こだまの(説明と弁明の付いた)卒論 / ベンタムとかいう男 / こだまの世界 / メタメタ倫理学 / index
さて以上のような前提の下で、ベンタムは立法術が指導すべき個人の行動の領域と個人の倫理が指導すべき領域――つまりA氏以外の人がA氏の行動を法を用いて指導すべき領域と、A氏自身が自分の行動を指導すべき行動の領域――との区別を行なうのである。しかしその議論に入る前にまず個人の倫理と立法術の共通点・相違点が何であったかを確認しよう。
ベンタムによると個人の倫理と立法術とは、社会集団の各成員の行動を指導するという点で同じである。また、両者ともに社会集団の各成員の幸福という共通の目的を持つ。
「個人の倫理と立法術は、両者とも全く同一の人々の幸福を考慮すべきであり、全く同一の人々の行動を指導することに従事すべきである。」(IPML 285)
個人の倫理と立法術が共通の目的を持つことは、両者が広義の倫理に属するものであり、広義の倫理の持つ目的が利害関係者全員の幸福の最大化なのであるから、当然のことだと言える。すなわち図2で示されたA氏の行動のどの領域にせよ、A氏自身が指導するにしても、A氏以外の人(特に立法家)が指導するにしても、指導する者は利害関係者全員(すなわちA氏を含めて、A氏の行動によって幸福が左右される人) の幸福を最大化するように、A氏の行動を指導すべきである。
それでは個人の倫理と立法術の異なる点はどこであろうか。まずもちろん、個人の倫理は自分自身の行動を指導する術であり、立法術は法すなわち政治的サンクションによる刑罰を用いて他人の行動を指導する術である点が異なる。しかし個人の倫理が指導すべき行動と立法術が指導すべき行動を区別する上で重要なのは、A氏が功利的に正しい行為(道徳的行為)を行なうのは、常に功利的に正しいが、立法家が法を用いてがA氏に功利的に正しい行為(道徳的行為)を強制するのは、必ずしも常には功利的に正しくない、という点である。また、A氏が功利的に不正な行為を行なわないのは、常に功利的に正しいが、立法家が法を用いてA氏に功利的に不正な行為を禁止するのは、必ずしも常には功利的に正しくない、という点である。
「(自分を含めた)社会集団全体に対して有益であることが見込まれる行為全ては、各人が自分からすべきである。しかしそのような行為全てを、立法家が各人に行なうよう強制すべきであるというのではない。(自分を含めた)社会集団全体に対して有害であることが見込まれる行為全ては、各人が自分から差し控えるべきである。しかしそのような行為全てを、立法家が各人に差し控えるよう強制すべきであるというのではない。」(IPML 285)
なぜならすでに述べたように、刑罰を用いた法による個々人の行動への干渉は本質的に害悪の要素を持つのであり、そのため「より大きな悪を除外することが刑罰によって保証されるとき(IPML 158)」でないと、法によって個人の行動を指導することは功利的には正当化されないからである。功利的に正しい行為(道徳的行為)を法によって強制することは必ずしも正しくない――この点が、ベンタムの道徳と法の決定的な区別であると思われる。
それでは上の違いを念頭において、立法術が指導すべき個人の行動の領域と個人の倫理が指導すべき領域の違いを見ていこう。ベンタムは二つの観点からその違いを明らかにしようと試みる。
一つは、『序説』第13章「刑罰を科すのが不適当な場合」で彼が明らかにした、刑罰を科すことが功利的に正当化されない(以下に示す)四つの場合に、個人の倫理が干渉する余地があるかどうかという観点である。これはすなわち、立法家が法を用いて各人にある種の行為をすることを禁止することが功利的に適切でない四つの場合それぞれにおいて、各人が自分自身にその行為をすることを禁止することが功利的に適切であるかどうかということである。
もう一つは、広義の倫理の分類において示された個人の行動の三つの領域(図2)におけるそれぞれの義務(自分自身に対する義務と隣人に対する義務)を各人が果たすために、法の助けがどれだけ必要かという観点である。これはすなわち各人の持つ「利害関係者全員の幸福を最大化せよ」という義務を、立法家が法を用いて各人に強制することが功利的にどの程度適切であるか、ということである。
さて、そういうわけなんである。どういうわけかというと、『「功利的に正しい行為」を自分にやらせること(自分ですること)』は常に功利的に正しいが、『「功利的に正しい行為」を他人にやらせること』は常には功利的に正しくない、ということなんである。というのも法ってのは脅迫だから。
んで、一つ目の区別っていうのは何をするのかというと、手っ取り早く言えば、「刑罰を科しちゃいけない場合に当てはまる行為」をA氏が行なうことは、功利的に正しいのかどうかを検証するの。
これはもっと簡単に言うと、法的に不正でないのと、道徳的に不正でないってことは、同じかどうかってことなの。それでは実際どうなのかを見てみましょう。あと、次に出てくる個人の倫理は道徳って言っても全然問題ない。個人の倫理(道徳)という風に考えて読んでね。
まず、刑罰を科すのが不適当な場合に、個人の倫理が干渉する余地があるかどうかを考えよう。わかりやすくするために、(A氏以外の人である)立法家が法によってA氏の行為を禁止すべきでない場合に、A氏自身は自らその行為をやめるべきであるかどうか、という風に考えよう。ベンタムによると、刑罰を科すべきでない事例――功利的に刑罰を科すことが正当化されない事例――は次の4つである。(IPML 159)
まず最初の、(1)刑罰に根拠がない場合とは、「刑罰によって防止されるべきいかなる害悪も存在しない場合か、あるいはなされた行為が全体としては有害でない場合(IPML 159)」である。つまりA氏の行為が功利的に正しい(あるいは少なくとも不正でない)と判断される場合である。この場合は、功利的に正しいA氏の行為を立法家が禁止すべき理由が無いのと同様に、A氏自身が当の行為をやめるべき理由もない(IPML 286)。
次に、(2)刑罰が有効でない場合とは、A氏の行為は功利的に不正な行為であるが、「刑罰によっては害悪が防止できない場合(IPML 159)」である。
この場合は大別すると二種類に分けられる。一つは、遡及(事後)法ex-post-facto law(立法家が犯罪行為がなされてから法を決める場合)や超法的判決ultra-legal sentence(裁判官が自分の権限で、立法家が定めていない刑罰を科す場合)などのようにA氏の行為がなされてから刑罰を科す場合や、また法の公表が十分でなかった場合などである。つまり法に問題があってA氏の意志には何らの影響も及ぼさなかった場合である。この場合A氏の行為は功利的に不正なのであるから、本来ならば立法家によっても禁止されるべきで、もちろんA氏が自分からやめるべき行為でもある(IPML 286)。もう一つは、たとえばA氏が非常に幼い子供や狂人であり、ある行為に刑罰が科されるということを理解できない場合や、たとえA氏が健全な精神を持った成人であってある行為に刑罰が科されるということを理解できたとしても、自分の意志しなかった行為をしてしまう場合のように、A氏の意志によっては当の行為をすることを避け得ない場合で、しかしこの場合はたとえA氏の行為が功利的に不正であっても、立法家がどんなに重い政治的サンクションをもってしてもA氏の意志に働きかけられない場合は、A氏の持つその他のサンクションから生じる動機の弱い力によってもA氏の意志に働きかけられないので、A氏自身が当の行為を防止することもまず出来ない。そのことをベンタムは次のように表現している。
「法の雷(いかずち)が無力であるのならば、単なる道徳のささやきはほとんど影響力を持たない。」(IPML 287)
しかし、功利的に不正な行為をA氏自身が防止することが出来ないからと言って、ただちに、A氏自身がその行為を防止すべきではないとは言えない。また、A氏自身が防止することの出来ない行為を防止すべきだ、というのもほとんど無意味である。そこでこの場合は立法家は刑罰によってその行為を禁止すべきではなく、A氏自身が当の行為を防止することは出来ない、とだけ言っておく。
その次の(3)刑罰が不利益な場合とは、A氏の行為は功利的に不正であると評価される行為であり、立法家は刑罰によってその行為を防止することは可能である(A氏の意志に働きかけられる)が、「刑罰によって生じる害悪のほうが、それにより防止される害悪よりも大きい場合(IPML 159)」である。
ベンタムによると刑罰は次の二つのいずれか、あるいは両方の仕方で不利益になりうる(IPML 287-9)。一つは刑罰の適用が犯罪行為を行なった者(有罪者)に必ず限定されていたとしても、刑罰を科すことによって生じる損失expenseの方が、刑罰を科すことによって得られる利益profitを上回る場合であり、もう一つは、たとえば裏切りや忘恩という行為のように犯罪行為の定義の難しさから無辜の者が刑罰を科される危険性があるため、刑罰が不利益になる場合である。
いずれの場合にしても、A氏自身が当の行為を防止する場合は、立法家がA氏の行為を禁止した場合に生じるこういった害悪は生まれない。したがってA氏の行為が功利的に見て不正であっても、立法家の作る法が刑罰が不利益な場合に当てはまるのであれば、その行為は立法家によっては禁止されるべきではないが、しかしA氏は依然として自分からやめるべき行為なのである。
そして最後の(4)刑罰が不必要な場合とは、A氏の行為は功利的に不正であると評価される行為であり、立法家は刑罰によってその行為を防止することは可能であり、またたとえ犯罪の持つ害悪の方が刑罰の生み出す害悪よりも大きいとしても、「害悪が刑罰なしに防止されるか、ひとりでに収まる場合であり、つまり、より経済的に防止される場合(IPML 159)」である。これは、社会的に見て有害なA氏の行為をやめさせるのに、刑罰によるのと同じくらいの効果がより経済的な方法――つまり余分な苦痛を生み出さない方法――によって達成しうる場合であり、たとえば、意志に直接的に働きかける威嚇terrorによるのと同じくらいの効果が、知性understandingに働きかける教育instructionによって達成される場合などがそれである(IPML 164)。
例を挙げると、A氏は社会的に見て悪い教えを説いている。もちろん立法家はA氏がその教えを説くことを法によって禁ずることも可能であるが、それよりはむしろ立法家自身かあるいは別の人が、A氏の教えの誤りを議論によってA氏に理解させるか、あるいはA氏の教えの誤りを社会の他の成員に理解させるかすることによって、A氏の悪い教えが広まることを防ぐ方がより経済的だと言える(IPML 164)。
ところでベンタムは刑罰が不必要な場合にA氏が当の行為を自分で防止すべきかどうかを『序説』では述べていない。しかし刑罰が不必要な場合に当てはまるA氏の行為は功利的にはやはり不正な行為なのであるから、立法家によってはA氏の行為は禁止されるべきではないが、A氏自身からはやめるべきだと考えられる。
以上、刑罰を科すのが不適当な四つの場合に、個人の倫理が干渉する余地があるかどうかを見てきた。そして結論として、次のことが分かった。
それでは次に、広義の倫理の分類において示された個人の行動の三つの領域におけるそれぞれの義務を各人が果たすために、法の助けがどれだけ必要であるかを考えてみよう。
ああ、苦労してるなあ。読んでて涙が出てくるねほんと。自分を誉めてあげたいです。(何言ってんだか)
(2)刑罰が有効でない場合ってのが特に難しくて、これほんとはベンタムが言ってることが正しいのかどうか良く考えるべきなんだよね。今思えば、卒論はこの「法によって刑罰を科すのが不適当な四つの場合」を吟味する、とかにしといた方が良かった気もする。しかし手遅れ。
ま、とにかく、「法的に不正でない行為だからといって、道徳的(功利的)に不正でないとは限らない」という当たり前の結論が出たわけです。そんで法的には不正でないけど道徳的には不正な行為ってのは(3)刑罰が不利益な場合と(4)刑罰が不必要な場合であると。
しかし、功利的に不正イコール道徳的に不正、ってわけでもなさそうなんだよね。
たとえば、新幹線が時速300キロで走ってるところに人が飛び込んできてバラバラになるっていうことがあったとするでしょ。すると車掌は人を殺すという功利的には不正な行為をしたことになるけれども、それは意志して行なった行為ではないし、たとえ意志によって避けようとしても突然のことで物理的に無理だったのであれば、道徳的に不正とはいえない。これが(2)刑罰が有効でない場合において、「個人の倫理が干渉する余地がない」って言われる意味なんで、やっぱり道徳性を問題にする場合は、功利性だけでなく個人の意志という要素が必要になってくると言うこっちゃな。
ちなみに、今のところはだいぶ削ってある。長々バージョンがあるので、ひまな人はどうぞ。例がたくさんあって楽しくしたつもりなんだけど。
それで二つ目の区別は、「広義の倫理の分類において示された個人の行動の三つの領域におけるそれぞれの義務(自分自身に対する義務と隣人に対する義務)を各人が果たすために、法の助けがどれだけ必要か」って書いたけど、これは結局、「各人が道徳的な行為をするために、法による強制がどれだけ必要であるのか」っていう問題なの。それを個人の行動の三領域に関して調べましょうと。さてさて、結論はいかに?
ベンタムによる広義の倫理の二つ目の分類において、A氏の行動は誰の幸福に影響を与えるかによって三つに分類された。すなわち以下の三つである(図2参照)。
また、それぞれの領域において、利害関係者全員の幸福を最大化するように行動する義務(自分自身に対する義務と隣人に対する義務)を果たすことによって示されるA氏の性質は、それぞれ、(1)分別、(2)誠実、(3)善行と呼ばれるのであった。
さて、A氏の行動のこれらそれぞれの領域において、利害関係者全員の幸福を最大化するように――すなわち功利原理にしたがって――指導するのが立法術と個人の倫理を含んだ広義の倫理の役割なのである。しかしA氏の行動の中には法によって強制されなくともA氏が進んで功利原理に従った行動をする領域もあるであろう。また、法は本質的に害悪の要素を持っているのであるから、法の干渉が必要でない行動の領域に法が干渉することは功利的に不利益な結果を生むことになる。そこでベンタムは、A氏の行動の三領域それぞれに対応する義務を果たすのに個人の倫理は立法の助けをどれだけ必要とするか(IPML 289)、というもう一つの観点から立法術が指導すべき領域と個人の倫理が指導すべき領域の違いを明らかにするのである。それではそれぞれの領域についてのベンタムの説明を見てみよう。
まず、(1)自分の幸福のみに関わる行動は、A氏の行動の三領域の中でも、個人の倫理がもっとも立法の助けを必要としない領域である。なぜならベンタムの人間本性の理論が正しいとすると、各人は他人による指導を俟つまでもなく自分の幸福を最大化するように自ら行動するものだからである。ベンタムはこう言う。
「もしある人が自分自身に対する義務を十分果たせないことがあるとしたら、それは知性understandingにおける何らかの欠陥によってでしかありえない。もし彼が不正なことをするとしたら、それは彼の幸福を左右する状況に関して見過ごすかあるいは誤測をしたせいでしかありえない」(IPML 289)
つまりベンタムの人間本性の理論からすると、各人は自分が不幸になるような行動を自らの意志によっては行なうことは出来ないのである。したがって個人の行動のこの領域に関しては、健全な精神を持った成人であれば全員1、立法の助けがなくとも自分に関する義務を果たすように行動する動機――すなわち自分の幸福を最大化するように行動する動機――を十分に持ち合わせているのである。
また、この領域に法が干渉することは不適切でもある。というのも、この領域における犯罪(「自分自身に対する犯罪self-regarding offence」と呼ばれる)というのは、自分以外の誰に対しても有害でないことは明らかであるが、そもそも本当に自分自身に対して有害であるかどうかも疑わしい場合が多いからである(IPML 277)。なぜなら健全な精神を持った成人の場合、「自分にとって何が快楽であり、苦痛であるのかについて自分以上に良き判断者であるものはいない(IPML 159)」のであり、立法家からすれば有害な行為と考えられても、本人が自分の意志からその行為をなす場合、立法家より正しい判断者である本人はその行為を有害な行為とは考えていないからである(たとえば断食や鞭打ちなどの苦行を考えてみてもらいたい)。したがってこの場合、個人のこの領域の行為に刑罰を科すことは、功利的に不正でない行為に刑罰を科すことになるので、刑罰に根拠がない場合に該当すると考えられる。
あるいはまた、たとえ結果的に自分にとって有害な行為をしてしまったとしても、各人は常に自分の幸福を最大化しようと行動しているのであるから、その結果は本人が意図したものではありえない。したがって刑罰の力によってもその行為を防ぐことは出来ない。この場合、個人のこの領域の行為に刑罰を科すことは、刑罰が有効でない場合に該当すると考えられる。
さらに、仮に自分自身に対する犯罪というものの存在を認めたとする(たとえば酒浸りや私通など)。けれどもこの種の犯罪を法による刑罰をもって防止しようとすると、とりわけ証拠を得る難しさなどから、刑罰の生み出す害悪の方が犯罪の持つ害悪よりも圧倒的に優ることになる、とベンタムは考えている(IPML 290)。これはつまり、刑罰が不利益な場合になるということである。
したがっていずれの場合にせよ、(1)自分の幸福のみに関わる行動に対する法の干渉が功利的に正当化されることはほとんどないと言える。
次に、(2)自分の幸福に関わり、かつ自分の周りの人の幸福を減らす行動は、ベンタムによると(1)とは逆に、個人の倫理がもっとも立法の助けを必要とする領域であり、実際に法の干渉が最も多くなされてきた領域である(IPML 292)。
その理由の一つとして、たとえば他人の所有物に対する犯罪を行なわないというのは隣人に対する義務(誠実)であるが、まず立法によって各人の所有物とはなにかが決められなければ、われわれはこの義務を果たすために何をすべきでないのかが分からない、ということが述べられている(たとえば知的所有権を考えてもらいたい)。
「われわれは個人の倫理の命じることが何なのかを知ることができる前に、まず法の命じることが何なのかを知らなければならない。」(IPML 292)
またベンタムによると、この領域に法が干渉することはほとんどの場合、功利的に正当化されうる。
「ある人が自分の隣人を傷つけるということに対して刑罰を科さないことは、功利的に正当化されることはないか、あるとしてもほとんどない。」(IPML 292)
ただし、その際に科される刑罰はどのようなものでもよいというわけではなく、刑罰を科すべきでない四つの場合の条件をすべてクリアしたものでないと功利的に正当化されないのは言うまでもない。
最後に、(3)自分の幸福に関わり、かつ自分の周りの人の幸福を増やす行動は、ほとんどの場合、法は干渉せず個人の倫理に任しておかなくてはならない、とベンタムは考えている(IPML 292)。なぜなら多くの場合、この領域の行為は法によって強制されてやるのではなく、自ら進んでやるからこそ自分の周りの人は幸福になるからであり、たとえば夫が法によって強制されていやいや妻を愛さなければならないとしたら、おそらく妻は幸福にはなれないであろうからである(IPML 292-293 t)。
ただしベンタムは例外として、他人が危険に陥っていて、自分に損害がなく助けられるような場合――女性の頭飾りに火がついて、手近なところに水がある場合や、酔っ払いが水たまりでおぼれかけていて、顔を横にしてやるだけで助けられる場合など(IPML 293 u)――は、助けられた人は明らかに幸福になる、あるいは不幸を免れるのであるから、その人を助けることを立法家が法によって各人に強制すること(法的義務にすること)は功利的に正当化されうる、と主張している(IPML 292-3)。
だがこのベンタムの主張は、個人の行動の三領域の(2)自分の幸福に関わり、かつ自分の周りの人の幸福を減らす行動と(3)自分の幸福に関わり、かつ自分の周りの人の幸福を増やす行動との区別をあいまいにするのではないか。それにまた、ベンタムは他の著作で(隣人を不幸にしない)誠実の徳と(隣人を幸福にする)善行の徳を法的義務2の有無によって区別しているのであるが(D 191)、その主張とここでの主張とは矛盾しているようにも思われる。そもそもベンタムの言うような功利主義的な刑罰は、利害関係者全員に対して全体的に見て快楽を生み出さない行動を防止するものではなく、むしろ全体的に見て苦痛を生み出す行動を防止するもののはずである。したがってもしこれらの行為を罰するのであれば、それは「他人を助けるという有益な行為をしない(功利的に正しいな行為をしない)」という理由からではなくて、むしろ「他人を助けないという有害な行為をする(功利的に不正な行為をする)」という理由からであると考えるべきではないか。すなわちそれらの行為はもはや(3)の領域の行為ではなく、(2)の領域に入る行為だと考えた方が、(2)の(3)の領域の区別についてより截然とした理解ができるように思われる。
以上、自分自身に対する義務と隣人に対する義務を果たすのに個人の倫理は立法の助けをどれだけ必要とするかを見てきたが、その結論はこうである。
ん?えらい言い切った結論をしてるなあ。いいのかこんなにはっきり言って。
三番目の領域におけるベンタムの例外はどうしてもそこにあると困るので、なんとか二番目の領域に押し込みたかったんだな。それでああいうことをしてる。某氏の指摘するように、あの説明はかなりまずいんだろうか?諮問が怖い。
とにかく、これで二つの結論が出たわけで、もう大体何が言いたいか分かるでしょ、これで。
つまり、「功利原理からすると、法が個人の行動を規制するのが認められるのは、個人の行動の中でも他人を不幸にするような行動の領域だけである。しかも、その領域においてたとえ功利的に不正な行為であったとしても、必ずしも法の規制は認められない。すなわち法が規制してよいのは刑罰が有効であり、不利益にならず、かつ必要な場合に限る」ってこと。
もうわざわざ結びなんか書きたくなかったんだけど、一応ろくでもない結びがまだあるわけです。