はじめに / 第1章-結論 / 第2章-PROPERTY--OUGHT / 第3章-POSSESSION--IS
倫理学風研究 / index
さて、第1章がいきなり結論、というのは少なからず無理のある構成であるが、何せ時間内にどこまで書けるか不安なので、最初に水滝教授の主張の要点を挙げておきたいと思う。
(1) まず、このレポートの表題にもあるように、『「possessとown」の関係は、「isとought」の関係と結び付けて考えることが出来る』という主張。このレポートで主に説明されるのは、この主張である。これは言い換えると、possessionとpropertyは、事実所有(=所持、占有)と当為所有、あるいは理念所有という違いを持つ、ということである。そしてこのことを明らかにするために、property、proper、appropriate、proprietyなどの言葉と、own、owner、ownership、owe、ought(さらにはドイツ語のeigen、eigenschaftなども)などの言葉が、語源はおおいに異なるにせよ、概念上は密接な結びつきを持っていることが説明されねばならないであろう。また同時に、possessとpossessionの説明も必要であろう。
(2) 次に、より大胆な主張として、『西洋思想においては「isとought」の区別の方が、「beとhave」の区別よりもさらに根源的な区別を示している』という主張。これはすなわち、西洋思想においては「現実isと理想ought」ということが何よりも強く常に意識されているということに他ならない。
(3) さらに、『その理想、あるべき姿とは、――「ought」が「owe」の過去形であるという事実に典型的に表れているように――、過去にある』という主張。つまり西洋人にとっては、理想の世界とは過去の世界なのである。これはたとえば土地の所有権が争われた場合に、より古くからその土地を占有していた方に軍配があがるのとも関係があるであろう。また、社会契約説の方法論に見られるように、有るべき姿を過去に求める、という姿勢とも関係があるであろう。
以上が水滝教授の主張である。したがって、水滝教授に言わせると、「『わたしは自分の身体を所有しているのか』という問題設定は、『べき』と『である』の区別をしていないため、いたずらに事態を混乱させている。本来の問題設定は、『わたしが自分の身体を自分のものとして見なすことが、正しいのかどうか』であるべきなのである」(原語は大阪弁)ということである。
それでは次の章から、(1)「possessとown」の関係は、「isとought」の関係と結び付けて考えることが出来る、という主張を説明することにしよう。