I am a child of my time; we have learned such habits of selfishness, you and I, that the idea of personal sacrifice is as remote as chastity and as threadbare as the elbows on the jacket of a well-loved schoolmaster. This is the age of self-realisation; ask not what you can do for your country, ask, "Hey, what's in it for me?"
Allison Person, `Why it's so hard to find a good teacher', in Evening Standard (01/Nov/2000)
「無政府主義的誤謬」について。 一回の授業で終わるのは無理がある気がする。 週末にマルクスも読むべし。
ショパンの事情で夜のセミナーに出られず。反省。
え、「しょはん」?
朝から大雨。また電車が止まったり洪水になったりするのだろう。たいへん。
エリザベス・アンダーソンによる平等主義の批判。 彼女によれば、 ドゥオーキンにしろコーエンにしろ平等主義者の問題意識は、 せんじつめれば幸運や不運(たとえば生まれの違いや才能の違いなど) をどう処理するかというものであり、 その意味で彼らはおしなべて「運平等主義luck egalitarianism」である。 しかしこのような態度は、障害者その他の「不運な人間」 に対する軽蔑のこもった憐れみを生みだすので、 他者の尊厳を尊重することと相容れない。とかいう話。 そのかわりに彼女はみなが自由で平等な関係にある社会という 「民主的平等主義」の概念を提唱するようだが、 抽象的で何が言いたいのかよくわからない。彼女の論文を読むべし (Ethics 1999)。
まあ平等主義の副産物として軽蔑とか憐れみとかいうのも 生まれるのかもしれないけど、 しかし江戸時代の士農工商の時代だってそういう差別意識はあっただろう。 はたしてこの副産物が平等主義の決定的な批判になるんだろうか。
ちなみに、 ブラウン大学の哲学科のジャーナル(1999) でもアンダーソンを含めて議論がなされているようだ。
今週で平等主義の話は終わり。来週はReading Weekで休講。
ロールズその他の自然的義務(Natural Duty)について。 他人を殴ったり殺したりしない義務とか、 困っている人を(可能なかぎり)助ける義務が、 本人の同意や契約があろうとなかろうと存在するように、 正義にかなった政府を設立したり支持したりする義務が、 契約があろうとなかろうと存在する、という議論。 同意が不要というのがポイント。 あれ、この話、前にも書いた気がするな。
「なんで政治的義務があるんですか」と尋ねているのに、 「そういう自然的義務があるんだ」と答えられても、 あまりに直観的でついていけないのだが、 ホートン(Horton)なんかも、家族の義務について同じような議論をしている。
彼によれば、 「家族にたいする義務」というのは基礎づけ不可能であり、 「なんで家族にたいする義務があるんですか」という彼に尋ねると、 「家族というのはそういうものなんだ」という答が返ってくる。 たとえば、パーティーに参加できなくなった理由が「親父が緊急入院した」 というものであるとき、ホストが 「なぜきみの親父が緊急入院したらパーティーに来れないのか」 と尋ねるのはばかげている。 「そんなことはあたりまえだ、家族というのはそういうものなんだ」 と答えるはずだ、とホートンは言う。
というわけで、同様に、「日本国家の一員である」とは、 「日本国家に対して義務を持つ」というのと同義であって、 「なぜ国家が命令したら、きみはそれに従うのか」 という問いもばかげている、ということになるのだろう。
家族であるとか国家の一員であるという事実そのものが、 義務の根拠になっているという話は一見もっともらしいが、 ホートンの議論でなんかだまされている気がするのは、 定義だと主張することによって、 「である」言明から「べし」言明に移行しているからではないか。
う〜ん。もうちょっと考えてみよう。
ついでに、この文脈では、obligationは契約によって生じる義務(責務)、 dutyは契約なしに生じる義務という区別がなされているそうだ。
しばらくガーディアンを読むことにした。 イヴニングスタンダードに比べると大きいのでうっとうしいのだが、 国外についての記事やオピニオンが充実しているので。 一週間ほど読んだら次はインディペンデントかタイムズに変えよう。
某教授が勲章を授かったという話を聞いた。 おめでとうございます。
ビートルズの公式ウェブサイトが11月13日に誕生するらしい。
www.thebeatles.com
ひさしぶりに本を買った。ロールズの『正義論』は二冊目。 日本から持ってくるんだった。
ドゥオーキンの勉強をする前にハートの勉強。 一次的ルールと二次的ルールの区別は納得できるが、 obligedとobligatedの区別とそれ以降のacceptanceとvalidityの話は納得できない。 もっとよく考えるべし。
明日はドゥオーキンの理論を勉強する予定。
今日のガーディアンによれば、 イラクでは政府の手によって次のような残虐な行為が行なわれているらしい。
これが事実だとしたら、 理屈ぬきで道徳的に不正であり間違っていると思うのだが、 あえて理屈をつけるとすると、どうやって非難したらいいのだろうか。 以下、イラクの代弁者と対話してみよう。
こだま「イラク政府の行為は人権を侵害しているっ」
布施院「あいにくイラク市民は人権を持っていません」
(注: 人権主義者はここでがんばってみてください)
こだま「イラク政府の行為は正義に反しているっ」
布施院「イラクの正義と日本や米国やEU諸国の正義は異なります」
(注: 反-相対主義者はここでがんばってみてください)
こだま「イラク政府の行為は定言命法に反しているっ」
布施院「定言命法って何ですか」
(注: カント主義者はここでがんばってみてください)
こだま「イラク政府の行為はより多くの不幸を生みだしているっ」
布施院「そんなことはありません。処刑される人は多いですが、 市民は満足しています」
こだま「じゃあ市民のホンネを聞いてみようじゃないですかっ」
布施院「よろしい」
ここでほんとに市民が(強制されることなく)「しあわせだ」 と答えたらどうなるんだろう。「幸福な奴隷」の問題だな。 しかしまあ、おそらく大半が「不幸だ」と答えると思う。すると、
こだま「やっぱり市民は不幸だと言ってますっ」
布施院「それがどうかしましたか。すくなくともわたしは幸せです」
こだま「他人の立場に立って物を考えてくださいっ。 あなたが市民だったらどう思うんですかっ。いやでしょっ」
布施院「いえ、わたしが市民だったら売春婦が処刑されて喜ぶと思います」
こだま「あなたが売春婦だったらどう思うんですかっ」
布施院「わたしは男性ですから売春婦の立場には立てません」
こだま「じゃあ政府を批判したら舌を切られた市民の立場に立ってください」
布施院「うっ…」
と言うかどうかはわからないが、 他人の幸福を考慮に入れることを認めさせたうえで、 功利主義で押すというのが有力だと思うのだが、 そう単純にはいかないだろうなあ。
法実証主義批判の部分の勉強。 規則と原則の違い、discretionの話のところ。 あまりはかどらず。
規則が「当てはまるか、当てはまらないか」というデジタル型なのに対し、 原則は、どの規則が当てはまるかを決めるさいに、 prima facieな重みを持つ、という違いがある。 問題は、原則が法体系の外にある道徳的なものなのか (この場合はハートらの法実証主義的理解になる)、 あるいは原則も法体系の一部なのか、ということ。 ここでドゥオーキンはハートらとは違う答えを出すようだ。
discretion(どう訳すのかな)は、 裁判官が困難な事例に判決を下すとき、 実際にやっていることは立法行為である、という法実証主義者による主張。 ベンタムもコモンローについて「あれは裁判官立法だ」 と言っている。 しかし、そうじゃない、というのがドゥオーキンの主張。
メル・ギブソンのThe Patriotを友人の部屋で観る。 舞台は米国独立前夜。 主人公はフレンチ・インディアン戦争の英雄だが、 家族を巻き添えにしたくないという理由で英国との戦争に反対する。 しかし、英国兵によって自分の子供が目の前で殺されたのをきっかけに、 家族や市民を守るために武器を手に立ちあがる、という話。
興味深いのは、 英国軍に立ち向かう主人公の動機が、 「お国のため」というような愛国心ではなく、 あくまで残虐なまでの復讐心であること。 物語全体が、 独立革命が進行するなかで行なわれた仇討ちの話になっていると考えてもよい。
おれだったら、自分の息子が罪もなく殺されたらどうするだろう? 自分の花嫁が殺されたら? 怒りにまかせて殺人者を殺すだろうか? しかし、そうすることによって得られるものってなんなんだろう。 正義? 自己満足? 主人公があるシーンで問うように、 「自分の息子が殺されたこと」は、なぜ 「殺人者を殺すことで帳尻がつくjustify」のか? う〜む、応報についてもっとよく考えないといけないな。
というわけで、米国独立革命に興味がある人、 復讐とか応報とかいうことを考えたい人にお勧め(かもしれない)。 C+。
ガーディアンはゴアを支持しているようだ。 オピニオン欄の記事の偏向はすごくて、 要するに、 「ブッシュは何も知らない右翼バカだからゴアじゃなきゃだめ」 というようなことが書いてある(昨日の記事)。 いや、ひょっとするとその通りなのかもしれないが。
`The manner in which this year's presidential campaign has been fought leaves much to be desired. Too often it has appeared as a mere beauty contest between two not particularly beautiful man.' --from The Guardian, 04/Nov/2000.
また、投書欄には、 先日のイラクの人権侵害の記事についてのある国会議員の意見が出ていて、 「あんな情報はぜんぶ嘘っぱちに決まっている。 ロクでもない筋から得た情報を一面に掲載して得意顔をしている ガーディアンも落ちたものだ」ということが書いてある。
米国もそうだが、こちらの新聞は夕刊がない代わりに非常にぶ厚い (とくに土曜日と日曜日)。 速読の練習に持ってこいだが、 真剣に読み出すと主要な記事を読むだけで半日かかってしまう。 そのためかどうかは知らないが、 ガーディンアンは金曜日にその週の主な記事を要約した冊子を付けているようだ。 この冊子は国内外の事件や書評・映画評がよくまとまっていて助かる。 ついでにその冊子に抜粋されていたagony aunts(人生相談)の記事を一つ訳しておこう。
ジュールズさんへ、『アティテュード』(雑誌名)、10月号:
わたしはほんとにひどい自分の体臭に困っています。 …デオドラントをいろいろ使ったり、毎日シャワーを浴びたりしてみましたが、 どれも効き目がありません。どうしたらいいんでしょうか。ジュールズより、
今後けっして家から出ないというのは試してみましたか? 真夜中に飛行機から食糧を家の裏庭に落としてもらえば、 買物に出かけて小さな子供をこわがらせるなんてことをせずに済むかも知れませんよ…。
キングズコレッジの隣には美しいサマーセットハウスという建物があるのだが、 その中にある美術館に行ってきた。 月曜日の朝から昼すぎまで無料で入れると聞いたので、 わざわざ朝から行ったのだが、イギリスの学生ならいつでも無料で入れるようだ。
ルーベンス、アンソニーファンダイクなどのフランドル画家の絵画や、 セザンヌ、スーラその他の印象派の絵画が充実している。 こじんまりしていて雰囲気のよい美術館。
Prolife Allianceの連中が分離手術を阻止すべく運動していたようだが、 ついに今日から手術がはじまったようだ。
「ラズとハート」についてというテーマで議論が始まったが、 法と道徳の話に終始していた気がする。 ラズの勉強をあまりしていかなかったので口を挟めず。 要反省。
学生の一人が、 「裁判官がhard cases(判決が難しい事例)で行なっていることが 道徳の領域に入ろうと、法の領域に入ろうと、 そんなことどっちでもいいじゃないの」 と主張していたが、 先生も困っていたようだ (最終的に「そういうこと考えるのって楽しいじゃないの」と答えていた気がする…)。 たしかにこの争点(judicial discretionをめぐるドゥオーキンとハートの議論)は、 どういう実践的含意があるのかよくわからない。
図書館の書庫でふと手にした本がおもしろいので読みふけってしまう。 J.G. Riddallという人のJurisprudenceという本。 法学部生向けの法哲学の入門書で、 第一章はなぜ法哲学が法学部生に嫌われるのかを説明している。 用いられている言葉が難解だとか、 問いに対する明確な答えがないとかいろいろ理由が挙げられているが、 とりわけ次の理由が現実味があっておもしろい。
法について書くとき、 著者はこれまでに誰も思いつかなかったような考えを生み出す必要はない。 そこでたとえば、上で述べた、あたりをうろつく権利(right to roam: たぶん法の専門語があるんだろうけど、知らない) に関連する問いについて書く場合は、 判例を徹底的に調べて法の現状についての結論を引出しさえすれば、 それで十分である。 しかし、法哲学においては、何か新しいことを言うことが理想である。 ときおりこの理想は現実化されることがある。 その事例は本書で後に述べられるが、 たとえばハート教授の法体系の考え方や、 ロールズ教授の正義の本質について考え方がそうである。 けれども、独創的な考えは簡単には生まれないし、 まためったに生まれないものである。 しかし、法哲学で食っている人間は --少なくとも昇進する機会を得るためには--論文を書く必要がある。 そこでどういうことが起きるかというと、 ある学者(A氏)は、たとえば正義について独創的な考えを持っていないとしても、 誰か他の人物が正義について述べた見解については独創的な考え(たいがいは批判) を持っていることがありうる。 そこでA氏は、たとえばロールズによって表明された正義概念について、 彼がその欠点と考えるものを指摘した論文を書く。 次にB氏が登場する。 彼は正義についても、ロールズの正義概念についても、 独創的な考えを持ちあわせていない。 けれども彼はA氏の見解に欠点を見つけだす。 そこで彼はA氏の見解の欠点を指摘した論文を書く。 次にC氏が登場する…。
そこで、法学部生が論文を読み始めると、 彼は自分が勉強するつもりの思想家の思想からは 自分が何歩か離れていることに気付く。 たとえば、ジョン・ステュワート・ミルについてのチュートリアルの準備を しているとき、彼が読んでいるのは、 ミルの自由概念をバーリンが分析したものについての マクロスキーの見解を論じたサメックの論文であるかもしれない。 あるいは、 道徳の強制についてのミルの見解に異論を唱えたデヴリンに対するドゥオーキンの 態度についてのサルトリウスのコメントかもしれない。 または、 デヴリンによって提出された反論に答えしかもドゥオーキンとハートによって 提出された論点に含まれる難点を避けるためにミルの議論を サルトリウスが再定式化したものについてのレイノルドの見解かもしれない。
(J.G. Riddall, Jurisprudence, Butterworths, 1991, pp. 6-7)
もう数時間もすれば結果が出るようだ。 今日はインディペンデントを買ってみたが、 この新聞もゴア(民主党)を支持している。
共同の洗面所に行くと、 歯を磨いている中国人の友人 --彼はいつも狂産党の悪口を言っている-- に会ったので、「中国にも民主党はあるのかね」 と聞いたら吹き出していた。
(しかし彼によると実際に「民主主義党」というのが存在するらしい。 ただし、これは違法の政党で、党員のほとんどは獄中にいるとか)
オクスフォード・ストリートとトテナムコート・ロードがぶつかるところから 西に50メートルほど行ったところに24時間営業のコンビニがある。 その中にひっそりとブラジル料理のホットフードコーナーがあるのだが、 ここのFeijao do Luisがたいへんおいしいのでときどき歩いて食べに行く。
ブラジル人の友人によると、 この料理はブラジルの一般的な家庭料理の一つで、 黒マメとポークとライスでできていて、 見た目はハヤシライスみたいな感じ。 黒豆が溶けているドロっとしたスープは下手をすると腹にもたれるが、 お腹が空いているときはとてもおいしい。
ポークが入っているので本来ベジタリアンが食べるべき料理ではないのだが、 おれは破戒ベジなのでどうしても食べたくなるとつい下山して食べに行ってしまう。
ついでにヴァージンメガストアでU2の新譜とBlurのベストアルバムを購入。
昨日見つけた本は、 第2章以降はまじめにかつ簡潔に書かれてあるので最後まで読んでみることにした。 今日はオースティン、ハート、自然法思想のところ。
(追記) とても良い本なのでアマゾンで昨日注文したところ、 去年第二版が出たところらしい。 今日寮に戻ったらさっそく着いていた。
友人に会いにリーズに行ってきた。 8日の真夜中に深夜バスに乗り、 9日の早朝に到着。 武器博物館やリーズ大学を訪れたあと、 夕方にふたたびバスに乗り、ロンドンへ。 一日中市内を歩き回ったうえ、 バスではほとんど寝れなかったので、 戻ってきてから死ぬように眠る。 睡眠がたいへん貴重なものであることを再確認。
リーズで撮った写真の一部を掲載しておく。 今回も重いので要注意。
リーズメトロポリタン大学の中の古本屋で一冊本を購入。
先日買った本の、ハート・フラー論争、 ドゥオーキンの『権利論』と『法の帝国』のところを読む。 ハート・フラー論争はまとまりが悪いが (というかフラーの「法の内的道徳性」の説明以外に内容がない)、 ドゥオーキンのところは比較的よくまとまっているようだ。
ドゥオーキンの主張は、 (1)既存の法律の適用が困難なケースにおいて裁判官が行なうのは 「新しい法の創造」ではなく、 社会的な文脈に照らした「法の発見」あるいは「解釈」であり、 そして、この解釈においては、 (2a)法の解釈において裁判官は社会の福利ではなく個人の権利に焦点を当て、さらに、 (2b)「公平」や「正義」という観点だけでなく、 law as integrityという観点からも考察しなければならない、 という三点にまとめられると思う。 integrityは「法の全体性(一貫性)」という意味だけでなく、 個々人を平等に取り扱うことなど他の意味も含まれているようで、 訳を付けるのがやっかいみたいだ。
(1)hard casesについて判決を下すとき、「法を新たに創造した」のか 「文脈に照らして正答を見つけだした」のかというのは不毛な議論の気がするのだが、 どうなんだろう。たとえば、「バナナはおやつかどうか」 という裁判が起きて、裁判官が「バナナはおやつです」と決定したら、 それは創造なのか発見なのか。どっちでもいい気がするけど、 まあどちらの回答をするかによって裁判官に多少の影響はあるのかもしれない。 (「バナナはおやつかどうか」という例は述べられていないが、 この手の話で有名な例は「公園に乗り物で入ってはいけない」 というただし書きがある場合、「三輪車は乗り物かどうか」 という問いにどう答えるか、というもの)
(2a)についてはなぜそうなのか理由がわからないので要勉強。 (2b)は意味不明。 ドゥオーキンのような権威者が主張したのでなければ、 ただちに闇に葬りさられていたのではないかと思うのだが、 まあもう少し勉強してみよう。