博士課程研究計画書 (1999年春に書いたもの)

博士論文作成計画書

思想文化学専攻倫理学専修 児玉聡


論文題目: 近代英国倫理思想史におけるジェレミー・ベンタムの倫理思想の重要性と その現代的意義

論文の主題

ジェレミー・ベンタムの倫理思想はこれまで、 「最大多数の最大幸福」というモットーで知られる功利主義的側面と、 自然法と自然権の存在を否定する法実証主義的側面に大きく二分され、 それぞれの側面が独立に研究される傾向にあった。 そのため、それぞれの側面に関する研究が進む一方で、 ベンタムの思想を全体として捉えた場合に この二つの側面がどのような関係にあるのかについての研究が おろそかにされてきたきらいがある。

また、ヒュームやエルヴェシウス、 あるいはブラックストーンなどベンタムに先行する思想家たちが、 ベンタムの思想形成にあたって果たした役割も近年の研究によって 解明されつつあるが、 近代の英国倫理思想史におけるベンタムの位置付けが これまでの研究によって十分に明らかにされたとは言いがたい。 ベンタムが彼に先行する思想家たちからどのような問題意識を受け継ぎ、 たとえば心理的利己説、道徳感覚説、 自然法思想などの理論に内在する問題点をどのような形で克服しようとしていたのか、 という視点からの研究を行なう必要がまだ残っている。

そこで本論文では、 ベンタムの倫理思想を当時の近代英国倫理思想の中に適切に位置付けて考察し、 従来二つの側面として捉えられているベンタムの功利主義と法実証主義との 内的な連関を見つけだすことによって、 彼の思想を一つの整合的な倫理学説として提示することを試みる。

さらに、本論文では、 ベンタムの倫理思想の全体像を提示するにとどまらず、 彼の思想が持つ問題点を指摘することにも努める。 その際、ベンタムが彼に先行する思想家たちによって提起された問題を どの程度解決することができたのかという視点から評価するだけでなく、 彼の倫理思想を現代の功利主義批判や 法実証主義批判と照らしあわせて検討した場合に、 彼の思想がどの程度現代的意義を持ちうるのかをも合わせて明らかにしたい。


現在までの研究状況

博士課程に進学してからは、 ベンタム関係の重要な文献の精読に努める一方で、 これまでに得られた成果を学会で口頭発表を行ない、 またその一部を論文として発表してきた。

まず、 ベンタムの数多くの著作を読みこなすかたわらで、 D.D. Raphael編のBritish Moralists、 H. Sidgwick著のOutlines of the History of Ethics、 J.B. SchneewindのThe Invention of Autonomy などを詳しく読むことにより、 ベンタムに至るまでの近代英国倫理思想史において 議論されていた論点の抽出に努めてきた。

また、昨年の9月に開かれた日本功利主義学会に参加し、 「ベンタムにおける徳と幸福について」という題目で口頭発表を行なった。 そして、そのときの発表原稿に手を加えて論文にしたものが 『実践哲学研究』に掲載された。 この発表および論文では、 これまであまり研究されてこなかった『義務論』を主なテキストとして用いて、 まず(1)ベンタムの徳についての見解を簡潔に説明し、 次に(2)とりわけ、倫理学では古くから問題になる徳と幸福の関係について ――あるいは、なぜ有徳であることは望ましいのかという問いについて―― 彼がどのような見解を抱いていたかを検討した。 ただしこの論文では、 ベンタムの見解と彼に先行するシャフツベリやハチソンといった思想家の見解と の比較が行なわれていないので、 今後の研究ではこの点をさらに追究する必要がある。

さらに、昨年11月に開催された関西倫理学会では、 「ベンタムの自然権論批判--法実証主義者としてのベンタム--」 という題目で口頭発表を行なった。 この発表では、 ベンタムの思想が持つ法実証主義的側面と功利主義的側面との関係について 考察する前段階として、 法実証主義者としての側面、すなわち彼の自然権論批判に焦点を合わせ、 彼の自然権論批判がもっとも凝縮した形で示されている 『無政府主義的誤謬』という著作を中心に彼の議論を検討した。 その結論は次のようなものである。 「ベンタムにおける法実証主義の根底にあるのは、 『権利』や『できる』などの法の言語によって 道徳の議論を表現することに対する批判である。 このような言語的な混同が生じると、 政府や法の道徳性を評価する合理的な議論が不可能になり、 また、法を批判し改善していく試みも困難になる。 彼は自然権論に不可避的に伴うこれらの困難を見抜き、 こうした困難を逃れることができる規範的理論を求めて、 功利主義を構築することに向かったと言える」。


今後の進展の見通し

2000年の9月から一年間、 ベンタムの法実証主義と近代英米の法・政治思想史について学ぶために、 現在もっともベンタム研究がさかんに行なわれている英国の University College London (UCL)に留学する予定である。 より具体的に言うと、 UCLのMA in Legal and Political Theoryというコースに参加し、 Jeremy Bentham and the Utilitarian Tradition, Contemporary Political Philosophy, Jurisprudence and Legal Theory などの授業を受講することにより、 ベンタムの思想についてだけでなく、 近年の政治哲学についての理解をも深めることに努めるつもりである。

なお、日本に戻ってきた後は、 それまでの研究に基づいて博士論文の執筆に着手する予定である。


自己の研究の国内外における位置づけ

国内ではベンタム研究の本は数えるほどしか出版されていないが、 その中でも深田三徳の『法実証主義と功利主義』は、 上で述べられたベンタムの功利主義的側面と法実証主義的側面の両方を検討しており、 本研究を進める上で重要な著作と言える。 深田はこの著作において、 H.L.A. Hartの見解に同意して功利主義と自然権思想との対立を 善の極大化原理と配分的原理という対立に帰している。 しかしこの点は十分に展開されているとは言えず、 また、著作全体がベンタムの法実証主義的側面の研究にかたよっているため、 ベンタムの倫理思想の全体像を示すには至っていない。

一方、国外に目を転じると、 いくつかの重要な著作を挙げることができる。 まず、H.L.A. HartはEssays on Benthamなどの著作において、 ベンタムの功利主義と法実証主義について詳しく論じている。 したがって、博士論文を作成するにあたっては、 Hartの著作の批判的な読みが要求されるであろう。

また、最近の研究であるP.J. KellyのUtilitarianism and Distributive Justiceは、 功利主義が個人の平等、自由といった自由主義的の理念と衝突するという、 ロールズらによる現代の功利主義批判がベンタムの功利主義思想には 当たらないことを示すために、 ベンタムの功利主義思想を配分的正義を含んだものとして 解釈しなおす試みを行なっている。 この試みがどの程度うまく行っているのかを検討することは、 博士論文を執筆するに当たって重要な洞察を与えるであろう。

その他、名前を挙げるだけにとどめるが、 近年の研究者であるJ. Dinwiddy, F. Rosen, P. Schofieldらも、 本研究に関連が深い研究を行なっている。

ただし、法学あるいは政治思想よりのHartやKellyの著作には、 「近代英国倫理思想史という文脈に位置づけられたベンタム」という視点は ほとんど見られないので、 この点に関してはその他の研究 --たとえば古典的なものではSidgwickやAlbeeの著作や、 近年ではJ.B. Schneewindの著作など--を参考にする必要があると思われる。

(以上)


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Apr 14 04:56:29 JST 2000