健全で正統な功利主義者は、 《彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければ ならない》などと主張したことも考えたこともない。
---John Austin
John Mackie must have been alone in his room with the Scientific World View .... For it is the most familiar fact of human life that the world contains entities that can tell us what to do and make us to do it. They are people, and the other animals.
---Christine Korsgaard, `The Source of Normativity'
早寝早起き。洗濯、朝食。 サラダのレタスになぜか枯葉が入っていた。
さて、行かねば。
朝、 南北線で本郷へ。 南北線だと駅からけっこう歩く。 事務に行き、いろいろ手続の書類をもらう。 事務に行くとやたらと冷汗を書くのはなぜだろうか。
それから某スタバで新聞を読み、少し論文も読む。
お昼から某博論の研究計画発表を聴く。 糖尿病患者の食事の話。
それから某大学病院の最上階で食事。 これからの計画を聞く。 そのあともさらにいろいろ話を聞き、 最終的に辞令をいただく。
というわけで、おかげさまで無事就職しました。 某有名大学医学部にある、 医療倫理学研究室の助手に採用されました。 今まで陰に日向に支援してくれた方々に感謝します。 これでもう思い残すことはなく死ね…じゃなくて、 これからしっかり研究を積み重ね、社会の役に立ちたいと思います。 とりあえずD論書きます。
祝いの言葉、呪いの言葉など、何かメッセージがある人は、 こちらで。
帰宅。腹減った。
まずはお世話になった学振に出す年次報告書を作成しなければならない。
夕食。鮭のバター焼き、チンゲンサイ、もずく。 食事を作っていると新聞の集金が来る。
祝いのメール、第一号。おもしろいので、 無断掲載させていただく。
去年某大学で、先生の生命倫理を受講していた某といいます。 その節はお世話になりました。 就職が決まったそうですね(^^) おめでとうございます。 講義を受けて以来、先生の日記をずっと読ませていただいていたのですが、 ひそかに心配していました。 私は研究者の方々の生活というものがよくわからないんですが、それでも、 先生のを読んでいると、家にずっと引きこもっているようだったので。。。 でも、よかったですね。 東京の方なんですか? これからも楽しく読ませてもらおうと思っているので、できるかぎり続けて くださいね(^^)v
おもしろいのは、 「講義を受けて以来、先生の日記をずっと読ませていただいていたのですが、 ひそかに心配していました。 私は研究者の方々の生活というものがよくわからないんですが、それでも、 先生のを読んでいると、家にずっと引きこもっているようだったので。。。」 のあたり。 一応去年はいくつかの大学で非常勤をしてました。
つかれた。もう寝よう。
早寝早起き。昨夜は結局つかれて何もできず。
朝、シャワーと洗濯。ヒゲは毎日剃るようにしよう。
早く起きて学振の書類を書く予定だったが、 いろいろメールをしていると時間になってしまった。 大学でやるか。
都立まで行って住民票を取ってくる。
う、早く大学に行かねば。
やっと大学に来る。 南北線は駅から遠いので、丸の内線で来れる方法を考えよう。
北朝鮮が、 最近日本で誘拐事件がいくつか発生しているのを利用して、 「日本は拉致国家だ」と表現しているそうだ。 そうすれば、よく子供の誘拐が起きるイギリスも「拉致国家」だし、 学校で射殺事件が起きる米国は「テロ国家」ということになるだろう。 たしかに、拉致には「ある国家の公的機関によって、 別の国家の国民が無理に連れて行かれること」というような定義はないので、 「拉致」と「誘拐」は通常言い換えることができる。 しかし、「拉致国家」と言うときには、 「国家によって他国の成員が拉致(誘拐)されること」という意味と、 「国家の内部で市民が別の市民を誘拐されること」 という意味を区別すべきだろう。 これを同一視すると、日本も北朝鮮も同じ「拉致国家」だということになる。 北朝鮮の今回の報道は言葉の多義性を利用したおもしろい試みだが、 日本政府としてはきちんと理詰めで反論する批判があるだろう。
などと書いてないで、学振の書類を作成せねば。
腹減った。食堂に行ってみるか。
中目黒から日比谷線に乗り、 霞ヶ関か銀座で丸の内線に乗り換えると良いらしい。
春日通りに抜けるゴミ門を教えてもらう。 お昼はコンビニで買ったパンをコモンルームで某教授と。 生体臓器移植について教えてもらう。
そのあと、某教授に連れられて、あいさつ回りに行く。冷汗。
夕方、事務に書類を出しに行く。あと、年金手帳のコピーが要るそうだ (基礎年金番号が書いてある部分)。年金手帳、どこにやったかな。
時計台の下の生協でちょっと買物。生協にも加入しなければ。
相部屋の某氏にプリンタにもつなげるようにしてもらう。感謝。
あれ、今日はせめて書類仕事だけは片付けようと思ったが、 終わらなかった。
夜、帰宅。丸の内線を銀座で乗り換えて、 日比谷線を使って帰ってくるのが正解のようだ。 たしか都立大前だと自転車置場があったはずなので、 そちらから行くことにするか。
自転車での帰り、倫理学と法学の関係について考え、 探検の比喩を考える。次のようなぐあいだ。
法学はすでに歩かれた道順に対して地図を与えている。 これを見ればどちらに行くべきか(というより、 どちらの道に行ってはならないか)を示している。 すでに地図が作成されている道に関しては、 基本的にこれを便りにすればよい。 ただし、地図が頼りにならない場合もある(地図が古くなっている場合など)。
それに対して、 倫理学は法学が作った地図の妥当性を検討するだけではなく、 まだ人がほとんど入っていない道で、 それゆえ地図の存在しない領域において、 どの道を行くべきかを検討し、ある程度の指針を示す学問である。 そのときに、どちらの道に行くべきか、 そしてどちらかの道が選ばれた場合になぜにそちらに行くべきかについては、 さまざまな理論がある。
この比喩が成功しているかどうかはまた考えることにして、 帰宅してから鮭とゴーヤのおかゆを作る。ついでにオクラも食べる。 最近ゴーヤを良く買うのは、健康に良いらしいのと、 比較的安いから(一本100円)。オクラも同じ理由。
それから風呂。もう眠い。
健全で正統な功利主義者は、 《彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければ ならない》などと主張したことも考えたこともない。
これはベンタムの弟子のオースティンの文章からの引用だが、 これと(アレグザンダーによる)遺伝子からの利己主義の正当化についての シンガーの批判を比べてみる。
もしアレグザンダーの本当に考えていることが、 「行為の生物学的説明が可能なら、行為の意識的な動機づけの存在 は否定されざるをえない」ということだとすれば、 私たちにできることは、彼は愛の営みをする前に 自分の性的欲求の「本当の意味」は「この種の欲求を人々にもたせた 遺伝子が後の世代に生き残る可能性を高めることにあるんだ」 とパートナーに向かって説明するのだろうかと疑ってみる ことだけである。 私たちの行為について生物学的説明ができるということと、 私たち自身の心の中に生物学的説明とは非常に異なった動機が存在するという こととは完全に両立する。 意識的動機づけと生物学的説明は異なったレベルに適用されるのである。
シンガー、『私たちはどう生きるべきか』、法律文化社、156-7頁
シンガーの言っていることとオースティンの言っていることは、 一見よく似ているが、別のことである。 シンガーは、行為をするさいに当人が持つ動機(=愛情)と、 その行為についての科学的な説明(=利己的遺伝子)は、 別個のものでありうると述べている。 オースティンは、行為をするさいに当人が持つ(また持つべき)動機(=愛情)と、 その行為の(科学的説明ではなく)正当化(=最大幸福)は 別個のものでありうると述べている。
ただし、アレグザンダーの批判を少し修正すると、 「功利主義者は身近な人々に対する義務をないがしろにする」 というおなじみの功利主義に対する 批判にもなることに注意すべきである。 オースティンなら次のように言うだろう。
私たちの行為について功利主義的正当化ができるということと、 私たち自身の心の中に功利主義的正当化とは非常に異なった動機が存在するという こととは完全に両立する。 意識的動機づけと功利主義的正当化は異なったレベルに適用されるのである。
La'sのCDが届く(The La's + 8, 1990)。 There She Goesがよくラジオでかかって気になったので買ってみたが、 この曲はマンフレッド・マンの「プリティ・フラミンゴ」みたいな曲。 それ以外はキンクスみたい。そこそこ。
これから無駄使いは極力控えることにしよう。 さいわいこれまで不景気とは無関係な生活を送らせて もらってきたが(国民の皆さんに感謝)、 これからしばらくは給料がぐっと下がるので。 現在の生活水準は持続可能ではないので、 なんとか引越し代を捻出して、 とっとと引越さなければならない。
ちょっと探してみたが、年金手帳は出てこない(なぜか母子手帳は出てきたが)。 二十歳のころに一度見てから、それきりのような気がする…。
早寝早起き。昨夜もほとんど勉強できず。
というわけで、電車の中で予習をしつつ、南大沢へ。 ひさしぶりにフリーデン。保守主義の話。 リバタリアニズムがリベラリズムよりも保守主義と親和性が高いのは、 リバタリアニズムにも保守主義にもartificialを嫌い、 natural (extra-human)なものを志向する傾向があるからだそうだ。 それに対してベンタム・ミル以降のリベラリズムと社会主義は 人為的介入に一定の正当性を認める。とかなんとか。
また、オークショットのパティキュラリズム(経験尊重、理論軽視)の話もおもしろい。 `Oakeshott's approach rejected the distinction between the political thinking of a member of a society and the external observer or scholar's theorizing on the postulates and substances of that participatory political thinking.' (p. 321)なんて話は、 内的視点から外的視点かという議論の一ヴァージョンであり、 ブラックバーンでも問題になった外在的視点と内在的視点の対立と つながるところがある。このテーマはいつかちゃんとまとめるべきだな。
発表者が一人逃げたので、午後は休講になる。 時間ができたので京急新宿→市ケ谷(丸の内線に乗り損ねた)→後楽園 →本郷三丁目と乗り継いで大学へ。 あいかわらずうまい乗り換えができない。
経理に連絡。「年金手帳はここ十年ほど見ていない」と言うと、 代わりに年金の払込みの書類をコピーして出してくれと言われる。助かった。
夕方、事務に書類を提出してから神田へ。 ウィギンズの続き。 《人生の意味を与えない科学的世界観》 プラス実存主義的(or非認知主義的)コミットメントという1970年代主流(?)の 見方に対し、 事実と価値の峻厳な区別を批判することを通じてより客観的な人生の意味を 見つけだそうとかいう話。ここでもinner (participatory) viewと outer (objective) viewの区別がでてきて気になる。
授業のあと、 喫茶店に行き、しばらく歓談。それから帰宅。 都立の駅前で買物を済ませてから帰ってくる。 都立は急行も停まらないのか。
帰ってから、栗ごはん、いわしハンバーグ、めかぶ、もずくなど。
早寝遅起き。昨晩は某氏に長電話してから寝た。 そういえば、夜はなぜかネットに接続できなかった。
週末は学振の書類を書き、某原稿をなんとかすること。
某勉強を少ししたあと、また布団に戻ってしまう。ちょっと風邪気味らしい。
そういえば、もうすぐ 『白い巨塔』 がドラマ化されるそうだ。 ビデオ録って見なければ。
近くのスーパーで買物をしたあと、某ドトールで新聞、公共性の勉強。
書くのを忘れていたが、規制緩和、市場開放を「弱肉強食」 と管直人が批判するのに対して、「では自由のない動物園がいいのか」 と小泉首相が応じたという話はおもしろい。 確かに自由がないのは困るが、 動物が全部同じ場所に入れられてしまうのも困る。 望ましいのは、この中間だろう。 その中間が政治経済ではどこになるのかを検討する必要がある。以上メモ。
葛城ユキが「とんねるずのみなさんのおかげでした」の収録中に 胸椎を骨折する全治三ヶ月の大けがを負っていたという話。 「大砲の弾のように撃ち出され空中を飛んでいる間に自分のヒット曲を 歌うという企画に出演」し、 プールに頭から飛び込んだときにケガをしたそうだ。 この企画自体がめちゃくちゃで、 日本のバラエティ番組のバカらしさを表していると思うが、 こんな企画に出る方も出る方だと思う。 10代20代の売り出し中の新人ならまだしも、 54才の大御所がやるべきことではない。
…。は、いつのまにか産経調の発想になっている。
moralisticという言葉は「説教くさい」という意味にもなるわけだが、 これなんか、倫理学のイメージの一つなんだろうと想像する。 公共心を説くのもやはり「説教くさい」と思われるわけだろう。 そういえば、legalisticという言葉もあまり良い意味ではないな。
あ、某大学からこないだの旅費と宿泊費が振り込まれている。助かる。
晩ごはん。Quasi-ゴーヤチャンプルーとめかぶ。
ちょっと某マルエツまで買物。ホークス優勝でセールをしていた。 帰り、すこし雨に濡れる。
テレビで中継していたボクシングをつい見てしまう。 『踊る大捜査線』も見てしまう。げほげほ。
「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」。 生命倫理学の研究会を開いているときに、 「生命倫理の問題は研究室で起きてるんじゃない。病院で起きてるんだ」 と叫ぶとどうなるだろうか。 ケースベースト(事例中心型)の倫理学のスローガンだな。
またメタ倫理の勉強。 《第二階の道徳懐疑論(反実在論)が第一階の懐疑論を含意しない》と マッキーもブラックバーンも言うわけだが、 このあたりが実在論者との一つの争点なんだな。 ウィギンズの`the inner view has to be unaware of the outer one, and has to enjoy essentially illusory notions of objectivity, importance, and significance: whereas the outer view has to hold that life is objectively meaningless.'も、inner/outerと使っている言葉は違うものの、 やはりこのあたりを問題にしていると言える。
ウィギンズの文をinner/outerではなく、first-order/second-orderと 置き換えてみると、マッキーやブラックバーンとまっこうから 対立する見解であることがわかる。 `the first-order view has to be unaware of the second-order one, and has to enjoy essentially illusory notions of objectivity, importance, and significance: whereas the second-order view has to hold that life is objectively meaningless.'
ここにも言葉の問題があって、「第一階」と「第二階」と言うと、 いかにも相互に独立してそうな感じを与えるが、実際そうなのかどうか、 よく検討しなければならない。
そういえば、government-house utilitarianismも、 第二階の理論(道徳の正当化)が功利主義であることを教えると 第一階の理論(道徳)にとって有害なので、 秘密にしておこうという発想だ。 そう考えると、 first-order/second-orderという区別とその影響の有無という問題は いろんなところで出てくるな。
う、日曜日はいろいろ勉強しなければ。
功利主義や義務論などの倫理学説が「宗派」と同じものだとすれば、 「わたしは功利主義者だからこの行為が正しいと思う」 「わたしは義務論者だからその行為は間違っていると思う」 のようになってしまう。 この事態をどう考えるか。宗派間の寛容か、 あるいは正しい理論はただ一つと主張するか、 あるいは多数決か。メモ。
まだ起きてる。学振のやつ、今日中に書くこと。
倫理学を定義する場合は、どうしてもその隣接領域である法学、 宗教学、社会学などとの違いを示す必要がある。メモ。
ニュース記事などの文章を書くときは、事実と意見は区別しろと言われる。 しかし、ある事態に関してどのような事実を見るかには、 当人の意見が関係しているので、 意見と独立の事実というのは幻想であると主張されるかもしれない。 たとえば、産経と朝日では、 事件のどの側面(事実)を取り上げるかが異なるだろうし、 同じ事件(たとえば拉致事件)をまったく別の見方で見ているかもしれない。 事実と価値の区別についても同じように言えるか。これもメモ。
遅寝遅起き。学振の書類を書かないと。
学振の書類はだいたい書けたので、 あとは某大学に郵送して受入教官の署名と印をもらってさっさと提出しなければ。
夕方、駒沢公園をぐるっと一周歩く。キンモクセイが薫る。 途中、ニコという喫茶店でカモミールミルクを買って飲む。 しゃれた雰囲気の店で、名前の通りヴェルヴェットアンダーグラウンドの `Run, Run, Run'がレコードでかかっていた。
某マルエツで少し買物をしてから帰宅。つかれたのか、 しばらく寝てしまう。
晩ごはんは鍋。明日からはカレーにする予定。
新聞。どうもダルくて勉強する気にならず。
アイロンをかけながらテレビを見たり。やる気なし。
早寝早起き。朝食。
さて、もう行かねば。
本郷へ。着ていく服がなくて困る。明日はスーツにしよう。
いろいろ事務作業。メールアドレスの登録、学振の書類など。 科研費がもう一度使えるようになるのは年末から年始からだとか。 そんなときから使って使い切れるのだろうか、心配だ。
郵便局に封筒を出しに行こうとすると、 秘書さんがやってくれるとのこと。 人を使い慣れてないので罪悪感が。 なるべくできることは自分でやろう。
お昼は生協で弁当を買ってきて、コモンルームで食事。
他にしないといけないことはなかったっけ。
眠い…。昼寝のない生活はつらいな。
日本人の死生観から脳死・臓器移植に反対する議論というのには、 非常に反発を感じる。こういうときだけ仏教・儒教的伝統を持ち出すのは、 「臓器提供はなんとなくいや」という直観を後付け的に正当化しているように 思えてならない。臓器移植先進国の台湾や韓国はどうなるのだ。 (参考: 脳死臓器移植: 海外の宗教界はどう考えるか 生駒孝彰)
なぜ(現在の)日本人は臓器を提供しないのかについては、こういう説明よりも、 不完全義務に対する意識が希薄だから、という方がまだ納得がゆく。 日本人は欧米と比べて募金をしないという事実も、 これによって説明できると思う。 他人に迷惑さえかけなければいいと思っているから、 隣人愛という発想が欠けている。 ただし、家族愛はある程度尊重されているから、 生体移植が流行る。
まあ、こういう説明も独断的か。 シンクタンクに頼んで調査してもらおう。
ボリウッド・フィルムで、ノラ・ジョーンズとラビ・シャンカールの親子 関係を描いた映画が作られるとか作られたとか。
あれ、筑波大で脳死と臓器移植における倫理的問題に関する国際会議なんてのがあるのか。 う〜ん、関西倫理学会とぶつかってるけど、こっちを優先させた方がよさそうだな…。
某教授としばらく相談。
「帯に短しまわし(たすき)に長し」「屋上屋を架す(おくじょうおくをかす)」 「屋下に屋を架す(おっかにおくをかす)」など、 ただちに出てくるように日頃から練習すること :)
あれ、一日があっという間に終わってしまった。おかしい。
まだ大学。
バーナード・ローの『医療の倫理ジレンマ』(2003年、西村書店) という翻訳の目次だけコピーしてもらってちょっと読んでいたのだが、 第28章の「医師-患者間の性的接触」という章が気になる。 小見出しは:
となっていて、なかなか挑発的(?)である。 最後の推奨というのは患者との性的関係を推奨するというのではなく、 おそらくrecommendations、すなわち患者-医師関係のあるべき関係を 提案しているんだと思うが、やはり気になるな。 この部分も見せてもらうんだった。買おう。
夜、たまたま大学のそばに来ていた兄夫婦と一緒に食事。 いろいろ人生相談に乗ってもらう。
都立の某喫茶店で勉強しようかと思ったが、 つかれているので帰宅。しかし、甘えてないでもっと勉強しないと、 追いつかない。
明日はスーツを着ていくついでに証明写真を取り、 事務に身分証明証の申請をすること。生協にも加入しないとな。
価値と事実の関係はいろいろあると思うが、それは置いといて、 生命倫理学では、事実を正しく知らないと、正しい倫理的判断はできないだろう。 しかし、事実を正しく知っているだけでは、 正しい倫理的判断ができるとは限らない。 倫理学が何かできるとすれば、 正しい事実から正しい倫理的判断への過程、つまり 「正しい事実→正しい倫理的判断」の矢印の部分について何らかの 示唆をすることだろうか。もちろん、何が「正しい」倫理的判断なのか についても問題になるだろうけど。
医療資源の配分の問題では、政治哲学的な知識も必要とされているようだ。 キムリッカとかウルフとか読んで知識を再活性化させないとな。
ビル・ゲイツは死ぬ前に全財産(現時点で450億ドル)を寄付するそうだ。 「ビル・ゲイツはマイクロソフトのイメージを上げるために、 自己利益の動機からやってるんだから、感動するほどのこっちゃない」 と冷笑的に言う人に対して、どう応えるべきか。 あるNGOの関係者は、 「彼らの動機は病気の子どもを抱えた母親には関係のないことだ」と応える。 ベンタムなら、第三者が動機を確定することはできない、 と応えるかもしれない。
しかし、たとえ自己利益からやっているとしても、 なぜ自己利益からだと価値が下がるのだろうか。 「自己利益に適っているからやっているのであり、 自己利益に適っていなければやらない」からだろうか(つまり、仮言命法的)。 あるいは、「ビル・ゲイツも自己利益から行為しているし、 脱税をしてつかまる人間も自己利益から行為している。 結局ビル・ゲイツと脱税して捕まる人間の違いは、 動機のよし悪しではなく、頭のよし悪しにすぎない」からだろうか。 ここらへんはもっとよく考える必要がある。
アイロンをかけて風呂。
BBCラジオ2で`The First Cut is the Deepest'をよく聴く。 Sheryl Crowのバージョンのようだ。 オリジナルはCat Stevensなのか。 ロッド・スチュワートのやつしか知らない。
なんかまだエネルギーが残っている気がするが、 明日に備えて寝ることにする。
早寝早起き。が、寝たりない。カーテンをきちんと閉めてなかったせいか。
朝食、洗濯。
大学へ。最近またビリー・ホリデーを聴いているが、 ようやく歌詞を味わうようになってきた。 とくに`Don't Explain'はかなり胸に来るものがある。 ちょっと訳してみた。
もういいの、何も言わないで
どこにも行かないとだけ言って
うれしいの、戻ってきてくれただけで
何も言わないで
もういいから、何も言わないで
何にもなりはしないから
もういいの、口紅のことは
何も言わないで
知ってるでしょう、愛してること
愛のために耐えてることも
ずっとあなたのことを考えてたわ
あたしはあなたのものだから
うわさを聞いては泣いてたの
浮気してるって知ってるわ
でも善いも悪いも関係ないの
あなたがいれば、それだけで
もういいの、何も言わないで
あなたはあたしの喜びと苦しみ
あたしの人生はあなたのもの
何も言わないで
---Billy Holiday, Arthur Herzog Jr.
あ、仕事仕事。
工事の音がすごい。
医療倫理のテキストをいろいろ読む。法律のお勉強をしなきゃな。
生協のカメラ屋で証明写真を撮ってもらう。 今日も購買部で弁当を買い、コモンルームで食事。
秘書さんに予定表に書きこみをするように言われるが、 ぜんぜん書き込むべき予定がなくて恥ずかしい思いをする。
医療倫理の勉強。ちょっと賢くなった…かも。
なんだか忙しい。
昨日は夕方からミーティング。 3時間半ほど話し合い、今後の予定などを決める。 やりがいのある仕事になりそうだ。
9時すぎに家に帰り、食事を作る。 チンゲンサイを豆板醤とニンニクで炒めたものを食べていると、 喉につっかえ、豆板醤の辛さで死ぬかと思った。 疲れていたのでさっさと寝て、 早寝早起き。
午前中、研究室の演習発表を聞く。 ウイグルのポリオ対策の話。
お昼は、某先生に連れられて書籍部の上の食堂へ。 いろいろ相談に乗ってもらう。
それから駒場へ。 渋谷に出るには赤坂見附で銀座線に乗り換えるのがいいと教えてもらう。 3時間(実質2時間半)かけてマクダウエル(`Values and Secondary Qualities') の最初の2段落読む。ほとんどドイツ哲学状態だ。 が、いろんな読み方を知るのは勉強になるし、 正しくないと思った解釈を批判できるようになるというのは重要だ。
そのあと、お腹が減っていたが、電車を乗り継いで帰宅。節約節約。
うう、眠い。
わ、アーノルド・シュワルツェネッガーがカリフォルニア州の知事に選ばれた。 すごいなあ。
眠いので風呂に入る。しかし、まだ眠い。
カレーを作成中。
カレーとサラダを食べる。お腹いっぱいになって幸せ。 モンティパイソンを少し見て笑う。イタリア語教室のやつ。
ああ、ウィギンズの勉強もしないとなあ。
早く寝るつもりが、マクダウエルに取り憑かれて寝られず。 マクダウエルは、 いつまで経ってもわかった気にならないアリ地獄のような思想家だと思う。 それで、オレの長所は、 そういうアリ地獄のような思想家に魅力を感じないことだと思う。 ある種の人々に言わせれば、 それは長所ではなく欠点ということになるんだろうけど。
もう寝よう。
遅寝早起き。眠い。社会人は大変だな。
本郷へ。秋晴れ。
道徳の場合は、 善悪の評価基準(モノサシ--「わたしの行なった判断は正しいのかどうか」) と動機付ける力の両方が必要なわけで、 ムーア的な実在論だとモノサシの客観性は言えるが、 その認識能力と動機づけの力について神秘的になってしまう。 対して非認知主義の立場は認識能力を仮定する必要がなく、 動機づけの力もとくに説明する必要はないが、 客観的なモノサシを見つけるのが大変になる。 二次性質論も準実在論も第三の道を行くものだと思うが、 はたしてうまくいっているのかどうか。
「きみはpre-cogか?」
「いや、non-cogです」
お昼は、某氏が尋ねてきてくれたので、コモンルームで弁当を食べながら歓談。 勉強会の相談をするはずだったが、雑談をしていて時間ぎれになる。 1時間半以上ランチをしていた気がする。
眠い。
帰宅。
昼下がり、ちょっと机で居眠り。 そのあと、某氏と勉強会の相談。
夕方、急に出張が決まり、 その手続の準備で時間が埋まる。 なかなか職場で勉強はできない。
学内での科研費の申請の〆切が来週中頃だというので、 急いで書くことにする。 来年から科研費がなくなるとつらいので。
しばらく某教授と相談してから帰宅。
そういえば、先日から昼食と交通費以外は支出のない日々が続いている。 すばらしい。
う、明日の準備がやばい。
と思ったら、Amazonで頼んでいたCDが来てしまった (`Elvis 30 #1 Hits', `Elvis 2nd to None')。 しばらく注文するのは控えよう。
カレー。
『白い巨塔』、見る。 有名大学病院における、金と名誉、野心と理想の話。
「いろんな側面を見せる財前助教授が良いっすね」
「うむ、そうだな、里見助教授は今いちだな。 これから人間性が深まっていくことに期待だ。 演技も頼むぞ」
「財前助教授の奥さんの関西弁がうそくさくてかないませんね」
「うむ、そうだな」
森裁判長は、入学金について「納付で学生は、より志望順位の高いほかの大学 を受験できる精神的安定を確保している」と指摘し、「大学生としての地位を 取得する目的が達成され、辞退した合格者が返還を求めることはできない」と 判断した。
(from asahi.com)
大阪地裁の学納金訴訟で原告が負けたそうだが、 「納付によって学生は大学生の地位を得ることにより、 ほかの大学を受けるための精神的安定を確保している」 という理屈はおかしくないか。
もちろん、現状の入学金や授業料の返金をしない制度を前提にすれば、 学生はお金を払うことによって精神的安定を得るだろうが、 しかし、これが返金を認める制度になっても、 やはり学生は(おそらくはより大きな)精神的安定を得ることができるだろう。 この議論はまるで、「ヤクザがショバ代を請求することは、 それによって店を開いている人々が精神的安定を確保することができるので、 不正ではない」と言うようなものではないか。 悪政ないし搾取のもとでもある程度の精神的安定を得ることができるわけだから、 精神的安定のみをもってある制度を正当化することはできない。
入学金納付はあくまで私大の経営の問題であり、 その制度によって入学しない学生がなんらかの直接的な利益を蒙っていると 議論するのは難しいように思う。
私は、政治の目標は「最小不幸社会の実現」と考えています。国民の中には、 「不幸」に遭遇している人がいます。そして、人々の「不幸」になる原因は様々 です。その原因を政治の力、つまり「権力」で取り除けるものはできるだけ取 り除き、不幸を最小化すること、それが政治の目標だと思います。
なぜ「最大幸福」と言わないで「最小不幸」というかと言えば、病気や貧困と いった不幸の原因は、相当程度政治の力で取り除くことができますが、「幸福」 のかなりの部分は、恋愛や美意識といった政治という「権力」が関与すべきで ない分野の問題と考えるからです。一部の人が無理に「幸福」を押し付けよう として権力を使うと、そこには一種の強制や独裁が生まれます。政治権力は、 人の生死をも左右する強制力を伴うものだけに、その行使は人々の「不幸」の 原因を最小化することを目標とすべきであり、美意識のような個人的選好に属 する「価値」の実現を目標とすべきでないというのが、私の政治に対する基本 的哲学です。
民主党のメールマガジンから。「最大多数の最大幸福」を政府の目標にすると、 政府は市民に一定の幸福観(善の構想)を押しつけることになるので、 「最小不幸」の方がよいという理屈。本当に管直人が書いたのかどうかわからないが (たぶん違うだろう)、「個人的選好」なんて言葉を使っていてすごいと思う。
しかし、 功利主義は必ず一定の善の構想を押しつけることになるというのは誤解であり、 彼の言う最小不幸原則も功利主義的な発想だ。功利主義は各人が自分の幸福や 利益についての最善の判断者だと考えているので、 「美意識のような個人的選好に属する「価値」の実現」 を政府の目標とするわけではない。と思う。
遅起き。う、南大沢の某ゼミ、さぼってしまった。 神田のゼミの準備をしよう。
う、遅刻する。
さきほど帰宅。
夕方、神田に行き、某ゼミに出席。 ウィギンズの続き。おもしろい。
それからみなでちょっと飲み、さらにラーメンを食い、帰宅。
明日は早いのでさっさと寝よう。