こだまの(新)世界 / 文学のお話

ダニエル・キイス、『アルジャーノンに花束を』


原題は Daniel Keyes, Flowers for Algernon (1966) で、早川の初版は1978年(小尾芙佐訳、ハードカバー)。 この長編が書かれる前に出された中編(1959年)はヒューゴー賞、 そしてこの長編はネビュラ賞を獲得している。


内容

33歳になっても、幼児の知能しかないチャーリイ・ゴードンの人生は、 罵詈雑言と嘲笑に満ちていた。 昼間はパン屋でこき使われ、 夜は精薄センターでの頭の痛くなる勉強の毎日。 それでも、人の好いチャーリイは、少しも挫けず、 陽気に生きていた。 そんなある日、彼に夢のような話が舞い込んだ。 大学の偉い先生が、頭をよくしてくれるというのだ。 願ってもないこの申し出に飛びついたチャーリイを待っていた連日の苛酷な検査。 検査の競争相手は、アルジャーノンと呼ばれている白ネズミだ。 チャーリイは、脳外科手術で超知能をもつようになったアルジャーノンに、 奇妙な親近感を抱き始める。 やがて、手術を受けたチャーリイに新しい世界が開かれた。 友情、愛、憎しみ、性、そして人生の悲哀。 それらが渦まく正常人の社会は、 何も知らなかった白痴の状態より決してすばらしいとは言えなかった。 そして、何よりもチャーリイを苦しめるのは、 彼を見捨てた肉親への愛であった。 今や超知能をもつ天才に変貌したチャーリイは、 父母のもとへ帰り、 あらたな人生を歩もうとする。 彼は家族の驚嘆、そしてそれに続く笑顔を思い浮かべ、 希望に胸ふくらませ故郷へと旅立つ。 だが、彼の悲劇的な運命を暗示するかのごとくアルジャーノンは狂暴化し、 死んでいった……。
科学を越えたヒューマニズムを繊細な感性が描き出した感動のネビュラ賞受賞作

(カバーから引用)


感想

前評判通り、よく出きた作品。佳作。

この本がよく売れたのは、 以下に述べるようなチャーリイの体験が、 普通の人もある程度経験し、また恐れることであり、 それゆえに普遍的な訴えを持っていたからじゃないだろうか。

まず、(絶対的)権威の相対化、という体験。 チャーリイは賢くなるにつれて、 食堂で政治や宗教について語る大学生、 精薄時の先生だったアリス・キニヤン、 そして大学の教授たちが、 あらゆる知識を持っているのではなく、 限られた能力しか持っていないことを知る。 チャーリイはソクラテスのように、 まわりの人間の無知を暴いていく。

こういう体験はだれでも持っているはずで、 万能の神のごとくに見えた親や先生などが (彼らは、少なくとも漢字については、 おれが小学生の間は神のごとき知識を持っているように思えた)、 自分の成長につれて、 何もかも知っているわけではないことに気付き、 彼らは自分の心のなかで、絶対的な地位から降ろされて、 相対的な地位を与えられる。 天才となったチャーリイの場合は、 これが通常よりも大規模な形で行なわれる。 そして高みに登って、周りに誰もいないことに気づき、 大きな孤独を味わうことになる。

もう一つは、退化に対する恐怖という体験で、 これは通常は老化という形で経験される。 今までできていたことがもはやできなくなる、 覚えていたことが思い出せなくなる、 明晰な意識が失なわれる----

これらのすべてことが チャーリイにおいては異常な速度で起き、 彼の経過報告には、みるみる彼の知能が退化していく足跡が記されている。 物語の最初においては滑稽に見えたチャーリイのつたない文章が、 物語の最後において再び現われるとき、もはやそれは滑稽とは言えず、 痛々しく、悲哀に満ちている。 しかし、この経験は、多かれ少なかれ、 これからおれも体験するだろうことなのだ。

などなど、いろいろなことを考えさせられた。 ちとSF風味が弱く、知的興奮度は低い気がしたが、 「滑稽なピエロはどこか哀しげに見える」という感じの、 哀感漂う雰囲気にかなりはまってしまった。 一般受けするのもよくわかる。 人物の描き分けもよくなされている。 あと、この本を読んでいて、 『レナードの朝』(映画)、『スタンリーとアイリス』(映画)、 『われはロボット』(文庫)などを思い出した。

しかし、中だるみというほどではないが、 途中がいくぶん長いために、 最後に大感動というほどの感動は味わえなかったので(泣きませんでした)、 最初に発表された中篇が手に入れば読んでみたい。
(中篇も読んだ。こちらはかなり短いが、よくまとまっている。03/19/99追記)


名セリフ

四月二十四日--ニーマー教授はストラウス博士とぼくの意見に遂に同意をあたえた。 つまり、書いたものが研究室の人たちにすぐ読まれることがわかっていては、 すべてを書きしるすことが不可能になるだろうということだ。 これまでは、だれのことを記そうと、 洗いざらい忠実に書くように努めてきたが、 非公開にできなければ書けない事があるということ-- 少くとも当分の間は。(59頁)

チャーリイ: 「たとえ架空の世界だって、 ルールがなくちゃならない。 部分々々が首尾一貫していて、ぴったり整合しなくちゃいけない。 この映画はうそだ。 むりやり辻褄をあわせている、 脚本家か監督か、だれだか知らないが、 あるべきものでないものを望んでいるからだ。 だから不自然に感じるんだ」(66頁)

アリス・キニヤン: 「チャーリイ、あなたには驚くわ。 ある点ではあなたはとても進歩したけれども、 判断を下すというようなことになるとまるで子供ね。 あなたのかわりに、 あたしがきめることはできないわ、 チャーリイ。 その答は本では見つからないし-- 他人のところへもちこんでみても解決は得られないのよ。 あなたがこれから一生子供のままでいたいというなら話は別だけど。 あなた自身で答を見つけなきゃいけない-- なすべきことが直感できなきゃいけないのよ。 チャーリイ、自分を信じることを学ばなくちゃいけないわ」(76頁)

チャーリイ: 「知能だけでは何の意味もないんです。 あなた方の大学では、知能や教育や知識が、 偉大な偶像になっている。 でもぼくは知ったんです、 あんた方が見逃がしているものを。 人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんて何の値打ちもないってことをです」
「知能は人間に与えられた最大の資質のひとつですよ。 しかしあまりにもしばしば、 知識の探求は愛情の探求を排撃しているんです。 これはごく最近ぼくがひとりで発見したんですがね。 これを一つの仮説として示しましょうか。 すなわち、愛情を与え、かつ受け入れる能力を欠いた知能は 精神的道徳的破滅をもたらし、神経症、ないしは精神病すらひきおこすものである。 つまりですねえ、自己中心的な状態でそれ自体に吸収され含まれてしまう心、 人間関係の排除へと向う心というものは、 狂暴さと苦痛へ導かれるのみだということ。…」(192頁)


06/12/98-06/13/98

B+


Satoshi Kodama
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Last modified: Fri Mar 19 15:41:22 JST 1999