情動説

(じょうどうせつ emotivism [emotivist theory of ethics])

`Atticus,' I said one evening, `what exactly is a nigger-lover?'

Atticus's face was grave. `Has somebody been calling you that?'

`No sir, Mrs Dubose calls you that. She warms up every afternoon calling you that. Francis called me that last Christmas, that's where I first heard it.'

`Is that the reason you jumped on him?' asked Atticus.

`Yes sir...'

`Then why are you asking me what it means?'

I tried to explain to Atticus that it wasn't so much what Francis said that had infuriated me as the way he had said it. `It was like he'd said snot-nose or somethin'.'

`Scout,' said Atticus, `nigger-lover is just one of those terms that don't mean anything -- like snot-nose. It's hard to explain -- ignorant, trashy people use it when they think somebody's favouring Negroes over and above themselves. It's slipped into usage with some people like ourselves, when they want a common, ugly term to label somebody.'

-- Harper Lee, To Kill a Mockingbird, ch. 11.


情緒説とも呼ばれる。 「ソクラテスは善い」「人工妊娠中絶は不正である」 「死刑制度は廃止すべきである」といった道徳判断は、 「ソクラテスは鼻がでかい」「人工妊娠中絶は母体に危険を及ぼす」 「フランスでは死刑制度は1981年に廃止された」 といったような真偽を問うことができる判断とは異なり、 話者の感情を表明するのがその主たる(あるいは唯一の) 目的であると考える立場。 エアスティーヴンソンが代表的論者である。

G.J.ウォーノックの説明によれば、 情動説は有意味な命題に関する論理実証主義 (logical positivism)の考えに基づいている。 論理実証主義の考え方によると 有意味な命題は、 「独身者は結婚をしていない人である」のようなトートロジー(同語反復の命題)か、 経験的に検証されうる事実命題のいずれかである。 それゆえ、直観主義者が考えたように、 「道徳判断は、 直観のみによって知りうる道徳的事実についての真なる(あるいは偽である) 判断である」というような主張は認められない。 それどころか、論理実証主義によれば、 道徳判断は一見真偽の問える命題のように見えるが、 実は命題ですらないのである。

たとえばカルナップ(Carnap, Rudolf 1891-1970)は 「あなたは盗むべきでない」 とか「あなたは人に親切にすべきである」といった道徳判断を、 「盗むな」「人に親切にせよ」という命令と理解した。 また、シュリック(Schlick, Moritz 1882-1936)は道徳判断を 社会によって認められている規則と考え、 倫理学がなすべきことはどのような規則が社会に受け入れられるようになるのか を研究する心理学的な探究であるとした。 さらに、エアは道徳判断は話者の感情の表明であると主張した。 エアの考えに従うと、たとえば、 ある人が「産児制限は不正である」と言うとき、 その人は真偽の問える判断をしているのではなく、 たんに産児制限に対する嫌悪感を示しているに過ぎない。

このように論理実証主義者たちによって素描された情動説を 念入りに完成させたのはスティーヴンソンである。

ウォーノックによる情動説の批判はまた来週。

(06/June/2000)


スティーヴンソンの情動説に対する ウォーノックの批判は以下の4点にまとめられる。

第一に、 道徳的談話の本質を (スティーヴンソンがしたように)「聴き手の態度に影響を与えるもの」 と規定した場合、 道徳的談話を他の種類の談話から十分に区別できない。 たとえば、民衆の態度に影響を与えて彼らが産児制限に賛成するようにするには、 道徳的談話に訴えなくても、 多産の家族がいかに不幸であるかについて小説を書いてみたり、 多産な家族に高い税金をかけてみたり、 脅迫してみたり、いやがらせしてみたり、 いろいろな手段に訴えることができる。 けれども上の規定ではこのような言語的、非言語的手段から道徳を区別できない。

第二に、 そもそも「聴き手の態度に影響を与える」というのは道徳的談話に本質的ではない。 かりに道徳的談話がそのような本質を持っているとすれば、 わたしがある事柄に関してソクラテスと道徳的な議論をしようと思ったとき、 わたしは(1)その件に関してソクラテスはわたしと同じ態度を共有しておらず、 また(2)ソクラテスに態度を変えてほしいと望んでおり、 さらに(3)議論の結果、 ソクラテスは態度を変えるかもしれない、と前提している必要があるが、 これらの三つの条件が成り立たなくてもわたしがソクラテスと 道徳的議論を行なうことは十分ありうる。 たとえば、 わたしは自分とソクラテスは頑固だからお互いの態度が変わらないと知っていても 二人で道徳的議論を行なうことがありうる。

第三に、情動説によれば感情が道徳的談話にとって 本質的なものであることになるが、感情は道徳に本質的とは言えない。 たしかに、「邪悪だ」とか「許せない」とか「人道に反する」とか 「劣悪きわまる」などの表現は感情を表明しており、 また他人に同様な感情を引き起こさせる効果(スティーヴンソンの言う情動的意味) を持つかもしれない。 しかし、「正しい」や「すべき」などの表現については同じことは言えない。 たとえば、大蔵省の役人が政府の政策について冷静に「〜すべきだ」と言うとき、 それが役人の感情を表しており人々の感情をかきたてる作用があるようには 思われない。 つまり、感情の表明は道徳的発言にとって偶然的であり、本質的ではない。

第四に、道徳的談話の本質を「聴き手の態度に影響を与えること」と考え、 態度と感情を同一視するならば、道徳に関する合理的な議論ができなくなる。 論理学においては説得力のある議論と論理的に妥当である議論は区別されるが、 情動説の理解に基づいた道徳においてはこの区別ができず、 すぐれた道徳判断とは相手の態度に影響を与える判断であり、 悪い道徳判断とは相手の態度に影響を与えることができない判断であることになる。 これでは道徳はプロパガンダや宣伝と変わることがなく、 合理的議論の可能性はまったく閉ざされてしまう。 (なかにはこの帰結を受けいれる人もいる)

(13/June/2000 追記; 26/Mar/2001 一部修正)

参考文献


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Nov 19 16:43:37 JST 2004