張することが多くの大学で困難と考えられ、結果的に解剖遺体1体あたりの学生数を増やすなど教育の質の低下が懸念される。臨床技能教育の一環として導入されているシミュレーション教育施設(スキルスラボ)の整備が必要となる。臨床実習前の医学生の知識・技能を担保するために4年生で受験する共用試験のために、コンピュータ端末の増設や実技試験会場の整備が必要となる。附属病院での臨床実習では電子カルテを記載するための診療端末や学生実習室を増設する必要がある。学生数の増加に伴い学外医療施設での臨床実習が増加するため、当該施設の教育機器などの整備も必要となる。そのほかロッカーや食堂、図書館などの環境整備も必要となる。

3.教員に対する教育・研究支援
 学生数が増えても効果的な授業を行うことができる教育技法(例えばチーム基盤型学習:TBL[注3])の開発や導入を積極的に支援すべきである。
 教員の定員を増やしても、大学で教員を勤めることに魅力がなければ実質的な教員の増員は望めない。そのためには人的・経済的教育支援体制の改善、研究費の確保や実効性のある教員評価とインセンティブが求められる。

4.リスクマネジメント
 少子化にともなう受験人口の減少にあって医学部の定員増を行うことは、必然的に入学生の質の低下を招く恐れがある。このために従来以上に臨床準備教育の努力が必要となり、教員の負担が増えると考えられる。さらに医学生の医行為による医療事故も懸念され、医学生による医行為の水準の明文化や補償制度の整備が急がれる。

5.教育評価の構築
 医学教育の質の評価は容易ではない。前述した質の高い医学教育のアウトカムを測定する指標として、医師国家試験の合格率や研修医の充足率のみでは不十分であることを踏まえ、教育の評価についての検討が望まれる。
 

Ⅲ おわりに

 医学部定員増は「医師不足に対する施策」として進められているが、どのような根拠とプロセスに基づいた計画であるのか、将来の疾病構造や医師需給の見通しも含めて明示することが求められる。
 平成21年5月に文部科学省から通知された「臨床研修制度の見直し等を踏まえた医学教育の改善について」には、「医学教育の充実に必要な指導体制の強化」の方策として次の点が挙げられている。
(1)医学部と附属病院が一体となって担う臨床教育の充実に対応し、大学設置基準に定める最低必要教員数の拡充を検討する。
(2)医師不足が深刻な診療科等の医療の環境整備や医療補助職員の配置などによって教員の勤務環境を改善する。
(3)卒前・卒後教育を一貫して、大学が、地域の医療機関や関係地方自治体、医師会等と一体となって、臨床教授制度も活用しながら、地域の多様な機関で経験を積みながらキャリアを高める医師養成システムの構築を支援する。
(4)教員の評価や人事において、教員の教育・研究・診療における役割に応じて、研究業績のみならず、教育及び診療能力を適切に評価する。
教員の充実を含め教育環境の整備をせずして、安易に定員を増加させることは医療の質の低下を招きかねず、将来に大きな禍根を残しかねない。医学部定員増を行うにあたっては、これらの方策を踏まえ、十分な施策をほどこすことが必要である。
 

Ⅳ 注釈

1.問題基盤型学習:Problem-based learning, PBL
 学習者が自ら問題点をみつけ、それを解決するプロセスで学習する方法。医学部ではとくに医師や研究者として問題に直面した際に、問題点を明確にし、解決する能力を養うことが必要とされることから、広く導入されている。6〜8名の学生からなる小グループが編成され、与えられた基本情報をもとに、グループ討論によって問題点を抽出し、その解決に必要な情報を収集し、解決方法を導き出す。これらのプロセスはグループ毎に配置された教員(チューター)によって評価され、得られた結果よりも、問題解決に至るプロセスが重視される。講義形式の授業と比較して、より多くの学習室や教員を必要とする。

2.スキルスラボ:Skills Laboratory
 臨床技能の習得には臨床現場での教育(On-the-job training, OJT)が欠かせないが、その前に行うモデルなどのシミュレーターを用いた技能教育のための施設。シミュレーターは精密で高価なものが多く、使用法を十分に理解した上で利用する必要がある。このためシミュレーターの利用指導や保守点検、消耗品や施設の管理などを行う専任職員も必要となる。我が国の医学部ではシミュレーション教育の推進によりシミュレーター類の整備は進んでいるが、利用するための施設や専任職員の配置は十分に進んでいないのが現状である。

3.チーム基盤型学習:Team-based learning, TBL
 多人数のクラスに小グループ学習を組み合わせることにより、一人の教員でも効果的な学習成果が得られるように工夫された学習の方法。学生は、(1)個人で予習し、(2)個人およびチームで確認テストを受け、(3)学習テーマの応用問題に取り組む、という3つの時相を繰り返しながら学習する。効果的なTBLのためには、(1)個人とグループが責任を持つこと、(2)活発なグループ活動を促す仕組みを用意すること、(3)積極的に議論に参加するモチベーションを持つこと、の3つが重要とされている。さまざまな教育原理を体系化して米国で開発され、最近になって我が国でも一部の医学部で導入が始まったばかりである。

 

日本医学教育学会 「医学教育のあり方特別委員会」(委員長 北村 聖 東京大学)

医学部定員増加対策特別委員会 委員

瀬尾 宏美 高知大学(委員長)
羽野 卓三 和歌山県立医科大学
鈴木 敬一郎 兵庫医科大学
小林 直人 愛媛大学
 


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