本論

2. 人間本性に関する主張: 心理的利己説、共感、利己主義


次に、ベンタムの人間本性に関する主張を検討しよう。彼の人間本性観を考察 する上で特に問題になるのは、彼が利己主義を主張していたのかどうか、とい う点である。先にも述べたように、彼は通常、「人は、事実、常に自分自身の 幸福を目指す」と主張しているとされる。この主張は、一見すると、人間は本 性的に利己的なものであると述べているように見えるが、本当にベンタムはそ う考えていたのだろうか。

しかしまず、ベンタム自身のテキストを検討する前に、利己主義というやっか いな言葉に関して、若干の考察を加えておかなければならない。というのも、 この語の意味如何によっては、彼の人間本性観は利己主義的だったとも、そう でなかったとも言えるからである。


2.1. 利己主義の意味の区別

さて、次の引用は、ベンタム自身のものではなく、彼の弟子のオースティンの ものである。この引用においてオースティンは、功利主義者の人間本性観が博 愛心や共感の存在を否定していないことを示すために、「自己中心的selfish」 という言葉を二つの意味に区別している。

……自己中心的selfishという表現は、動機に対 して用いられる場合、広い意味と狭い意味を持っている。自己中心的 という表現を広い意味でとった場合、すべての動 機は自己中心的である。というのも、すべての動機は願望 wishだからである。そしてすべての願望は、ある人の自己 selfに影響を及ぼす苦痛であり、彼はその苦痛によって駆 り立てられ、願望の対象を獲得することにより安心感reliefを得ようとす る。――自己中心的という表現を狭い意味でとった場合、 自己中心的な動機は博愛的 benevolentな動機から区別されなければならない。すなわ ち、われわれ自身の善に対する願望は、われわれの隣人の善に対する願望から 区別されなければならない――われわれ自身の利得ないし便益を追求するよう われわれを駆り立てる欲求は、他人の利得ないし便益を追求するようわれわれ を誘う欲求から区別されなければならない。(Austin 1995 102 note 3)

オースティンによれば、「自己中心的」という表現には広い意味と狭い意味が あり、人間の動機となる願望ないし欲求は、願望の対象の不在によって 自分自身に苦痛をもたらすという意味では、すべて「自己 中心的」なものと言えるが、これはこの語の広い意味でそうなのである。他方、 自分の善に対する願望ないし欲求は、他人の善に対する願望ないし欲求(「博 愛的」な動機)と区別されて「自己中心的」と呼ばれることがあるが、これは この語の狭い意味でそうなのである。したがって、「自己中心的」という表現 の狭い意味では、他人の善に対する願望ないし欲求は「博愛的」な動機である が、「自己中心的」という表現を広い意味で用いる場合は、これさえも自己中 心的なものだと言われることになる。

そこで、ベンタムの人間本性に関する主張を検討する際にも、このオースティ ンによってなされた区別を用いることが有益だと思われる1。ただし、今日のベンタム研究では一般に、オースティン の言う「自己中心的」という表現の広い意味――すべての動機は自分の快苦で ある2――を、心理的利己説と呼び、他方の「自己中心 的」という表現の狭い意味――動機には、他人の善を追求しようとする博愛的 ないし利他的なものと、自分の善を追求しようとする自己中心的なものがある が、人間は一般に博愛的な動機を持たないか、あるいは博愛的な動機 よりも自己中心的な動機の方をより多く持つ――を、(通常の意味で の)利己主義と呼ぶ傾向があるので3、わたしもそのよう に呼ぶことにする。もっとも、論者によっては、前者を心理的快楽説と呼ぶこ ともあるし4、さらには、前者を心理的快楽説、後者を 心理的利己説と呼ぶこと論者もいる5ので、これらの語 の使用には十分気をつける必要がある。

そこで、利己主義の意味を二つに区別したところでもう一度問題を設定しなお すと、本節で明らかにしたいのは、ベンタムが人間本性に関して「心理的利己 説」をとっていたのかどうかということと、「(通常の意味での)利己主義」を とっていたのかどうかということである。また、この問題を検討する際には、 ベンタムの人間本性論において共感ないし博愛心という利他的な動機が存在す るのかどうかと、そしてそれらがどのように位置付けられるのかについても考 察する必要があろう。


2.2. 心理的利己説

まず、ベンタムが、すべての動機は自分自身の快苦であるという心理的利己説 をとっていたかどうかであるが、これは明らかにそうだと思われる。

あらゆる機会において、各人の行為は、彼自身の利害関心によって、そしてま さに彼自身の自分に関する利害関心self-regarding interestによって、すな わちそのようなものとして彼の目に映るものによって、決定される。 (D 195)6

利益(利害関心)は、『行為の動因の一覧表』においては、次のように説明されている。

人がなんらかの対象subjectに利害関心 を持つと言われるのは、その対象が彼に対する快 または[苦の]減免exemptionの源泉におそらくなりそうだと考えられる限りに おいてである。その対象とは、事物または人である。……
人が、自分自身あるいは他の人によってなんらかの行為なされることに利害関心を持つ、あるいはなんらかの 出来事や状態が生じることに利害関心を持つと言われるの は、そのことが生じる際かまたは生じた結果において、彼がなんらかの (すなわち、または[苦の] 減免)を、おそらく所有するだろうと考えられる限りにおいてである。 (D 91; cf. IPML 12)

つまり、ある出来事や行為によって自分が快を得られるか 苦を免れるかしそうだと思われる場合、人はその出来事や行為に利害関心を持 つと言われるのである。そして、次の引用からわかるように、ベンタムによれ ば、利益ないし利害関心と欲求、そして動機は互いに密接な関係を持っている。

ある人が、自分がある、すなわちあるあるいはある減免を享有 するためには、ある出来事または状態が 生じる必要があると思い、そして、それを生み出すために彼がある行為をした 場合、その機会において彼の心の中に生じ、作用した心理的現象のいくつかは、 以下のようなものである。すなわち、1. 彼は自分がその善を所有することに 利害関心を持っていることを感じた。2. 彼はそれを所有し たいという欲求desireを感じた。3. 彼は自分が それを所有しないという考えに嫌悪aversionを感 じた。4. 彼はそれに対する欠乏感wantを感じた。 5. 彼はそれを所有する望みhopeを持った。6. 彼 はそれを持たないことに対する恐れfearを目前に 抱いた。7. そして彼がそれを所有したいと感じた欲求が、 動機として彼の意志に作用したのであり、その動機の作用 または助けによってのみ、彼による上述の行為が生じたのである。 (D 94; cf. D 98-9)

要するに、人はまず自分に快苦をもたらす事柄に対して利害関心を持ち、その 利害関心がその事柄に対する欲求または嫌悪を生み出し、そしてその欲求また は嫌悪が動機として作用することにより行為が生み出されるということであろ う。この場合、利害関心の対象、および欲求または嫌悪の対象は、直 接的にはある事柄(行為、出来事など)であるが、その事柄に利害関 心を持ち、それゆえそれが欲求または嫌悪されるのは、その事柄が自 分にもたらすと思われる快苦のゆえに他ならない。

2.3. 共感の存在について

ベンタムによれば、ある事柄に対する利害関心なくしては、行為する動機とな る欲求や嫌悪も生じないので、「利益(利害関心)」という語の彼の用いる意味 においては、「いかなる人間の行為もこれまで利害関心のない disinterestedものであったことはないし、今後もそうあ ることはありえない」(D 99-100; cf. OLG 70 note p)こ とになる。彼は、通常、「利害関心のない(私心のない)行為」と言えば、共感 や博愛心からなす行為を指すことは十分に理解していたが、この言葉の用い方 は本来的ではないと考えて、利害関心のない行為というものの存在を否定した。 しかし、こうした言明がわざわいして、彼は共感や博愛心の存在までをも否定 する徹底した利己主義者だという理解が広まってしまった。そうした理解ない し批判は彼の存命中からすでにあったようで、彼自身もその対応に苦労してい るように思われる(cf. D 56)。だが、彼は共感や博愛心そのものま で否定しているわけではない。彼は『倫理学』において、共感ないし博愛心に ついて次のように語っている。

この社会的感情[共感や博愛心]の存在を否定するなら、すべての経験に反する ことになろう。……。しかし、わたしの友人に快を与えることを予想してわた しが感じる快は、他ならぬわたしの快ではないのか? わたしの友人が苦痛によっ てさいなまれているのを見て、あるいは見るだろうと憂慮してわたしが感じる 苦痛は、他ならぬわたしの苦痛ではないのか? (D 148)

353. 人は共感を持つ限りにおいて他人の利益を追求する、とあなたは言うの か? そうだとしよう。しかしこの場合でさえ、同時に彼自身の利益も[追求し ているのだ]。たとえ彼自身の利益については考えていないにしても。
354. 他人の利益を追求しているからといって、彼が自分自身の利益を追求し ていないことにはならない。彼自身の利益は、共感の快苦が座を占めている彼 の胸中にあるのだ。(D 36)

このように、ベンタムは「すべての動機は自分自身の快苦である」という心理 的利己説を主張するからといって、共感や博愛心の存在を否定するわけではな い。また彼は、人が共感の感情から困った他人を助けるさいの心理的過程につ いて、次のような例を用いて説明している。

エゲヌスが困窮している。この困窮を、リベラリスが見る。共感の力によって、 エゲヌスが感じている苦痛が、それが表に出ることによって、リベラリスの胸 中に対応する苦痛を生み出す。リベラリスは自分のこの苦痛を和らげるために、 そして同時に、当の行為によって、正反対の対応する快[すなわち共感の快]を いくらか得るために、彼はこの困窮に対して救済を行なう。もし、エゲヌスに この救済ないし苦痛の減免を行ない、[同時に自分に対して]対応する快によっ て高められるような対応する[苦痛の]緩和を行なうために、リベラリスが、支 出を行なう他の場合と同様に、この場合においても出費を行なうなら、支出に よって増える利益とそれによって減じる利益(この場合は金銭的な利益)との間 に競合が生じる。しかし仮定により、この救済は行なわれる。したがって、支 出によって増える利益、すなわち共感の利益が優位を占めていたわけである。 (D 194)

共感や博愛心からなす行為が、金銭的な利益を追求する行為と同様に、その行 為を通じて当人に得られる快苦を動機としていることは、 すでに『序説』において述べられている(IPML 109)。共感ないし博 愛心による快とは、「博愛心の対象となる存在者によって所有されていると想 定される快を考慮することから生じる快」(IPML 44)であり、反対に 共感ないし博愛心による苦とは、「他の存在者によって耐え忍ばれていると想 定される苦を考慮することから生じる苦」(IPML 48)と説明されてい る。

もっとも、こうしたベンタムの説明は、共感や博愛心から行為をなす場合でさ え、人は「情けは人のためならず」式の発想から行為している、と彼が考えて いるような印象を与えるかもしれない(cf. Ayer 1954 251)。リベラリスは、 結局のところ、自分の快苦を目的として行為したのではなかったか? しかし、 ベンタムが共感ないし博愛心の快がその他の種類の快苦とは明らかに区別され るものだと考えていたことは、次の引用からも明らかである。

上記の[快苦の種類の]表の中で、ある種の快苦は、他の人が持つ快苦の存在を 想定しており、その快苦に対して当人の快苦は関係regardを持っている。そう いう快苦は他人[の快苦]に関係する extra-regardingものと呼ばれうる。それ以外の快苦はそ うした事柄[他者の快苦の存在]をまったく想定しない。これらの快苦は 自分[の快苦]に関係するself-regardingと呼ばれ うる。他人に関係する快苦は、博愛心と憎悪malevolenceの快苦のみである。 それ以外はすべて自分に関係する快苦である。(IPML 49)

すなわち、なんらかの恩返しによって後に自分に生じうる快ではなく、 他人の快苦を利害関心の対象としているという意味では、共感や博 愛心からの行為は、「情けは人のためならず」という発想からの行為とは異な るのである。そこでたとえば、他人の好意が得られることを予想して人に親切 にする7のは、後に得られる自分の快苦 を利害関心の対象にする行為とみなされ、他人の快苦 を利害関心の対象にする博愛心や憎悪の快苦とは区別されることに なる(IPML 49 note o)。先の例で言うと、リベラリスは自分の金銭 よりもエゲヌスの苦しみに対してより大きな利害関心を持っていたのであり、 また、エゲヌスを助けることによって後々に報われることに対して利害関心を 持っていたのではなく、純粋にエゲヌスを苦しみを和らげ、喜ぶ姿を見ること に利害関心を持っていたのである。そしてその利害関心(を満たそうとする欲 求)がエゲヌスを助ける行為をする動機となったのである。

以上のように、ベンタムは共感や博愛心の存在を認めていた。そして、彼によ れば、それらの動機から生じる行為は、たしかに自分の持つ 利害関心から生じているには違いないが、その利害関心の 対象が異なるゆえに、それ以外の(通常の意味での)利己的な動機と は区別されるのである8


2.4. (通常の意味での)利己主義

ここまで、ベンタムが「すべての動機は自分自身の快苦である」という意味で の心理的利己説をとっていることを見てきたが、同時に彼が共感や博愛心の存 在を認めていたことも確認した。ここまでの彼の主張に関する限り、彼の心理 的利己説が必ずしも通常の利己主義を意味するわけではないことは明らかであ ろう。というのは、彼によれば、たしかにわれわれはある事柄に利害関心を持 たない限り、その事柄を生み出そうとする(あるいは生み出さないようにする) 動機を持つことはないが、しかし、われわれが通常の意味で利己的であるかど うかは、われわれがどういう事柄に対してより大きな利害関心を持つ のかということに依存しているからである。そしてこの点に関して は心理的利己説は何も述べていないのである。

共感や博愛心の存在も認めていたベンタムは、他人の快苦が自分の快苦を引き 起こすかぎりにおいて、人は他人の快苦に利害関心を持ちうると考えていた。 そこで、もしわれわれが他人の幸福にまったく利害関心を 持たないか、あるいは他人の幸福よりも自分の幸福に対して、より大 きな利害関心を持つのであれば、その場合、われわれは通常の意味 で利己的だと言われるだろう。他方、われわれが自分の幸福にまった く利害関心を持たないか、自分の幸福よりも他人の幸福に対して、 より大きな利害関心を持つのならば、その場合、博愛的な いし利他的だと言われるだろう。

また、ベンタムの人間本性観が彼の功利性の原理と両立しなくなる可能性があ るのは、彼が人間を、この通常の意味において多少なりとも利己的だと考えて いる場合だけである点に注意しなければならない。なぜなら、ベンタムが、人 は常に自分よりも他人の幸福により大きな利害関心を抱く(すなわち、常に利 他的である)と考えていたとすれば、人々は自分の幸福と他人の幸福が衝突す るさい、心理的利己説により、いつも他人の幸福を優先することになり、その 場合は、人々は常に功利性の原理に従うことができるだろうからである。

では、ベンタムは通常の意味での利己主義の立場をとっていたのだろうか。そ の答えは、「利己主義は、人間の行為に対して、排他的ではないにせよ、支配 的な影響を持っている」(Halevy 1934 15)というものになると思われる。ちょ うどD・ヒュームが限られた寛容さを認めつつも、「他のだれかを自分よりも 愛する人に会うことはまれである」(Hume 1978 487)と述べたように、彼に大 きな影響を受けたベンタムも、共感や博愛心――他人の幸福ないし利益を考慮 に入れる動機――を認めつつも、「人が、すべての時にそしてすべての機会に おいて、利益を考慮に入れるための十分な動機を必ず見い 出すのは、彼自身の利益だけである」(IPML 284)と述べている。次 の引用は、1820年代――彼が1770年代に『序説』を書いてからほぼ半世紀後―― のものだが、そこでもやはり同じ趣旨のことが述べられている。

人間の生の一般的な傾向において、すべての人間の胸中では、自分に関係する 利害関心が、他のすべての利害関心を合わせたものよりも優勢である。 (FP 233)

他の人々との関係において考慮した場合、各人の胸中には、三種類の感情 affectionがある。1. 自分に関するもの。2. 社会的共感。3. 反社会的反感。 自分に関する感情、すなわち自分自身の幸福に対する欲求は、絶えず働いてい る。共感に関する感情、すなわち(他人の)幸福に関するものは、しばしば働く が、しかし[1.ほど]絶えず働いているわけではない。反感に関する感情――他 人の不幸に関するもの――は、[2.よりも]さらにまれにしか働かない。
通常の人生において、自分に関する感情の影響は、これらの他人に関する二つ の感情の影響を合わせたものよりも、強力で、有効である。(SE 183) 9

このように、ベンタムは、共感や博愛心の存在を認めつつも、人はみな、多く の場合において他人の利益に比べて自分の利益により大きな関心を持つという 意味で利己的だと考えていた。もっとも、ベンタムは人間がある程度利己的で あることをそれほど嘆いているわけでもない。彼は、人が自分自身の利益に対 して他人の利益以上により大きな関心を抱くことは、種の存続にとって欠かせ ないことだと考えていた(cf. IPML 115, D 108, FP 27, 233, CC 119, SE 183) 10

以上、ベンタムが心理的利己説をとっていたことと、彼が共感や博愛心の存在 を認めながらも、人はみな、多かれ少なかれ利己的であると考えていたことを 説明した。結局のところ、彼の想定する人間像は、「常に自分の快苦が行為の 動機を生み出す」という心理的利己説を脇に置くとすれば、人は大なり小なり 他人の幸福に配慮することはできるが、概して自分の幸福により大きな関心を 持つという、しごく普通なものであると言える。

しかし、心理的利己説によれば、先のリベラリスとエゲヌスの例のように、各 人の行為はその人の利害関心――利害関心が衝突する場合は、より大きな利害 関心――によって決定されるのであった。そして、ベンタムによれば、人はみ な、すべての行為において自分の幸福により大きな利害関心を抱くのではない にせよ、多くの場合そうである。すると、自分の幸福と集団全体の幸福が衝突 する場合で、しかも自分の幸福により大きな利害関心を持つ場合は、人は集団 全体の幸福を促進すべきだという功利性の原理には従うことはできないことに なろう。

そこで話を元に戻して、こうした人間本性に関する想定が果たして功利性の原 理と両立しうるのか、という両立不可能性の批判の検討に進むことにする。


  1. 以下で見るように、ベンタムもオースティンと同様の区別をしていると 考えられるが、オースティンの説明が簡潔なので、彼のものを引用した。 わたしが知る限りでは、この区別に最も関係するベンタムの言明は 次のものである。「動機なしに行為する人はいない。 支配的な諸動機に逆らって行為する人はいない。 ……人は彼自身の利益[利害関心]以外の何物によっても決して支配されない。 この所見は、利益という語の広い意味 (すべての種類の動機を包括するものとして)においては、疑いなく真である。 しかし、ときおり利益という語が使われる傾向にある、 限定された意味においては、疑いなく偽である。」 (OLG 70 note p)
  2. オースティン自身は、上の引用からすると、 動機となるのは苦だけだと考えているように思われるが、 ベンタムは、以下で見るように、快苦の両方が動機になると考えているので、 「快苦」としておく。
  3. たとえばJ・ディンウィディ、A・クイントン、J・プラムナッツなど。
  4. たとえばH・L・A・ハート、P・J・ケリーなど。
  5. たとえばD・ライオンズ。 付言すると、ライオンズは心理的快楽説を二つに区別しており、 「行為の原因となる欲求ないし動機は自分自身の快苦である」という考えを、 因果性に関する快楽説the theory of hedonic causationと呼ぶ。 これはオースティンの言う「自己中心的」の広い意味に対応するであろう。 他方、「欲求の対象ないし目的は快苦である」という考えを、 目的に関する快楽説the hedonic theory of goalsと呼んでいる。 そして彼は、ベンタムにおいては、 欲求の対象となる快苦は自分自身のものである場合も、 他人のものである場合もあると考える(Lyons 1991 70-2)。 これは、先のオースティンの言葉を用いれば、われわれには、 (狭い意味での)自己中心的な動機の他に、 博愛的な動機も存在するということになろう。
  6. 同様の言明は、D 99-100, 128, 175など。 なお、以下では、interestを文脈に応じて 「利益」または「利害関心」と訳している。
  7. 特定の個人の好意を得るために行為する場合は、 友好関係amityの快が動機になっていると言われる。ま た、世間一般の好意を得るために行為する場合は、 高名good-nameの快が動機になっていると言われる(IPML 44)
  8. なお、ベンタムの心理的利己説と共感の動機の関係については、 D・バウムガルトの議論が有益である。Baumgardt 1952 385-7参照。
  9. 他にも、たとえば、FP 13-4, 27, 58, 160; CC 119; D 65, 68; CO 34f, 197; SE 183などを参照。 さらに、同じ趣旨の表現は、『序説』の他の箇所にも見られる。 「さて、影響力が最も強力で、最も恒常的で、最も広範な動機は、 身体的欲求の動機、富への愛、安楽への愛、生命への愛、 そして苦痛に対する恐怖である。 これらはすべて自分[の快苦]に関係する動機である」(IPML 155)。 ライオンズは、『統治論断片』や『序説』の頃のベンタムは 人間本性を利己的とは考えておらず、 そのように考えるようになったのは『憲法典』 などを執筆していた人生の後半になってからであると主張したが (Lyons 1991 66-8)、 ディンウィディは上の『序説』における主張やそれと同時期に執筆された 文章における主張と、『憲法典』における主張が酷似していることを指摘し、 ライオンズの見解を強力に批判した(Dinwiddy 1982 287-8)。 上記の引用を見ても、ベンタムが、『序説』において、 通常の利己主義をまったく認めていなかったという主張を することはできないと思われる。
  10. なお、彼は後年、人間本性の持つこのような利己的な傾向を、 自己選好(身びいきself-preference)の原理と呼んだ(FP 232-3)。

説明と弁明

第2章では、ベンタムの人間本性観を論じている。 最初に利己主義の意味が「心理的利己説」と「通常の利己主義」の二つに区別されて、 ベンタムがそのいずれを採用していると言えるかを論じている。 また、それと関連して、共感とか博愛心とかいう動機に関して、 ベンタムがどのような位置付けを与えているかも検討されている。


利己主義の意味の区別

まず、名称だけど、 「心理的利己説」と「通常の利己主義」という区別はまずいんでないの、 と某師匠に指摘された。 それは一つには、通常の利己主義も、やはり心理的なものだからだ。 また、「心理的利己説」は、上で述べているように、 普通の意味での利己主義をまったく含まないのだから、 それを「利己説」と呼ぶのは誤解を招きやすい、 ということもある。 第二の点を考慮するならば、むしろ、 はじめにそうしていたように、「心理的快楽説」とすべきだったか。

ハリソンが前者を「ささいな(trivial)意味での利己主義」、 後者を「実質的な(substantial)な意味での利己主義」 という風に区別しているので(Harrison 1983 144)、 それを採用しようかとも思ったが、結局そのままにしてしまった。 この問題はいずれもう一度検討しなければならない。

また、最近のベンタム学者は、 ベンタムの(通常の意味での)利己主義は、 戦略としての利己主義strategic egoismだ、と論じる傾向にある。 戦略としての利己主義とは、 つまり、人間は完全に利己的であるわけではないが、 とりわけ政策決定においては、 人は完全に利己的に行動すると考えた方が安全だ、という考え方である。 (cf. Harrison 1983 144-5, Postema 1986 383ff, Kelly 1990 29-30) これはヒュームの 「すべての人は悪漢knaveと見なされるべきである」 っていう主張と同じですな。 しかし、この説明は省いた。 これもいつか別の場所で論じたい。

あと、勉強してるところを見せようと思って:-)ついついオースティンの引用から 始めてしまったが、やめた方がよかったのかもしれない。 しかし、オースティンの著作はベンタムに関する言及も豊富だし、 ベンタムの功利主義を理解する上で非常に重要だと思う。 今後はオースティンについても研究を進めたい。

ちなみに、オースティンは`egoistic'ではなく、 `selfish'という語を使っているが、 どうもこの当時は`selfish'という語の方が一般的に用いられており、 あまり`egoistic'とか`egoism'という語を使わなかったようだ。 (この点に関してはベンタムも同様。 ただし、ベンタムはある箇所で`egotism'という語を使っている。 FP 231 note参照)


利益と動機

2.2.の最後で説明されている利益と動機、および欲求の関係については、 最初は次の引用を挙げていた。

このこと[行為の動因the springs of actionは、動機として作用する快苦 であるということ]が理解されたなら、対応する利害関心も 同時に理解される。そして、もし問題の[動機として]作用する原因が 快をもたらす種類のものであるならば、利害関心は動機になる過程 において、欲求desireを生み出すことになる。もし 苦をもたらす種類のものであるならば、対応する 嫌悪aversionをもたらすことになる。(D 98)

わかりやすいかな、と思って、〆切直前にもう一つの引用に差し替えたんだけど、 こっちには「望み」とか「恐れ」とか、余計な要素も入っているので、 そのままにしておいた方がよかったかもしれない。

欲求と動機の関係についても、某先輩にいろいろ教えてもらう。 すべての欲求や嫌悪が、必ずしも行為に結びつくわけではなく、 それゆえ、 行為を生み出す欲求や嫌悪のみが、 (行為の)動機と呼ばれることになるらしい。


disinterestedな行為

disinterestedっていうのは、「利己的動機からでない行為」が存在するか、 という文脈で問題になる、18世紀の英国道徳哲学における重要な概念のようだ。 しかしいかんせん、勉強不足。 「英国道徳哲学における`disinterested'の概念」 というテーマもこれから勉強しなきゃいけない。

けど、少なくともベンタムにおいては、太郎のするすべての行為は、 太郎がその行為に利害関心をもたない限り決して行なわれないから、 利害関心のない行為というのは、厳密にはないことになる。 しかし、ベンタムの考えでは、 この説明はいわゆる利他的行為を否定するものではない。 このあたりの話は、『行為の動因の一覧表』と『倫理学』に詳しい。

1. 利害関心に関して言えば、 最も広い意味--それが元々の意味であり、 そして「利害関心のない」という語の唯一厳密に適切な意味である--においては、 いかなる人間の行為も利害関心のないものであったことはないし、 今後もそうあることはありえない。 というのも、自発的行為はすべて、 ある動機ないし諸動機の働きの結果であり、 また、動機はすべて、 対応する利害関心 --本当の利益、あるいは架空の利益に対する関心--を伴なうからである。

2. 利害関心のなさという語が 人間の行為について正しく用いられうる唯一の意味においては、 この語は、この語の語源が暗示し適切に認められうる唯一の意味よりも、 もっと限定された意味において用いられている。 というのも、この意味においてこの語が指していると考えられるのは、 すべての利害関心が存在しないことではなく --その状態は、自発的な行為と同時には、矛盾なくしては起こりえない--、 自分に関係する種類の利害関心すべてが存在しないことである。 (D 99-100)

なお、2.3.の後半の議論に関しては、文献には挙げられなかったが、 ポステマの議論も参照のこと(Postema 1986 376ff)。


benevolenceの訳

この語は通常、「博愛(心)」と訳される。 この論文でもその慣用に従ったんだけど、 ベンタムにおいては、本当は、good-willと同様に、 「善意」と訳した方が適当だと思う。 それは一つには、malevolence (=ill-will) という語がよく対になって出てくるので、 こちらを「悪意」と訳すと対義語であることがはっきりわかるから。 また、日本語の「博愛」は、「広く愛する」、 すなわち多くの人に対して差別なく親切にするっていう意味で、 ときにphilanthorophy「人類愛」に近い用法で用いられるけれど、 少なくともベンタムの場合、benevolenceは、 対象範囲の広さ狭さに関係なく、 他人に親切にすることを意味しているから、この意味でも不適切な気がする。

ただ、good-willもbenevolenceも区別なく「善意」と訳す、 というのにも抵抗があって、 それゆえ今回は迷ったすえ、一応慣用に従った。


今読み返してみると、某師匠に言われたとおり、 ちょっと議論が整然としてない感じがする。 もう少しうまくまとめることもできたかもしれない。 まあ、そのうち、ここの議論を膨らませて、 「ベンタムにおける利己主義」というテーマで論文を書いてみたいと思っているので、 そのときに再挑戦してみよう。



KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Feb 3 03:03:28 JST 1999