参加者--(相変わらず)江口さん、児玉
ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。
今回はライオンズの"In the Interest of the Governed"の批評(その一)と、その本の第2章を読んだのでした。ライオンズの本を読まなくてもこの批評を読めば大体の内容はわかります。Book Reviewって大切ですなあ。
やあやあやあ、第四回目ベンタム読書会っ。今回もやっぱりライオンズ教授にご登場いただきますっ。前々回は予定していたところまで進まなかったけど、今回はがんばりましょう。ささ、それでは行きますっ。
ベンタムが言うには、功利原理は道徳と立法についての彼の著作である『序説』の基礎になってるの。功利原理が土台である、と。これは周知の事実なんだけど、このことはいろんな意味でそう言えるんです。第一に、人間の生における全ての領域において、ベンタムの態度と判断は功利性の尺度によって決定されてるの。考えてみれば、一つの学説をこんなに一貫して適用した哲学者は今までにひとりもいないんです。つまりベンタムほど一つの理論を広範囲にわたって、あるいは体系的に適用しようとした人はいないってことです。第二に、法律に対するベンタムの姿勢、すなわち刑罰と報償の用い方とか、法改革や法典化などに対する彼の姿勢は、功利原理によって決定されているんです。第三に、功利原理の影響は普通の人が考えたら功利原理なんかほとんど関係ないって思えるような場所にまで感じられるの。例えば彼の人間の行動および動機づけの分析と法律の理論は、功利の基準に身をゆだねた立法家の視点を意識的に持つことによって得られたもののように思えるの。しかもたとえ「最も純粋に」哲学的な吟味をするときでさえ、ベンタムは道徳的に中立的な姿勢をとることは絶対ないんです。この事実は偶然のようには思えません。つまりこれは徹底的な功利主義者であろうとする人間による意図的なアプローチに違いないんです。
だけど、ベンタムの功利原理って正確にはいったいどういうものなんだろ?この問いに対する答えはほとんど疑問の余地がないようにこれまで考えられてきました。研究者達は、功利原理の従来の解釈について疑いを表明したことはほとんどなかったし、その従来の解釈とは調和しないような証拠を示したこともほとんどなかったんです。さあそこでライオンズ教授の研究の対象になる最も重要な従来の主張というか仮定は、ベンタムの功利原理は「普遍主義的」であるっていうやつなんです。普遍主義的な功利主義っていうのはつまり、全ての人間の損得interest(おそらくは人間以外のほかの動物をも含めた感覚のある全生物の損得)が、ある行動が評価される際に等しく考慮されなくっちゃいけない、というものです。だけどライオンズ教授は、この一般的に受け入れられている見解は・ベンタムが実際に言っていることを無視しているために・満足がいくものではないことをこれから説明しようとするわけです。つまりベンタムの原理は「普遍主義的」ではない、とライオンズ教授は考えてるわけ。ライオンズ教授が思うに、功利の原理が要求する善意っていうのは自分の社会のはしっこにまでしか及ばないの。もっと正確に言うと、ベンタムは二元的な基準dual standardを持っていて、社会の損得が公共的・政治的領域における基準であり、自分の損得が「個人的な」事柄における基準であるって考えていた、ってライオンズ教授は思うんです。けどこの二つの基準はさらにより基本的な功利原理に基づいているとベンタムは考えていて、それはごく大まかに言うと「支配する者は支配される者の得になるよう行動すべきである」っていう原理だったんだって。ライオンズ教授の言いたいことはこれに尽きるから暗記です。
さてそれではライオンズ教授のような解釈が可能かどうか、ベンタムの功利原理を詳しく見ていきましょう。
ベンタムの功利原理は行動を評価するための基準であり、それはすなわち、どの行動が正しくてどの行動が誤っているとか、何がなされるべきで何がなされるべきでないだとかを決める基準なんです。これは常識です。哲学用語の基礎知識っ。それでこの原理は・「政府の政策」も含めて全ての行為を考慮に入れるという意味で・包括的なんです(IPML, I, 7)。また功利原理は・補助的な原理が必要とされないという意味で・完結したものと考えれます。これさえありゃあすべてうまく行く、ってわけです。さらに功利性utilityもまた究極的な尺度でして、他に何も必要としません。功利性ってのは有用性程度に考えてくれたらいいよ。だから功利主義ってのはわかりやすく言えば有用主義なの。幸せに役に立つものが良い、と。従ってこういうわけで功利原理はいわゆるベンタムの「第一原理」であるわけです。だけど功利の原理だけでは、実際の行為のどれが正しいまたは誤っているのかを知るには十分ではないんです。当たり前の話なんだけど・それを知るためには、功利原理を使うだけでなく、行動の結果を予想しようとしなきゃいけません。というのも、ぼくのすべきことを決めるのは、行為の持つ結果(または行為が持つと考えられる結果)であり、それ以外のなにものでもないからなんです。行為は、特定の幸福を促進するようにみえる程度に応じて・正しいとみとめられるんです。そしてこれがおおざっぱに言って、ベンタムが考えていた「功利性」の意味なんです。
ところで功利原理は僕やあなたのような凡人の行動だけでなく・法律や政治的事柄にも関わりを持つと考えられていて、また実際問題、これらのことが明らかにベンタムの主な関心事であったの。けど、そもそも法律と功利原理はどう関係するんでしょう?人間の行動に適用されるはずの原理がなんで法規則や法制度と関係があるんでしょう?これは少なくともこの原理の定式化に影響を及ぼす・論理的な問題であるのに、功利主義者たちはこれまでほとんどといっていいほど・このことについて何にも言わなかったんです。それに当のベンタム自身もこの問題について明らかな答えを持っていたとは言い難いんです。(彼はこの原理が法律にも関係することについては確信を持っていましたけど。)ま、しかしそれでもベンタムはいくつかの答えとみなせる見解は持ってました。功利原理が法律にも適用できるとみなせる・少なくとも二つの異なった考え方があります。まず第一に、功利原理が行為そのものだけにではなく法規則やその他の対象までにも直接に適用され・評価をなすことができるよう、定式化することが可能です。すなわちですね、ある行為が人間の幸福に及ぼす影響によって評価されるのとちょうど同じように、ある法律もそれが持つ結果にしたがって評価することができます。もう一つのやり方は、功利原理の直接の適用は行動のみに限定し、法律(とその他考慮する必要のあるもの)を間接的に考慮に入れるというやり方です。だって法律を作ったり改正したり(あるいは法律を作る過程に参加したり)するのはある種の行動であり、そういう行動もそれ自身が持つ功利性に基づいて評価することができるでしょ。けど、功利原理を法律に適用するための・この二つのやり方は全くおんなじではないってこと、分かります?そうそう、立法において一番役に立つ振る舞いが必ずしも一番役に立つ法規則と評価されるようなものを生み出す、とは限らないってことを考えれば、二つの違いが分かるでしょ。つまり法そのものに功利原理を直接適用する場合、法律を変えるか維持するための損得は考慮されなくなっちゃうでしょ。しかしですね、いろんな目的のためにこの違いは無視することができるわけで、実際ベンタムは立法について非常に一般的な言葉を使って議論するときにはそうしています。つまりベンタムは立法家の特別な状況に関して考慮していないんです。けどまあともかく、この二つのやり方の違いはライオンズ教授のする議論には実質的には関係がないそうです。おいおい、それじゃ始めっから言うなってのっ。
さて、ベンタムが「功利性」という言葉で何を意味するのかって説明してるところを読むと、みんなびっくりしちゃうの。なんでびっくりするのかって言うと、ベンタムは功利性を定義するときに利益・便宜・快楽・善・幸福を区別しないで用いるの。また、損害・苦痛・悪・不幸も区別しないんです(IPML, I, 3)。これはどうでも良いことのように思えるかもしれないけど、もしかするとそうでもないかも知れないんだよね。幸福を「快楽の享受と苦痛からの安全」って定義することでベンタムは一つの区別をしてます(IPML, VII, 1)。だからここに挙げられてる他のものも、基本的な要素と考えられる快楽と苦痛という言葉によっていろいろ定義されててもおかしくないんだけどさ。ここに挙げられてるものの中にさ、善と悪が入ってるでしょ。これ問題視されるんだよね。こういうこと書くとG・E・ムーアなんかがさ、「自然主義的誤謬」を犯してるって攻撃してくるの。けどムーアみたいに、ベンタムがここで善とは快楽のことだ・悪とは苦痛のことだ、と定義してるとは考えずに、そうではなく彼はここで根本的な価値判断(快楽は善い・苦痛は悪い)を表明してるんだって考えてもおかしくないの(IPML, X, 10)。けどまあ、こういうベンタムの・いろんな言葉をあまりにも曖昧に使う態度にも落ち度はありますが。ベンタムの「快楽」と「苦痛」という言葉の使い方はやや曖昧なんで、彼の全般的な立場も不確かで、ときには矛盾しているようにも思えます。ベンタムは「快楽と苦痛は知覚される感覚である」っていう考えと、「快楽と苦痛は、ある人が欲しいと思うものを手に入れたか入れなかったかした際の結果である」っていう考えと、二つの考えをどっちつかずに持ってたみたい。けど、後者の意味における「欲しいものを手に入れること」と「欲しいものを手に入れられないこと」は生理的な感覚を伴うとは必ずしも限らないから、二つの考えはごっちゃにされるべきではない、っていう議論もできるの。しかしベンタムはそういう混同を犯してるみたいです(彼自身は単純に「そういうつながりは必ずある」って思ってたのかもしれないけど)。彼の立場はこういう点においては非難を受けてもおかしくありません。でも彼の見解のこういう側面についてはここではこれ以上言及しないんだって、ライオンズ教授。またかよ。くそ。くそ。くそ。とにかく少なくとも確実に言えることは、ベンタムが幸福を最も高く評価していたってことです。そこでまた、彼は「倫理的快楽主義者」だったと、この専門用語の普通の意味で言うことができるわけです。
さてですね、ベンタムみたいな功利主義者は幸福を高く評価するところが独特であるって言われたりするんですよ。けど、実際、彼ら功利主義者だけがそうだなんて言えません。言えません。他にも多くの道徳哲学者達が幸福を同じくらい高く評価しています。たとえば、「幸福とは真に徳の高い人間に対する唯一のふさわしい報償である」とか考えている人たちがそうです。こういう考え方をしてるのはカントなんかです。カントは「人間は皆、自然にかつ合理的に自分の幸福を追求する」って言ってるように考えられます。けれどカントはそこには正義がなくっちゃあいけないと考えていて、つまり幸福は徳と結びついてるべきで、悪徳と結びついてちゃだめなの。幸福は獲得されねばならないが、幸福に対するあらゆる権利は剥奪されうるっていうの。
ベンタムはこういう考え方には納得しません。どんな人にでも常に出来るだけ最良の取り扱いがなされるべきなの。ときには刑罰のように人に苦痛を与えるのは正しいことですが、そういうことするのは常に喜ばしくないことであるべきだ、と。誰かが故意に他の人に不幸をもたらしたからっていう理由でさえ、それ自身ではその人に苦痛を与えることの正当化にはならないの。なんでかっていうと、苦痛は悪であり、刑罰は本質的に苦痛を含むものだから、刑罰の使用は常にきちんと正当化されなくちゃいけないからです。刑罰を正当化する唯一の理由は、より大きな苦痛が避けられるもしくはより大きな幸福が得られるってことなんです。刑罰によって生み出される苦痛は常に刑罰を科すことの反対理由になるんです。どんな種類の苦痛や苦悩も考慮から外されたらだめなの。同様に、どんな快楽も考慮から外されるべきではないの。誰かをわざと痛めつけることによって得られる・サド的な快楽でさえももちろん考慮されるべきなんです。ひえっ。これがベンタムの考え方で、徹底した功利主義とは矛盾しないし、いやむしろそういう功利主義から要求されるものでさえあります。いやいやそれにしても普通の人はなかなかここまで言えません。ま、しかし、ベンタムはこういうこともいってることを忘れちゃあなりません。彼は、サド的な快楽は必ず誰かの苦痛を伴い、悪意から発する苦痛は常にそこから生じる快楽をはるかに凌ぐものであると考えてました。ただしそれに対しては正当な理由が与えられてませんが。いじめっ子の快楽といじめられっ子の苦痛はどっちが大きいんだろうか。しかももしいじめられっ子がマゾ的快楽を得ていたとしたら…。ま、とにかく、悪意からの行為は、サディストの得る快楽の方がその獲物の蒙る苦痛より大きいなんてことはないので、功利性によっては決して正当化されないとベンタムは結論します。人類平和のためにそういうことにしときましょう。(少なくとも『序説』にはサドとかマゾとかいう言葉は出てこないので。念のため。)(See Bowring, I, 81, and IPML, Preface, note a; XIII, 2, note a.)
ところで、誰の幸福を考慮に入れたら良いんでしょ?ベンタムだったら、悪いことをする人間や、やな性格の人間の利害を無視しちゃあいけないって言うでしょう。そうすると彼は、常にみんなの利害を考慮することが(少なくとも原則的には)必要だって言ってんでしょうか?どうもそういうことになるようなの。そしてこの解釈が正しいという可能性は、ときどき出て来るコメント、たとえば唯一「最も広範囲にわたる」善意だけが彼の原理の要請に答えるんだ(IPML, X, 36-7)って言うような説明によって強められるの。さらにベンタムはまた、動物たちも同様に考慮されなきゃいけない、なぜなら彼らも苦痛をこうむりうるからだ、って言ってるように思えるんです(IPML, XVII, 4, note b)。
これっていわゆる普遍主義的功利主義だよね。ベンタム以降の子ミルとか(全員とは言わないまでも)他の功利主義者たちが考えていたようなやつ。そんでもって今日一番よく知られてるやつですね。実際僕たちってさ、功利主義を本質的に普遍主義的なものって考える傾向があるわけなんだよね。だから、ベンタムの原理に対する標準的な理解が、「われわれ各人はみなの幸福を目指すように常に行動すべきである」っていう理解なのも、考えてみれば当たり前なんです。ある行動(もしくは他の選択肢、というのもある行為はその外の選択肢と比べられるべきものであるから)によって影響される者には誰にでも、しかるべき考慮がなされなきゃなんない。けどこの要求に制限をつける人もいるかも知んないですね。というのも、ある人の利害は他の人の利害と衝突しうるし、こういう利害の衝突は僕たちの直接的な統制の手には負えないこともありうるから、実際のところ影響を受ける人々全員の幸福を促進したり守ったりすることは不可能な場合もあるからです。こういう理由から、最も一般的に適用可能な功利主義的基準の定式は「最大多数の最大幸福」だってよく言われるわけです。ベンタム自身、この言い回しをまさにこういう理由で用いているわけでして、この言い方は彼の著作の多くに登場します。でもね、びっくりするかも知んないけどさ、ベンタムが自分の原理を最も詳しく解説している本の中ではこの言葉はただの一回も出てこないの。もちろんその本とは『序説』です。この本の中でその言葉が出てこないのは、彼がこの本を書いたときには、その言葉は彼の利害の衝突についての見解を上手く言い表してなかったからなの。この言い方が持つ普遍主義的な含みもこの著作には関係無いものだったんです。なんでそうなるのかこれから見てみましょう。
あ、いつのまにか全訳してたじゃないか。いかんいかん、時間がない。まとめていこ。ここはベンタムが普遍主義的じゃなくて、むしろ非普遍主義的な原理を考えてたんじゃないかって説明するところ。つまりさ、今までのベンタム理解だと、あらゆる行動において「みんなの利害が常に考慮に入れられるべきである」って考えられていたんだけど、ライオンズ教授によるとさ、「みんなの利害が考慮に入れられるのではなく、自分の属する集団communityの内部にいるものの利害だけ」を考えりゃいいっていうの。ライオンズ教授自身、この解釈には決定的な証拠がないんで間違ってるかも知れないっていうんだけどさ。
なんでそんな解釈が成り立つかって言うと、ベンタムが功利原理を定式化する時には、たいてい「当の集団の利害」っていう風に制限をつけてるんです。ここでライオンズ教授は、「功利原理がきちっと説明されてるやつにはこれが付いていて、この限定が省略されてるやつは、省略形なんだ」って自分に都合良い解釈するわけ。それに『序説』ではこの制限がほとんどの場合につけられてるって言ってるの。だからやっぱりベンタムの功利主義は普遍主義的じゃない、と。 このライオンズ教授の見解に対する反論としては、さっきの「ベンタムは動物も考慮しろって言ってるじゃあないかあああ」とか、「功利性は最も広範囲にわたる善意を要求してるではないかあああ」とかがあるんだけど、ライオンズ教授はこれだけではベンタムが非普遍主義的な表現を功利原理に付けていたことを説明できないっていうんです。
とにかく『序説』などを読む限りではベンタムの基本的原理は非普遍主義的だと、ライオンズ教授は確信しております。
けど、この非普遍主義的な原理ってさ、よく考えてみるとすごいこといってんだよね。問題になるのは国際関係。日本人は日本の最大幸福を追求してお隣りの韓国や中国の利害など一切考慮しないで行動していいのか。
しかしライオンズ教授は自分の解釈でちゃんとそういう問題も解決できるっていうんだよね。それじゃ説明してもらおうじゃないの。
それじゃあってんで、『序説』における功利原理のベンタムが一番気合入れてる説明をもう一度よく見ようってことになるんです。
功利性の原理とは、利害が問題となっている人の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、あらゆるすべての行動を是認または否認する原理である。同じことを言い換えて言うと、問題の幸福を促進するか妨害するように見えるかの傾向に従って、ということだ。わたしは、あらゆるすべての行動について、と言った。ゆえに私的個人のすべての行動だけでなく、政府のすべての政策についてもそうなのである。(IPML, I, 2)
けどいったい「利害が問題となっている人the party whose interest is in question」って誰かってことは、ここでは言ってない。普遍主義的解釈をすれば「(利害を受ける)みんな」ってことになるだろうし非普遍主義的解釈をすれば「(利害を受ける)集団もしくはその成員」ってことになるんだけど、ここではどちらの解釈も可能なの。そこで次にベンタムの「功利性utility」の定義を見てみることにする、と。
功利性とは、あらゆるものにある性質であり、その性質によってそのものは、利害の考慮される人に対し利益や便宜や快楽や善や幸福(これらすべてはこの場合同じことになるのであるが)を生み出す傾向を持つのであり、または、(再び、同じことになるのだが)利害関係のある人に対し損害や苦痛や悪や不幸が生じることを妨げる傾向を持つのである。もし利害関係のあるのが社会(集団community)一般であれば、社会の幸福であり、特定の個人であれば、その個人の幸福である。(IPML, I, 3)
ここで、「利害の考慮される人the party whose interest is considered」っていうのは、さっきの「利害が問題となっている人the party whose interest is in question」とおんなじことだと見なせます。けど最後の部分にあるように、「利害が問題となっている人」は集団か特定の個人のいずれかなんです。だから、みんなの利害が考慮されるべきだっていう普遍主義的解釈はおかしい、ってライオンズ教授は言います。ただし、(限定された) 集団全体の利害が常に考慮される必要があるって言ってるわけじゃないから、単なる非普遍主義的解釈もやっぱりおかしいわけです。するとどうなるんでしょうか。ここで倫理の分類を見てみようってことになるの。
「功利性」の説明で「もし利害関係のあるのが社会(集団community)一般であれば、社会の幸福であり、特定の個人であれば、その個人の幸福である」って言ってるところが気にかかるわけなんですが、『序説』の17章にこの事に関する発言があります。ところでさ、17章の第1節って大切な章なんだよね。ここでベンタムは道徳と法の話を詳しくしてるんです。そもそも、『序説』全17章の構成はというと、第1章から第2章までは功利原理の説明と弁護をしてて、次の第3章から第16章までは功利原理を刑法に適用する際の具体的問題についてこまかーく説明してんだよね。んで、最後の第17章で、予定されていた刑法典へのつなぎとして、もっと一般的な理論的問題について説明してるんです。この章は「法体系における刑法の境界」について説明する章なんだけど、ベンタムはまず手始めに「個人の倫理と法の技術の境界」について話し始めんだよね。
ベンタムの(功利主義に基づいた)倫理の定義はこうです。
広義の倫理とは、利害関係が問題となっている人々に関して・可能な限り最大量の幸福を生み出すように、人々の行動を指導する技術、と定義されるであろう。(IPML, XVII, 2)
また「利害関係が問題となっている人々に関して」っていう表現が出てきました。うーん、この倫理の定義って功利原理の意味を知るための手がかりになるんじゃないかなあ。次の倫理の分類の仕方も重要ですね。つまりベンタムは「誰の行動が指導されるか」で倫理を大きく二つに分けるわけ。ここでライオンズ教授は、「誰の利害が影響を受けるか」で(伝統的なベンタム理解から予想されるようには)分けてないところが重要だっていうんだけど、そうなのかなあ。
これに関してベンタムの引用をすると:
それでは人が指導することの可能な行動とは何か。それは自分の行動か、あるいは他の行為者の行動に他ならない。自分自身の行動を指導する技術という狭義の意味においての倫理は、自己支配の技術、あるいは個人の倫理と名づけられる。
さて、人の指導の影響下にあると同時に、幸福を感じることのできる他の行為者にはどのような種類があるか。それは次の2種類に分かれる。1.自分以外の人間。人々personsと称される。2.人間以外の動物。しかし彼ら動物の利害は古代の法学者達の無神経さのために今日まで無視されてきたために、彼らは物の部類に格下げされている。さて自分以外の人間についていうと、彼らの行動を上記の目的に合うよう指導する技術とは、支配の技術という言葉が意味する、または少なくとも功利の原理に基くときその言葉が意味すべき、唯一のものである。支配の技術は、その手段が持続的な性質のものであれば、一般的に立法という名前で区別され、一時的な手段の場合、すなわちその時々の出来事によって決定されるものである場合は、行政という名前で区別される。(IPML, XVII, 3-4)
とにかくベンタムは倫理を「自己支配の技術または個人の倫理」と「支配の技術」とに大別するんです。だから倫理は功利主義的に見ると二元的性格を持ってるって言えるの。あ、そうするとこれは功利性と同じじゃないかって、ライオンズ教授は言うわけです。功利性も個人か集団いずれかの幸福を考慮するものだったでしょ。彼はここに対応関係があるんじゃないかって思うの。さらにライオンズ教授は一歩踏み込んで、功利原理も二元的性格を持ってるんじゃないかって考えたわけですね。
結局、『序説』におけるベンタムの功利原理の定義と倫理の定義からライオンズ教授は以下のようなベンタム解釈をするわけです。
基本的な功利原理は、各人は自分の「指導」のもとにある人々の幸福を促進すべきである、と理解される。どういうことかというとですね、人間の行動で・自由あるいは自発的なものは全て、一人以上の人間を「指導」することであるって見なせるでしょ。行為者本人のみを指導するか、本人以外の人も指導するかどっちかだって。だから、基本的な規範は「支配する者は支配される者の得になるように行動すべきだ」という規範なわけなんです。そこでライオンズ教授はこれを「非固定型differential」原理と呼びます。考慮すべき利害が固定されてないって言う意味です。
ベンタムはこの基本的原理を二つの文脈でしか適用しません。それはもう何度も言ったとおり「私的private」か「公共的public」かです。私的倫理とは例えば僕が自分自身の行動を指導する場合で、しかも他には誰も僕の指導の下にいない場合です。この場合僕は僕自身が何をするか決めるだけで、他人が何をするかは決めません。もちろん僕以外の周りの人間が影響を受けることは考えられますが、私的倫理においては、他人は僕の指導の下にいないっていうところが重要です。公共的な倫理とは、いわゆる政府による市民全体の指導を指します。だから「政府の政策」はすべて、社会全体、すなわち社会の成員全員の得になるように行なわれなきゃいけません。 そこで要するにベンタムは二つの基準を持ってたと考えれるわけです。政治的事柄に関しては社会の全成員の幸福が考慮されるべきで、個人的な事柄に関しては当の個人の幸福が考慮されるべきだということです。
ライオンズ教授のこの説明は予備的考察であって、この本の第5章でさらにいろいろ説明がなされるって言ってます。けど、彼によるとベンタムが二元的基準を持っていたと考えられる証拠は予想以上にあるということを言ってます。その証拠は例えば第17章第1節の最後の要約の部分何かにもあるんだって。
この節を終えるにあたって、技術あるいは学問としての個人の倫理と、法体系のなかで・立法の技術あるいは学問を含む部門との違いを要約し、またその違いを明確にしてみよう。個人の倫理は、各人が手元にある動機によって、自分自身の幸せにもっとも役立つ行動をするように・自分を指導する仕方を教える。(法学の一部門として見なされうる)立法の技術は、社会を構成する人々が、立法家によって利用される動機によって、全般的にみて社会全体の幸福に役立つ行動をするように・彼らを指導する仕方を教える。(IPML, XVII, 20)
他にもライオンズ教授の見解を支えるベンタムの発言があります(IPML, XVI, 46, etc.)。
この二元的基準の社会的政治的な方が『序説』では非普遍主義的限定として、つまり「功利原理によれば僕らは社会の全員の利益を促進するべきである」という形で立ち現れてくるわけです。それは『序説』が本質的に法律という政治問題を扱ったものであることから当然です。この非普遍主義的限定が付いてない・いくつかの部分はベンタムがめんどくさかったから省略したんだっていうのがライオンズ教授の主張です。また、この非普遍主義的限定付きの原理も本当はもっと基本的な「功利原理によれば僕らは自分の支配下にある者の利益を促進するべきである」っていう原理の一形態だっていうわけ。
さて、ここまでのベンタムの『序説』における発言の解釈にライオンズ教授は絶大なる自信を持っております。ちょっとこれだけ証拠を出せばおれの解釈は無敵じゃろって言ってます。が、(おれの解釈が一番優れていることは明らかだが)一応この解釈をした場合の難点も次の章で考えてみようって言ってこの章は終わり。あー長かった。