序論


英国の功利主義者ジェレミー・ベンタム(1748-1832)の倫理学説に対してこれ までにしばしばなされてきた批判の一つは、彼の規範に関する主張と人間本性 に関する主張が両立しないのではないか、というものである。この批判は、た とえば次のような形で述べられる。

ベンタムは、要するに、人々は一般幸福を目指すべきであると主張する功利主 義と、事実として人々は常に自分自身の幸福を目指すと主張する利己主義の両 方を主張したのである。……。

批判者たちはしばしば、これら二つの教義がなんらかの仕方で不整合であると 論じた。それらが直接的に両立しえないものではないことは、十分に明らかで ある。というのは、それらの一方は、人々が事実どのように振舞うかを述べて おり、他方は、人々がどう振舞うべきかを述べているからである。しかし、普 通は、ある人があることをできないのに彼がそれをすべきである、ということ はありえないと考えられている。そこで、もし彼が自分自身の幸福しか目指す ことができないのであれば、彼が一般幸福を目指すべきだということはありえ ないことである。(Quinton 1988 6)1

この批判によれば、ベンタムは次の二つの主張をしているとされる。

  1. 人は、集団全体の幸福(一般幸福)を促進すべきである
  2. 人は、事実、常に自分自身の幸福を目指す

ところが、これら二つの主張の間には、一見して奇妙な歪みがあるように思わ れる。事実、常に自分自身の幸福を目指す人々が、 なぜ集団全体の幸福を促進すべきなのだろうか?

もちろん彼は、1.の規範が2.の人間本性に関する事実から論理的に導き出され るとは考えていなかった。とはいえ、彼は、1.の規範が2.の人間本性に即した ものであると考え、そして人々は1.の規範を無理なく受け入れることができ る――それどころか、他のすべての規範の中で、最も優れている――と強く信 じていた。しかし、彼のそのような信念にも関わらず、ベンタムの功利主義に おけるこの「二つの側面」は、「彼の弟子にも論敵にも大きな混乱を引き起こ してきた」(Sidgwick 1877 468)。

もっとも、これら二つの主張は、上の引用にもあるように、一方は規範命題で あり他方は事実命題であるから、両者が直ちに矛盾するわけではない。しかし、 ある人にできないこと(たとえば、100メートルを5秒で走る、 同時刻に異なる二つの場所にいる)をすべきだと言っても不 合理であろう。そこで、いわゆる「『べし』は『できる』を含意する」という 原則を認めるとすると、1.の規範は、「人は、集団全体の幸福を促進すること ができる」という言明を含意していることになる。けれども、2.の人間本性に 関する主張からすると、全体の幸福と自分の幸福が衝突する場合には、人は常 に自分の幸福の方を優先するであろうから、全体の幸福を促進すべしという規 範には従うことができない。そこでベンタムのこれら二つの主張は両立しない と言われるわけである2

以上で説明された批判を、「両立不可能性の批判」と呼ぶことにしよう。この 批判は、一見するともっともで、ベンタムの倫理学説はまさにその出発点から 誤っているかのような印象を与える。また、それゆえ、これまで多くの研究者 がこの批判を取り上げ、それが当たっていないことを示そうと試みてきた。こ の批判に対してこれまでになされてきた応答は、次の二つに大別されると思わ れる。

一つは、ベンタムはそもそも全体の幸福と自分の幸福が衝突するとは考えてい なかった、というものである。すなわち、いささか楽観的かもしれないが、彼 は、上の1.と2.の主張に加えて、「3. 少なくとも長い目で見た場合、集団全 体の幸福を促進する行為によって個人の幸福は最も促進される」と考えていた ので、個人は全体の幸福を促進する行為をすることができる、というものであ る。(3.の主張は一般に「利益の自然的調和(一致)the natural harmony of interests」と呼ばれる)

もう一つは、この批判で仮定されている「『べし』は『できる』を含意する」 という原則に疑問を呈する応答である。この原則に含まれる「できる」の意味 はあいまいであるように思われる。たしかに、論理的物理的にできないことを「すべし」と言うことは不合理か もしれない。けれども、人が自発的にはできないことを、 「すべし」(あるいは「正しい」)と言うことには意味がありうる。そこで、も しベンタムが、たとえば「人が(法などによって)強制されるならばできること」 も「できること」の一部としてみなしていたとすれば、「人は、集団全体の幸 福を促進することができる」ことになり、この批判は当たらないことになろう。

結論を先取りして言うと、これらの応答のうち、ベンタムの意図をより反映し ているとわたしに思われるのは、二つ目の線にそったものである。しかし、一 つ目の応答がなぜ駄目なのか、あるいは彼の考えとはどういう風に異なるのか を示すことは有益であろう。

だがまず、この応答を検討する前に、ベンタムの規範に関する主張と、人間本 性に関する主張をそれぞれ別個に説明しておく必要がある。とりわけ後者の主 張を明らかにしておくことが、この批判を検討する上で重要である。というの も、これまでの研究においては、彼の規範に関する主張は多かれ少なかれ彼の テキスト――特に彼の主著と言える『道徳と立法の諸原理序説』――に基づい て検討されてきたのに対し、彼の人間本性観はあたかも自明のものであるかの ように、彼のテキストにほとんど言及されることなく説明されてきたきらいが あるからである。

その原因はいくつか考えられるが、その一つは、彼の人間本性に関する主張が 詳しく説明されている『倫理学(義務論Deontology)』は、ベンタム の死後まもなくしてJ・バウリングの編集によって出版されたが、この著作に は編集上の問題が多くあるために、ベンタムの思想を忠実に表現しているもの なのかどうかが疑われてきた、ということがある。しかし、さいわいなことに、 今世紀の後半になってから信頼のおける新たな全集の刊行が始まり、すでに 『倫理学』や『行為の動因の一覧表』などの倫理学的色合いの高い著作も、ベ ンタムの草稿に忠実に基づく形で入手可能になった。したがって、これらのテ キストに基づいて彼の人間本性に関する主張を再検討する必要があると思われ る。

そこで以下では、まずベンタムの規範に関する主張と人間本性に関する主張を 順に検討し、その後、両立不可能性の批判に対するこれら二つの応答が、批判 に十分答えうるものかどうか、そして彼のテキストにどの程度基づくかを考察 する。


  1. このような批判については、 Ayer 1954 254ff; Plamenatz 1949 9-10, 71-2; Plamenatz 1963 9-10; Sterns 1975 589-590; Hart 1982 xcii; 内井 1988 167-8; Dinwiddy 1989 28; Lyons 1991 12なども参照。
  2. ただし、全体の幸福と自分の幸福が一致する場合には、 人は自分の幸福を促進すると同時に全体の幸福をも促進するであろうから、 全体の幸福を促進することができる。 しかし、この場合でも、当人が不可避的に正しい行為をなすのであれば、 そもそも1.の規範を主張する意味がない、と批判される(内井 1988 168)。 この点に関しても後に検討しなければならない。 本論文32頁以下参照。

説明と弁明

はじめは、序論の部分で、もう少し大きな話(ベンタムの倫理学説が、 「個人の利益と集団の利益の衝突をどのように解決するのか」 という英国の道徳哲学の基本的問題の一つに取り組むものであることなど) をしようと思っていたんだけど、 結局いきなり特定の問題を論じることにした。 できればもっと一般的な議論を導入にしたかったんだけどね。 結局のところ、まだそれほどの力量はないのだ。

また、某先輩に、 序論と本論の最初の議論が重なっていると指摘されたので、 本論の最初の部分を削った。その分読みやすくなったと思う。


論文のテーゼ

この論文は、 「ベンタムの規範的主張と人間本性に関する主張は両立しうるかどうか」 という問いに対して、 肯定の答えでもって議論するものと言える。


ベンタムに対する批判

この批判は、要するに、 「ベンタムはできないことをすべきだと言っている。 というのは、彼によれば、人は本性的に自分自身の幸福を追求するというのに、 人が追求すべき目標は自分自身の幸福ではなく、 全体の幸福だというからだ」ということ。

この批判を紹介するために、 最初にクイントンの引用が出てくるが、 他に、ラッセルの『西洋哲学史』や、 プラムナッツの『人と社会』なんかからも引用しようと思っていた。 参考のために以下に引用しておこう。

もし各人が、事実、そして不可避的に、自分自身の幸福を追求するのであれば、 彼に何か他のことをすべきだと言っても無駄である。 カントは「汝は〜すべきだ」は「汝は〜できる」を含意していると主張した; 逆に、もしあなたができないのであれば、 あなたは〜すべきだと言うことは無益である。
(Russel 1961 744)

心理的利己説は最大幸福原理と両立しないと論じられてきた。 もし利己説が真であれば、 わたしは自分自身の幸福に役立つ振舞いが同時に他の人々の幸福にも 役立つ間は最大幸福原理を受け入れることができるが、 わたしの幸福に役立つことと彼らの幸福に役立つものとの間に相違があれば、 もはやわたしは最大幸福原理を受け入れられない。
(Plamenatz 1963 9)


批判に対する応答

はじめは「応答」ではなく「反論」にしてたんだけど、 某先輩に「反論」だと「批判」とごっちゃになって わかりにくいかもしれない、と言われたので、 「応答」か「回答」のいずれにしようか考えた末、 結局「応答」とした。これもどうでもいいが。

この批判に対する応答は、書いてあるように、二種類に大別される。 これも細かいことを言えば、 「自分の幸福は全体幸福の一部である」 というDinwiddy(Dinwiddy 1989 28-9)の指摘などもあるのだが、 そういうのには言及しないことにした。

一つ目は、利益の自然的調和説を想定する応答。 これは、社会全体の利益を促進すると、自然と、 自分の利益も最も促進されるんだから、 自分自身の幸福を追求する人は当然、社会の利益を、自己利益追求の手段として 追求することができる、と答えるもの。 はじめのうちは、この考え方はばからしいと思ってたんだけど、 よく考えたところ、いささか宗教的というか、眉唾の議論とは言え、 少なくとも、理論的な問題はない(議論として一貫しうる)と思うようになった。 しかし、本論で述べられるように、 ベンタムはこういう考え方はしていないと思う。

二つ目は、「べしはできるを含意する」という、 通常カントに帰せられる原則を問題にする応答。 ベンタムの規範と事実の二つの主張が両立しないという批判は、 この「べしはできるを含意する」という原則を前提としてるんだけど、 この「できる」「できない」という意味があいまいなので、 そこを問題にしようというわけ。 そこで、以下では、 「たしかに自分自身の利益を追求する人は、 自発的には全体の利益を追求することができないかもしれないけど、 法や道徳の力によって、 全体の利益を追求することが同時に自分の利益になるようにすれば、 彼らは全体の利益を追求できると言える」という風に論じることになる。

なお、二つ目の議論を一つ目と対比させて 「利益の人為的調和説を想定する応答」と命名 しなかったのは、 本論で見るように、 一つ目の議論は、 たしかに全体の利益と個人の利益の自然的調和を想定しているけれども、 だからといって法や道徳による人為的介入を認めないわけではないので、 自然と人為という二分法にするのは不適切だと思ったから。


先輩に、 序論でもっと自分の独自性をアピールするようにと言われたけど、 あんまりできなかったなあ。 まあ、この論文で取り扱っているテーマをきちんと論じている論文って、 おれの知るかぎりないと思うんだけどね。



KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Apr 20 12:22:58 JST 1999