佐藤三吉、近藤次繁、宇野朗、田中苗太郎、片山芳林、桂秀馬、鶴田禎次郎、中山森彦、丸茂文良、寺田織尾、林曄、佐藤恒久、佐藤達次郎、中原徳太郎等外科専門の諸家の東京に在るものの相謀り、伯林なる外科専門家自由協會 Freie Vereinigung der Chiurgen Berlins の組織に倣い、毎月第三水曜日を卜して集談會を開かるゝ計畫あり、已に去月二十一日午後六時より東京醫科大學外科外来診療所に於いて其第一囘を開かれたり、同會に於ける演説の筆記は校訂の上弊社新報に掲載せらるゝ約あれは爾後毎月集談會上の演説等は之を本報にて紹介することを得べし
(明治35年6月5日発行「中外醫事新報第五百三十三號」より引用)
私ハ此外科集談會ノ初ニ方リテ小サイ自分ノ實驗ヲ御話スル榮ヲ得マシタノハ甚ダ光榮トスル所デアリマス、會ニ就テノコトハ言フ必要モアリマスマイカラ略シマシテ、私ハ主トシテ「プレパラート」ヲ御覧ニ入レヤウト思ヒマス、ソレハ此處ニ備ヘテアリマス盲腸部ノ癌腫デアリマス、御承知ノ通リ腸ニ出來ル腫瘍デハ、一番癌ガ多イノデ、其部位ヲ申シマスレバ直腸ニ多イコトハ是ハ分リ切ツタコトデアリマス、其次ハS字状部、上、横、下行ノ大腸ノ各所、盲腸ノ順デアル、此盲腸部ノ癌腫ガ偶然ニモ近頃二例程アリマシテ摘出シマシタカラ、其標本ヲ御覧ニ入レヤウト思ヒマス
今日ハ二十分ト云フ時間ニ制限サレテ居リマスカラ、成ルベク其時間ヲ上手ニ利用シタイト思ヒマス、私ノ實驗シマシタノハタツタ二例デゴザイマスガ、其二例ノ病歴ヲ御話ヲ致シマシテ、且一二言附加ヘタイト思ヒマス
第一例ハ年齢四十二歳ノ小學校教員デ、同胞七人アリマシテ、一人ハ少時火傷ノ爲メニ、一人ハ天然痘デ死シタ、五人ハ皆健在シテ居ル、父ハ八十歳母ハ七十二歳、(以下略)
(明治35年5月21日開催第1回外科集談会における近藤次繁先生による第一例目の講演)
我ガ外科集談會ハ設立以來年ヲ閲スルヿ正ニ九年、回ヲ重ヌルコトコト百、即チ今日之ガ記念トシテ、特ニ茲ニ會合シ諸君ト共ニ祝意ヲ表セントスルノデアリマス、我此集談會設立當時ノ趣意併ニ、其後本會ガ執リ來リタル方針ハ之ヲ他ノ幾多世間普通ノ會ニ比シテ、異ナルモノガアリマスノデ夫ハ何カト申シマスト、可成熱心ナルモノ、少數者ガ時々打チ交ヘ臂相把リ各自ノ實驗ヲ打寛ロイデ話シ合ヒ評シ合フト申スノデ、初會ノ時ノ會員約十五六名常ニ會ニ列スルモノ五六名ト申ス次第、名ヲ世ニ賣ラズ利ヲ他ニ覔メズ、團欒歓悞ノ會合ヲ爲シツゝアリタル者ナルガ、其間本會演説話題ニ上リシモノ實ニ三百五十二ニシテ、頭部九、頸部十五、脊椎七、泌尿器四十四、生殖器二十七、上肢二十七、下肢二十一、顔面十九、胸部二十一、腹部百〇七、總論四十一、少數會員者ノ實驗話題トシテハ、寔ニ豊富トシテ或ハ他ニ誇ルニ足ランカト存ゼラルゝノデアリマス、左レバ本會ハ世ニ其存在ヲ知ラルゝコトナキガ如無聲ノ會ナレド我々會員ハ、然ク無爲ニ百回ヲ過クシ、梵裡ニ九年ヲ送リタルニ非ズシテ最初ノ目的通リ、會員各自ハ、互ニ是ニ由リ多大ノ利益ヲ享受セシモノデアリマス、物事ハヨク初アリ、克ク終アルナレトカ云フガ常デアリマスガ今日百回ノ記念ヲナシタル此會ハ、益々隆盛ニ相成テ終ルコトノナイ様ニ致シタイト存ジマス
(明治43年9月16日開催第100回外科集談會における近藤次繁先生開會の辭)
外科集談會開設以來囘ヲ重ヌルコト400、年ヲ經ルコト約40、今日ソノ醫學界ニ於ケル地位、意義ニ就テハ喋々ヲ要シナイ。本會ノ逐年ノ隆盛ト、各地ニ於ケル外科集談會ノ簇立ニヨツテモ之ヲ推知シ得ル所デアル。幸ニシテ本會創立當時ニ活躍セラレタ先進諸家ガ尚ホ矍鑠トシテヰラレル。温故知新以テ明日ノ研究ニ資センタメニ、コゝニ本邦外科學界ノ最高峯ニ立ツ諸家ヲ煩ハシテ記念講演會ヲ開クコトゝシタ。
(昭和16年6月20日開催第400回外科集談会における瀬屑英一先生の挨拶より)
明治32年(1899年)に日本外科学会が発足し、ついで明治35年(1902年)に東大佐藤三吉教授など東京付近の著名な外科医が集まって外科集談会が創設された。以来年10回、月1回金曜夕などに10題前後の演題発表と討議の会が続けられた。初期には東大外科が世話役となり、121回頃から東京付近の著名な病院外科が持ち回りで幹事をつとめ、会場には東大・学士会館・日本医師会館などが使用され、近年は世話役ごとに異なった会場が用いられており、また、また抄録は初期には中外医事新報、東京医事新報ついで日本外科学会誌、さらに698回以来は日本臨床外科学会誌に掲載されている。676回からは年数回の土曜日1日を集会に当て、またこの頃から東京近辺の大学外科教授や病院外科部長など約50人が世話人となり、持ち回りで集会をお世話してきた。
(平成13年12月発行 集談会百周年記念文集「外科集談会の歩み」から石川浩一先生の文章を引用)