こだまの(説明と弁明の付いた)卒論 / ベンタムとかいう男 / こだまの世界 / メタメタ倫理学 / index
ベンタムにおける法と道徳の区別を考える前にまず、彼に言わせると「道徳と立法の唯一の正しい原理(D 62)1」である功利原理について最初に見ておく必要がある。なぜなら立法行為をも含む人間の行なう全ての行動の道徳的評価は、この単一の原理によってなされるからである。
最初に次の引用を見てもらいたい。これは『序説』第一章の冒頭部分である。
「人間は自然によって、苦痛painと快楽pleasureという二人の王の支配の下に置かれてきた。彼ら苦痛と快楽だけが、われわれのすべきことを指示し、かつわれわれのすることを決定するのである。彼らの玉座には、一方には正right・不正wrongの基準が結わえられ、もう一方には原因と結果の鎖が結わえられている。」(IPML 11)
ここでは二つのことが言われていると考えられる。すなわち、
(1)快楽と苦痛がわれわれの行動の正・不正を評価するための唯一の基準である
(2)快楽と苦痛がわれわれの行動の唯一の原因(あるいは行動を生み出す動機)である
という二つである。ベンタムによると功利原理はこれらの事実を正しく認識し、これらの事実に基づくものである(IPML 11)。
ま、功利原理を最初に説明するのは妥当でしょう。だってベンタムだもん。
それで『序説』の冒頭部分引っ張ってきたんだけど、これってベンタムにおける常套手段だからやりたくなかったの。けどよく考えるとこの比喩についてあんまりたいした説明してるのを見たことないの。だからよく考えて(1)と(2)を引っ張り出してきたんだけど、結構(1)の解釈はラディカルかもしれない。けどベンタムはこういってるはずなの。
それと、第一章のタイトルは読書会でやったDinwiddy, "Bentham"の第2章に使ってある言葉から頂きました。ありがとう、今は亡きディンウィディ先生。
このうちまず先に、
(2)快楽と苦痛がわれわれの行動の唯一の原因(あるいは行動を生み出す動機)である
という、ベンタムの人間本性についての理論を説明することにする。
ベンタムによると、われわれ各人の唯一の事実上の目的は自分の幸福である(D 60)2。また彼は、幸福とは快楽の享受と苦痛の免除であると説明する(IPML 74)3。したがって彼によると、われわれ各人は常に、自分の幸福を促進させるために、つまり自分の快楽を増加させ、自分の苦痛を減少させるためだけに行動していることになる。そこで人間本性についてのベンタムのこの考えを、後に説明する功利原理と対比させて、「各人は自分の幸福を最大化しようと行動する」という風にまとめておく。
ただしこれは、各人がある与えられた状況において選択可能な行為の中で実際に行なった行為が、結果的に見て必ず自分の幸福にもっとも役立つ行為になっている、ということを意味するのではない。そうではなく、各人は自分の幸福にもっとも役立つと思われる行為を必ず選ぶということを意味するのである。
しかしベンタムのこの説に対して、この人間理解はおかしい、という人もあろう。現実の生活において、われわれは他人の幸福を目的として、ときには自分の幸福を犠牲にしてまで行動する場合が多々あるではないか。たとえばわれわれは貧しい人になけなしの金をやることもある。われわれは必ずしも常には自分の幸福を最大化するよう行動しているわけではない、と。
上のような反論に対してベンタムならばおそらくこう答える。われわれ各人は常に自分の幸福を促進させるためだけに行動していると言っても、これは何もわれわれが他人の幸福を一切考慮することが出来ないと言っているわけではない。むしろ他人の幸福を全く考慮しないときの方がまれである。確かにわれわれは、一見すると自分の幸福を犠牲にしてまで他人の幸福のために行動しているように思える行動をする場合がある。けれどもそういった他人の幸福を目的としているように見える行動の背後にも、自分の幸福の最大化という真の目的が隠されているのである、と。
少し詳しく説明しよう。『序説』の第5章「快楽と苦痛、その種類」において、ベンタムは人間の感じることのできる快楽を14種類、苦痛を12種類に分類するのであるが、そのうちにはたとえば、善意benevolence or good-willの快楽や、高名good nameの快楽というものもある。すなわち善意の快楽とは、善意の対象になる人や神や動物が持つと考えられる快楽を想像することによって得られる快楽(IPML 44)であり、また高名の快楽とは、ある人が世間の善意を獲得するか所有しているという確信から得られる快楽、そしてまたその結果として、将来彼らから自発的で無償の奉仕の利得を受けるであろうという確信から得られる快楽(IPML 44)である。したがってそういった種類の自分の快楽を得るという動機から、われわれは他人の快楽や苦痛を考慮して行動するのである。
この際われわれはある種の快楽を犠牲にすることがあるかもしれない。たとえばA氏は、自分の持っているパンを先ほどから空腹を訴えているB氏にあげることがあるかもしれない。しかしA氏が自分の意志によってそのような行動をしたとすれば、それはA氏がおそらく次のように考えたからである。
「このパンを自分で食べて得られる快楽よりも、パンをもらって喜んでいるB氏の姿を見て自分も喜ぶ(善意の快楽)とか、自分に対する世間の評判があがる(高名の快楽)とかいった形で自分に生じる快楽の方が大きそうである。またもしわたしがこのパンを自分で食べたとすると、そうして得られた快楽よりも、B氏の空腹で苦しそうな様子を見て自分も苦痛を覚える(善意の苦痛と呼ばれる)とか、自分に対する世間の評判が下がる(悪名の苦痛と呼ばれる)とかいった形で自分に生じる苦痛の方がおそらく大きくなるであろう。結局のところ、空腹を訴えているB氏にこのパンをあげることで、わたしは自分の幸福を最大化することができるであろう。」
もちろん他の推論の仕方もあるであろうし、またもしかするとA氏は思い直して、二人でパンを分け合うという選択肢が自分の幸福を最大化する行為であると結論するかもしれない。しかしどのような推論をするにせよ、A氏は自分の幸福をより少なくすると思われる選択肢を選ぶことは出来ないのである。したがってある与えられた状況で選ぶことの出来る選択肢の中からA氏の選んだ行為は、A氏がその行為によって自分の幸福が最大化すると考えた行為と必ず一致する。
このように考えるとベンタムの人間理解においては、われわれ各人の行動の究極の目的は自分の幸福の最大化であり、他人の幸福はあくまで自分の幸福の最大化のための手段として見なされていると言える。確かにそれは厳密な意味での利己主義だと言えよう。また「功利主義は利己的な教義だ」という非難も多くはこのベンタムの人間理解から発していると考えられる(D 57)。しかし「他人の喜ぶ顔を見たらわたしもうれしい。だからわたしは他人に親切にする」と考えて行動する人を、「他人の迷惑を顧みず自分の利益や快楽だけを追求する人間」という一般的な意味での利己主義者と呼ぶことは出来ないであろう。したがってわたしはベンタムの考える人間像が普遍的でないとか、誤っているとは簡単に結論することは出来ないと思う。
ここらへんはわりと好き。
「各人は自分の幸福を最大化しようと行動する」っていうのも言いすぎのきらいがあるけど、やっぱりそうなの。だって自分がより不幸になると思える行動を選ぶことが出来ないとすると、もっとも幸福になると思える行動しか出来ないでしょ?だから刹那的な人もそうでない人も、みんなそのとき「これが一番自分のためになるだろう」って行為を選んでるの。(金銭的にではなく、精神的に)より損になると思える行為は、できない。できませんっ。だからこだまは「今一番快楽が得られ苦痛の少ない行為は、院試の勉強をすることではなくて、ホームページに卒論を載せることである」って思ってるの。だって今院試の勉強するのはホームページ書くより苦痛だもの。
それで「おれは常には自分の幸福を最大化しようと行動してないぞっ」って言う人のために反論を書いたんだけど、A氏とB氏が登場する長い例が出てくる。言いたいことは、こだまが他人を幸福にするような行為をしたとしても、それは結局こだまがより大きな快楽を得られるからだ、ってこと。
ぼくの友達でボランティアやってて、実際どんどん不幸になっていってる友達がいるけど、その友達がそれでもやめられないのは、自分がボランティアをやめたらたくさんの人が不幸になる、という考えが苦痛で耐えられないからなの。たぶん。だから我慢してやってるの。
おんなじように、いじめられっ子が泣きながらもいじめっ子に反抗しないのも、反抗したらより不幸になるだろうから我慢してるの。反抗しないっていうのがいじめられっ子が考えられる限りでの「自分の幸福を最大化できる行為」なわけ。
「おれはおれの幸福を最大化するためにだけに生きている」っていうのは、ちょっと言い方が悪くて「自己中心的なやつっ」、て思われるかもしれないけど、少なくともぼくはこれが正しい見方だと思う。もちろん「あなたがいなきゃ生きていけない」っていう人がいてもいいと思うけど。けどそれもやっぱり「あなたが死んだらわたしは死ぬほどの苦痛を感じるであろう」ってことでしょ?
「各人がある与えられた状況において選択可能な行為の中で実際に行なった行為が」。どひゃー。おれとんでもない悪文書いてるなあ。自分でも分からないよこれじゃ。「ある与えられた状況においてA氏に選択可能な行為の中で、A氏が実際に行なった行為が」でどうかな。
第一章はまだ続く。
先ほど述べたように、ベンタムは『序説』の冒頭において
(1)快楽と苦痛がわれわれの行動を評価するための唯一の基準であること
を主張する。つまり彼によれば、人間の行動の正・不正を評価するあらゆる原理は、究極的には快楽と苦痛を判断基準としているのである。(しかしこの主張の当否は今は問わない。)
そこでベンタムは、快楽を唯一の善the only good、苦痛を唯一の悪the only evilとし(IPML 100)、次のように定義される功利原理the principle of utility4こそが道徳と立法の唯一の正しい原理であると主張するのである。
「功利原理とは、利害関係のある人(々)の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、ありとあらゆる行動を是認または否認する原理である。」(IPML 12)
ここで述べられている「ありとあらゆる行動」の中には、私的個人の行動のみでなく、政府の行なう立法や司法や行政といった政治的行動も含まれている(IPML 12)。すなわち、人間の行なうすべての行動の正・不正の評価が、この単一の原理によってなされるのである。功利原理が道徳原理であると同時に立法原理でもあると言われるゆえんは、ここにあるのである。
また、功利性utilityは快楽と苦痛とに結び付けて次のように説明されている。
「功利性とは、あらゆる対象objectにある性質であり、その性質によってその対象は、利害関係のある人に対し利得benefitや便宜advantageや快楽や善や幸福を生み出す傾向を持つか、または、害悪mischiefや苦痛や悪や不幸が生じることを妨げる傾向を持つのである。もし利害関係のあるのが社会集団community全体であれば、社会集団の幸福であり、特定の個人であれば、その個人の幸福である。」(IPML 12)
さらに、個人の利益と社会集団の利益は、以下のように説明される。あることが個人の利益interestを促進する、と言われるのは、「そのことがその人の快楽の合計を増加させる傾向を持つか、同じことであるが、その人の苦痛の合計を減少させる傾向を持つ場合(IPML 12)」である。また社会集団とは、「擬制的な集合体fictitious bodyであり、いわば社会の成員を構成しているとみなされる個々人によって成り立っている(IPML 12)」ものであるから、「社会集団の利益というのはその集団を構成する各成員の利益の総和に他ならない(IPML 12)」と言われる5。
したがって、ある行動が功利原理によって「正しい」あるいは「なされるべきだ」と評価されるのは――すなわちある行動が社会集団全体に関する功利性に一致するのは――、その行動が社会集団の幸福を増やす傾向の方が減らす傾向よりも大きいときであり(IPML 12-13)、それはすなわち、その行動によって社会集団の各人に対して生み出される快楽の総和の方が苦痛の総和よりも大きいと判断されるときである。そこで行動の規範についてのベンタムのこの考えを、後述の広義の倫理についての定義も考慮に入れて、「各人は利害関係者全員の幸福を最大化するように行動すべきである」という風にまとめておく。
しかしどうして功利原理こそが道徳と立法の唯一の正しい原理であると言えるのであろうか。ベンタムによるとこの功利原理は他のすべてのことを証明する原理であるので、この原理自身の正当性については直接には証明できない(IPML 13)。また「功利原理の正当性を論証によって反証することは不可能(IPML 15)」である。もちろんこのような説明を聞いて、はいそうですか分かりましたと納得する人はいないであろう。けれども功利原理の証明の問題はいささかわたしの手に余るので、本論文では立ち入らない。したがって本論文では、ここまで説明してきたベンタムの人間本性の理論と規範の理論がともに正しいと仮定した場合に、個人の行動を法によって規制することがどこまで正当化出来るかを問題にしたいと思う。
功利原理の説明。ここもまあ、こんなもんでしょう。「人間の行動の正・不正を評価するあらゆる原理は、究極的には快楽と苦痛を判断基準としている」っていうのは、直観的にはそうだと思うけれど、ほんとに快楽と苦痛以外には善悪を決めるものわないのかと言われると、簡単に証明できそうもないのであきらめる。
ただ、「悪いもの(行為)とは、少なくとも誰か一人に必ず苦痛を与えるものである」ということと、「善いもの(行為)とは、少なくとも誰か一人に必ず誰かに快楽を与えるものである」ということは疑えない事実のように思えます。「誰にも苦痛を与えない悪い行為」などないっ。
communityを「社会集団」という風に妙な訳し方をしたのは、個人か集団か、という対比を出したかったため。単数か複数かってこと。社会(複数)の幸福とは個々人(単数)の幸福の総和のことである、と。
ライオンズについて勉強したことも書きたかったんだけど、それはそれで大変なのであきらめた。けど、常に基準は「利害関係者全員の幸福の最大化」なんだよね。
「功利原理こそが道徳と立法の唯一の正しい原理である」っていうためには、「功利原理が正しい道徳・立法原理で、かつ他に正しい道徳・立法原理がない」って言わなきゃならないから、大変である。ぼくはそうだと思うんだけど。ベンタムは他の道徳原理がみんなだめだっていう形で功利原理を望ましいものに見せようと考えてたみたいなの。卒論には結局入れなかったけど、禁欲原理の批判と共感・反感原理の批判を(下手くそに)説明したところを読みたい方はどうぞ。
とにかくいろんなことを説明する必要があるんだよなあ。けど要らない説明はなるべく省かなきゃいけない。
注1の注。ベンタムの翻訳って言ったら基本的に『序説』の前半だけだもんね。あ、あとこないだ古本祭りで古い『序説』の全訳手に入れたけどほとんど見てない。後は明治期に『立法論』があるのと、永井義雄が『ベンサム』で幾つかの著作を部分的に翻訳してるだけ。ベンタムの英語は『序説』はいいが、1810年以降のやつはすごく読みにくい。修飾の仕方がえぐいの。図書館で借りた本だから線も引けないし。
注3の注。いかした比喩だからつい書いてしまった。もちろんポンドもペンスもイギリスの通貨。
注5の注。これはハートの論文で見つけた。倫理学研究室では「ベンタムにこの趣旨の記述はないのではないか」、としばらく謎になっていた。ただし原典にはまだあたっていない。