11月中旬号 / 12月上旬号 / 最新号

こだまの世界

2000年11月下旬号

`It is demonstrable,' Pangloss would say, `that things cannot be other than they are. For, since everthing is made for a purpose, everything must be for the best possible purpose. Noses, you observe, were made to support spectacles: consequently, we have spectacles. Legs, it is plain, were created to wear breeches, and are supplied with them.'

Voltaire, Candide, Wordsworth Classics, 1999, p. 2


21/Nov/2000 (Tuesday/mardi/Dienstag)

ピカソ

天気が悪かったので退屈な法哲学の授業を自主休講し大英博物館で 展示されているピカソのリノカットを見に行った。

(もう少し言い訳しておくと、今日授業を休んだのは、 先々週から今週まで法哲学の授業を担当している先生が猛烈に退屈な先生なので、 行っても無駄だと考えたため。 来週から先生が元に戻るので、またきちんと行くつもり)

リノカットというのは木版画みたいなもので、 建築材料に使われるリノリウムという板を用いているらしい。 展示数は10点ぐらいで少なかったが、 一つだけ気にいった作品があった。 名前を忘れてしまったのでついでにそのうちまた見に行こう。

勉強勉強。


22/Nov/2000 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

日記の整理

天気

今日は朝から台風のような大雨と強風。 日本と違うのは、ひんぱんに降ったり止んだりするところ。 悪天候でも運が良ければまったく濡れずに済む。

ある天気予報によると、 今年の年末は零下10度近くまで下がる寒い冬になるそうだ。 しかし、BBCの天気予報部は、 「そんな話はでたらめだ。科学的じゃない」と非難しているらしい。 いずれにせよ、もう少し服を買っておいた方が賢明かもしれない。

天気、ピカソ、ラモーンズ

雨は午前中にやんだが、天気が悪いせいか気分が沈んでしかたなかったので、 ヴァージンメガストアに行ってRamonesのRamones Maniaを購入。 人によって違うと思うが、 おれの場合はラモーンズを聴くことによって強制的に気分を高揚させることができる。 他方、落ち込みたいときには、アルビノーニのアダージョがよく効く。

ついでにピカソのリノカットをもう一度見に行った。 気に入った作品の名前は`Deux femmes au reveil' (Two women waking up, 1959) というものだった。 二人の女性が寝ているベッドに、 カーテンのすきまから日差しが差し込む様子を描いた作品。 日差しの表現が簡潔ですばらしい。と思う。

ちなみに、大英博物館は図書館から5分ほど歩いたところにある。

ベンタムの授業

今日はフィクションの話。 おもしろい話なので説明したいところだが、 いろいろわからないことがあるのでまた今度。

「鼻は眼鏡を支えるためにある」

そういえばこちらに来て気づいたが、 眼鏡の中央の部分が外側に向けて曲げてあるのは、 西洋人の鼻柱の形状に合わせてあるのだ。

なるほど眼鏡をかけているイギリス人などを見ると、 鼻柱にきちんと眼鏡が腰掛けている。

たぶんちゃんと日本人の鼻に腰掛けるような眼鏡も売ってるんだと思うけれど、 どうもおれの眼鏡は西洋人の鼻に合わせてデザインされたもののようだ。 次に眼鏡を買い換えるときは注意して日本人向けのものを探してみよう。


23/Nov/2000 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

政治哲学

うぎゃ。授業があるのをすっかり忘れて、図書館で勉強していた。 うぎゃ。一番おもしろい授業なのに…。

今日の勉強

ハートのEssay on Benthamを40頁ほど読む。

1章はベンタムは法の脱神秘化(demystification)を行なったという話。 理論的なレベルでは、自然法理論から、道徳的に中立(とされる)法実証主義へ。 実践的なレベルでは、繁雑な証拠法の改善など。

ベンタムは裁判官が古くさいカツラをつけたり異様な服装をしたりすることに 反対していたそうだ。理由は、法律の世界を権威化し、 合理的な批判を抑圧することにつながるから。 しかし、英国ではいまだに白いカツラをかぶった連中が裁判をしているようである。

2章はベンタムとベッカリーアの比較 (ちなみに1章ではマルクスとベンタムの簡単な比較がなされている)。 ベンタムはベッカリーアから大きな影響を受け、 二人の思想はよく似ているが、 ベンタムが功利主義一本槍なのに対して、 ベッカリーアは功利主義理論の行き過ぎを抑えるために 「人間の尊厳」とか「自然権」というside constraintsを用意していた、 という話。

ラズ

夕方、現代政治理論の授業を休んでラズの講演を聴きに行ったが、 さっぱりわからなかった。

原因の一つは明らかに予習不足のせいだが、 もう一つの理由は、彼がノートを棒読みしていたせいだ。 質疑応答もなくてがっかり。行くんじゃなかった。

『カンディード』

ヴォルテールのCandideを読み終える。

[要約] ライプニッツ流の楽天的な世界観から出発した主人公は、 現実の世界の不幸を目の当たりにし、世界観を変えざるをえなくなる。 しかし、だからといって完全な厭世主義に陥るのではなく、 最後には人生に意味を見つけだすことに成功する。

哲学的な背景知識がなくてもおもしろいと思うが、 多少でもあると笑える個所がいくつもある。傑作。B+。

手に入る翻訳がなければ試しに日本語に訳してみようかと思ったが、 岩波文庫で復刊されているようだ。 英語ではここで読める。


24/Nov/2000 (Friday/vendredi/Freitag)

テート・モダンとバディ・ホリー

明日しっかり勉強することにして、 今日の午後はロンドン散策。

テート・モダンに初めて行った。 現代アートの世界にくらくらする。 ほとんど芸術とは思えない作品だらけだったが、 まあここに来れば「芸術とは何か」 と問いについて考えることができる。

夕方、『バディ』 というミュージカルを観た。 1959年に飛行機事故で早逝したバディ・ホリーの、 短かい音楽キャリアを再現した作品。 すでに12年間続いているらしい。 主役の「ニセ」バディ・ホリーは歌がうまいので、 かなり楽しめた。おすすめ。 金曜のマチネー(5:30-)は通常半額の値段で見れる。

今日はかなり写真を撮ったので、 その一部を掲載しておく。


25/Nov/2000 (Saturday/samedi/Sonnabend)

今日の勉強

ハートのEssay on Benthamをさらに読む。

3章はベンタムと米国の関係について。

ベンタムの活動した時期は、 アメリカ独立革命とフランス革命からはじまり、 ナポレオン戦争とその後の反動期であるウィーン体制まで続く。 ハートの考えでは、米国に対するベンタムの態度は前期と後期に分けられる。

前期は、二つの革命の思想的背景となった自然権思想を批判する時期。 この時期には、米国民主主義の基礎付けとしての自然権思想を批判するだけでなく、 すでに功利主義的な基礎付けの可能性を検討している。 しかし、フランス革命後の無政府状態に恐怖を抱き、 英国全体の雰囲気と同様、ベンタム自身もしばらく反動期に入る。

しかし、旧体制への回帰を唱えて保守反動化しているヨーロッパをよそめに、 若き民主主義国である米国は自由を謳歌し繁栄の一途を辿っている (ように彼には見えた)。 この対比に強く感銘を受けたベンタムは民主主義こそが 功利主義にとって理想的な政体だと確信し、 以後は「米国を見よ」というスローガンを掲げて改革論者として活躍する。 この、米国の民主主義を(その自然権思想による基礎付けをおいといて) 政治改革の模範として考えた時期が後期にあたる。

この前期と後期の境目が何年にあたるのか、 という問題はベンタム学者の論争点の一つだが、 まあおれにとっては少なくとも今のところはどうでもいいことだ。

ベンタムは米国の自由と平等を賛美すると同時に、 奴隷制、判例法制、二院制を米国が克服すべき欠点と考えた (上院は英国の悪しき貴族院の真似に過ぎないとみなした)。

ベンタムは60代後半から80代になって死ぬ寸前まで、 「判例法を廃止し、法典化する」ように、 米国大統領および市民に訴えつづけた。 ほとんど無視されながらも、 何度も「わたしが法典作ります」と提案した。

今から考えると半分気違いだが、 万一彼の提案が受け入れられ、 ベンタムの手によって米国の刑法典や民法典が作成されていたら、 彼の評価はずいぶん違っていただろう。 彼の提案がなぜ受けいれられなかったのかを研究してみるのは おもしろそうだ。 彼が(自然権論者ではなく) 功利主義者だったという理由が一因となっているのだろうか。

午後の勉強は捗らず。無念。

『エリン・ブロコビッチ』

夜、『エリン・ブロコビッチ』を観る。 法律事務所の事務員として働いていた主人公が、 大企業が小さな町で行なった公害を摘発する話。

トントン拍子に話が進んでしまい、 山場らしき山場もなく終わってしまうので残念。 ジュリア・ロバーツの演じる主人公の人間くささ(とセックスアピール) が唯一の見どころ。 これがホリー・ハンターとかジョディ・フォスターとかだったら、 小学校の体育館で観るような退屈な映画になっていただろう。C+。


26/Nov/2000 (Sunday/dimanche/Sonntag)

古本屋で買った本


27/Nov/2000 (Monday/lundi/Montag)

『オースティン・パワーズ』

昨夜、 夕食を食べ終えたのでさて勉強しましょうかええそうしましょうと 一人ごちていたら、 某友人から寮に遊びに来ないかという誘いの電話が。

勉強をするprima facieな(一応の/相対的な)義務と、 友人とのつきあいを大事にするprima facieな義務を比較した結果、 どうも今回は友人を大切にした方がよさそうだったので:-)、 神から授かった自由意志を行使して、本を閉じ友人の住む寮を訪れた。

友人宅のキッチンで、テレビでやっていた『オースティン・パワーズ』を観る。 二度目だがおもしろい。B+。

帰りに同じ寮に住む他の友人から『イングリッシュ・ペイシェント』 のVCDを借りてしまう。なにかと誘惑が多い。

勉強勉強。やりますやってます。

ハートの勉強

4章を読む。 ベンタムとミルによる自然権の考察を検討した重要な章だが、 長いし悪文が多いので読むのが大変。

要するに、ハートによれば、 ベンタムが自然権による法や道徳の基礎づけを拒否したのは、 自然権を確定(同定)するための基準がない(criterionless) という理由からだ。

このベンタムの主張に対して、ハートは、 どうして功利主義をその基準としなかったのかと問う。 彼によればミルはまさにこの試みを行なっている。 ミルによれば、われわれがA(参政権、プライバシー、教育など) に対する道徳的権利を持つ(そして法的権利を要求することが正当化される)のは、
(1)Aが個人にとって欠かせないものである、
(2)Aの確保のために法律やその他の社会的制度による強制を行なったとしても、 個人がAを持つことは全体幸福を促進する
場合である。

しかし、(2)の条件がくせもので、 (1)(2)の条件がそろったときにはじめて「道徳的権利が存在する」と言えるとなると、 個人が道徳的権利を持つことを示すためには、 それによって全体幸福がつねに促進されることを示さないといけないわけで、 社会全体の幸福と個人の権利との衝突が重要な問題になっている 昨今の状況においては、 このような条件はそろうことはなく、 したがって道徳的権利は一つも存在しないということになってしまう。 他にもいくつか批判があるが、基本的にはハートはこう論じているようだ。

ハート自身は、ミルの(2)の条件を外して、(1)の条件をもとにした自然権の 確立を、「自然権は存在するか」という論文で行なっているようだ。

政治哲学入門: 二つの二元論

今日から先生が代わり、プラトンの『国家』についてしばらく話すようだ。 だいたい次のような話。

「まああれですなあ。その。どうもわれわれの法律とか道徳とかいうものは あんまり根拠がないのかもしれませんなあ」

「とうぜんです。しょせん人間のつくったものですからな。ノモスですノモス」

「はて。ノモスというのは野球選手の複数形でしたかなあ」

「いやいや、人為とか慣習という意味です。 ピュシスつまり自然の反対概念なわけで。 とすれば非自然なわけですからそれはもうアプリオリに悪いものなのです」

「はっはあ。ノモスは悪玉、ピュシスは善玉というわけですな」

「そうです。それどころか、われわれの社会の法律とか道徳というものはこれがまた、 社会の弱者が強者を抑圧するためにつくった装置であるからして、 強者がこれらのノモスを破るのは真の意味で正義であるわけです。 国際関係を見てごらんなさい。動物の世界を見てごらんなさい。 弱肉強食です。弱肉強食。これこそが真の正義です」

「ほっほお。要するにノモスは自然の正義を体現したものとは限らないから、 自己利益になる限りで従えばよいというわけですか。 これはいいことをききました」

「いや、それは間違えています」

「あ、これはこれはプラトンさん。ようこそいらっしゃいました」

「わたしの考えでは、たしかにノモスは正義を体現していないことがしばしばですが、 真の正義は自然に求めるわけにはいけません。われわれは動物とは違うのです」

「というと、不完全な正義としてのノモスと真の正義としてのピュシスという 分け方はよくないということですか」

「そのとおりです。わたしの考えでは、 個々の不完全な法制度と、 正義を体現した理想としての法制度を区別すべきなのです」

「はあはあ。しかしその理想としての法制度とは 自然な法制度のことではないのですか」

「いや、それでは『自然』という言葉をあいまいに使うことになります。 わたしは弱肉強食を唱えているわけではありません。 イデアとしての法制度(正義)です。 これこそが個々の法制度を批判するための尺度となるべきです」

「はあはあ。しかし、自然は存在しますが、 イデアというのはどこに存在するんですかな」

「『三角形の内角の和は二直角である』 というのは、個々の三角形が存在しなくても正しい主張です。 つまりこの文は、普遍的な三角形について語っているわけで、 この文が正しいなら、この普遍的な三角形はどこかに存在するはずなのです。 正義も同様です。われわれは正義についての完全な定義を探すべきなのです」

「ほほお。しかし、こないだ少し本を読んだのですが、 その文は分析判断とかいうやつではないのですかな。 ほれ、述語の部分は主語を分析したものであるとかいう…」

「残念ながらそんな話は聞いたことがないですね。 わたしプラトンが言うことはアプリオリに正しいのですから反論するのは やめなさい」

「しかし、たとえイデアが存在するにしても、 本当にそれを尺度にして現行の法制度や道徳を批判することができるんですかな」

「できます。わたしがこの目で見てきたところでは、 社会的な正義とは個人の正義、 つまり知性と勇気と欲求が調和した状態と類比的に語ることができ、 支配階級、防衛階級、商業階級が調和して社会を営んでいる状態なのです」

「しかし、それではあまりに抽象的すぎて…」

「反論はやめなさい。とにかくわたしを王に指名しなさい。 わたしがやればうまくいくんだから…」

携帯電話

こちらでも携帯電話が発生する電磁波が脳に影響を与えるかどうかが 問題になっているようだが、まだ明確なことはわからない、 というのが現状のようだ。

英国では現在ほぼ二人に一人が携帯を持っているとのこと。

CD as Primary Goods

ついアマゾンに注文してしまった。アマゾン恐るべし。

上のキャロルキングの二枚組のCDは日本にもあるが、安かったので再度購入。 これらのCDがPrimary goodsであることを確認。 バディホリーとキャロルキングを聴かないと生きていけない。


28/Nov/2000 (Tuesday/mardi/Dienstag)

オランダの安楽死法

オランダで安楽死法が今日国会を通過する見通しらしい。 この法が通ることにより、 これまでは厳密には違法だった自発的安楽死が合法化されることになる。

おおざっぱに訳すと、要件は以下の三つ。

  1. 患者はがまんできないほどの絶えまない苦痛に苦しんでいること
  2. 患者が何度も死なせてくれと頼んでいて、 セカンドオピニオンが得られていること
  3. 安楽死が医学的に適切な方法でなされること

患者が16歳以下の場合は、親の同意が必要だそうだ。

(1)が身体的苦痛でなく、精神的苦痛の場合でもよいのか、 という点が論点の一つらしい。

詳しくはBBC NEWSを参照。(追記。無事?通過したようだ)

法哲学の授業

ドゥオーキンの「解釈」についての説明と、 彼によるconventionalismとpragmatism批判の簡単な説明。 今日でこの授業は終了。エッセイの課題が出る。

ようやく尻どころか背中一面に火がついていることに気付く。 遊んでいる場合ではない。遊んでいる場合ではない。

批判をするためには

テートモダンの現代芸術の作品を見て「これは芸術じゃない」と考えるとき、 おれは、自分が持っている「ここからここまでが芸術だ」 という尺度に照らして考えている。はずだ。

この尺度はすなわち現実を批判するための理想であり、 「あれはよい」とか「これはわるい」とか批判活動を行なうための基準だ。

しかし、こういう基準は無批判に身についていることが多く、 『じゃあ、あなたのいう「芸術」って何なの』と訊かれたとき、 自分の持つ尺度についての反省が行なわれる。

その他にも、「かっこいい」とか「かっこわるい」とか、 「自然だ」とか「不自然だ」とかいうような、なんとなく (また無反省のまま)身につく尺度があるわけだけど、 哲学の論文を読んで批判するための尺度はそう簡単には身につかない。 (もちろん文学にしても美術にしても、さらには食べ物にしても、 本格的な鑑識眼はそう簡単には身につかない)

今朝、パソコン雑誌にあったデジカメ16台の優劣比較みたいな記事を読んでいたが、 この場合の尺度は明確で、「値段」「ホワイトバランス」「露出」 「機能の多さ」等々の基準で点数を付けて順位づけを行なうことができる。

しかし、哲学の論文の場合は「この論文は漢字が少ないのでダメです」 とか「この論文は再生紙にプリントしてあるのでダメです」 とかいう基準は使えない。哲学の論文を批判する場合は、 こうした形式的な面ではなく、 内容すなわち議論を批判しないといけない。 (まあ形式的な面では、引用論文の多さとかは多少問題になるが)

論文を批判するさいの基準が具体的にどういうものなのか、 『じゃあ、あなたのいう「芸術」って何なの』 という問いと同様にいまだによくわからないけれども、 とにかくこの基準を身につけるための一つの実践的な方法は、 三流の論文を批判することだろう。 芸術でも良い作品ばかり見ていると何が良いのかはっきりわからないように、 また日本食がいかにすばらしいかということは英国に来てみないとわからないように、 一流の作品と、三流の作品を比べているうちにある程度 「自分の理想」ができてくるのだと思う。

というわけで、 卒論・修論提出予定者はいつでも論文草稿を送ってきてください。

あっ。じょ、冗談です。冗談ですってば。 ものを投げるのはやめてくださいっ。痛っ。

ハートの勉強

5章を読む。ベンタムの『法一般論』の概説。 (1)この本の成立過程と、 (2)ベンタムの命令説はオースティンの理論より精緻だという話と、 (3)主権者の意志は「扉を閉めろ」(命令)、「扉を閉めるな」(禁止)、 「扉を閉めてもよい」(作為の許可)、「扉を閉めなくてもよい」(不作為の許可) の四つがあり、これらが論理的関係を持っているという話と、 (4)民法・刑法という区別は便宜的なものでしかない、という話。

あ〜。まとめてないで、 ハートのベンタム解釈を批判しないといけないんだけどなあ。 しかしアルキメデス点が見つかっていないので批判ができない。 アルキメデスはどこにいるんだろう。

今晩中に6章も読むべし。


29/Nov/2000 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

ベンタムの授業

IPMLの刑罰論について。来週はフーコーのようだ。

チューターの某先生にひさしぶりにお会いする。 エッセイについて早急に要相談。やばい。

『フル・モンティ』

夜、テレビで『フル・モンティ』を観る。 おどろいたことにまったく英語がわからない。 イングランド中央部のシェフィールドのローカルな話だから、 発音がまったく違うのだ。 日本で一度見た映画だから楽しめたものの、 一層の修業の必要を感じた。修業修業。


30/Nov/2000 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

政治哲学の授業

先週から民主主義の話をしているようだ(先週は行き忘れた)。 先週はプラトンとコンドルセの民主主義論を説明したらしい。

今週は「投票するときはどういう動機で投票すべきか」 というおもしろい問題の解説。 各人がさまざまな動機(自己利益、共同体の利益など) から投票するとおかしな結果が出てくる、という話。 くわしくはJ. Wolffの`Democratic Voting and the Mixed Motivation Problem', Analysis 1994.を参照。

時事問題ダイアログ

「今日のThe Independentのコメント欄を読みました?」

「いや、まだ読んでないけど。なにかおもしろいこと書いてあるの」

「英国も高齢化と少子化で、ますます若い世代の負担が大きくなるという話が おもしろいですよ」

「まあそんなに新しい話じゃないけどね」

「それはそうですが。でもこれがなかなかおもしろくて。この記事によると、 ヨーロッパではイタリアやドイツがそのうちたいへんなことになるらしいです。 英国は高齢化の速度が比較的ゆるやかなのと、 そもそもそれほど高額の年金を支給していないので、まだましな方なようです。 しかし、それでも現在の20代の労働者は、年金などで返ってくるお金よりも ずっと多くの税金を取られるとのことです」

「まあ仕方ないんじゃないの。政府がなるべく良い政策を打ち出すべきだろうけど、 若者がより多くの負担を負うことは避けられないわけだし」

「いや、それがヨーロッパでは難しい問題があって、 あまりに若者の負担が大きくなると、 彼らは別の国に移住してしまう可能性があるということです。 これはかなり怖いシナリオだと思いませんか」

「あ、なるほど、税金をあまり取られない国に移るわけか。 日本じゃあまり考えにくいよね」

「そうです。この発想はちょっと日本的ではないですよね。 まあそのうち日本の若者もこれから大変なことになるので、 日本でも同じことが起きるかもしれませんが」

「日本人は日本語しかしゃべれないという言語のバリアがあるから、 国外に移住するのはかなりの勇気と努力がいるよね。 そう考えると日本の教育システムは捨てたもんじゃないなあ。 意図があるのかどうかは別にして、 英会話の能力を育てないことによって若者が海外に流出したり、 優秀な人材が流出するのを妨げているわけだ」

「そうですね。これも自眠党の陰謀の一つかもしれませんね。 しかし、ヨーロッパはそういうわけに行きません。 これはかなり深刻な倫理的問題じゃないですか」

「ん、どうして倫理的問題なの」

「え〜と、若者の自己利益としては、海外に移住したほうが得ですが、 国内に残った若者はその分負担が増えるわけですよね。 国家はなるべく若者を説得しないといけないわけで。 『海外に行けば自己利益になるのに、 どうして国内に残って高い税金を払って 見ずしらずの老人を養わなければならないのか』 という問いは倫理学にかかわるものだと思います」

「なるほど。政治的義務の話でもあるな。 まあ、国外に移住する人には出国する前に たくさんお金を払ってもらったらいいんじゃないの」

「最終的にはそういうことになるのかもしれませんね。 しかし、そう考えてみるとタックスヘイヴンとかいう発想も 一見合理的に見えますけど、 道徳的かというといろいろ問題がありますね」

「なるほどね。 たしかに自己利益と共同体の利益の衝突という 倫理学的問題のように思えてきたな」

「あ。話の途中ですが、もう授業なので行きます。それではまた」

「ではまた」

現代政治理論

この授業もこれからしばらく民主主義の話。

日本にいるときは民主主義(や政治一般) にまったくと言っていいほど興味がなかったが、 最近新聞を読んで世界の情勢についておぼろげながら理解するようになって、 ようやく民主主義に関心が湧いてきた。

来週は5分間の発表をしなければならないので、勉強すべし。

CD

アマゾンについまた注文してしまった。

う〜ん、精神を安定させるためにジャニス・ジョップリンを 必要としていた気がするのだが、あまり効き目がない。 どうも違ったようだ。失敗。

English Mouth

米国では、歯並びの悪いことを`English mouth'と形容するそうだ。 これは、一般に英国人が矯正に無関心なため。 この事実がオースティン・パワーズのジョークのネタになっている。

米国の影響で15年ほど前から矯正が流行りだしたようだが、 ちかぢかNHS(英国の公共健康サービス) が矯正を安く受けられる人数を限定するようで、 English mouthの悪名はとうぶん続きそうなようす。 若者が民間の歯医者で矯正治療を受けるには2500から3000ポンドかかるとのこと。


何か一言

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KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Nov 23 20:40:50 JST 2005