(しじうぃっく Sidgwick, Henry)
15年ほど前に、倫理学についての本を書いていたとき、 わたしはカントが言うように、 義務と幸福の一致--これは理性的な道徳的生活にとって不可欠だと思われる--を 生み出すためには魂の不滅を要請しなければならない、 と考える傾向にあった。 少なくともわたしはこれを暫定的に要請して、 その一方で実証的な証拠を真剣に探す試みをしようと考えていた。 もしこの探索が失敗したとあきらめるとしても、 この要請を最終的で決定的なものとして採用してもよいものだろうか? そうすることは真理およびそれを獲得する方法についてのわたしの見解全体と 合致しているだろうか? そしてもしわたしがこの二つの問いのいずれにも「否」と答えるならば、 わたしは何らかの倫理的体系を持っているのだろうか?
---シジウィック
シジウィックは非常に退屈な人物であった。 彼はあまりに退屈であったために、自分でも自分のことを退屈だと考えていた。
---Larissa MacFarquhar
英国の哲学者(1830-1900)。 日本では一部の地域を除いてはあまり知られていないが、 西洋の倫理学者は彼のことを重要視している人が多いようだ。 また、通常は古典的功利主義の 最後の一人として考えられているが、 彼は自分は功利主義者であると言いながらも、 功利主義と(倫理的)利己主義のどちらも、 実践的原理として捨てがたいと悩んでいたようだ (このことを「実践理性の二元性」と呼ぶ)。
主著は『倫理学の方法Methods of Ethics』だが、 『倫理学史概論Outlines of the History of Ethics』 も好著である。 ちなみに、ムーアの先生でもある。(04/20/99)
冒頭の引用は以下の著作から。