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それでは次に、ベンタムが法と道徳をどのように位置付けていたのかを考えてみることにしよう。『序説』第十七章「法体系における刑法部門の境界について」において、ベンタムは広い意味での倫理を次のように定義している。
「広義の倫理ethics at largeとは、利害関係が考慮される人々に関して可能な限り最大量の幸福を生み出すように、人々の行動を指導directする術art、と定義されるであろう。」(IPML 282)
これを言い換えると、広義の倫理とは「利害関係者全員の幸福を最大化するように――すなわち功利原理にしたがって――人々の行動を指導する術」である、と言えるであろう。以下彼の広義の倫理の分類を見ていく。
というわけでこの章では「法とは何か」「道徳とは何か」というむつかしい問題が明らかになるはずであるのだが、結末やいかに?
広義の倫理の定義では「誰が指導するのか」という問題がオープンになっているところに注意。広義の倫理は、人々が功利的に正しい行動をするように指導することが目的なんだけど、「指導する者が誰なのか」によって、また新たな快苦計算をする必要が出てくるの。このことはあとで明らかになるはず。
まずベンタムは、広義の倫理を「誰の行動を指導するのか」という観点から二つに分類する。まず、A氏がA氏自身の行動を指導する場合、それは自己支配の術the art of self-governmentあるいは個人の倫理private ethicsと呼ばれる。
「自分自身の行動を指導する術という狭義の意味においての倫理は、自己支配の術、あるいは個人の倫理と名づけられる。」(IPML 282)
なお『序説』の書名にも使われている「道徳morals」という言葉は、この本の中では明確な形での定義がなされていない。他の著作では道徳が個人の倫理と同義で使われている(e.g. D 318, 331, Chr. 95)。
次にある人が自分以外の人の行動を指導する場合、それは支配の術the art of governmentと呼ばれる。
「自分以外の人間についていうと、彼らの行動を上記の目的に合うよう指導する術とは、支配の術という言葉が意味する、または少なくとも功利原理に基くときその言葉が意味すべき、唯一のものである。」(IPML 282-3)1
これは、指導されるA氏の側から見れば、A氏以外の人がA氏の行動を指導する場合である。またここで言われている「上記の目的」とは、広義の倫理の定義にある「利害関係が考慮される人々に関して可能な限り最大量の幸福を生み出す」、すなわち利害関係者全員の幸福の最大化という目的である。
さらに支配の術は大きく二つに分類される。すなわち支配の術は、その指導の内容が恒常的permanentなものか、その場その場で行われる一時的temporaryなものかで、立法術the art of legislationと行政術the art of administration2とに分けられる(IPML 283)。
また、指導する対象が未成年である場合、支配の術は教育術the art of educationと呼ばれる(IPML 283)3。
ところで、広義の倫理から自己支配の術を差し引いた残りが支配の術であるから、政府あるいは主権者が市民の行動を指導する場合に限らず、たとえば親が子の行動を指導する場合や主人が奴隷の行動を指導する場合も支配の術と呼ばれるべきだと言える。しかしベンタムが支配の術と言う場合、とくに政府による市民の行動の指導を指していると考えられる(e.g. D 249)。
以上が広義の倫理の一つ目の分類であり、この分類を「誰がA氏の行動を指導するか」という観点からまとめたのが図1である。
ここは単純にいうと自分が自分の行為を指導するか、他人が自分の行為を指導するかってこと。変な英語で言うと"Mr. A makes himself do something."か"Somebody other than Mr. A makes him do something."かってこと。くどいが、行為者と指導者が同じか違うかってこと。
ただし法は指導の内容が「おいおまえ二丁目の山田さん家にこの本持ってけ」というような特定の場合の命令ではなくて、ある程度一般的である種類の行為に対する命令なの。しかも指導の対象は成人に限る。
図1は簡単に書けるから書いてみてください。
それで、個人の倫理が道徳である、って考えたところから、道徳の実体がつかみにくくなっちゃったんだよねえ。ベンタムのばか。ま、確かに、これもあとで見るように、『「功利的に正しい行為」を自分がするという行為』もまた、功利的に見て常に正しいんだから、個人の倫理が道徳だ、って言ってもなんとなく分かる気がするんだけど。
さてA氏の行動を指導するのはA氏自身かA氏以外の人である。次にベンタムは、自分か他人のいずれかあるいは両方によって指導できるA氏の行動を、「A氏の行動によって誰の利害が影響を受けるか、すなわちその行動によって誰の幸福が左右されるのか」という観点から二つに分類する。すなわちこの観点からA氏の行動は、自分しか利害interestを持たないような行動と、自分の周りの人の利害にも影響を与えるような行動の二種類に大別される(IPML 283-4)。
そこでA氏の幸福が、A氏の行動のうちの「自分しか利害を持たないような」行動に左右される場合、A氏の幸福は、A氏の自分自身に対する義務に左右されると言われ、「そこで倫理は、個人の行動をこの点で指導する術という狭義の意味では、自分自身に対する義務を果たす術(IPML 284)」と名づけられる。また、この部門の義務を果たすことによって示されるA氏の性質は、分別prudence4の性質と呼ばれる。
次に、A氏の幸福とA氏の周りの人の幸福が、A氏の「自分の周りの人の利害にも影響を与えるような」行動に左右される場合、A氏の幸福とA氏の周りの人の幸福は、A氏の他人あるいは隣人に対する義務に左右されると言われ、「そこで倫理は、個人の行動をこの点で指導する術という狭義の意味では、隣人に対する義務を果たす術(IPML 284)」と名づけられる。
さらに隣人に対する義務は、隣人の幸福を減らすような行動を差し控えることで消極的な形で幸福を増やすか、あるいは隣人の幸福を増やすような行動をなすことで積極的な形で幸福を増やすか、によって二つに分類される。
「そこでこの義務の消極的な部門を果たすことは誠実probityと呼ばれ、積極的な部門を果たすことは、善行 beneficenceと呼ばれる。」(IPML 284)
以上が広義の倫理の二つ目の分類であり、この分類を「A氏の行動の三領域」という具合にまとめたのが図2である。
さて本論文のまえがきで述べた、「個人の行動を法によって規制することがどこまで正当化出来るか」という問題は、ベンタムにおいてはこの広義の倫理の二つ目の分類により区別された、「個人の行動の三つの領域に対して、支配の術の一部である立法術がどれだけ介入することが功利的に正当化されるか5」という問題になると思われる。しかしこの問いについてのベンタムの考えを見ていく前に、法についてのベンタムの考えをもう少し説明する必要がある。
さ、各人の行動は誰が指導するのか、という問題のお次は個人の行動の分類。しかしベンタムはほんとに分類狂ですな。もういいかげん疲れてくるよね。
けどこれでだいたい見えてきたでしょ。法(と道徳)の仕事とは結局、一人一人のこれら三つの行動領域を指導することに尽きるわけだから、とりあえず「市民代表のA氏の三つの行動領域のそれぞれを他人が指導すべきかどうか」について答えを出すことが法の規制の及ぶ範囲を確定することになるの。
次は苦しい義務とサンクションの話。両者ともベンタムの法理論を説明する上で概念なんだけど、出来れば義務については説明したくなかった。わかったようでよくわかんないんだ、これが。
図2も簡単なので自分で書いてみましょう。円書いて三等分すればよいのです。(この分け方を問題視する人もいるけど)
はっきり書かなかったけど、この図2で分けられた行動ってのは、人間が意志を持って行なう行動なんだよね。だって意志して行なう行動じゃないと、動機に働きかけることが出来ず、ということは誰によっても指導できないわけなんだから。
実は自分自身の幸福にのみ関する行動が二つに分かれないのもそのせい。自分自身を不幸にする行動ってのは、ベンタムの仮定では、人間は意志して行なうことが出来ないんだから、そういう行動は指導対象外なの。
ところで、広義の倫理の分類で初めて登場した「義務」という言葉はいったいどういう意味を持つのか、またわれわれはなぜその義務に従わなければいけないのだろうか、という疑問が出て来るかも知れない。そこで先に義務とは何かについて説明する。しかしベンタムの言う義務とは何かを理解するためには、まず彼の言うサンクションの概念を理解しておく必要がある。
ベンタムによると、われわれの経験するすべての快楽と苦痛は、物理的源泉・政治的源泉・道徳的源泉・宗教的源泉の四つの内のいずれかから生じてくる。また、それらの快楽と苦痛の源泉は、人間の行動を指導する法や規則に対して拘束力を与えることができるという意味で、すなわちそれらの法や規則を守る動機をわれわれの内に生み出すという意味で、サンクション6と呼ぶことができると述べている(IPML 34)。以下の例はベンタムの挙げている例であるが、わかりやすいように一部脚色してある。
ただしここで言われている法や規則というものは政府の作るものだけではなく、個人的な生活規則や宗教的戒律なども含む広い意味での法や規則である。
それではそれぞれのサンクションについて、例を交えながら簡単に説明しよう。
一つ目の物理的サンクションは、物事の自然の成り行きからある人に快楽や苦痛が生じる場合のサンクションであり、かつ人間の意志による干渉や神による超自然的な干渉が入らない場合である(IPML 35)。 たとえばA氏が酒をしこたま飲んだために次の日に頭痛で苦しむというのは(D 177, 197)、物理的サンクションから生じる苦痛である。またたとえば、B氏が酒を飲まない理由が、酒を飲むと肝臓を悪くするかもしれないし、金がかかるし、時間の無駄にもなる、といった理由である場合、B氏は物理的サンクションから生じる苦痛を避けるという動機から酒を飲まないのである、といえる(D 199)。
二つ目の政治的サンクションは、国家の主権者の意志にしたがって政治的サンクションを施行するために選ばれた、裁判官judgeという職名に相当する社会の特定の人(々)が、ある人に対して刑罰あるいは報償という形で快楽や苦痛を生じさせる場合のサンクションである(IPML 35)。たとえば、A氏は酔っ払って仲間と一緒に路上で暴れ、他人の家の窓を叩き壊し、通行人を侮辱したために逮捕され起訴され有罪になり刑罰を科される。この場合A氏は刑罰という、政治的サンクションから生じる苦痛を蒙ることになる。一方B氏は、A氏と同じ目に遭わないために酒を飲まないことにしたとする。その場合、B氏は政治的サンクションから生じる苦痛を避けるという動機から酒を飲まないのである、と言える(D 177, 199-200)。
三つ目の道徳的(あるいは民衆的popular)サンクションは、社会の不特定の人々が、各人の自発的な意向から、また何らかの確立された規則に従うことなしに、ある人に対して快楽や苦痛を生じさせる場合のサンクションである(IPML 35)。また次のようにも説明される。このサンクションから生じる快楽と苦痛とは、ある社会の中で政治的権力を持たない成員が、世論に従って行動した際に別の成員に生じる快楽や苦痛である(D 176)7。たとえば、A氏は酒飲みであるということが世間によく知られていて評判が悪く、そのためなかなか就職できないで苦労する。この場合、A氏は道徳的サンクションから生じる苦痛を蒙っているといえる。他方、B氏はA氏と同じ目に遭わないために酒を飲まないことにしたとする。その場合、B氏は道徳的サンクションから生じる苦痛を避け、また道徳的サンクションから生じる快楽(たとえば高い収入の仕事に就けるなど)を得るために酒を飲まないのである、と言える(D 177)。
四つ目の宗教的サンクションは、神が直接的な力によって、ある人に対して現世あるいは来世における快楽あるいは苦痛を生じさせる場合のサンクションである(IPML 35)。たとえば、B氏は、酒を飲んで酔っ払うと神の怒りを買うことになる、と恐れているので酒を飲まないとする。この場合B氏は宗教的サンクションから生じる苦痛を避けるために酒を飲まないのである、といえる(D 177)。
ベンタムによると、以上の四つのサンクションから、すべての快楽と苦痛、およびすべての行動の動機が生じるのである8。
これらのサンクションからすべての動機が生じる、というのは先にも述べたとおり、快楽と苦痛がわれわれの行動の唯一の原因(あるいは行動を生み出す動機)であり、またこれら四つのサンクションから全ての快楽と苦痛が生じるのであることから明らかであろう。したがってベンタムによると、われわれが意志して行なう行動はすべて、これらのいずれかの単数あるいは複数のサンクションから生じる動機によって説明されるのである。
次に義務とは何かを説明する。ベンタムによると、義務9は先ほど説明した四つのサンクションに対応して四種類ある(D 154)。たとえば、法的義務は次のように説明される。
「あることをわたしがすべき義務を持つというのは、もしわたしがそれをしなければ法によって罰せられるであろう、ということである。」(C/F 496)
つまり、A氏があることをする法的義務を持つというのは、A氏がそのことをなさなかった場合、A氏は政治的サンクションによる苦痛、すなわち刑罰を蒙るであろう、ということを意味する。同様に道徳的義務とは、その義務を履行しなかった場合に道徳的サンクションによる苦痛が課される義務のことであり、宗教的義務というのは、その義務を履行しなかった場合に宗教的サンクションによる苦痛が課される義務のことである(C/F 496, D 207)10。
さて、広義の倫理の分類で説明された自分自身あるいは隣人に対する義務は、物理的サンクションと道徳的サンクションと(おそらくは宗教的サンクションと)によってすでに各人が守るように動機づけられていると言える(IPML 284)。その意味ではこれらの義務はもともと道徳的義務(かつ宗教的義務)であるといえる。そしてこれらの義務に対し政治的サンクションによる刑罰を科すこと、すなわちそれらの義務をさらに法的義務にすることがどれだけ正当化されるか、というのが問題となるのである。
「ある行為が義務である」っていうのが「その行為をしないと何らかの形で痛い目にあうよぉ」という意味である、っていうのはわかりやすいし、「全ての動機は快苦に通ず」っていうのも明快で結構。
けど、問題はさっき出てきた「自分自身に対する義務」と「隣人に対する義務」っていうときの義務が、道徳的義務なのか、宗教的義務なのか、法的義務なのかがはっきりしない、ということ。
これのたうちまわって考えたんだけど、結局答えが出ないんで苦しまぎれの解答をしてるんだよね。実際のところベンタムは「自分自身に対する義務」って言ったときは特にどのサンクションに結び付けて考えていたわけじゃないと思うんだけど、これもはっきりしない。もうわややがな。
個人の倫理と立法術の区別に進む前に、法は本質的に害悪の要素を持つというベンタムの考えを説明しておく必要がある。
ベンタムによると集合名詞あるいは抽象名詞としての法law or the lawは、ちょうど社会集団というものがその集団を構成する成員によってなる擬制的な集合体であるのと同じように、個々の法individual lawsの総計に他ならない(IPML 294)。であるから、法とは何かを知るためには個々の法とは何であるかを考えなくてはならない。
ベンタムの定義によると、一つの法は一つの(法的)義務を作る。義務を作るとは、まず義務にする行動の内容を定義し、次にその義務に違反した場合に、どのような刑罰(政治的サンクション)を科すかを決めることである(OLG xxxv, 249)。たとえば、「何人も物を盗んではいけない」というのが義務の内容であり、「裁判官は物を盗んだ罪ありと判決を下された者を絞首刑に処すこと」というのが刑罰である。 したがって全ての法はそれぞれ、一つの種類の行為を一つの犯罪行為にする働きを持つ。そこでベンタムによると「それぞれの法にはそれに対応する犯罪があり、それぞれの犯罪にはそれに対応する法がある(OLG 233)」ということになるのである11。
さて、法はある行為をすることを義務にして、その行為をなすことを強制するものであるから、義務を課せられた全ての人はしたいことを自由に出来ない苦痛を覚える。また、義務に違反した行為をなした人は刑罰によって苦痛を蒙ることになる。したがってその限りでは、法は苦痛を生み出すものであり、悪である、と考えられる。
「法は、それが長期的に考えればどのような善をなすにしろ、必ずはじめに害悪を生み出すのである。」(OLG 54)
であるから法による個々人の行動への干渉が功利的に認められるのは、「より大きな悪を除外することが刑罰によって保証されるとき(IPML 158)」に限られ、ある法を作ることによって生じる害悪の方が、その法を作ることによって除外できる害悪よりも大きい場合、その法は功利的に不正である、あるいは作られるべきではない、ということになる。どのような場合に法を作ることが適切でないか、あるいは刑罰を科すことが適切でないかは、以下の議論の中で明らかになるはずである。
ここの法の話とその前の義務の話は、「法は必要悪である」っていうことを言うために必要だったの。
なんで法が必要悪なのかって言うと、
っていうわけだからなの。
つまりベンタムにとって法っていうのは結局、立法家による脅迫なわけなの。つまりある意味では立法家っていうのはやっちゃんなの。だから脅迫が功利的に正当化されるのは、その脅迫によって「より大きな悪を除外することが保証されるとき」に限られるわけなの。
そこで、『「功利的に正しい行為」を立法家がどこまで脅迫することが功利的に正当化されるか』が問題になるわけです。それを確定するのが次の章。できんのかいな。
注5の注。politically correct「政治的に正しい」をパロって「功利的に正しい」。誰も気付かないだろうと思ったので書いておく。
注10の注。ベンタムは、義務には四つあるなんて書いてるとこがあるけど、実際に物理的義務っていう言葉が出てくるところってないの。だ、だまされたっ。
注11の注。こういうこと書くんだったらもっと詳しく書かないと駄目だとは思うけど、法についての勉強が不足なのであんまり自信を持って書けない。院に入れたら、法については法哲学者と対等にしゃべれるようになるくらい、よく勉強しなきゃ。おれ法学部コンプレックス持ってんだよなあ。