本論

3. 第一の応答: 利益の自然的調和について


3.1. 批判をかわせるかどうか

一つ目の応答は、先に見たように、集団全体の利益と個人の利益には自然的な 調和があるという想定をベンタムがしていた、と考えることである。すなわち、 この応答によれば、ベンタムは以下の三つの主張を行なっていたことになる。

  1. 人は、集団全体の幸福を促進すべきである (功利性の原理)
  2. 人は、事実、常に自分自身の幸福を目指す (心理的利己説+通常の利己主義)
  3. 少なくとも長い目で見た場合、 集団全体の幸福を促進する行為によって個人の幸福は最も促進される
3.の想定を、利益の自然的調和説と呼ぼう。この想定は、もし「長い目で」と いう表現を、来世をも含むものとして考えるならば、W・ペイリーやオースティ ンらのいわゆる神学的功利主義者が採用していたものだと言える 1

もしわれわれがペイリーやオースティンのように神と来世の存在を信じるのな らば、神学的功利主義者の議論は強力である。というのも、全体の幸福を促進 することによって自分の幸福が長い目で見て最もよく促進されることが神によっ て保証されているのであれば、たとえわれわれが--ベンタムの考えるように-- 他人の幸福よりも自分の幸福により大きな利害関心を持っているにせよ、われ われは常に功利性の原理(またはそれを通じて知られる神の意志)に従うことが 可能だからである。それゆえ、神学的功利主義においては、この1.と2.の主張 の両立不可能性の批判は回避されることになる2

しかし、ベンタムの倫理学説においては、神の意志や来世が重要な役割を担う ことはない。『倫理学史概説』においてH・シジウィックが述べているように、 「彼自身は、万能で博愛的な存在者の意志を、個人と全体の幸福を論理的に結 びつける手段としては用いていない」(Sidgwick 1988 243; cf. Sidgwick 1877 478)のであり、「かくして、彼は明らかに自分の体系を簡潔なものにし ており、そしてペイリーの立場に含まれる自然と聖書からの疑わしい推論を避 けている」(ibid.)。けれども、そのすぐ後にシジウィックが適切に指摘して いるように、「この長所は高い代償を払って手に入れられ」(ibid.)たのであっ た。彼は続けてこう述べている。

というのも、次の問いが直ちに生じるからである。「それでは、人々が遵守す れば一般幸福に最も役立つような道徳規則に対するサンクション[拘束力]が、 その規則を守ることを要求される個々人全員の場合において常に十分であるこ とが、いかにして示されるのであろうか?」(ibid.)
すなわち、もしわれわれが、神学的功利主義者たちが考えたように、全体の幸 福を促進することによって自分の幸福が最も促進されると想定するのでなけれ ば、概して利己的なわれわれは全体の幸福を促進する十分な動機を必ずしも常 には持たないことになる。そして、心理的利己説の立場に立った場合、十分な 動機(あるいは利害関心)がなければ、ある行為がどれほど全体の幸福を促進す るとしても、その行為はできないのである。そこで、1.と2.の主張は両立不可 能ではないのかという批判が生じるのである。

ベンタムの倫理学説はペイリーらのものに比べて世俗化している分、宗教と道 徳を結びつけて考えない今日のわれわれ(あるいは少なくともわたし)にとって 受け入れやすいものとなっているが、そのかわりに、1.と2.の主張の両立不可 能性という批判に答えなければならないという「高い代償」を背負い込むこと になった。そしてこの批判に対する応答の一つとして考えられるのが、 現世においても、3.の想定が成り立つと考えることなので ある。現世においてさえ「徳と幸福は一致する」と考えるこの想定は、われわ れの日常的な経験からすると、あまりに楽観的すぎるように思えるかもしれな い。とはいえ、たとえ経験的には楽観的すぎるように思えるにせよ、この想定 は論理的に不可能であるわけではない。実際のところ、もしベンタムがこう想 定していたとすれば、両立不可能性の批判は当たらないことになり、加えて、 集団全体の利益を促進することが自分の利益を最も促進することになるのなら、 利己的な本性を持つ人々にとっても、功利性の原理は非常に望ましい規範とな るであろう。したがって、この想定をすれば、彼の倫理学説は非常にうまくい くのである。

しかし、ベンタムが利益の自然的調和説を想定していたと 考える場合、次のような反論が予想される。「集団全体の利益と個人の利益に 自然的な調和があるのであれば、人々は自分の利益を追求することによって常 に(あるいは自動的に)全体の利益を促進することになり、法や道徳によって人 の行動を規制する必要がなくなるであろう。しかし、ベンタムは実際のところ 法や刑罰の必要性を認めているのだから、彼がそのような想定をしていたとは 考えがたい。」

たしかに、「集団全体の利益と個人の利益には自然的な調和がある」と言った 場合、「人々は好き勝手に行動すれば、自然と全体の利益を追求することにな る」という風にも理解できるので、この反論はもっともである。しかし、通常、 利益の自然的な調和というのは、「全体の利益を促進する行為は、常に自分の 利益を最も促進する」ということと、その逆である「自分の利益を最も促進す る行為は、常に全体の利益を促進する」ということを意味するが(cf. Lyons 54-5)、必ずしも「自分の利益を追求する行為は、常に全体の利益を促進する」 ということを意味するのではない。というのも、人々は、自分の利益を追求し ているつもりでも、自分の利益を最も促進するこ とができない場合がままあるからである。この点に関して、クイン トンは次のように述べている。

一般的に言って、功利主義者は利益の自然的な調和があることを主張する。こ れによって彼らが意味するのは、一般幸福を目指す行為は、事実、最もよく行 為者自身の幸福を実現するということである。このことが真である限りにおい て、あるいはより正確には、このことを信じるもっともな理由がある限りにお いて、合理的な行為者は、一般幸福を追求することにより、自分自身の最大の 幸福を達成するための最も合理的な方針をとることになる。しかしこの利益の 自然的な調和は、もし人々が、外部からの指導ないし干渉なしに、彼らの選ぶ がままに行為することを許されたとしても達成される、というわけではない。 なぜなら、人々はみながみな合理的なわけではないし、またおそらく完全に合 理的である人は一人もいないからである。……。
彼らは自分自身の最大の幸福を生み出すと思い違いしているものを目指すであ ろう。彼らに正しく行為させるためには、自分自身の幸福に対して自分の行為 が持つ長期的な帰結についての誤ちを彼らに悟らせるよりも、彼らが行ないが ちである望ましくない行為に法的またはその他のサンクションを付加すること によって、彼らの行為によって起こりうる短期的な帰結を変えた方が簡単であ る。(Quinton 1988 7-8)

すなわち、人々が、全体の利益を促進することによって自分の利益が最もよく 促進されるという考えを受け入れるとすれば、彼らは全体の利益を促進するこ とが自分の利益を促進するための最も合理的な手段であることを知るであろう。 しかし、人々は必ずしも常には十分に合理的ないし賢明であるわけではないの で、全体の幸福を促進するという最も合理的な手段をとらずに、他の誤った仕 方で自分の幸福を促進しようと考えるかもしれない。それゆえ、長い目で見る と全体の利益を促進することで自身の利益が最もよく促進されることを彼らに 悟らせるか、あるいはより簡単には、法などの手段によって、彼らが目先の利 益に惑わされて誤った判断をしないようにする必要があるわけである。

しかしながら、法や道徳などの人為的な手段を用いるからと言って、利益の自 然的調和という想定が崩れるわけではない。全体の利益を促進する行為が自分 の利益を最もよく促進するという想定をした場合でも、人々が必ずし も常には自分の真の利益を知っているわけではないと考えるのであれば 、法や道徳が介入する余地が存在するのである3

したがって、もしベンタムが1.と2.の主張に加えて、全体の利益を促進する行 為は、自分の行為を最もよく促進するという利益の自然的調和説をとっていた とすれば、人々は実際は必ずしも常には全体の利益を促進 するわけではないにせよ、少なくとも原理的には常に全体 の利益を促進する行為をなすことができることになり、したがって、ベンタム の規範に関する主張と人間本性に関する主張は両立しないという批判は当たら ないことになる。


3.2. ベンタムのテキストに基づくかどうか

そこで問題は、ベンタム自身が実際にこの想定をしていたのかどうかである。 さきほど挙げたクイントンは、利益の自然的調和という仮定を用いるならば、 功利主義一般に対してなされる両立不可能性の批判に反論することが可能だと 述べるだけで(Quinton 1991 9-10)、ベンタムのテキストに基づいて議論して いるわけではない。

一方、シジウィックとライオンズは、ベンタムが少なくともその生涯の一時期 においては、利益の自然的調和を信じていたことが彼自身のテキストから読み 取れると主張している。彼らの基本的な主張は、ベンタムが実は、集団全体の 利益を促進する行為をすべきだとする功利性の原理とともに、各人は自分の利 益を促進する行為をすべきだとする倫理的利己主義 ethical egoismをも採用していたとするものである。しか し、集団全体の利益と個人の利益が場合によって衝突するのであれば、これら 二つの基準を同時に採用すると矛盾が生じることになる。それゆえ、彼らによ れば、ベンタムは「集団全体の利益を促進する行為は自分の利益を最もよく促 進する行為である」という利益の自然的調和説をも採用していたはずだという ことになる。(Sidgwick 1988 244; Lyons 1991 21-81)

ただし、ベンタムが利益の自然的調和説を採用していた時期については、彼ら は意見を異にしており、ライオンズはベンタムが『序説』を書いていたころ、 すなわち彼の生涯の前半において利益の自然的調和説を信じていたと考え、シ ジウィックはベンタムが『倫理学』を書いていたころ、すなわち彼の生涯の後 半ないし晩年において、利益の自然的調和説を信じていたと主張している。

彼ら二人の議論をここで詳細に検討することはできないが、彼らはベンタムが 利益の自然的調和説を採用していたという直接的な証拠を挙げていないのに対 し、ベンタムが彼の人生の前半においても、後半においても、利益の自然的調 和説を採用していなかったという証拠は十分あるように思われる。

まず、『序説』においてベンタムが利益の自然的調和説を採用していなかった 証拠と思われるものを一つ挙げる。これはスターンズの指摘であるが、『序説』 第17章には次のような文章がある。

道徳的義務の規則の中で、立法の助けを最も必要としないように思われるのは、 自愛の思慮prudenceの規則である。もし人が自分 自身に対する義務の点で欠陥があるとすれば、それは知性におけるなんらかの 欠陥による以外にはありえない。もし彼が不正なことをするのならば、彼の幸 福を左右する状況に関する、なんらかの不注意 inadvertenceまたは誤った想定 missupposalのせいでしかありえない。(IPML 289-90; Sterns 1975 587)

若干の説明を加えておくと、ベンタムは、『序説』第17章において法と道徳の 区別を論じるにあたり、人の行為を大きく二つに分け、自分しか利害関係を持 たない行為と、自分だけでなく他人も利害関係を持つ行為に区分し、前者を促 進することを自分自身に対する義務、後者を促進することを他人に対する義務 と呼んだ。そして、ある人が自分自身に対する義務を果たすならば、その人は 自愛の思慮を持つと言われる。また、他人に対する義務は、他人の幸福を増や す積極的な義務と他人の幸福を減らさない消極的な義務とに分かれ、ある人が 前者の義務を果たすならば、その人は善行の徳beneficenceを持つと言われ、 後者の義務を果たすならば、誠実さprobityを持つと言われる (IPML 283-4)。

そこで、上記の引用では、これら三つの義務の中で、法の干渉を最も必要とし ないのは、自分自身に対する義務だと言われているわけである。そして、ベン タムによれば、法がこの領域に関して干渉しない理由は、各人が自分自身に対 する義務を果たさない場合、それは彼らが自分の幸福を追求しようとしないか らというのではなく、自分の幸福を得る手段に関して勘違いがあるから、すな わち十分に賢明でないからというのである。そこでスターンズは次のように述 べる。

もしも政治的刑罰の意義が、行為者に自分自身の利益がどこにあるのかを認識 させることにあるとすれば、上記の[ベンタムの]議論は、自愛の思慮における 欠陥を罰しない理由にはなりえないことになる。われわれは、ベンタムが自愛 の思慮における欠陥と共同体の利益に関する欠陥との間に、区別をしていると 結論すべきであろう。われわれが共同体の利益に関して不道徳に行為するとき、 それはしばしば、単にわれわれが自分の行為の長期的な帰結を知らないからに すぎないわけではない。そうではなく、……、共同体の利益と自分自身の利益 が衝突するからである、……。(Sterns ibid.)

スターンズの議論は背理法を用いているので若干ややこしいが、敷衍して説明 すると、こういうことであろう。すなわち、ライオンズのような利益の自然的 調和説の立場をとるとすれば、人々は自分の幸福を十分に賢明に促進するなら ば、その際に、集団全体の幸福をも促進することになる。したがって、刑罰の 目的は、個人の利益を集団の利益と人為的に調和させることではなく、十分に 賢明には自分の幸福を促進することのできない人々のために、各人の「本当の」 利益がどこにあるのかを示すことである。しかしそうだとすると、上で引用し た「自分自身に対する義務を果たせないことがあるとすれば、それは十分に賢 明でないからである」という趣旨のベンタムの主張は、この領域に関して法が 積極的に干渉すべきでない適切な理由にはならないことになる。むしろ、刑罰 の目的が自分の幸福を十分賢明に追求できない人の手助けをすることであれば、 法はこの領域に関してもパターナリスティックに干渉すべきことになるはずで ある。しかし、ベンタムは実際のところこの領域に関して法はあまり干渉すべ きでないと考え、他の領域――とくに他人の幸福を減らさない義務――に関し て、法は積極的に干渉すべきだと考えているのであるから(IPML 292)、彼は前者の領域ではなく後者の領域のみに干渉すべきだと言えるための 何か別の理由を持っていたはずである。そしてそれは、スターンズの言うよう に、他人の利益にも影響を持つ行為の領域に関しては、たとえ自分の幸福を十 分賢明に促進する場合でさえ、人は他人の幸福を減らしてしまう場合がある、 すなわち、見かけだけではなく、実際に利益の衝突がある、とベンタムが考え ていたからだと思われるのである4

次に、『倫理学』の頃のベンタムが利益の自然的調和説を採用していなかった 証拠を見てみる。

シジウィックは、1877年の「ベンタムと政治学と倫理学におけるベンタム主義」 においては、ベンタムは人生のどの時期においても利益の自然的調和説を採用 していなかったと考えていた。というのも、『倫理学』におけるベンタムの見 解は、初期の『序説』や、『倫理学』とほぼ同時期に書かれていた『憲法典』 に比べると5、個人の利益と全体の利益の衝突の可能性 に関して楽観視しすぎており、当時のシジウィックには、『倫理学』における そうした主張は、その編者であるバウリングの思想であるように思われたから である。彼はこう述べている。

しかし、道徳家の主な仕事は、人々に対して、彼らの幸福が自らの義務と分か ちがたく結びついていることを示すことだと考えることと、二つの概念[幸福 と義務]が経験において普遍的に一致すると主張し、そして(純粋に世俗的な見 地から)「悪徳は見込みの誤算miscalculation of chancesであると定義されう る」と主張することとは、まったく別のことである。後者は『倫理学』の大部 分を通して暗黙のうちに用いられている根拠である。たしかに、前者の立場か ら後者の立場へと進むことは、熱狂的であまり頭の明晰でない弟子[バウリン グのこと]にとっては非常に自然なことである。というのも、もしこれが主張 できるとすれば、道徳家の仕事ははるかに立派に成し遂げることができるから である。しかし、ベンタム自身が一度でもこの立場を熟慮の上で主張したとい うことは、非常に信じがたいことである。(Sidgwick 1877 479)

だが、『倫理学史概説』の第3版(1892年)の序において、彼は「わたしは今で は、ベンタムの死後に出版された彼の『倫理学』が、徳と有徳な行為者の幸福 との関係についての彼の見解に関して、全般的に信頼のおける説明を与えてい るものとして認めるつもりである」(Sidgwick 1988 x)と述べ、『倫理学』に おける利益の自然的調和説はバウリングのものではなく、ベンタム自身のもの だと考えるようになったことを明らかにしている。彼がそう考えるようになっ たのは、おそらく、『倫理学史概説』の本文で引用しているように、バウリン グ版の全集において新たな証拠を見つけたからだと思われる。

そして、これ[利益の自然的調和説]がベンタムの後年における真の学説だと認 めなければならないように思われる。というのも、彼は明らかに、「行為の瞬 間における各個人の、常に適切な行為の目的は、その瞬間から人生の終わりま での彼の真の最大幸福である」と考えており、しかも彼は、「最大多数の最大 幸福」が「道徳の領域において何が正しく何が不正かについての平明だが真で ある基準」(Works x 560)であるということを制限なしに受け入れる ことを止めなかったからである。そして、もし彼の推論全体が基づいている経 験的な基盤を維持するのであれば、先に言及された想定がこれら二つの信念を 調和させるために必要とされるのである。(Sidgwick 1988 244)

シジウィックが上で引用しているベンタムの文章は、彼が少なくともその後年 においては、利益の自然的調和説を採用していたことを推測させるに十分であ る。特に、「行為の瞬間における各個人の、常に適切な行為の目的は、その瞬 間から人生の終わりまでの彼の真の最大幸福である」という引用(バウリング によれば、これは1827年に書かれたものである)は、ベンタムが倫理的利己主 義をも認めていた決定的な証拠のように思われ、これを主張しながら同時に 「集団全体の幸福を促進する行為は正しい」とする功利性の原理を主張するた めには、どうしても利益の自然的調和説をとらざるをえないように思える。

しかし、この論文のはじめにも述べたように、バウリングが編集した『倫理学』 には彼の手になる文章がかなり入っており、どこまでがベンタム自身の主張な のかがはっきりしない6。実際、上でシジウィックが引 用している「悪徳は見込みの誤算であると定義されうる」という文章は、新全 集の『倫理学』には含まれていないのである。また、二つ目の引用も、バウリ ングが編集した『自伝と書簡』Memoirs and Correspondence (バウ リング版全集第十巻、第十一巻所収)から取られてきたものであるため、信憑 性に欠けると言わざるをえない。

加えて、新全集版で見るかぎり、この時期のベンタムの著作には、利益の自然 的調和説を否定するような言明の方がはるかに多く現われるのである。たとえ ば、『倫理学』にさえ、ベンタムが利益の自然的調和説を想定していなかった ことを思わせる文章が見られる。

あなた[ベンタム]によれば、だれにせよ、人の行為はそれがどのようなもので あれ、あらゆる機会において、彼自身の特定の利益によって、すなわち彼自身 の自分に関係する利益によって決定される。これが正しいとすれば、彼に他人 に関係する利益、すなわち他人の快と苦の減免によって成り立つ利益について 語ることが何の役に立つのだろうか? ……。
自分に関係する利益と他人に関係する利益について言及された競合に関しては、 たしかに、そのように名付けられた二つの利益の間には、強い、ほとんど絶え 間のない競合が現実に存在する。(D 192-3; cf. ibid. 195)

また、『倫理学』と同時期に書かれていた『行為の動因の一覧表』7にも、後の『憲法典』での主張を予想させる文章がある。

719. 自分に関係する利害関心が社会的な[他人に関係する]利害関心よりも優 勢であることは否定できないばかりでなく必要なことでもあるので、それゆえ、 少数の支配者にとっては、自分自身の利益のために多数の被支配者の利益を犠 牲にすることは、絶えざる目標であらざるをえない。(D 65)

さらに、シジウィック自身も認めていたように(Sidgwick 1877 479-80)、『憲 法典』やそれの準備として書かれた草稿においては、ベンタムが利益の衝突が 事実起こりうると考えていたことは明らかである。

あらゆる政治的共同体において、すべての成員は、共同体の全成員の利益を合 わせたもので構成される全体の利益――一言で言えば普遍的利益――に関与し ている。
しかし、あらゆる共同体において、すべての成員は残りの 成員が関与しない特定の利益を持っている――そして、多くの機会のそれぞれ の場合において、この利益は普遍的利益と対立状態に陥りやすい。その対立状 態が、そのような機会が起きるときはいつでも、ある成員の幸福は残りの成員 の幸福全体がある一定の割合で減少しなければ増加しえない、というようなも のである場合――この特定の利益が、こうした事情にあるとき、そしてその場 合に限り、それは邪悪な利益(利害関心)sinister interestと呼びうるもので あり、また通常そう呼ばれている。(FP 192)8

さらにまた、功利性の原理の別名としてよく知られている「最大多数の最大幸 福the greatest happiness of the greatest number」という名称そのものが、 各人の利益が衝突することを想定していると考えられる。というのは、もしベ ンタムがそのような衝突がないと考えていたとすれば、彼は「(利害関係者)全 員の最大幸福」を標傍してしかるべきだったと考えられるからである。この点 に関して、ベンタム自身は次のように述べている。

もし人間が、どの人の幸福も、他のどの人の幸福とも競合しないという状況に 置かれていたとしたら、もし人間の状況がそのようなものであったとすれば―― すなわち、もし各人の幸福、あるいはある人の幸福が、他のだれかの幸福を減 らすという影響を持つことなくして、無制限の量の増加を受けることが可能だ とすれば、上記の表現[全員の最大幸福]が制限あるいは説明なしに役立つであ ろう。しかし、あらゆる場合において、各人の幸福は他のすべての人の幸福と 競合しがちなのである。たとえば、もし二人の人が住まう家において、一ヶ月 の間、彼らのうちの一人の生存をその間継続させるためにかろうじて十分なだ けの食糧の供給しかないとすれば――それぞれの幸福のみならず、それぞれの 存在までもが、もう一人の存在と競合し、そして両立しえないのである。
それゆえ、すべての機会に役立つように、全員の最大幸福と言うかわりに、最 大多数の最大幸福という必要が生じるのである。 (FP 234; cf. FP 231-2 note a, CO 31-2, SE 218)

この文章においても、ベンタムが、利益が一見衝突すると 考えているのではなく、事実衝突すると考えていることは 明らかであると思われる9

以上、利益の自然的調和説について考察してきた。その結論は次のようになる。 たしかに、ベンタムがこの説を採用していたと考えるならば、彼の規範に関す る主張と人間本性に関する主張が両立しないという批判は当たらないことにな るが、実際のところ、彼は人生のどの時期においても、そのような想定をして いたとは考えられない。

そこで次に進んで、両立不可能性の批判に対するもう一つの応答を検討するこ とにしよう。


  1. たとえばペイリーによれば、徳(徳行virtue)とは、 「神の意志に従って、そして永遠の幸福を得るために、 人類に善を行なうこと」 (Paley 1811 42)と定義される。 神は人類全体の幸福を意志しているので、人は徳をなすこと、 すなわち人類全体の幸福を促進する行為をすることによって、 神の意志に従うことになり、その結果、 神の手によって永遠の幸福を与えられるのであった(ibid. 60-70)。
  2. もっとも、彼らは、現世に関する限り、 徳行は割に合わない場合があると考えている。 すなわち、来世の存在を仮定しなければ、 個人の利益と全体の利益の衝突は起こりうると考えているのである。 またそれゆえに、ペイリーやJ・ゲイは、 神と来世の存在なくしては功利主義的道徳は成立しえないと論じている。 「そこで、神の意志を排除することを明言するか、 または神の意志に言及せずに、 徳の直接的な基準を人類の善であるとする者は、 (徳についてすべての、あるいはほとんどの人が持っている考えに反して) 徳がすべての場合において義務的であるわけではないと 認めなければならないか、あるいは彼らは、 人類の善が十分な義務であると言わなければならない。 しかし、一命を投げ打つなどの特定の場合においては、 人類の善はおそらくわたしの幸福に反するというのに、 人類の善がどうしてわたしの義務になりうるのだろうか?」 (Gay 1969 413; cf. Paley 1811 62-3, 65-6)
  3. 実際のところ、神によってこの利益の自然的な調和がもたらされると 考えていたペイリーやオースティンなどの神学的功利主義者たちも、 だからといって法や道徳はまったく必要ないとは考えていなかった。
  4. ライオンズはこの批判を予想しているが、 十分な回答を与えていないように思われる(cf. Lyons 1991 64)。 また、『序説』とその前後の著作や草稿において、 ベンタムが利益の自然的調和を想定していなかったことを示す これ以外の証拠に関しては、ディンウィディの論文に詳しい。 Dinwiddy 1982 283-5参照。
  5. 『倫理学』は、1814年に大部分が書かれたが、 ベンタムが1832年に死ぬまで、ときどき書き足され、 1834年にバウリングの編集によって出版された(D xii, xxix)。 『憲法典』は1820年から書き始められ、 1830年に全三巻のうち第一巻にあたる部分が出版されたが、 残りは彼の死まで書き続けられた(CC xi)。
  6. バウリング版『倫理学』の編集上の問題については、 新全集版『倫理学』の編者による序文に詳しい。 D xxix-xxxiii参照。
  7. この著作は1813年から執筆が開始され、1815年に印刷、1817年に出版された。 また、この著作と『倫理学』とは執筆の時期が重なるばかりでなく、 内容上の関係も深いため、新全集では一冊に収録されている (cf. D xi-xii)。
  8. 同趣旨の言明は、たとえば、FP 16, 27, 126; CO 34, 185, 197など。
  9. もっとも、さらに後年になって、 ベンタムは「最大多数の最大幸福」という名称も不適切だと 考えるようになった。といっても、 それは彼が利益の自然的調和説を信じるようになったからというわけではなく、 「最大多数の」という表現が、多数派の幸福のみを考慮して、 少数派の幸福を無視するかのような印象を与えると考えたからである。 それゆえ、最終的には「最大幸福原理」 という名称に落着くことになるのである (cf. D 309-10; Dinwiddy 1989 25-6)。

説明と弁明

徳と幸福の自然的一致

この章は、「ベンタムの規範的主張と人間本性論は両立しないのではないか。 というのは、彼によれば、各人は本性的に自分の幸福を追求するが、 しかし各人は全体の幸福を促進すべきだから」という批判に対して、 「いやいや、そうやって全体の幸福と各人の幸福を対立的に考えちゃあいけません。 長い目で見れば、 各人は共同体全体の幸福を促進することによって最も幸せになれるんですよ」 と応じるものである。

おれの知る限り、 この「長い目でみれば」というのを来世まで入るものとして 考えるならば、 このような徳と幸福の一致を考えていた人はたくさんいて、 カンバーランドやバトラーやペイリー、ゲイ、オースティン、 それにカントなど、このころのほとんどの道徳哲学者がこの想定をとってた と思われるほどである。 結局、みな 「自分のになるからを行ないなさい」 という主張を否定したいと思ってたにもかかわらず、 なんらかの形でこの徳福の一致という考えを受け入れているのである。 (まあ彼らに言わせれば、 「得になるから徳をしろ」っていうのと、 「徳を行なえば得をする」っていうのはずいぶん違うんだけど)

ま、それはともかくとして、ベンタムは現世においてすら、 この「徳と得の自然的一致」が成り立つと考えてたんだって 主張する人がいるんだけど、 ベンタムはそうは考えてなかったんじゃない? ってのがおれの主張。 とはいえ、一応この路線でも、筋は通ってて、 両立不可能性の批判はかわせるんだけどね。


interestの訳語

interestってのは翻訳者泣かせの語。 「利害関心」と訳すべきか、「利益」と訳すべきかですごい困る。 実は論文提出時には、次の引用中にあるinterestは「利害関心」と訳してたんだけど、 今読むとそれでは誤解が生じそうなので、「利益」に直しておいた。 どうしても訳語が統一できない語なんだよね、interestって。

あなた[ベンタム]によれば、だれにせよ、人の行為はそれがどのようなもので あれ、あらゆる機会において、彼自身の特定の利害関心によって、すなわち彼 自身の自分に関係する利害関心によって決定される。これが正しいとすれば、 彼に他人に関係する利害関心、すなわち他人の快と苦の減免によって成り立つ 利害関心について語ることが何の役に立つのだろうか? ……。
自分に関係する利害関心と他人に関係する利害関心について言及された競合に 関しては、たしかに、そのように名付けられた二つの利害関心の間には、強い、 ほとんど絶え間のない競合が現実に存在する。(D 192-3; cf. ibid. 195)


あと、シジウィックの論文名`Bentham and Benthamism in Politics and Ethics'は、 論文提出時には「政治学と倫理学におけるベンタムとベンタム主義」と訳していたが、 おそらく正しくは「ベンタムと政治学と倫理学におけるベンタム主義」であろう。 よく考えたら`Bentham in Politics and Ethics'という表現はちょっと不自然だ。 というわけでこれも訂正。



KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Feb 3 07:45:44 JST 1999