性的なものしろ、そうでないにしろ、親密さは(…)二つの仕方で関係を変容させる。 第一に、親密になった二人は、お互いの生活、性格、欲求について、 深くて詳しい(しかし完全ではない)知識を手に入れることになる。 第二に、二人は、 相手の欲求を取り込んだ欲求、 または相手の欲求に関係する欲求を抱くようになり、 その結果、自分の幸せはある程度相手の欲求が充足されるかどうかにかかっている ことに気付くことになる。 親密さは単に[相手をよく知っているという意味での]認知的な関係ではなく、 相手の目的や欲求を尊重し共有する(あるいは尊重せず邪魔をする) 特別な可能性が生まれる関係でもある。 まさに親密な関係においてこそ、 われわれは最もよく他人を人格として扱うことができる-- そして最も甚しく他人を人格として扱うことに失敗することもできる。
---Onora O'Neill
Nothing is certain but death and taxes.
---Benjamin Franklin
「それよりも、よく考えなければいけませんわ、 第一に自分たちが女ってこと、 それで男の人と争いあうよう生まれついてはいないというのを。 それから、力のもっと強い者[国王]に支配されている、ってことも。 それゆえ、今のことでも、またもっと辛いことでも、 服従するほかありませんわ」
---イスメーネー
起きる。夜中も2時間起きに目が覚めたが、とりあえず体調は大丈夫そう。 よく寝た気がする。
朝食。風呂に入る。あれ、また眠くなってきた。
勉強。
某法政大学図書館にて。 九段下で降りてプロントで食事をし、 目白通りを延々と歩いて飯田橋に着き、 そこからさらに川にそってやってくる。
早目に来たので図書館に入らせてもらう。 まだ某大学文学部の証明書を使わせてもらってるが、 そういえば某横国で証明書をもらえるんだろうか。
メモ: 類推(アナロギア)というのは、認識の仕方の一種なんだな。 神をどうやって知るかとか、他人の心の存在をどうやって知るかとか。 哲学字典にも「帰納・演繹と並んで一つの認識拡張の原理」とか書いてある。 しかし、倫理学においては認識だけではなく、 道徳判断を形成・修正するのにも使われる。 既知の事柄についての道徳判断から新奇な事柄についての道徳判断をもたらす。 そのときに重要なのは`morally relevant'かどうかという点。
眠い。
しかし、図書館っていいな、本がたくさんあって(あたりまえだけど)。 字典類がたくさんあるのもいい。
国連の発表によると、エイズのせいで人口増加が以前の予想ほどは進まないとのこと。 人口問題に関しては、 経済と同じように自然にまかせるべきか政府が統制を加えるべきか が論じられるようだが、どうも神の手が働いているようだ(などと書くと、 エイズで死ぬ人は怒るだろうけど)。 となると、少子化に関しても政府は手出しすべきではないのだろうか?
そういえば、産経が「ジェンダーフリー教育」 が少子化をもたらしたというようなことを書いていた気がするが、 まだ「ジェンダーフリー教育」は(少なくとも日本においては)日が浅いので、 そのような影響を持つはずがない。 むしろ少子化の原因は女性の高学歴化と晩婚化や、 社会参加の割合の増加や育児環境の劣悪化などだろう(と言われている)。
めずらしく早目に会場に行く。
そういえば、 この付近には、 千代田区の禁煙条例を宣伝する菊川玲の「マナーから、ルールへ」 というポスターがやたらに目につくが、 このマナーからルールへというのを某名誉教授風に言うと 「不完全義務の完全義務化」ということになるんだろうか、 とか思ったり、マナーはルールじゃないのか、と一人でつっこんでみたり。
某現代倫理研究会。 一つ目はウィリアムズとマクダウェルの話。 二つ目は某先生による租税の正義の話。 ネーゲルとマーフィーの本を注文すること。 三つ目は「性の倫理学」の話。
有楽町の国際フォーラムでイタメシを食べてから帰宅。 雨がひどい。
Nissenのカタログが届く。本棚とベッドが欲しいな。
よく寝る。いろいろ悪夢を見た気がするけど。朝食。
今日は日がな一日寝てすごした。夕方、某東急ストアで買物。 昼も夜もカレー。勉強しないとやばい。
いくつか電話をする。
シンガーの翻訳もちまちま進めている。
だいたい某国際学会用の原稿ができた。一度寝てからよく見直しをして、 早急にメールすること。飛行機のチケットも早急に取ること。
新聞。桃の節句にちなんで、またぞろジェンダーフリー教育批判の記事が出ている。 「脳に性差」は科学的常識なので、「女の子は女の子らしく育てよう」だそうだ。 問題はこの「女の子らしく」の内実で、 ここに「女性は家庭を犠牲にしてまで社会進出すべきでない」とか 「女性は男性ほど自己主張すべきでない」などの多くの規範を密輸入すると 問題になってくる。
たとえばこの新聞記事には「女らしいとは、 他人が何を求め何を嫌がるかを感じ取る力がすぐれていること」 と、ある教育専門家が書いているが、 では、 そういう力を男性よりも女性の方がとくに身に付けるべきなのだろうか、 むしろ男性も女性も等しくそのような能力を身につけるべきではないのか、 と訊きたくなる。また、そういう力に劣っている女性は、 同じくらいの程度の男性よりも、 「女らしくない」とよけいに非難されるべきなのだろうか。
今日のクローズアップ現代はクローン人間騒動について。見ること。
放送大学の古代倫理学の授業を見ながら寝る。 しかし、2時間ぐらいで起きてしまう。睡眠障害? 起きるとマイクロ・ナショナリズムの話をしているのでそれも聴講する。 外国に接している根室(ロシア)、沖縄(米国)、与那国島(台湾)の話も聴く。朝食。
日記の整理をする。
ちょっと某勉強。眠い。
郵便局に行き、某資料集の原稿を速達で発送する。
ついでに、足を伸ばして近くの商店街を見に行ってみる。 電気屋、肉屋、美容院、自転車屋、駄菓子屋などがあったが、 かなりさびれていた。仕方ないのか。
ただ、その近くにある小さなスーパーは、 野菜や果物や牛乳が某東急ストアよりも少し安いので良い。 近くて便利だし、今度からここも使うことにしよう。
下宿に戻ってきて昼食。うどんとホウレン草のバター炒めを作る。 ホウレン草は炒めすぎないこと。 しょうゆは一滴垂らすぐらいでよい。
某原稿の再校が届いたので、少し手直しして送れるようにする。 再校までやると、なんだか立派な論文を書いた気がしてくるが、 それは錯覚だろう:)
アマゾンから本が届く。
新語。親の世話と子どもの世話を同時にしなければならない世代のこと。 サンドイッチ世代。
もう少し詳しく言うと、
第一世代が三十代になって子ども(第二世代)を生み、
第二世代も同じくらい遅くになって子ども(第三世代)を産むと、
第二世代は第一世代(育児)と第三世代(親の老後)の世話を同時にしなければ
ならなくなる、という話。英国では、1946年に生まれた女性の9割、男性の8割が
30才になるまでに子どもを作っていたのに対し、
1970年に生まれた女性の約5割、男性の3割しか同じことがあてはまらなかった。
(`An affluent but more anxious society' in the Guardian Weekly Feb 27-Mar 5
2003, p. 11.)
上記『ベンサム』の序文から。
[最近の高校倫理の教科書を見ると]「一七七六年 『政治論断片』でジョージ三世の反動政治を批判」 (東京学習出版社)という噴飯ものの記述もある。 ベンサムが国王批判を公然とするのはパノプティコン問題のつまずきの ためで、一八二一年以降である。文部省の検定もずさんなものであった。 (ix頁)
あの先生のことだから、きっと実際に噴飯したんだろう。 鼻血もブーっと出したかもしれない。
『ベンサム』をだいたい読む。どうも最終章の第四章は息切れしているようだ。 『憲法典』のあたりの話なので、もっと詳しくやってほしいのだが。 いや、おれが書かないといけないんだけど。もう一度よく読むこと。
当然ながら眠い。
寝た。二度の電話で起こされる。ううう。
最近、アマゾンに注文しすぎ。もうすぐ首が回らなくなる。こわい。ウツウツ。
A Companion To Bioethicsにある`A Case Approach'を読む。 そうだ、類推的思考の典型は判例法だった。`Analogical thinking is usually a necessary component both in moral problem-solving and in the gradual development of moral principles and theories.'(p. 113) うんぬんには基本的に同意。casuistryに限る必要はない。類推的思考が pluralisticな社会では適切だ(overlapping consensusを形成できる) という指摘も同意。
あ、クローズアップ現代見るの忘れた。
夜10時ごろに寝て、朝2時ごろに起きる。むちゃくちゃだ。
某原稿を書かねば。
勉強中(英作文の見直し)。お腹が減ったのでごはんを炊いて食べる。
「〜に対する戦い」。米国同時多発テロのあとに`The war against terrorism' という言葉が流行ったため、現在では「〜に対する聖戦(大義のある戦い)」 というニュアンスを強く含んでいる。 そこで、自分のやっていることを正当化するのに使える。
最近は`the war against Iraq'をよく見るが、 他に`the war against drugs' (薬物に対する戦い), `the war against doping' (ドラッグ使用に対する戦い)などもあり、 応用範囲は広い。とりあえず、反対したいことがあれば `we are waging the war against cloning/abortion/world hunger!' のように叫ぶとよい。
反ドーピング世界会議開幕(産経)。 コペンハーゲンにて。
3時間ほど寝る。めちゃくちゃだ。
映画を見ているヒマはないはずだが、 借りていた『ストーリー・オヴ・アス』 を観る。ブルース・ウィリス、ミシェル・ファイファー主演 (脇役はまさに脇役で、主役のこの二人だけで作れそうな映画)。
離婚の危機を乗り越えて二人でやっていくという話。 結婚はそれだけでなく、子どもの問題もあるからたいへんだろうと予想する。 いずれにせよ、(結婚も友達付き合いも含め)コミットメントは、 highだけでなく、lowも経験する覚悟を持ってやるべきものだというのがモラルか。 最後のミッシェル・ファイファーのモノローグは圧巻。B。
お昼を食べる。納豆、ホウレン草のバター炒めなど。
某英作文の推敲、which is めんどう。 文字カウントをしてみると4500語くらい。
新生バングルズの`Something that you said'、なかなか良い。
産経火曜日のマンガ、「ひなちゃんの日常」、なかなか良い。
夕方、風呂に入ってから某東急ストアに行き、買物。 それから少しウトウトする。
起きてから勉強。しかし寒気がする。 どうも気温がだいぶ下がったらしい。
勉強中。腹減った。材料もそろったし、そろそろ懸案のパスタを作るか。
フィリピンのミンダナオ島の空港で爆破事件があった模様。
はっ。今気がついたが、 「すりリンゴ」と「スリリング」って一文字違いだ。
ツナトマトソースのパスタを作る。
これで多少長く煮てみたが、今いち水っぽい。 もっとドロドロになるまで煮るべきか。 いや、おいしかったけど。
トマトソースは30分ほど煮るとよいという天の声があった。
「親切」はなぜ「親を切る」と書くのか、 ということがこないだから気になっていたので、 Googleで調べてみると(『広辞苑』などはまだダンボールに入っている)、 だいたい次のような事情のようだ。 主にここを参照した。
「親」はオヤではなく「親しい」の方で、「切」は包丁でニンニクを切ると 包丁とニンニクがぴったりくっついているように、「ぴったりくっついているさま」 を意味しているそうだ。というわけで、「親しくぴったり寄りそう」というのが 原義だそうだ。 もともとは「深切」という言葉が、 現在の「親切」の意味で使われていたそうだが(国語辞典にも「親切・深切」とある)、 明治以降は「親切」が主流になったそうだ。
上記の記述が間違えていたら、おそらく某仙人が訂正してくれるだろう。 たぶん(hopefully)。
ちなみに「親切は親を切るということだ」と説明していた記述もいくつかあった。 おそらくこちらは俗流語源説なのだろう。しかしこの解釈では あまりうまく説明できるようには思えないけど…。
トマトソースはバターを少々入れるとコクが出るという天の声があった。感謝。
ね、眠い。
早朝起きる。某放送大学の古代倫理学の話を聞きながら 新聞を読んだり朝食を食べたりメールをしたり。
メモ。夜8時からの『紳士協定』を見ること。 「『男らしさ』と『女らしさ』の倫理学的考察」というような論文を 書くための準備をすること。
ギリシャ国立劇場が来日して「アンティゴネ」を上演するそうだ。 見たいな。
某仙人さまが 親切について 書かれている。 ああ、やっぱり「切ない」も同じところから来ているんですね (「ない」は強調なので、「切がない」ではなく「すっごく切だ」という意味)。
「切ないときは親を出せ」(困ったときは親が死んだとか言え)というのもあるようだ。 まぎらわしい。
問い合わせたところ、「アンティゴネー」のチケットはまだ残ってるそうだ。 買うか…。
やっと推敲が終わった。整形したらメールすること。
お昼、某さんと自由ヶ丘駅前の韓国料理で食事。 いろいろTipsを教えていただく。
某東急ストア一階のぴあで『アンティゴネー』のチケットを入手。
下宿に戻ってくると、カード会社からの請求書が来ており、 その額に危うく卒倒しそうになる。 とりあえず20日までは禁欲の日々を送ること。
もうすこしprudentな生活をするために、 家計簿をカードの分だけ復活させることにしよう。 今回はこの家計簿ソフトを試してみることにする。なかなか便利。
一応ペーパーをメールした。一安心。
ちょっと寝たら、次の原稿にかからねば。
寝る。
ちょっと駅前に行き、回転寿司を試してみる。が、ここはダメ。 体調も悪くなる。
『紳士協定』。グレゴリー・ペック、カッコイイ!
『紳士協定』(1947)、観る。 ユダヤ人差別を知るために、自らユダヤ人を名乗ってみるジャーナリスト (グレゴリー・ペック)の話。 差別を知るためには差別を生きてみなければならない、というメッセージ。 この映画だけではユダヤ人差別についての実体がほとんどわからないが、 上のメッセージをうまく伝えている(と傍観者は思う)。
主人公はジャーナリストのグリーン(ペック)だが、もう一人は婚約者のキャシー (ドロシー・マグワイア)。 それまでキャシーは「差別は悪い。現実に差別がある。差別はなくすべきだ」 という道徳判断(と現状の認識)しか持っていなかったが、 グリーンとの出会いを通じて道徳判断は実際の行動に結びつかないといけないこと を悟る。
しかし、 理想主義者のグリーンが善人、 差別について現実主義的だったが自分の過ちに気付き改心する婚約者のキャシーが 悪者という二項対立がちょっとあれだ。 ここには当時は気づかれていなかった男女差別があり、 現在同じ映画を作るとすれば男女の役割を逆転させて、 ジョディ・フォスターやジュリア・ロバーツが主演するんじゃないかと思う。
いずれにせよ、名作。いろいろ考えるところがあった。 B++。
眠い。
起きる。最近、早朝に起きることが多くてすばらしい。 夕方ぐらいに寝てるけど。
議員が何か不正をしたときに、総理が決まって「本人が判断すべきだ」 と言うのはなぜなんだろう? 自分の意見を述べることが禁止されているのか、 単に政治的配慮からコメントを避けているのか。 「自分で決めることだから…」という意見は内容がなく、 ほとんど「ノーコメント」と代わらないと思うんだけど。
ふたたびツナトマトソースをよく煮て(ちょっとバターも入れる)、 水がほとんど飛んでからスパゲティにかけて食べてみる。 う、うまい。
しかし、がんばって作っても3食分にしかならないというのは、 カレーと比べると効率が悪いな。次はトマト缶を3つか4つ使って 作ってみるか。
新聞。長野の諏訪マタニティークリニックで去年国内二例目の代理出産が 行なわれていたそうだ。夫婦が体外受精で受精卵を作ったあと、 夫の義姉が代理出産したとのこと。 夫婦は「この喜びは筆舌に尽くせない。私たちと同じ境遇の人から 『幸せになるための選択』を奪わないでほしい」と言ってるそうだ (産経「長野の医院 また代理出産」本日付30面)。
ゴミを出す。
イギリス哲学会では「共和主義」がシンポジウムのテーマになるようなので、 Companion to Political Philosophyの`Republicanism'(ホーコンセン)を 読んでみる。が、今いち捉えどころのない概念だ。
メモ: ローマの共和政体が理想的なモデルで、 土地(財産)を所有している自立した市民が公共の福祉のために公的生活 (res publica. 私的利益を追求する私的生活res privataと対比される) を送るという様を強調しており、 現代の自由民主主義が持つ過度に個人主義的な傾向 (自然権理論から由来するとされる)を批判するようだが、 共同体主義の批判と同じでどうも体系性に欠けるように思える (だから共同体主義も全体としてはよくわからないんだけど)。
でもまあ、 「富か徳か」という問いは、 「個人の利益の追求か公共の福祉の追求か」 という共同体の根本問題の言いかえであることがわかった(たぶん)。 しかし、 「リベラル」か「シヴィック」かという二項対立はなんだか 擬似問題のような気がする。いや、アウフヘーベンするというのが答えか。 いかん、「擬似問題」とか「アウフヘーベン」とか慣れない言葉を使ったので、 自分で何を言ってるのかわからなくなってきた。
風呂に入る。
放送大学。自然科学の実験の意義について。 科学は実験における反復可能性を前提にしているが、 一過性のものとして宇宙の生成、進化論などがある。
疫学とは、人を対象として、疾病や健康と、 環境要因(たとえば食事)や疾病発症のリスクとの関係を調べる学問だそうだ。
放送大学。文献の調べ方(内容なし)。パスタを食べる。
パスタというのはスパゲティの上位カテゴリーで、スパゲティの他には マカロニやラザニアなどがそこに含まれる。
普通、日本でパスタと言えばスパゲティのことを指すが、 スパゲティよりもパスタの方がおしゃれだと感じている人が多いため、 パスタという言葉がより好まれる傾向にある。 しかし、日本語に置きかえて考えてみれば、 「うどんを食べに行こう」と言わずに 「麺類を食べに行こう」と言うようなものなので、 分別のある人(違いの分かる人)は使うべきではない。
なお、パスタの類義語にはザパティスタ(サパティスタ)、 スパゲティの類義語としてはゲティスバーグの演説があるが、 これらについてはまた。
ところで、先日届いた生命倫理学会のニューズレターに、 「ポジティプ」「ネガティプ」 という表記があった。文章の中でほぼ一貫してそのように書かれているので、 誤記ではなく本当にそのように覚えているんじゃないかと思ったが、 文責が某名誉教授になっていたので、 まさかそれはないと思うのだが…(hopefully not)。
しかし、「ポジティプ」「ネガティプ」は発音してみるとおもしろい。 というか、むずかしい。 「ポジティップ」あるいは「ポジティープ」とすれば発音は容易になるが。 そういえば、SF作家でなんとかティプトリーっていうのがいたな…。
昨日、某さんが「人々のウワサでは、 目黒通りを都立大学前を越えてさらに行き、 環七通りを越えてさらに行き、一週間ほど歩きつづけると、 やがて七階立てのダイエーという帝国にたどりつく。 そこには古今東西の商品がそろっていて、 人間のあらゆる欲望を満たすことができるという話じゃ」 と遠い目をして語っていたので(ウソ)、 某ダイエー帝国に行くためにお昼すぎに下宿を出発した。
すぐに着く。
たしかに大きい。帝国では帝国オバサンたちがたくさん働いており…、 まあそれはいいとして、七階で電化製品がすこし安売りしていたので、 掃除機と照明(インバータの6畳用蛍光灯)を購入。 性懲りもなくカードで買ってしまう。
さて帰ろうと思ったら、自転車の後輪が意味もなくいきなりパンクする。 あまりに理不尽なので「事物の秩序に反している。自然法を侵害している」 とわめきそうになったが、これも冒険につきもののトラブルだと思い、 納得して押して帰る。都立大駅前の商店街に自転車があったので、 そこに自転車を預けて、代わりの自転車を貸してもらってとりあえず 家に戻ってくる。
某君から連絡。う。 しかるべきところにメールするのを 忘れていたようだ。ごめんなさい。
さっそく照明を付けてみる。うむ、文明の光だ。
(注: これまで勉強部屋には机に電球が一つあるだけだった)
眠い。
アマゾンから本が来る。 これもカードで支払ってるのでなるべくなら来てほしくないのだが。
眠い。
晩ごはん。鮭とえのきのニンニクバター炒め、 ホウレン草の電子レンジ炒め、みそ汁、その他。 冷蔵庫がほぼ空になったので、 明日は町に買い出しに出かけること。
夜から早朝まで爆睡する。なぜかここ数日、日の出とともに起きている。
大雨。大学に行くべきかどうか。
ローリング・ストーンズが来日したそうだ。 セイラ・マスの声優(井上遥)が死んだそうだ。合掌。 アルジェリアで旅客機墜落。合掌。
どうでもいいが、「テツandトモ」って「鉄腕アトム」と似てる気がする。 いや、音が…。
お腹が減ったのでうどんを食べる。
新聞。曾野綾子が、こないだ英国で体外受精のさい精子を取り違えた事件について 言及している。最後にいきなり「生殖産業は認められるべきではない」 と結論しているが、この「生殖産業」という呼称がくせものだ。
「産業」と言うと、あたかも子どもや精子、 卵子が売買されているような気にさせられるが、 実際に英国で起こったのは生殖補助技術における医療過誤であり、 売買があったわけではない。 あきらかに名称によって悪いイメージを植えつけようとする戦略だろう。
しかし、不妊が病気かどうかは争われるところだろうから、 「不妊治療」というのもやはり戦略的な名称だろう。 けっきょくは名称の争いということになるのか。 ただし、 議論のときにはこのような価値が負荷された名称に惑わされずに考える必要がある。 以上メモ。
新聞を読んだあと、不燃ゴミを出す。雨。どうしようかな。
やたらとお腹が減るので、こないだ人からもらったクッキーを食べる。 おいしいのでパクパク食べてしまった。
なぜか知らないが、3時間ほど爆睡していた。 昨夜はたいへんよく寝たはずなのだが。 遅くなったし某大学に行くのはあきらめる。
さて、某原稿を書かねば。
冷蔵庫の食べ物が底を尽いたので、買い出しに出かける。 外は雪になる寸前のような冷たい雨が降っており、 みじめな(miserable)気分になる。
某東急ストアへ。その前にこないだ眼鏡を買った某メガネスーパーに行き、 目がつかれる旨を伝えると、もう一度視力の測定をしたあと、 レンズを弱めのものに交換することになる。 レンズは日曜日に来るそうなので、日曜日の午後に行くこと。
ついでに某東急ストアに売っていた「目のリフレッシュメガネ」 というサングラスに穴がたくさん開いたようなものを買ってみる。 効くのかな。
買物。今夜は野菜炒めの予定。
あれ、『異議あり』って、 序章を読んだかぎりだと割とまともなことが書いてあるじゃん。 以下思いついたことをメモ。
「医療と環境をめぐる難問を解決する」(8頁) のが応用倫理学の役目なのかどうかはわからないが(と逃げを打つ)、 応用倫理学のインフレ傾向と、 それがあんまり役に立ってなさそうだという指摘は、 真剣に受けとめるべきだろう。
そもそも、こういった問題に対する倫理学独自のアプローチはあるのか? 「べし」と「である」の区別だろうか。 あるいは倫理学者は道徳的直観を磨く特殊な訓練を積んできたのだろうか。 それとも最大多数の最大幸福を測定する能力に優れているのか。 あるいは法学者が六法を引き合いに出すよう義務の一覧を列挙できるのだろうか。 たしかに倫理学を学ぶ者は義務、権利、徳、自律、直観などについて 何らかのことを学んできたかもしれないが、 それらがどういう風に倫理学独自のアプローチを形づくっているのかは、 今ひとつはっきりしない。
とはいえ、哲学の一部門としての倫理学は、 「『不倫』について常識的な議論以外に何が言えるだろうか」(14頁)と批判されれば、 やっぱり何か言えるんじゃないか、と言いたくなる。 たとえば、言葉のあいまいさを指摘したり、 「自然・不自然」「本能的」などの考え方の批判したり、 「法によって禁止されているから不正だ」という考え方を批判したりできるだろう。 自分の立場が普遍化できるのか、という話もできるかもしれない。 そういう意味では、 倫理学思考法の倉庫にはある程度在庫があると言えるかもしれない。
かつて何にでも「〜社会学的考察」とか「〜現象学的考察」がついていた 時代があったようだが、「応用倫理学は現実の具体的な諸問題を取り扱い、 現在では『何でもあり』という状況」(13頁)になっているというのは確かだろう。 倫理学は明らかにインフレなのだ(すでに破綻しているらしいが)。 こういう状況だからこそ、倫理学の方法論についてよく反省する必要がある。 そういう意味では、 この本が鳴らしている警鐘に倫理学を学ぶ者は耳を傾けるべきである。 とかいって。こんなことを書いてないでまず最後まで読もう。
ま、しかし、「倫理学者」などという大仰な看板を取り下げて、 「社会問題評論家」などと名乗って生きていくという方法もあるのかもしれない。
あ、一部のブラウザで日記が読めなくなっていたようだ。 すいません。
なぜか日本アカデミー賞の受賞式を見てしまう。たそがれ清兵衛が総ナメ (産経新聞)。 見てみるか。しかし、やたらにしょぼい授賞式だ。なぜなんだろう。
やたらに眠い。ネムイネムイ病再発か。
あまりに眠いのは栄養不足のせいかと思い、 お腹は減っていなかったがホウレン草と納豆などを食べる。
「吉岡美穂の髪の健康相談」。 もちろん、「吉岡美穂による髪の健康相談」という意味だろうが、 「吉岡美穂の髪に関する健康相談」という意味だったら…。
ユニクロ、英国で苦戦しているようだ (朝日新聞)。
『異議あり』を読書中。 「死んだら本人の意思がどうあろうと、臓器を取っていい」 という方向で論陣を張ることに決定。
岡本氏は臓器移植に関して、「ノンドナーカード制」に反対し、 臓器売買を完全に自由化することで臓器不足を解消せよと論じている。 問題点を二つ挙げる。
(1)「自分の身体は自分のものであって、 私たちは自分の身体に対して自己決定権をもっている。 この原理は放棄できない」(82頁)という断定的な主張だけで ノンドナーカード制を否定するのは性急にすぎる。 たしかに自己所有権テーゼは直観的に自明に思えるが、 「生きているあいだは自分の身体は自分のもの」という原理に変えても 個人的にはOKだと考える。必ずしも上の原理は自明なものではない。 また、ノンドナーカード制は、「意思を示さないかぎり、 臓器を与えることを了承したものとみなす」という風にも理解できるので、 必ずしも自己決定権を尊重していないことにはならない。 たしかにそのような制度は、 「人々の無知につけ込んで臓器を簒奪しよう」という風にも見えるかもしれないが (82頁)。
(2)臓器移植を完全に自由化し、 誰に提供するかなどの条件もドナーが決められるようにすると、 医療の公平性が失われる可能性があるが、 この点がまったく検討されていないのは無責任な提案である。 臓器移植を自由市場化したさいに考えらえるのは、 貧乏人だけが臓器を売り、金持ちだけが臓器を得られるようになることだ。
ただし、ある種の保険制度を作ることによって、 この問題は一面では解決できる可能性がある。 一面というのは、貧乏人でも保険に加入することで、 いざというときにドナーを確保できるということで、 その場合でも、ドナーになるのは貧乏人ばかりで、 金持ちはドナーにはならない可能性が高い。
今書いていて思ったけど、臓器売買が本当に自由化されると、 おそらくは保険ビジネスが成立するんだな。ひともうけできないかな。 なんていうと不謹慎だと言われるだろうけど。
もう寝よう。
イラク戦争に反対しているミュージシャンの一人、 ジョージ・マイケルがBBCテレビのトップ・オブ・ザ・ポップスという音楽番組の 収録をしたさい、 反戦のティーシャツを着れなかったといって怒っているようだ (CNN.com)。
また、 バックで演奏していた数名は`No War, Blair Out'(戦争反対、 ブレア首相は退場せよ)という ティーシャツを着ていたので、放映するときにそれが映っている部分をカットすべき かどうかが問題になっているそうだ。
BBC側は「トップ・オブ・ザ・ポップスは音楽番組であって政治番組ではない。 われわれが特定の政治的見解を促進していると思われては困る」 と言っているそうだが、ここでジョージ・マイケルに「音楽は政治的だ」 (Music is political!)とフェミニズムばりの主張をしてもらいたいところだ。
朝起きる。セサミストリートを見ながら朝食。トースト二枚、 フルーツ・ヨーグルト、リンゴ、コーヒー。洗濯もする。
昨夜、「『死んだら本人の意思がどうあろうと、臓器を取っていい』 という方向で論陣を張ることに決定」と書くと、 「そんなことを言う人間を生みだす倫理学には『異議あり』だっ」 という批判のメールが寄せられていたので、 以下のようなメールを書いて送った。
Subject: how much body does a man need (when he dies)?
おはようございます。
臓器移植についてはこないだからつらつらと考えているのですが、 人工臓器や(ブタなどからの)異種移植が進んでいない現状で、 提供臓器の慢性的不足を少しでも解消すべきだとすれば、 『異議あり!』の岡本氏が述べているように、臓器売買か [脳]死後のコントラクトアウト(提供したくないという 意思表示がなければドナーとみなす)あるいは強制的な査収しか ないように思います。岡本氏は臓器売買の自由化を支持していますが、 ぼくには後者の方がおそらく優れているように思われます。 まだ思いつきの段階なので、議論を詰める必要がありますが。
某氏もおそらく「自分の身体は自分のものであって、 私たちは自分の身体に対して自己決定権をもっている。 この原理は放棄できない」という身体の自己所有原理にコミット されているのではないかと思います。身体は自分と自分の家族の財産であり、 死んでもその処分は当人と遺族の意思によらなければならない、 という風に考えられているではないかと推測します。
しかし、相続税というものを考えてみると、人が死ぬと その財産を相続するさいに一部が税金として取られてしまうわけです。 これはもちろん税収の一つの源泉であるだけでなく、 財の公平な再配分のためにも必要な措置と言えます。 場合によっては不動産を取られてしまうこともあります。
こうした動産・不動産などの財産が相続税という形で 政府によって強制的に取られることを認めているので あれば、身体という財産も死後に強制的あるいは半強 制的に取ることを認めてもかまわないのではないでしょ うか。不要になった臓器はそれを必要としている人々に 再配分されるわけです。もちろん、全部取られることが 嫌な人(あるいは遺族)に対しては、臓器の1割だけを取る といった措置も考えられます。臓器を全部提供する意思が ある人には、何らかの税金の控除を考えることも可能かも しれません。
トルストイは「人はどれだけの土地が必要か」と問いましたが、 臓器移植に関しては「人は死後どれだけの臓器が必要か」と 問うことができるように思います。愛する人の臓器を取られる 遺族の苦しみはわかりますし、葬式のときにはなるべくきれい な形で遺体が残るように配慮すべきだと思いますが、現時点では、 臓器の公平な再配分を行なうためには仕方のないことではない でしょうか。 こだま
追記: うまく言えませんが、ぼくにとって倫理学とは、 一般に流布している死刑廃止論やボクシング存続論や 不妊治療反対論や産経新聞を批判するためのツールの ように思います。もちろん自分が持っている多くの 無反省な思考も自己批判しなければりませんが。
要は財産は相続税として一部持っていかれるのだから、 臓器も財産の一つとみなし、 少なくともその一部を税として持っていくことにしようという議論だ。 こないだから考えていたことが昨日ようやくまとまりはじめたところなので、 まだ荒けずりだが、この方向で一度発表してみたい。 おそらく気違い扱いされる気がするが。
ん、しかし身体を相続可能な財産とみなすとすると、 生前に売買することも認めることになるかな。 死後に税として取り立てることは許されるが、 売買の対象にはすべきでないと論じる根拠があるかどうか。 やはり市場原理で配分すると公平な配分がなされないという 理由で規制すべきか。 あるいは腎臓の売買などは弊害が大きくならないかぎりで原則許容すべきか。
お昼、某びっくり寿司本店に行く。たしかになかなかよい。
それから目黒通りを東進してダイエーまで足を伸ばす。 いろいろ物色したあと、都立のエクセルシオールで休憩、帰宅。 よい散歩になった(自転車だけど)。
上のメールについて、 某仙人がコメントしてくれている。 某仙人はあくまで臓器提供は慈善(不完全義務)であるという主張をされている ようだが、 国が運営する共済制度として義務化した方が有効かつ公平に機能するというのが こちらの主張。 所有権は不可侵とかたく信じている人が多いので、 しばらくこの「臓器と遺産相続」というアナロジーでがんばってみるつもり。 無理そうだったら撤回する :)
臓器が技術的に保存可能かどうかは置いておいて、 こういう制度だったらどうだろう。 オレが死ぬと、7割は自分の家族に身体および臓器を相続でき、 3割は強制的に相続税という形で徴収される。オレは遺書によって、 どの部分を妻や子どもに相続するか決めることができる。 遺族はそれを自分の臓器として使ってもよいし、 焼却してしまってもよいし、 遺産相続権を放棄して、寄付してもよい。 また、多くの臓器を公共の使用のために寄付する人には相続税の控除も認める。 医療資源の公平な配分という観点から、臓器売買は原則的に認めない。
(参考: 「臓器提供に対する報償制度についての考察」)
マターリとした土曜日。ほんとは勉強しないといけないんだけど…。
夜ごはんはシシャモ、海親子丼、その他。女子プロを見たりマイケルジャクソンを 見たりしたあと、風呂。マイケル・ジャクソンの論争は、言論の自由がちゃんと 機能しているよい例だなとか考えてみたり。ただし、あのように億万長者じゃないと マスコミに対して大規模な反論を行なうことは難しいだろうが。
臓器移植について他にもいくつかメールをいただいた。 臓器の国家による管理は共産主義だという話をもらったが、 まさにハリスのサバイバル・ロッタリーは共産主義くさい感じがする。 ベンタム流の功利主義がサバイバル・ロッタリーについて何というかは 興味深いところだが、おそらく所有権の安全を重視していたので、 このような制度は批判していただろう。
ただ、 相続税については自由主義の国でも税金集めのために行なっていることだから、 臓器の一部を相続税としてもっていくことについては、 共産主義的だとは言えないように思う。 コントラクトアウト(ノンドナーカード)に関しては、 この説明の方が町野氏の 「他人に臓器を与えるべく自己決定している存在」というものよりも 受けいれやすい説明になると思うが、どうだろうか。
とにかく眠い。
今日も朝に起きる。何が起こったのか。
朝食。新聞。ホットゾヌのアップデート版が出ていたので更新。
調べてみると、「死後の臓器に相続税をかけよ」という議論は 日本ではあまり見られないようだが、 「死後の臓器は遺産だから、臓器提供先の指定はできるようにせよ」 という意見はいくらかあるようだ。
しかし、遺産ならば相続時に税を取るという考え方ができそうだ。 英語ではあまり関連するサイトは見つけられなかった。 調べ方が悪いのかもしれない。
『異議あり!』、生命倫理学の部分を読む。たしかに 伊勢田さんが書評で書かれているように、 著者は中絶や臓器移植や安楽死やクローン技術などに関して まさに生命倫理学の枠内で議論しており、 書名は羊頭狗肉としか言いようがない。 自分が「自己決定」を尊重するリバタリアンな立場を貫こうとする生命倫理学の一つの 立場を取っているにもかかわらず、 批判相手をすべて「生命倫理学」と名付けているのは、 売れ線を狙っているにしてもかなり悪質な策略だ。 たとえば、 「その時、生命倫理学がどちらの立場に立つのか、 とても興味深い」(135頁)「こうした方向に対して、 恐らく生命倫理学も反対しないと思われる」(138頁) などの表現があるが、これらの表現はほとんど意味不明である。 「生命倫理学」を政党の名前か何かと勘違いしているのだろうか?
(いや、よく考えてみると、この「生命倫理学」という語は 婉曲的に某名誉教授を指しているという解釈も成り立つな。 そうなると、実はこの書名はもともと 『異議あり! 某名誉教授の生命・環境倫理学』 というものだったが、 ちょっとそれはまずいだろうというナカニシヤの某編集者の判断が働き、 タイトルから某名誉教授の名前が削除され、本文中の「某名誉教授」も すべて「生命倫理学」に変更してしまったのかもしれないな)
などと、ちょっと煽ってみるが、文章は非常に読みやすい。 伊勢田さんが指摘されているように、いろいろ矛盾したことを述べており、 あまり一貫した立場を貫いているようには思えないが、 (生命倫理学のところに関するかぎり)入門書としては秀逸のように思える。 アマゾン的には、 「あわせて買いたい: 加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』と 岡本『異議あり!』、どちらもおすすめ!」という感じだ。
放送大学。経済学史入門。重商主義(マーカンティリズム)。 重商主義はいろいろな意味があるそうだ。
古典派経済学によれば、 国家の富とは金(貨幣)をなるべく多く持つことだとする重金主義を信奉し、 また国家の富を増やす一つの方法は貿易差額を黒字にすればよいと考えている。 が、貨幣数量説からすると、このような立場は物価の上昇を招き、 結果的に輸出量が減ってしまうので、矛盾していると言える。
貨幣数量説: VM=PT (M=貨幣の量、V=貨幣の流通速度、P=物価水準、T=総産出量)
マルクスによれば、重商主義者のジェイムズ・スチュアートの『経済学原理』 (1767年)は原始的蓄積過程の経済学を唱えている点で優れている。
重農主義。ケネーの『経済表』。 古典派的には自由貿易を推奨する点で優れているが、 『経済表』に利潤の説明がないのが問題。とかなんとか。
お昼、自由ヶ丘駅前に行き、こないだ教えてもらった某韓国料理で昼を食べる。 それから某喫茶店でしばらく勉強したあと、 眼鏡のレンズを交換してもらい、買物を済ませて帰宅。
ちょっとうつらうつらしてから、夕食。 エビとレタスのガーリックソテーという産経新聞に載っていた難易度中の レシピを試してみる。まあまあ。
夕方、アマゾンからまた本が届く。なぜか最近は注文したらすぐに届くな。
寒い。眠い。
起きる。今日は新聞がない。
サダム・フセインを放逐するために、 日本国民は一人あたま1万6千円払わないといけなくなるそうだ。 (米国が日本政府に160億ドルの資金を要求している)
「2人とも仕事が忙しいので、子どもの世話や家事で必ずいさかいが起きる。 私も彼も充実した仕事と幸福な家庭を両立したいから、 政府がいくら奨励しても子どもはつくらない」 (朝日新聞)。
「少子化を危惧して子育てを政府ぐるみで支援しているシンガポールでは、 必ずしも若者が政府に干渉されることを喜んでいないという話です。 あたりまえですけど」
「しかしだな、 たしかに愛する二人が仕事と家庭を両立して幸せな家庭を築くことも大切だが、 その二人が死んだあとは国が滅んでもかまわないというのは無責任じゃないのか。 個人主義の悪い面が出ているというか」
「けど、他の女性が『恋とか何とか心の問題を言うより、 結婚や出産を財政的に支える制度を増やしてほしい』と言っているように、 現在のカップルにとっては昔とくらべて育児の負担というか犠牲が大きいんでしょう。 税金に喩えるなら、いわば出産税が格段に増えたので、 消費を控えているというわけです。また、避妊手段が昔よりも確実になったので、 計画的に出産するようになったから、やはり昔と比べて出産数が減るのも しかたない気もします。 だから、 過去のカップルに比べて個人主義的になったとは必ずしも言えないんじゃないですか?」
「たしかに政府は育児にかかわる経済的障壁を下げる努力をすべきだな。 しかし、やはりエートスというか時代の風潮というものがあって、 ケネディの`Ask what you can do for your country'という精神が失なわれている のではないか。共和主義が『市民的徳』ということを強調しているようだが、 結婚と出産も市民的徳の一つとして数え入れるべきではないのか」
「わ、産経抄みたいなことを言いますね。朝日の講読者に総すかんをくらいますよ」
ラジオを聴きながら、ボクシングについてウェブで調べたり。腹減った。
某勉強。自立の重要性についてすこし考える。
うどん。うどんを食べると体が熱くなりませんか。
リスボン行きの航空券をようやく予約。 しばらく外国に行ってないからなんだか恐いなあ。 準備もしないといけないし。
ちょっと近くに買物に行く。せっかく早起きしたのに、一日が過ぎるのが早い。