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こだまの世界

2001年5月下旬号

ときには〆切を守れないこともあります。 その場合、深刻な結果が待ち構えている かもしれませんし(待ち構えていないかもしれませんが)、 あなたはその結果を受け入れないといけない かもしれません(受け入れないかもしれませんが)。 けれども、 さまざまな状況において〆切を守ったり守らなかったりしてきた人間の一人として、 わたしは正直に言うことができます、 「〆切を守らないことが致命的であることはめったにない」と。 あなたの仕事よりもずっと大きくて深刻な仕事の スケジュールが遅れた例--たとえば英仏海峡トンネル、北アイルランド和平協定、 あるいはミレニアム・ドーム--を考えて元気を出してください。 なんとも恥ずかしく、憂鬱で、また損害も大きいですが、 致命的ではありません。

`Day of the deadline', in The Guardian (Officehours), 21/May/2001.

メティリウスが死んだのは彼の母親が悪人だったからではない。 また母親が善人であるのに彼が死んだからとて、 世界が不公平であるわけでもない。 彼の死は、セネカの考えでは、運命の女神の仕業であり、 この女神はけっして善悪の裁判官ではないのだ。 彼女は申命記の神と違って犠牲者たちの価値を考慮しはしないし、 また功績に応じて報いたりすることもない。 彼女は吹き荒れる風のごとく善悪とは無関係に害悪を与えるのだ。

---Alain de Botton, The Consolations of Philosophy,
Penguin Books, 2000, p. 94.


主な話題


21/May/2001 (Monday/lundi/Montag)

夜明け

ああ、もう夜明けだ。週末はハートの勉強をするだけで終わってしまった。 しかもまだ法哲学のエッセイの計画が立っていない。現代政治哲学も。ああ。

お昼すぎ

お昼に起きる。土曜日の新聞がまるまる残っているので、 それを読んでから勉強せねば。うう。

パンを買いに行くついでに近くの古本屋に行くが、 お金がないので何も買えなかった。うう。

夕方

勉強はかどらず。 天気がよいので散歩がてらトッテナムコート通りまで歩く。


22/May/2001 (Tuesday/mardi/Dienstag)

真夜中

勉強勉強。

ガーディアンが三日連続で難民(移民)問題の特集をやるみたいだから、 実態を知るためにちゃんと読もう。

真夜中2

う〜ん、やっとマコーミックのH.L.A. Hartを(だいたい)読み終わった。 いろいろ考えた結果、 法哲学のエッセイは一昨年の関倫の口頭発表を敷衍したものを書こうと思う。

あとは現代政治哲学のエッセイだな。ああ、〆切までもう一ヶ月くらいしかない。

夜明け

げ、一昨日のハイドパークのジャパン・フェスティバルに 日本の某皇太子が来たという話は聞いていたが、 チャールズ皇太子といっしょに阿波踊りを踊っていたらしい。

奴隷制: 犯罪か悲劇か

今年9月に南アフリカで国連主催の人種問題その他に関する 国際会議が開かれるらしいが、 それに先立つミーティングでいろいろ問題が起こっているようだ。
(`Britain accused over slave trade', The Guardian, 21/May/2001)

たとえば、インドはカースト制度については議題に上げてくれるなと頼んでいたり、 中東の国家はパレスティナ問題を会議の中心課題にしたいと頼んだりしてるらしい。

中でも問題なのは奴隷制で、この問題が議論になることは間違いないが、 アフリカ諸国が奴隷制を「人道に対する犯罪」と呼びたいと 提案していることに対して、 欧米諸国が待ったをかけている。補償問題がからんでいるからだ。

もちろん西洋諸国は、現在の国際的な人身売買について「人道に対する犯罪」 と呼ぶことにやぶさかではないが、 奴隷制度を「犯罪」と呼んでしまうと、 過去の罪を認めることになり、補償金を払うなり 第三世界の借金を帳消しにするなりの償いをする必要が出てくる可能性が出てくる。

そこで英国などは「奴隷制度は当時は合法だったから、犯罪にはなりえない。 また、国際法に遡及的措置を行なうのはおかしい。 したがって「犯罪」とは呼ばずに「人類の歴史における恐ろしい悲劇」 と呼ぶべきだ」と主張している。 (だったら「奴隷制は犯罪であるが遡及的措置は行なうべきでない」 と主張すればよさそうなものだが、そういう議論にはならないようだ)

他のヨーロッパ諸国も、過去の奴隷制について言及しないかぎりにおいて、 現在の人身売買を「人道に対する犯罪」と呼ぶ用意があると述べている。 米国にいたっては、補償問題が議論になるなら、 会議の費用を出さないと脅しをかけている。

「この議論はあれですね、ニュルンベルク裁判の時とはまったく逆の議論に なってますよね。 あのときは思いっきり遡及法を適用してばんばん有罪宣告を出していたのに」

「まあ、罪を認めてしまうと莫大な補償金を払うことになりかねないからな。 利害がからむと筋も道理もないんだろう」

「しかし、日本が『従軍慰安婦は当時は合法だったから、 犯罪にはなりえない。したがってあれは犯罪ではなく悲劇だった。 悲劇であるからには補償する必要はない』とか言ったらどうなるでしょうね」

「そりゃ、国際世論によってこてんぱんにやられるだろう。 英国や他の欧米諸国がこんな傲慢な態度に出れるのも、 やはり先進国と発展途上国の力の差だろうな」

「これもデモしなきゃいけませんね」

お昼すぎ

お昼前に起きる。

昼食は昨日買ったフランスパンの残りと、インスタントスープとリンゴ。 最近はあまり外食せずにこの手の昼食をとっている。 時間とお金の節約(のつもり)。

夕方

法哲学の授業に出てきた。 ニュルンベルク裁判とピノシェ裁判をネタにした国際法の話。 ちょうど「人道に反する犯罪」として国際的に確立されている 拷問について問題になっていた。

授業の前に、銀行に行き預金をし(学振のお金が入った)、 大学の図書館でベンタムの授業関係のコピーをした。

日記の整理。 書くのを忘れていたが、ベルルスコーニ率いるForza Italiaは選挙で圧勝。 また、一夫多妻を実践していたかどで訴訟になっていたモルモン教徒は、 四つの重婚罪で有罪の宣告を受けた(上訴するのかな?)。


23/May/2001 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

真夜中

Virtuosity

勉強する予定が、ついついテレビでやってたVirtuosityを 見てしまった。しかもポテトチップス(crisps)を食べながら!

だ、堕落だ。

しかし、こんなところにもラッセル・クロウが出ているとは。 それなりにおもしろいが、B級SF映画の感はまぬかれない。C。

悪の構想

「がああっ」

「きみきみ、何を暴れてるんだ。こら、机をかじるのはやめなさい」

「ほっといてください。この国は自由な多元主義的社会なんですから、 何をやってもぼくの勝手でしょう。 ぼくはぼくの悪の構想を自由に追求しているだけです」

「悪の構想ってなんだ。善の構想だろう。 きみ、よだれを垂らすのはやめたまえ」

「いや、これはぼくにとってもっとも下劣で卑しく下等な生き方なのです。 しかし、人生において実験を行なうために、 ぼくはこれから悪の構想を追求することにしたのです。うが、がああっ」

「きみきみ、足の小指を机の角にぶつけるのはやめなさい。痛いだろう」

「ほ、ほっといてください。うが。ぎゃ、ぎゃああっ」

「まあ、善の構想でも悪の構想でも、正義に反しないかぎりは、 すなわち他人の自由を侵害しないかぎりは好きにしてくれたらいいけど」

「いや、ぼくはこれから自由原理を侵害することを悪の構想とし、 これを追求することにします。しし、死ね死ね」

「わ、やめろ。く、苦しい」

「しし、死ね死ね」

「い、息が。だ、だれか助けて…」

「しし、死ね死ね。あ、死んだ。 よ、よし、さらに悪の構想を追求せねば」

裁判所にて

「はい、じゃあきみ、死刑。これにて裁判おしまい」

「え、裁判官、なななんで死刑なんですか。 ぼくはただ悪の構想を追求していただけなのに」

「だってきみ、人を殺したじゃない。自由原理を侵害しないかぎり、 何をやろうときみの勝手だけど、 他人の自由を侵害したら法がだまっていないわけで」

「そんな。そもそもなぜぼくが法にしたがわないといけないんですか。 現に同意した覚えもないし、 夢の中で同意した覚えもないし、仮説的にも同意した覚えはないのに。 ふ、不正だ。このうえもない不正だ」

「なにをたわごとを。 きみが同意しようがしまいが現に世界が存在するように、 法も裁判所も絞首台もやはり存在するのだ」

「そ、そんな。おかしい。 自律した人間の同意なしに強制的に死刑が執行されるなんて。 ここは自由主義社会じゃなかったのか。全体主義国家だ。助けてオーウェル」

「なにを言ってるんだか。次に生まれてきたときは、 もうすこしきちんと政治哲学の勉強をすることだな。 ほらほら、ソクラテスのようにおとなしく死にたまえ」

「え、そんな。もう死刑台が用意されているなんて。 こ、ここは某共産主義国か。あ、そそそんな。あ。あ。いや、 ちょ、ちょっと待って。話せばわか。ぐえ」

ひさしぶりに早起きする。新聞をすこし読んでから朝食。

中国ではものすごい数の死刑が執行されているらしいが (政府の発表がないので正確な数は不明だが、 中国に滞在しているある外交官の話では4月に800人あまりが処刑されたということ)、 それよりもすごいのが死刑宣告から執行までの短かさ。 裁判所を出て市内をひきまわされ見せ物にされたあと、 一般市民には見えないが音は聞こえる場所で銃殺されるらしい。 この間の所要時間は約15分。

誤判の心配がなければ、非常に効率のよい司法機構で、 死刑に反対だったベンタムもその迅速さを誉めると思うが、 しかし、これだけの数の人間が毎月死刑になっているとすると 誤判の数も少なくない気がする。そのうちもうすこし調べてみよう。

お昼すぎ (晴天)

今日のベンタムの授業は、学生が二人しか来なかったため、 中止になってしまった。A・V・ダイシーの話だったので、 楽しみにしてたのに。

く、くそ。

時間があまったので、大英博物館そばの古本屋まで足を運ぶ。 寮に戻る途中、もう一軒の古本屋にも立寄る。

貨幣制度とアイデンティティ

「ポンドをやめてユーロにするのは、 英国のアイデンティティを捨てることだ」という考えは、 サッチャー元首相から食堂のおばちゃんまでが共有する発想だが、 英国の保守性ここに極まれりという感じで、 伝統を重視しないおれのような人間にはほとんど理解できない。

度量衡の単位の変更についても同じように言われていた。 華氏から摂氏に変更したら、どういう意味で英国らしくなくなるのか。 体重を計るときに、9ストーンと呼ぶのをやめて、 60キロと言うと、伝統が失なわれてしまうのか。

英国は20シリング=1ポンドというわかりにくい制度を1971年まで続けていたが、 それを廃止することによって英国らしさが変更されたのだろうか。

「円をやめてドルを採用するかどうか」という議論が日本で起こったら、 やはり同じような論点が出されるだろうか。

もっとも、言語についてはこの議論が出るのは十分理解できる。 言葉がそれを話す人々や社会関係に大きく影響を与えることは否定できない。 例を挙げるまでもないが、 「わたし」「おれ」「ぼく」「おまえ」「あなた」 など人称代名詞を場合によって使いわける日本語から、 性別年齢にかかわりなく`I'と`you'で済ましてしまう英語に変更したら、 日本人の上下関係や男女関係の考え方が変わるのはまちがいない。

しかし、 メートル制や貨幣制度によって国民性が変化するというのはほとんど考えられない。 たしかに、 ことわざや文学においてこうした貨幣や尺度の単位が重要な役割を果たしてきたことは 十分に考えられるが、日本語で「びた一文ない」という表現を守るために、 文から円に変えるのは反対だとか、 円からドルに変えるのは反対だとか言うのは、 まったくわからないわけではないにせよ、 強力な主張であるとは思えない。 第一、円やドルに変更しても「びた一文ない」という表現は失なわれるわけではない。

アイデンティティとか言うよりも、 ポンドが強いせいで不況に陥っている製造業(とくに自動車)のことを考える べきではないのか。わけのわからない理由を持ちださないで、 あくまで経済的利益の視点で議論すべきだ。

「あれ、なんか出来の悪い社説みたいなことを書いてしまいました」

「くだんないこと書いてないで、図書館に行って勉強したら?」

「はい、そうします」

夕方 (晴天)

ちょっと昼寝したあと、図書館に来る。 勉強のためというよりは、ネットで調べものをしたり本を注文したりするため。

デヴィッド・ベッカムがモヒカンにしたらしい。
http://news.bbc.co.uk/sport/low/english/football/world_cup_2002/newsid_1347000/1347477.stm

わ、ポンドがひさしぶりに171円台まで下がっているようだ。 円高ユーロ安から円全面高になったらしい。
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/keizai/20010524k0000m020182000c.html


24/May/2001 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

真夜中

う。新聞を読んでいたら日付が変わってしまった。

昨日の夕食後に、すこし散歩し、ディケンズ・ハウスを発見する。 寮のすぐそばにあるのだが、まだ行っていない。そのうち見学に行こう。

大学の授業料について

現在英国で議論になっている大学の授業料を無料にするかどうかという問題は おもしろい話題だと思う。

以下、この問題について思いつくままに書いてみた。 暫定的な結論はこうである。 「大学の授業料は無料にすべきでなく、親が払うべきでもない。 大学に進学する学生は国家から借金をし、 卒業後に就職してから徐々に返済するという制度が望ましい」。

まず、授業料を有料にするか、無料にするかという区別が立てられる。 先に授業料を無料にする場合を考えよう。

もちろん授業料を無料にするといっても、 誰もお金を払わないと大学教授はそのうち餓え死にしてしまうので、 この場合、所得税や消費税などの税金でまかなうことになる。 こうすると、貧乏人の子供にも機会の均等は保障され、 またみんなで仲良く犠牲を払うので各自の負担が軽くなるという利点があるが、 学生や学生の親は大きな利益をこうむるのに対して、 大学とかかわりない暮らしを送る人々は見返りのない投資を強いられることになる。 (もちろん、近くに学生寮ができてコンビニに立読み客が増えたり、 原子力発電の研究が進んで家の近くに原発ができたりするという 間接的な利益はあるだろうが)

次に、授業料が有料の場合は、学生の親が払うのか、学生本人が払うのか、 という区別が立てられる。

親が払うとすると、 授業料が高いと貧乏人の子供は機会の平等を保障されないわけだから、 これをなんとかしないといけない。 親の収入に応じて授業料をスライディングスケール方式にすると この問題はある程度解決できる。 もっともこうすると、金持ちの親が余分に負担することになるので、 金持ちには不評だろう。 しかし、授業料を無料にしてもけっきょく所得税その他から 運営費が拠出されるわけだから、金持ちにとってはまあ似たようなものである。

ただし、所得税から取る場合と違って、 この方式だと子供がいなかったり、 いても大学に行かなかったりする世帯は、 他人のバカ息子や放蕩娘の学費を払う必要がないという利点がある。

他方、子供が払うとすると、18才にしてすでにITビジネスかなにかで一財産 築いていないかぎり、どこかから借金をすることになる。 したがって、大部分の学生は、大学を卒業後に就職してから借金を返済することになる (もちろん、 高校を卒業後いったん就職してお金をためてから進学するという手もあるが、 この事例はとくに問題ないので省略)。

この場合、後払いという形ではあるにせよとにかく自分で学費を払うので、 親が金持ちか貧しいかに依存しない。 したがって、授業料無料の場合と同様、機会の均等が保障される。 さらに、 自分の高等教育は自分の責任で行なうという制度は、 自律あるいは自己責任という価値からしても望ましいように思われる。 この場合、親が裕福な場合でも、自己責任という価値を促進するために、 学生は借金をすることが望ましいことになる。

一つ問題なのは、いつ借金を返すかということで、 国家が金貸しになっている場合はこの点を考える必要がある (サラ金関係に金を借りてしまった場合は、 借金をいつ返すかは金貸しの方が決めることだから考えても無駄である)。

就職したとたんに借金の返済が始まると、 多くの場合はあまり多くない初任給から取ることになり、 結婚出産を控えて貯金をしなければならない若者にとってはつらい話である。 かといって中年から始めると、 子供の教育や老後の心配がある中年にはつらい話であり、 老年から始めると、わずかな年金から(以下同様)、ということになる。

人生の中でお金に比較的余裕があるときに返す、 という風にすることもできるが、 こうすると死ぬまで払わない連中が続出するだろうからだめだろう。

となると、就職後、退職まで徐々に払うというのが妥当で、 はじめのうちは返すお金の額を低く押さえておき、 給料が上がるにつれて返済するお金も増やすことにすれば それほどつらくないだろう。また、短期間で返済した方が利率が低くて 済むようにすれば、さっさと返す人も増えて国家は助かるだろう。

というわけで、結論は、 「大学の授業料は無料にすべきでなく、親が払うべきでもない。 大学に進学する学生は国家から借金をし、 卒業後に就職してから徐々に返済するという制度が望ましい」 ということになる。

オーストラリアは今述べた形に近いという話を聞いたが、 ちゃんと調べてみないといけない。 米国は大部分が自己責任制度みたいだが、 若いときに借金を返済しないといけないようなので、 多くの学生は就職したあと苦しい日々が続くようだ。 ドイツは文化の発展という形で全員に見返りがあると信じているのか、 留学生まで無料という方針を貫いているようだが、 不公平感はないのだろうか。 (ここらへん勉強不足なので要修業)

英国は授業料を親が払うのが普通なので、 貧乏人の子供が機会を奪われているという主張がよくある。 しかも、貧乏人の多くは借金をするのを嫌がるので、 ますます子供は大学に行けない、という事情もあるようだ。 このケースはちょっと難しい。借金に大きな不名誉が伴う社会においては、 授業料は無料にした方がいいのかもしれない。あるいは「借金」 という呼び方をやめて、「足長おじさん制度」と呼ぶとか。

日本は公立大学でも授業料が高く、日本育英会の存在を考慮に入れたとしても、 基本的には親がまかなう、という発想で運営されているようだ (税金からもかなり拠出されていると思う。ここも要修業)。 貧しい学生には授業料免除などの形で救いの手が用意されているとはいえ、 学生の自己責任システムにした方が親の負担が減るし、 子供の自立も(おそらくは)促進されて良いと思われる。 ただし、いきなり制度の変更をした場合、 学生に貸すお金をどうやって用意するのかという問題が出るので、 それを解決する必要がある。(自○隊を廃止すればよいかもしれない)

「またまた適当なことを書き散らして」

「いや、すいません。おもしろいのでつい下調べもせずに書いてしまいました。 そのうち先行研究をきちんと調べてみたいと思います。 現代政治哲学のエッセイにできたらいいんですけどね」

「ちょっと議論が実践的すぎるので無理だろう」

「そうですね。 自己責任という理念を現実にどう適用するかという問題ですからね」

「またまた偉そうなことを。なあにが自己責任だ。なあにが」

「なんですか、その言い方は」

「だってきみはいつも授業料免除してもらってるので、 無料で高等教育を受けているだろう。 育英会の借金もどうにかして払わないで済ませたいと思ってるくせに。 国民の血税でくだらんこと書き散らしてるくせに、なあにが自己責任だ。なあにが」

「あ、それはアドホミネムです、人身攻撃で反則です。 それに、今後ちゃんと社会に貢献するようにします。忘れたご恩は返しません、 あれ、ちがう、借りたご恩は忘れません」

「なあにが。なあにが」

(追記)

真夜中2

わ、変なことを書いていたらすっかり遅くなってしまった。やばい。

ポンドがどんどん下がって、ついに168円台になっている。 明日もうすこし両替することにしよう。

ガーディアンの調査によると、英国の哲学科(学部生)のランキングは、 一位LSE、二位ケンブリッジ、三位キングズコレッジロンドン、 四位ウォーリック(Warwick)、五位UCLだそうだ。 また、法学部は一位から順にSOAS、LSE、オックスフォード、ケンブリッジ、 UCLとなっている。くわしくは以下のURLを参照のこと。

http://www.EducationGuardian.co.uk/universityguide

朝起きて朝食。眠い。

昼下がり(晴天)

午前中は図書館でコピー。14ポンドも使ってしまった。1枚5ペンスだから、 280枚コピーしたことになる。ひゃー。

それから古本屋に行き、思う存分本を買ってしまう。50ポンドちょっと。ひゃー。

今日はボブ・ディランの60才の誕生日らしい。

大学の授業料について(追記)

図書館で調べたところ、 1998年にOECDが出した本に、先進国での教育事情の比較が行なわれていた。

それによると、大学の運営費に対して個人(household)の負担する割合が もっとも大きいのは 韓国(6割)、日本(5割)、米国(4割)で、オーストラリアやフランスは一割強、 そしてデンマーク、オーストリア、ギリシアなどはほぼ完全に政府が支出している (なぜかドイツのデータはない)。 日本と米国は政府が5割近く資金援助しているが、 韓国の場合は、その他の個人的財源(たとえば、勤めている会社による資金援助) がさらに2割をしめており、大学の運営費に対する国家の支出は2割以下となっている。

英国では1998年から大学生が年に1000ポンド授業料を払うことになったようだ。 (すくなくともロンドン大学はこの制度を取っている。 しかし、オックスフォードとかもそんなに安いんだろうか) これには、入学者数が増えて政府の援助だけでは間に合わなくなっているという背景が あるようだ。

現在のところヨーロッパでは政府が大学の運営費をまかなっているところが大半だが、 OECDのまとめによると、生涯教育の発展に伴い、 社会人学生やパートタイマーの学生が増えていること、 政府援助型あるいは親の負担型から自己負担型に移行しつつあるそうだ。 (A preliminary conclusion is that many students are investing resources in their own learning, and may well become more effective learners as a result of having this financial stake.)

Source: OECD, Education Policy Analysis 1998, Center For Educational Research And Innovation, 1998.

夕方

すこし寝てから夕食を食べた。

勉強勉強。


25/May/2001 (Friday/vendredi/Freitag)

真夜中

読むべき本が部屋にあふれている。新聞もあるし。 やっぱ速読術を身につけないとだめなのかなあ。

「それよりも、 読むべき本と読まないでいい本の見分け方を学んだ方がいいんじゃないの。 テレビを見ない方法とか、ウェブ日記を回覧しない方法とか」

タバコについて

奥田くんの「「タバコ問題」の倫理学的検討──グッディンの喫煙論」 を読んだ。読みやすく、よくまとまっていると思う。 喫煙家の人々はきちんと反論するようにしてほしい。 おれは喫煙家ではないので、すこしだけコメントを。

はっきりさせないといけないのは、 自己に対する危害と他人に対する危害のそれぞれの議論によって、 法的な喫煙の禁止がどこまで正当化されるのかという点だと思う。

もちろん両方の考慮が重なることにより、 嫌煙派はより強力な議論ができるのだと思うが、 とくに他人に危害を与えない場合、 すなわち(1)胎児もいないし、(2)(3)部屋に閉じこもっているので、 あるいはニコチンガムかニコチンパッチなので、 他人に煙を吸わせる可能性がない場合は、 自己危害の議論は政府による禁止その他の政策をどこまで正当化できるのだろうか。

たとえば、タバコは若いときから始めるので同意がなりたっていないという議論は、 酒にもあてはまるように思われるし、 ボクシングと同様、 禁止すると地下に潜行するというマイナスの帰結を指摘する議論も出るだろう。 自由主義者なら、「おれはよくよく考えた末、 二十になってから人のいないところでタバコを吸いはじめた。 今後は、人生がすこし短かくなっても、 保険料を余分に払ってでもタバコを吸いつづけたい」 という善の構想を持つ人に対して、(英国のように)重い税金をかけたり、 法によって禁止したりするのは、政府による余計な干渉なのではないか、 と言うんじゃないかと思う。 ここらへんは、 酒やマリファナなどの議論と比較しながら さらに議論を洗練させる必要があると思う。

個人的には、 自分の部屋でタバコを吸う行為まで根絶やしにするのはたいへんなので、 タバコの自己危害は自由主義社会においては許容できる危害として 認めた方が良いと思う。 公共の場での喫煙だけ法的に禁止して、 あとは社会的圧力にまかせたらいいのでは。

そういえば、英国の重いタバコ税はどういう正当化がなされているんだろうか。 他人事なのでいままで関心がなかったが、そのうち調べてみよう。 (たぶんbbc.co.ukでサーチをかけたらいろいろ出てくると思う)

お昼前

朝起きられず。朝食を見逃す。

ラベンダーがどんどん成長している。 まだ花は咲いていないのだが。

これは約一ヶ月前に撮った写真。 ほとんど別の植物のようだ。

まず昨日の新聞を読んでから勉強をしよう。

お昼

マンチェスターでトップレスモデルが立候補したらしい。 34FFというのがどのくらい大きいのか知らないが、 豊胸手術をしているらしく、 その彼女の公約がけっさくで、 「より大きい、より良い未来のために」 すべての人に無料で美容整形を保証するんだそうな。

夕方

新聞を買いにでかけたら、つい古本まで買ってしまう。 もうしばらくは古本屋に行かないこと。

ひさしぶりに外食。パスタ。 おおむねまずい寮食の中でもとくにパスタはそれはもう地獄のようにまずいので、 チェーンのイタリア料理屋のふつうのパスタでも涙が出るほどおいしい。

夜中

BBCのニュースで、昨夜イスラエルで起きた、 披露宴の最中にダンスホールの底が抜ける映像を見る。 あまりにおそろしい光景に思わず鳥肌が立った。

さいわい新郎新婦は助かったらしいが、 お祝いに来た友人や親戚が死んだショックを克服するのは至難だろう。 なんとも気の毒な話だ。


26/May/2001 (Saturday/samedi/Sonnabend)

夜明け前

あ〜、またなんか別の勉強をしていた気がする。 脱線しないように気をつけねば。

お昼

お昼前に起きて昨日の新聞を読みだす。

昼食を食べたら法哲学のエッセイの準備を始めなければ。

昼下がり

昼食。まずい。

エルヴィス・プレスリーが、 一度エルヴィスそっくりさんコンテストに出たところ3位だった、 ていう話はほんと? これ、おもしろいなあ。

夜中

勉強はかどらず。

夜、友人とスクワッシュをする。


27/May/2001 (Sunday/dimanche/Sonntag)

真夜中

やっと法哲学のエッセイのプロポーザル(のようなもの)を書いたので、 この授業を総括している先生にメイルで送った。

この先生はいつも忙しくしているし(友人がアポイントメントを取って エッセイの相談に行ったところ、2分しか会えなかったと言っていた)、 気むずかしい顔付きをしているから恐いのだが、 さっさと指導教官を決めないとたいへんなことになるので、 見切りをつけてメイルした。

はじめはドゥオーキンのLaw's Empireあたりで書こうかとも思ったが、 この領域できちんとした論文を今後書くことは(おそらく)なさそうだし、 しっかり検討する時間もないので、 以前関倫で口頭発表したベンタムの自然権論批判について、 ハートの法理論を踏まえつつ、もう一度きちんと検討するつもり。 納得の行くものが書けたら関倫かどこかに投稿しよう。

あと25日以内に3本のエッセイを書かないといけない。やばい。 考えただけで背筋を冷たいものが走るが、逃げるわけにもいかない。 これを出さないと予定しているイタリア旅行に行けないので、 気合いを入れてやろう。自愛の思慮、自愛の思慮。

というわけで、今日は現代政治哲学のエッセイのテーマを決めること。

お昼前

なんとか起きる。 もうすこし早目に寝て、 早目に起きるようにしないと体調をくずしそうだ。

まず昨日の新聞を読もう。

よひ

新聞をよんだひ、昼寝をひたひ、ゆうひょくを食べたひひてひるほ、 はっとひうまひ夕方ひなてひまふ。

ともだひひ誘わへたのへ、すくわっひゅをひたとこほ、 つひつひ壁にげきとふひてひまた。 右目のよこの部分から壁につこんだのへ、 かたひめがねのフレームがゆがみ、 ほほぼねをひこたまうちつけてひまた。

死ななひとはおもふが、ひつようひょうけんとひゅうぶんひょうけんの 区別ができなくなたかもひれなひ。どうひよふ。


28/May/2001 (Monday/lundi/Montag)

真夜中

現代政治哲学のエッセイ

「さて、現代政治哲学のエッセイのテーマを決めるか。 ええと、先生がくれたエッセイクエスチョンはどこにあったかな、 あ、これだこれ。

「さて、どれにすべきか。『問1、ノージックのウィルト・チェンバレンの例は 重要な意味を持つか』。パターンによる配分理論(「功績、必要、 その他に応じて配分するという理論)は全部だめで、 歴史的な権原理論(正しい手段で獲得したものは自分のものという理論) じゃないとだめというやつだな。おもしろくないのでパス。

「『問2、完全自由主義者はわれわれがいかにして個人の私的所有権を持つに いたるかを示すことができるか』。 ノージックはロックの労働所有論を批判しているが、 代替理論をはっきり提示してないというやつだな。 これもあんまりおもしろくないのでパス。

「『問3、課税は「強制労働に等しい」か』。これはけっこうおもしろい 問題だよな。週5日働いて所得税が4割だとすると、月曜日と火曜日の かせぎ分はいやがおうでも国家に吸いとられるわけだから、月曜日と火曜日は 強制労働させられているとも言えるわけだ。しかしあんまり書くことも なさそうだし、パス。

「『問4、資本主義は自由を最大化するか』。これはよくわからんな。 ノージックは…(約20分ほどジョナサン・ウルフの『ノージック』の 翻訳を読む)…マルクスの資本主義批判(労働者の疎外、搾取)を批判しているのか。 しかし、話が抽象的になりそうだし、たいしたことも言えそうにないからパス。


「ああ眠い眠い。次。『問5、ロールズは「原初状態」 によって何を意味しているのか。 原初状態における知識と無知の条件についての彼の説明は正当化されるか』。 原初状態は国家の正当性を自然状態における同意に求めるための装置ではなく、 社会を運営するための公平な基本原理を決めるために便宜的に使われる手続的装置 だとかいうやつだな。共同体主義によるロールズの人間観の批判なんかを 書くといいんだろうけど、 これもあまり興味がないのでパス。

「『問6、ロールズの正義の二原理は原初状態において選ばれるか』。 格差原理が問題になるやつだな。マクシミン戦略が合理的かという議論。 これもあまりおもしろいことを言えそうにないのでパス。

「『問7、「ロールズの正義の二原理は一貫していない」。議論せよ』。 所得の再配分を認める格差原理と自由原理が相容れない、 というノージックやサンデルの批判かな。 一貫しているという議論をするのも面倒なのでパス。

「『問8、ロールズは仮説的契約は効力を持たないという批判に対して どう答えるか』。あれ、これは問5と同じ内容になるな。 問5の理解が間違っているのかな。しかしやはり、 ドゥオーキンの『仮説的契約は現実の契約を薄めたものではない。 それはまったく契約ではない』という議論に対して、 原初状態は正義の原理を決めるための思考実験的装置だから、 契約の効力を得るとかそういう話ではない、と議論をすればいいんじゃないかな。 これももう話が尽きている気がするのでパス。

「『問9、ロールズは議論を進めるにあたって社会の成員が健常であることを 仮定している。障害者がいることを認めた場合、どういう問題が生じるのか。 ロールズの手法はそのような事例まで拡張できるか』。 あ、これはおもしろいな。 お金などの基本財を配分するだけではだめで、 センのcapability approachとかを考える必要があるとかないとかいうやつだな。 だいぶ勉強しないといけなさそうだが、センも勉強したいので、 候補に残しておこう。

「『問10、ロールズの格差原理は公平か』。これはよくわからんな。 金持ちには不公平な原理だとか、 どういう人々がworst-offかを決めるのが難しいとか、そんな話なんだろうか。 パスパス。

「『問11、「ロールズの格差原理は功績の重要性を見落としている」。論ぜよ』。 これは前回書いたやつ。

「『問12、自由主義は自己についての怪しい理論を仮定しているか』。 サンデルの、ロールズも形而上学にコミットしているという批判だな。 自己にはまだ手を出す気はないので、パス。

「『問13、自由主義と共同体主義の議論をどのように特徴づければよいか。 どちらの立場が好ましいか』。 自由主義っていってもロールズは福祉国家を志向してるわけだから、 穏健な左翼と(旧)右翼の対立と特徴づけられるんじゃないのかな。 第三の道が好ましい。これもめんどうなのでパス。

「『「問14、ロールズの議論が国内の正義において妥当であるならば、 同じ議論によって国家の代表は国家間の関係を統制するために 国際的な格差原理を選ぶことを強いられる」。論ぜよ』。 これはラディカルでめっちゃおもしろい問いだけど、授業では扱わなかったな。 どの文献を読めばいいんだろう。 (ロールズのThe Law of Peoplesを読みだす)

「わ。土曜の夜のオールダムの暴動の様子がテレビでやってる。 There's a riot going on. すごいな。


「(30分ほどして)なるほど、ロールズはThe Law of Peoplesに おいて正義の二原理を国際間の正義にも適用しようとしてるんだな。 援助義務(the duty of assistence)というのが格差原理にあたるようだ。 『他国の貧者を、適度に自由主義的な社会の自由で平等な市民になるまで助ける義務』 があるらしい。 Thomas Poggeもロールズ流の正義論から似たような議論をしているようだ。 う〜ん、おもしろいな、これ。たいへんそうだけどやってみようかな。 とりあえず第一候補。

「『問15、「正義論の議論は、 秩序のある社会では市民が同じcomprehensive doctrineを持つことを前提している。 しかし、正義原理はこの可能性を否定する」。論ぜよ』。わからん。 Political Liberalismを読めばよさそうだが、たいへんそうだし、 あんまり興味がわかないのでパス。

「疲れた。『問16、受けいれるのが合理的である原理と、 退けるのは不合理である原理との違いの重要性は、あるとすれば何か』。 これもPolitical Liberalismを読めばよさそうだが、 おもしろくなさそうなのでパス。

「『問17、ロールズの格差原理で定義されている基本財は、 どのような善の構想においても同じくらい価値があるか』。 ロールズが枚挙する基本財は、ある種の善の構想にとっては有利で、 他のものには不利だというやつだな。中立でないというやつ。 これは共同体主義の批判だったっけ? あんまり興味ないのでパス。

「う〜ん、しんどい。ちょっと休憩。


「『問18、福祉の平等に対してもっともな反論はあるか』。 福祉の平等は左翼的な配分原理で個人の責任を考慮に入れないからだめ、 というドゥオーキンの批判だな。 それに対するアーネソンとコーエンの反論と。 おもしろい問題だけど、とくに情熱を持って議論ができそうにないのでパス。

「『問19、ドゥオーキンの資源の平等論は、 個人の責任と平等を調停する仕方を示しているか』。 この問いは政治哲学の最前線の議論のようだから挑戦してみたい気がする。 候補に挙げておこう。

「次。『問20、平等な社会は障害者の問題をどう考えるべきか』。 ロールズの話もあるが、おそらくドゥオーキンの内的な資源の話だな。 仮説的保険の議論。 まあこの議論は問19を考えるときに出てくるだろうから、パス。

「『問21、福祉の平等に対する「金のかかる趣味」の反論はどのくらい有効か』。 これはたぶん問18と同じだな。ひょっとすると問18の理解が足りないのかも しれない。これも少なくとも英国では最前線の議論のようだが、パス。

「『問22、「資源は善き生のための手段にすぎない。 したがって資源を正義の基本通貨(currency)にする理論は混乱している」。 議論せよ』。これも授業では出てこなかったな。コーエンかな。 しかし、善の構想間の中立を支持しない共同体主義も こういうことを言いそうな気がするな。なんにしろ、 いまひとつ興奮しないのでパス。

「『問24、正義は、自分の選択の結果全体に責任を負うことを、 われわれに要請するか』。 これはおもしろいな。ドゥオーキンはoption luckとbrute luckを区別して、 選んだ運、不運については個人に責任を取らせようとするわけだけど、 たとえば株が大暴落して破産したとか、ギャンブルで破産したとかいう人に 対して社会はどういう扱いをすべきなのかという問題がでるもんな、たぶん。 これも候補に入れておこう。

「『問24、平等論の要点は、生まれつきの運の違いを相殺することなのか、 あるいは社会による抑圧を矯正することなのか、 あるいはさらに別のことをすることなのか』。 アンダーソンの平等論批判の話だな、あとフランクファートと。 おもしろい話題で、政治的にも重要な気がするけど、 ドゥオーキンの議論をよく理解することが優先すると思うので、パス。

「『問25、「各人が十分なだけ持っていることが重要である。 各人が同じだけ持つことは重要ではない」。論ぜよ』。 フランクファートの議論だな。あんまり関心がないのでパス。

「『問26、平等を考慮することは「疎外的」か』。上と同様、 他人と自分が平等かどうか比較ばかりするような生き方はおかしい というフランクファートの議論だな。パス。

「あと少し。『問27、平等よりも「最下層(worst-off)の優先」 の方が望ましいと言えるもっともな理由があるか』。 パーフィットのレベリングダウンの議論(単に平等を尊重するだけなら、 全体の効用を下げることも許されるという議論。 たとえば片目の人と両目の人がいる場合、 両目の人の片目をつぶしてもよいことになる)とかだな。 まあその通りの気がするので、パス。

「『問28、平等に対するレベリングダウンの反論はどのくらい深刻か』。 すごい深刻。いや、よくわからんが、今はあまり考える気がしないので、 パス。

「最後。『問29、「最下層の優先は平等と功利主義の両方の欠点を 克服している」。論ぜよ』。功利主義が最下層の優先と相容れないかという 問題があるよな、これ。 最下層を優先的に助けた方が効用が高いという議論ができるか どうかしてみたいけど、大きな話になりそうだから、 今後の課題にしよう。というわけでパス。

「というわけで候補に残ったのはなんだ。 問9のロールズ理論における障害者の問題と、 問14のロールズ理論における国家間の正義の問題と、 問19のドゥオーキンの資源の平等論における平等と個人の責任の議論と、 問24の正義と個人の責任の関係の問題の四つか。 問9と問24は残りの二つに比べると関心度が低いのでパス。

「う〜ん、問19はドゥオーキンの理論を理解するためにぜひやりたいが、 問14も現代的でおもしろいな。 しかし残念ながらロールズはあんまり具体的な提案をしていないみたいだし、 抽象的な議論で終わってしまいそうだな。 米国がなすべき国際的義務についていろいろ書いていてくれたら おもしろかったんだけど。

「というわけで、やっぱり手がたく問19のドゥオーキンの議論を扱うことにするか。

「ええと、読むべき本はなんだ。 ドゥオーキンのSovereign Virtueと、 キムリッカのContemporary Political Philosophyと、 あとコーエンとアーネソンとダニエルズの論文ぐらいか。

「ふう。もう夜明けだ。もう寝よう。 起きたらミルの代議制論についてのエッセイの筋を考えないといけないな。 がんばろう。え〜と、あと26日しかないな。 きちんと片づけてイタリアに行こう」

[追記: もうすぐ出るキムリッカのContemporary Political Philosophyの 新版には、global justiceの章が追加されるらしい。 う〜ん、やっぱりglobal justiceが流行ってるんだよなあ。 しかしこの本は6月末ぐらいまで手に入らないようだし、 やはりドゥオーキンをまじめに勉強することにしよう]

お昼前(くもり)

朝、朝食を食べシーツを交換するためにベッドからはいでたが、 そのあとふたたび寝てしまう。今やっと起きた。

今日は国民の祝日。春の日らしい。

昼下がり(晴れ)

In The Mood for Love

友人に誘われ、 去年見損ねたIn The Mood for Loveを、 レスタースクウェアにある少し古い映画を安くで上映している映画館まで観に行く。

1960年代の香港を舞台にした恋愛映画で、 お互いの配偶者が不倫していることに気づいた二人が、 どうしたらいいのか相談しているうちに、 かれら自身も恋に落ちる。しかし…、という話。 監督はWong Kar-wai。

物語はなんてことのないメロドラマだが、 伏線をうまくはった展開は退屈しないし、 レトロな音楽、映像はすばらしい。 主演女優(Maggie Cheung)は感情と行動が一致しない女性をうまく演じているし、 主演男優(Tony Leung)はクールだが押しの弱い男性をよく表現している。 役者も場面も必要最低限しか写さないので、舞台でもできそうな話だ。

完成度が高く、ほとんどケチのつけようがない映画で、 あと二三回見てもいいと思わせるほどの名作だと思うが、 あえて言えば新しさに欠けており、落ちも予想が付くし、 カサブランカとどこが違うんだと言いたい気もする。 まあ、そもそも恋愛物語なんて古今東西そんなに変わらないものだと思うけれど。 しかし、 もうすこしハっとさせるような斬新な映像があったりすればもっとよかっただろう。

とはいえ必見。B+。

帰り、チャイナタウンで少し買物をする。

夕方(晴れ)

ついつい昼寝をしてしまう。 夕食を食べに食堂に行くが、まったく食欲がなくほとんど残してしまう。 もっと早寝早起きをするようにしないとだめだ。

さて、勉強勉強。

宵 (晴れ)

夕方が長いが、もうすこしすると日が暮れるはず。

代理母について

[04/Jun/2001追記: この文章を若干加筆訂正したものを 生命倫理学用語集 に転載しておいた。 また、以下で取りあげられているMSNのウェブサイト はアドレスが変更されているので注意]

MSNのウェブサイトで 代理母についてのアンケートがやっている(いろんなとこでやってると思うが)。 こういう市民の意見に直面したときに、 倫理学者がやるべきこと、できることはなんだろうか、ということを考えてみる。

一つには、 これらの意見(今回の意見はMSNの方が用意したもの)の背後にある前提を明るみに出し、 その前提がもっともらしいか、他の信念と衝突しないかなどを吟味することだろう。 だいたいこれらの前提は「自然に反する」とか「すべり坂だ」 などのおなじみの議論に行きつくので、 倫理学者としてはこれらの議論がどの程度説得力があるのかを検討することになる。

他にも倫理学者がすべきことはいろいろある気がするが、 とりあえずそれはおいといて、 以下の代理母アンケートの各項目の背後にひそむ前提というのを 順に考えてみよう。

  1. 不妊に悩む人には朗報: 119票
  2. 法整備の上ならOK: 23票
  3. 誕生する子が混乱する: 31票
  4. 医師の売名行為: 11票
  5. 迅速な法規制を: 11票
  6. 十分な論議を待たない暴走: 16票
  7. 女性は子を産むための器ではない: 33票
  8. いきつくところはクローン: 13票
  9. 代理母の体や感情がないがしろにされる: 24票
  10. ビジネスにする人間がでてくる: 29票
  11. 感情的に許せない: 11票
  12. 感情的には理解できる: 78票
  13. その他: 13票

1. 不妊に悩む人には朗報--背後にある前提は、 「悩んでいる人は助けてしかるべきだ」だろう。 同様の議論が、 ハゲや水虫や不能、 エイズやアルツハイマーやパーキンソン氏病を治す薬や治療にも適用されうる。

もちろん「不妊に悩んでいる人」の全員に朗報なのかとか、 「不妊に悩んでいない人々」にとっても朗報なのかどうか という問題も考えないといけないわけで、それはたとえば 「米国のミサイル防衛システムは、 不穏国家に悩む米国人には朗報」だからといって、 ただちに米国の政策が国際的に支持できるわけではないのと同様である。 帰結を論じる場合は、一部の人間に対する(短期的)帰結だけでなく、 より大きな(そしてより長期的な)帰結まで考慮する必要がある。

2. 法整備の上ならOK--背後にある前提は、 「何が合法で何が違法か(何が許され何が許されないか)の合意を形成 してから実行すべきだ」だろうか。 この前提はしごくもっともである。

3. 誕生する子が混乱する--背後にある前提は 「誰かを混乱させる行為はよくない」か。 「悩んでいる人を助けるべきだ」というのと同様にこれももっともな道徳原則。

ただし、誕生する子が本当に混乱するのかという事実問題を確かめる必要があるし、 たとえ事実だとしても、解決策がないのか、ということを考える必要がある。 また、子供の幸福が一番大事だとしても、1.と同様に、子供だけでなく、 カップルの悩みや、その他の人々の利害も真剣に考える必要がある。

真夜中

Speed

上の文章を書きはじめたら、 テレビでSpeed(1994, Jan de Bont)をやりはじめたので、 完全に思考が中断した。この映画は2回目か3回目だと思うが、 これでもかこれでもかという展開は何度観ても手に汗にぎる。 これはこれで完成度の高い映画。 しかしこの映画を観たからといって人生が変わるわけではないので、B。

代理母について(続き)

4. 医師の売名行為--前提「有名になりたいという動機で行為すべきではない」。 もちろん、この道徳原則をそのまま受けいれる人はすくないだろう。 芸術家やスポーツ選手やテレビタレントが、 有名になりたいという動機から行為してもおそらくそれほど非難する人はいまい。 こういう批判は、 医者や代議士などの「崇高な」職業についてなされるのがふつうである。

しかし、医師の売名行為というのは代理母にかぎったことではないし、 また代理母に本質的なことでもない。AIDSの薬を作ったり、 ガンの治療法を開発したりする人も同じ動機で行為するかもしれないが、 だからといってそのような動機から生まれたAIDSの薬を使うべきでないとか、 もっと「崇高な」動機からその治療法を適用しようとする医師を妨害すべきだ ということにはならないだろう。 動機が善いことはけっこうなことだが、 動機の善し悪しだけで行為を判断したり、 ましてやある人の動機が劣っているからといって、 同じ行為を他の人がすることを禁止したりすべきではない。

5. 迅速な法規制を--2.と同様。もっともである。

6. 十分な論議を待たない暴走--同上。もっともである。

7. 女性は子を産むための器ではない--これは前提を推測するのがむずかしく、 また一番興味深い議論だが、 おそらく「女性は『女性が有する本質的な目的』以外の目的で使われてはならない」 というような原則だろう。 もっと一般化すれば、「人は、 人の本質(本性、自然)に反する目的で使われてはならない」 というおなじみの原則と言える。

この議論は、「性器は生殖のためにあるのだから、 快楽のために用いられてはならないし、売春はもってのほかである」 とか、「肛門は排泄のためにあるのだから、性交に使ってはならない」 とかいう議論と同じ形式を持っている。 ただし、今回の場合は女性の「目的」なるものが明確にされていない という違いがある。

ただし、「じゃあ女性の目的は何なんですか」と尋ねた場合、 「それは女性一人一人が決めることです」と答えるわけにはいかない点に注意。 というのは、その場合「女性は子を産むための器だ」 と主張する女性が出てくるかもしれないからである。 そこで、 上のような議論をする人は、女性の普遍的な目的を提示するという困難な 作業をする必要がでてくる。

それでも、「女性に普遍的な目的がなんであるのかははっきりしないが、 女性が子を産むための器ではないことはたしかだ」 とがんばる人がいるかもしれない。

しかし、その場合には「一般に、ある物に普遍的な目的があるとして、 そもそもなぜその目的以外でそれを使ってはいけないんですか。 かなづちは釘を打つために作られたのでしょうが、 貯金箱を壊すために使ってはならないのでしょうか。 口がキスするために作られたとは思いませんが、 われわれはキスは口が持つ目的ではないのでしてはならないとは言いません。 だったらなぜ女性を子を産むための器をして使ってはいけないのでしょう」 と反論できるだろう。

だが、けっきょくのところ、「女性は子を産むための器ではない」 という背後にある本当の前提は、 カントの「人(理性的存在者)は、単に手段としてではなく、 同時に目的自体として扱われなければならない」 という道徳原則なのかもしれない。 すなわち、上の主張は、 「女性を女性に本質的な目的以外で使用してはならない」と言いたいのではなく、 「女性を単に手段として使用してはならない」と言いたいのかもしれない。

(ところで、手元に文献がないので正確な引用ができないが、 結婚と性交についてカントは男女間の性器使用の契約だと言っているので、 この文脈でカントを援用しようとするのはあまり好ましくないかもしれない)

このカントの議論をやっつけるのはたいへんなので、 とりあえず間接的な(しかし深刻な)反論を二つ挙げておくと、 「他人の女性の子宮を使用する代理母は女性を手段として 使用することになり許されないが、 自分の奥さんの子宮を使用することは許されるのはなぜなのか」というものと、 「親が子に片方の肺や腎臓をやったりすることも、 やはり子が生きるための手段として親を使うことになり許されないのか」 というものである。臓器移植の完全禁止を主張する人は後者を簡単に退ける かもしれないが、それでも前者の問いにきちんと答える必要があるだろう。

8. いきつくところはクローン--これは前提というよりも、 次のような推論がなされていると言える。 「代理母を許すならば、すべり坂をずるずるすべって、 けっきょくヒトのクローンも許すことになるので、やるべきでない」。

すべり坂議論というのは、簡単に言うと、男性に手を握ることを許したら、 「手をにぎっていいならキスだって。キスがいいんなら体を触ったって…」 とずるずるすべっていき、最後にはムチとロウソクになってしまうという議論。 そこで、 最初はキスはよくてもSMはぜったいにいやと思っていても、 ずるずるとすべっていってしまうので、 男性には手を握らせるべきではないことになる。 同様な議論が、安楽死反対論やマリファナ禁止論にも使われる。

これに対する反論は、すぐに思いつくだけでも3つある。 くわしく議論するのはたいへんなので、列挙するだけにとどめる。

  1. 代理母を許したら、ずるずるとクローンを許し、 さらには優性思想を許し、オーダーメイドベイビーまで許すというのは、 まったく明らかではない。
  2. もし代理母からクローンまでノンストップですべっていくという 仮定を認めた場合でも、 代理母はすでに坂道の途中であり、IVFや排卵剤の使用など、 不妊治療を開始した時点からすでにすべっているとも考えられる。 だとすれば代理母を禁止できると考えるのはおかしい。
  3. (2)と同様にすべり坂議論を認めたとしても、 ヒトのクローンがなぜ望ましくないかを示さないのであれば、 この議論は説得力がない。

9. 代理母の体や感情がないがしろにされる--この前提はもちろん 「人の体や感情をないがしろにする行為をすべきではない」である。 もちろん苦悩や混乱が望ましくないのと同様に、 人をないがしろにするのは好ましくないのは当然である。

しかし問題は一つに、代理母の制度を認めることによって、必然的に、 あるいはかなり高い可能性によって代理母がないがしろにされることが示されるか どうかである。これを調べるためには、理論をふりかざすだけでなく、 代理母が実際にないがしろにされているかどうかという事実を米国の例などから 集めるのも重要である。 また、第二に、代理母の体や感情がないがしろにされることが多いことが 予想されたとして、それに対するいかなる対策も立てられないのかということも 議論する必要がある。

そもそも「体や感情がないがしろにされる」のは なにも代理母にかぎったことではなく、 売春や労働や結婚にだってありえることである。

売春にもこの議論を用いる人もいるだろうが、 売春を職業と認め、 売春をしている人々の社会的地位を向上させることによって、 事態を改善することは可能であろう。

同様に、「資本主義は労働者の労働や感情をないがしろにする」 ことがたとえ事実だとしても、 労働状況の改善や社会の福祉政策などによって、 事態を改善することは可能だろう。

また、結婚にしても、歴史的に見れば多くの場合、 女性は財産として扱われてきたわけで、 体や感情がないがしろにされてきたことは想像にかたくない。 しかし、男女間の平等を保障することにより、 この問題があるていど改善したことを認めないわけにはいかないだろう。

もし代理母が以上の例とは異なり、 「代理母は女性の価値を貶める側面をその本質として持つ」 というのであれば、どうしてそうなのかを示す必要がある。

10. ビジネスにする人間がでてくる--前提は、 「ある種の行為や物事はビジネス(商売)にしてはいけない」。 お金目当てに行なってはいけない行為がいくつかあり、 代理母はその一つだということであろう。

どういう物を商売にしてはいけないかを考えてみると、 土地を売ったり知識を売ったりするのは許されるが、 身体的なものを売ることにはかなりの道徳的反発が存在することに思いあたる。 たとえば、肺を売ったり、腎臓を売ったりするのは許されない、 あるいは望ましくないと考える人は多いだろうし、 自分の身体をまるごと売ってしまって奴隷になるというのは 神ばかりかミルも許さない行為である。

しかし、その一方で、血や髪や爪を売ったりすることは比較的許される行為である。 おそらくその理由は、 「一回売ってしまえばおしまい」である肺や腎臓とは異なり、 基本的に何回でも売れるからであろう。 とくに髪を売ることなどはほとんど道徳的反発を伴わず、 散髪を無料でやるためにモデルになることを非難する人は (宗教的な理由でもないかぎり)めったにいないだろう。

とすると、ビジネスあるいは商売にしてはいけない行為は、 「身体の全部あるいは一部を売る行為」ではなく、 「一度売ってしまうと元に戻らない行為」 であると論じることができるかもしれない。 だとすれば、子宮を貸す商売は、労働力を売る商売と同様、 許されると論じることができるかもしれない。

しかし、代理母と売春は、 上で挙げた肺や腎臓の例と血や髪の例の中間に位置し、 それゆえしばしば論争になる、と言えるのかもしれない。 もちろん、そのような事情があるにせよないにせよ、 売春は「最古の商売」と言われるわけだが…。

11. 感情的に許せない--前提は「わたしが感情的に許せない行為は 禁止されるべきである」。こういう愚かでかつ独裁者的なことを言う人は、 いますぐ本屋に行き、ベンタムの『道徳と立法の原理序説』第2章を読むべきである。

一歩譲って、この議論の前提には 「社会の多くの人が感情的に許せないと感じている行為、 あるいは社会の道徳に反すると感じている行為は、禁止すべきである」 という原則があるとしても、 この原則は、 現在の常識や社会の道徳を絶対的な基準にしている点でまちがっている。 それは、「ナチスの法であれ南アのアパルトヘイトの法であれ、 法が禁じている行為は道徳的に不正である」という原則がおかしいのと同様である。 代理母という新しい現象によって、 常識の正しさや、社会の道徳の正しさが問われているのだから、 それらの正しさを頭から仮定するのではなく、 きちんと根拠を問いただす必要がある。

12. 感情的には理解できる: 11と同様、感情だけで議論するわけにはいかない。

以上、いろいろ検討し、とくに最後に感情では議論できないと述べたが、 誤解をさけるためにもう一度強調しておくと、 こう言ったからといって、子供の苦悩や代理出産した女性の苦悩、 あるいはそれ以外の人々の苦悩を 考慮に入れる必要がないと言っているのではけっしてない。 3.や9.で述べたように、 代理母という制度にこのような弊害が伴うのであれば、 それを取り除く適切な方法を考えるべきだし、 弊害が大きくどうしても軽減できないならば、 代理母を法的に禁止する強い根拠になるだろう。

しかし、代理母制度を認めることによって生じる苦悩を考慮に入れる一方で、 禁止することによってでてくる苦悩も考慮に入れなければならない。 どうしても子供が欲しいのに身体的問題から子供を生めないカップルや、 非合法に代理母を行なうことから生じる問題、 また代理母が認められていたならば得られたかもしれない幸福、等々。

おそらく賢明な政策は、完全禁止、完全自由化というのではなく、 法によって規定された適切な手続を経た場合にのみ 代理母による出産を許すというものであろう。 もちろん、このような法をつくる前に、 十分な議論と実態調査をし、 適切な規制を行なえばうまくいく事例が十分にありえる ことを確認すべきことは言うまでもない。 そして、社会的合意を形成するために十分な議論をするためには、 倫理学者を仲間外れにしてはならないことも言うまでもない。


29/May/2001 (Tuesday/mardi/Dienstag)

真夜中

あ〜。ミルの勉強をする予定が、また脱線し、映画を 観たり代理母についてつれづれと 考えたりしていたら、あっというまに5時間以上経過してしまった。

夢中になっているあいだは楽しかったが、今は頭を抱えて自己嫌悪。もう寝て、 朝早くに起きよう。

お昼前

寝坊。友人の電話で起きる。

デマウィルス(SULFNBK.EXE)

別の友人からメイルでウィルス情報が回ってきて、 しばらくネット上で調べることになる。 McAfeeに該当するページを見つけ、 デマであることを確認する。

Subject: VIRUS ALERT

I have a virus resident in my computer called SULFNBK.EXE that isn't activated until June 1. It is not detected by Norton antivirus 2001 although they have been advised of it. It is stored in the WINDOWS/COMMAND directory and I am not sure where it came from. To remove it do a file search in WINDOWS EXPLORER for SULFNBK and delete it then delete it from the waste bin or it will activate in your waste bin. Don't double click it otherwise you will activate it. It attaches itself to e-mails so advise others you have sent e-mail to (if you have it and after deleting it). These came from my sender and from Norton...........

Windows/CommandフォルダにSulfnbk.exeというウィルスファイルがあるから消せ、 という内容である。調べたらわかるが、 このファイルは元からあるファイルである。 しかし、聞いたこともないexeファイルだから、 (おれのような)素人だと一見しただけでは真偽がわかりかねるところがミソである。

このような場合に素人ができるもっとも賢明な方法は、 自分のコンピュータ上のファイルを消したり 友人にメイルしたりする前に、 アンチウィルスのサイトで確認するか、 gooなどで検索をかけることだろう。 そのやり方もわからなければ、 せめて頼りになる友人に連絡するぐらいはしたい。

それにしても、この手のメイルに見られるウソの論理というのはおもしろいな。 「ノートンからメイルが来た」という権威を使ってみたり、 「ファイルを開くとウィルスが発現する」と警告することによって 確認手段を奪ってみたり。 相手の無知につけこむ方法を勉強するのにもってこいだ。

昼下がり

し、しまった。図書館に来てぜんぜん勉強しなかった。(いつものことだが)

夕方

法哲学の授業に出る。法人の刑事責任について。 関心なし。

そのあと、某本屋で古本を一冊入手。amazon.co.ukからも 注文していた本が二冊届く。

夜中

Albert WealeのDemocracyをななめ読みしながら、 BBC Radio 2でやっていたザ・グーン・ショーの50周年特別記念番組を聴く。 ラジオでジョークを理解するのはかなりむずかしい。

さっさと明日の予習済ませ、ミルのエッセイの構想を立てねば。

真夜中

忘れないように書いておくが、 英国のテレビは時間通りに始まらないことが多い。 日本でも野球中継などがある場合は時間がずれることがあるが、 そういうのとは違って、 おわびも何もせずに一、二分遅れで始まることがよくある。

別にビデオ録画しているわけではないし、 ちょっとぐらい遅れてくれた方が助かるぐらいだが、 現在の日本ではほとんど考えられないだろう。 日本人の几帳面さを実感する一時である。


30/May/2001 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

真夜中

眠い。先日購入したJohn Skorupskiの英国哲学史の本を使ってグリーンの勉強。 この本はなかなかおもしろい。 グリーンの原著を読むべきだが、まだ手に入れていない。

ところで、これも忘れないうちに書いておくが、 20世紀の英国の哲学や法学の潮流はanalytical philosophyとかanalytical jurisprudenceと呼ばれるのに、 なぜ倫理学だけmeta-ethicsと呼ばれるのか。 誰だこんな名前をつけたのは。 きっとアリストテレスかぶれの学者に違いない。 analytical ethicsと名付けておけばよかったものを。

夜明け前

また夜更ししてしまった。

出隆の『英国の曲線』をすこし読み返す。 1930年代のオクスフォードの様子その他が格調の高い文章で描かれている随筆。

2000年前後のロンドンの様子その他が格調の低い文章で描かれている おれの日記を、2070年代ごろに読んでくれる人はいるんだろうか。

あ〜、寝坊寝坊。

上の記述に関して、商売を思いついた。 2070年までにおれが死んでいる場合、 おれのウェブサイトは消滅している可能性が高い。 とくに商用プロバイダでアカウントを持っている人は、 死後お金を払わなくなったらまもなく消滅することは確実である。

そこで、www.rip.co.jp。(www.afterlife.co.jpなども可) 故人の個人サイトをこのプロバイダ上で半永久的に保存できる。 希望により、定期的に友人に「ウェブサイト墓まいり」のお知らせも送ること ができる。 また、死後もサイトを更新したいという人のために、 有能なゴーストライターを準備する。

これは商売になるんじゃないかと思うが、もうやってる人はいるのかな。

昼下がり

ベンタムの授業に出てきた。グリーン。 われわれは常に快を追求しているのか、とかいう話。 来週はウィリアムズとスマートの論争についてなので、 しっかり予習をすること。

授業のあと、セネトハウスの図書館に本を返しに行ったり、 本屋で本を買ったり、スーパーで食糧品を買ったり、 いろいろうろついてから寮に戻ってくる。 まず昨日の新聞を読んでから、 明日正式に提出予定のディサテーションのプロポーザルを完成させるべし。

夕暮れ

夕食前に寝てしまう。現在、まだ昨日の新聞を読んでいる。

保守系デイリーテレグラフ紙のコラムニストがガーディアン紙上で 文化多元主義を批判している。 英国の文化を尊重しない連中は英国に来るべきではない、という主旨だ。 かつて宗教の多元性を(ある程度)克服した国でも、 文化の多元性は克服できないのだろうか。

ステューデントパワー?

アンチグローバライゼイション運動の影響で、 ハーバードやエールなどの米国の大学で学生運動が盛んになりつつあるようだ。 京大にも飛び火するのだろうか。 (`Rebels with a cause', in The Guardian, 29/May/2001)

「日本の普通の学生をデモに駆り立てるようなテーマはないんじゃないの。 学生が世界に目を向けてアンチグローバライゼイションの動きに呼応でも しないかぎり。きみも含めて、近頃の学生は満足した豚だから」

「新聞もエンターテイメントを重視して、 不正義を暴くっていうのではないですからね。 もちろんイチローの成績も気になるところですけど、 新聞はもっと政治的というか過激になってもいいんじゃないですかね」

「またまた。最近まで新聞をまともに読まなかった人間がえらそうに。 それに新聞はつまんないから学生は読まないって」

「いや、それが悪循環なんですよね。 新聞がつまらないから学生は新聞を読まず、 新聞は世界に満ち溢れている不正について書くよりは、 エンターテイメントを重視するようになる。 するとエンターテイメントはテレビの方がうまいから、 ますます学生は新聞を読まなくなる…」

「新聞とテレビの住み分けがうまくいっていないというわけ?」

「いや、テレビを見ないのでよくわかりませんが、 そうなのかもしれません」

「しかし、英国では新聞やテレビが政治的な事柄をより多く取りあげるようだけど、 それでも学生運動は下火じゃない。テレビとか新聞とかが原因じゃなくて、 国際的な雰囲気じゃないの、単に。 学生をデモに駆りたてるわかりやすい社会的不正義がないだけでさ」

「う〜ん、そう言われるとそうですね」

「日本はなんだかんだ言っても良い国だからさ。英国みたいに、電車は まともに走らない、病院はまともに機能していない、羊や牛は口蹄疫のせいで 全部焼却しないといけない、とかいう社会だとデモの一つでもしてみようか という気になるけど」


31/May/2001 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

真夜中

毎日新聞のハッカー倫理についてのインタビュー

『リナックスの革命』を書いたヒマネン氏(27才!)によれば、 インターネット時代においては、 これまでの産業社会を支えてきた 「締め切りに間に合うよう、仕事のプロセスを最適化し、 自動化する」プロテスタントの倫理ではなく、 「仕事を、義務ではなく自分の楽しみのために行い、 創造性を重視し、情報は共有されるべきで、仲間からの賞賛に価値を見出す」 ようなハッカー倫理が主流になるとのこと。

インタビューを読むかぎり、眉唾の話なのでいろいろケチを付けたいが、 本を読んでからにしよう。

真夜中2

ディサテーションのsynopsis(梗概)を書く。 シャワーを浴びたらもう寝よう。

夜明け前

う〜ん、9時半ごろに日が暮れるのに、3時半ごろには空が明るみ出す。 もう寝ないと。

朝起きる。ひさしぶりに朝食を食べる。

これから大学に行き、書類をプリントアウトして提出する予定。

昼下がり

午前中に大学の図書館に行き、Poggeやらミルやら ヒューム(sensible knave関連)やらの論文をコピーしたあと、 dissertation approval formを提出。

お昼は友人とインド料理屋で食事。そこそこ。

今日こそはミルのエッセイの筋を作り、某先生にメイルすること。

夕方

例によって夕食の時間まで寝てしまう。

起きたとたん、「課程博士論文資格申請書の提出期限は今日(6月1日)まで」 という天啓が下ってあわてたが、 「今回見送っても、半年後にもう一度チャンスが来る」 という天啓も同時に下ったので、 ありがたく延期させてもらうことにした。

法哲学の某先生からメイル。 見てやるからさっさとエッセイの大要を書いて 送ってこいとのこと(こわい)。ミルをやったら次はこれか。 だが、ようやく〆切効果が十分になり、やる気がでてきた。 やっぱり「他人を待たせている」とか 「扉が音を立てて閉じ始めている」という実感がないと、 動きだす気にならないんだよなあ。

夕暮れ

デマウィルス(SULFNBK.EXE)その後

先日書いたデマウィルスは、 情報処理振興事業協会にも昨日警告が掲載されたようで、 さらにデマは広がっている様子。

寮にいる別の友人もこのデマを信じてファイルを削除してしまったらしい。 SULFNBKというのが何のファイルかと調べたところ、 よくわからないが長いファイル名を復元するのに使われるコマンドのようだ (a Microsoft Windows utility that is used to restore long file names)。

シマンテックの説明を読むと、 このデマはブラジルから発したものらしい。最初はポルトガル語で広まり、 その後英訳されたとのこと。

とはいえウィルスはやはりこわいので、 バックアップはひんぱんに取ることにしよう。

サッチャー降臨

英国では総選挙があと一週間で行なわれるが、 敗北必至の保守党は、苦しいときの神頼みと言わんばかりに、 元首相サッチャーを前面に押しだして人気回復を図っている。

だが、サッチャーは右寄り保守党の権化とも言うべき存在で、 「ユーロにはぜったいに参加しない」とか極端なことを言うので、 一部の人々からカルト的な支持を受けているものの、 保守党内でもアナクロニズムだとの批判が強く、 保守党現指導者のヘーグも苦い顔をしている。

とはいえ、サッチャーの発言は極端でおもしろい。 EUについて市民に尋ねられたら 「他人が15人に集まって、 あんたが自分の家ですることを決定するとしたら、どう思うわけ?」 と息巻き、 ユーロについて尋ねられたら、 「ヨーロッパがユーロを採用したからと言って、 われわれが同じようにすべきことにはなりません! われわれはずっと長い歴史を持っています!」 と反撃する。

「一郎くん家は一郎くん家、うちはうち。 一郎くんがプレイステーションを持ってるからって、 うちでもプレイステーションを買うべきことにはなりません」 というのと同じ理屈だ。また、「長い歴史を持っている」ことを 主張することがどういう意味があるのかもほとんど不明だが、 思わずニヤリとさせられる。 この頑固なおばさん的態度が人気の秘訣なのだろう。

真夜中

まだ新聞を読んでいる。なんで一日がこんなに短かいんだろう。

あ、忘れないように書いておこう。某新聞によると、 カリフォルニアのどこかの病院でこれから産まれる子供は、 ウェブサイトとメイルアドレスを自動的に割当てられるんだそうな。


何か一言

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KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jul 28 07:37:42 2000