真夜中のベンタム読書会第四夜

11/09/96の内容(1)

参加者--(相変わらず)江口さん、児玉


ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。


今回はライオンズの"In the Interest of the Governed"の批評(その一)と、その本の第2章を読んだのでした。ライオンズの本を読まなくてもこの批評を読めば大体の内容はわかります。Book Reviewって大切ですなあ。


Jan Narveson, the Philosophical Review, 1975

(この雑誌はライオンズ教授がいたニューヨークのカーネル大学が出版しているので多少ひいき目か。)

このよくまとまったベンタム研究はそのほとんどが二つのテーマに費やさ れとる。メインのトピックはベンタムの「功利原理」の解釈じゃ。それで二つ 目のトピックはベンタムの法の分析なんじゃが、こちらは一つ目と比べてずい ぶん短いんじゃ。いずれのトピックともに、ライオンズのやつは従来の見解を やっつけにしゃしゃり出てきとるわけじゃ。わしらのほとんどがじゃの、「ベ ンタムはわしらが現在考えている意味での「功利主義」を宣伝してたんだ」と 考えていて、わしらの理解によればその功利主義とは、「私的・社会的を問わ ず、全ての行動を評価するための適切で究極的な基準とは、その行動がどれだ け全員の幸福あるいは利益に資するか――「全員」とはすなわち、評価される 行動によって影響を実際に受けるか受ける可能性のある全員のことである――」 というものなんじゃな、これが。ライオンズが言いおるのは、「これはベンタ ムの実際に主張してたものとはちゃうちゃう」ということじゃ。また、ベンタ ムの法についての考え方についてはじゃの、「従来の見解」によればベンタム は主権者命令説、すなわち「全ての法律は「主権者」の命令である」という考 え方をしていた言われとるんじゃが、これもライオンズは「ちゃうちゃう」と 言うわけじゃ。

功利原理の方についていうとじゃな、これはライオンズの詳しいテキスト 解釈によってなされとるんじゃ。やつが参照しとる主なテキストは『序説』じゃ。 ライオンズに言わせると、上述のような功利原理の説明、あるいは子ミルによっ て宣伝されたような功利原理の説明は、この本のどこにも明確には書かれてい ないっていうことになるんじゃ。ベンタムはむしろ問題となる功利性は「利害 が問題となっている人々」あるいは「利害が考慮されている人々」の功利性だっ て、しょっちゅう言ってるって言うんじゃ(例えば、IPML, I, 2)。もしくは 「社会(集団)」の利益という風に言ってるとのう。また他のところでベンタ ムは、「個人の私的な行動における適切な基準は、その人自身の利益または幸 福である」って書いてる、とも言っとる。社会の功利性の基準が適用されるの は、行為者が公的な立場で――例えば政府の一員として――行動するときであ る、というわけじゃ。そこで誰の利害が「考慮される」かによって、二元的な 基準があると言っとる。しかし、ある利害が「考慮される」とはどういうこと なんじゃろか。ライオンズの答えは、「自分の指導・影響・支配下にある者」 (p. 31)――つまり、結局「支配されている者」――の利益または功利性こそ が考慮される、ってことなんじゃ。「支配されている者の利益」――これがこ の本のタイトルじゃな。

ちょっと見、ライオンズの考えはこれまでの基本ラインの解釈とは2000光年ほど離れとる。さて、やつの説はどれだけ説得力があるんじゃろか。多くの証拠が『序説』から示されておって、他の多くのベンタムの著作からもいくつか証拠が挙げられとるんじゃ。その多くがライオンズの見解を証拠付けるものであり、ライオンズ教授の見解にかんっぺきに反しているようなものは一つもないことは認めざるを得んのじゃ。が、わしゃあ納得せんぞ。それには三つの理由があっての、そのうちの二つはライオンズの本にはなんも書いとらんわい。けっ。けっ。

まず第一にじゃの、ライオンズが引用しとる2、3の文はライオンズの見解と良く一致しとらんわい。けっ。しかもそのうちの一つはライオンズの解釈の仕方が明らかにまちがっとるわい。けっ。それは『国際法の原理』から引用された文で、「はたして主権者は他の国々と付き合う際、自国の国民の利益だけを考慮に入れるべきか、それとも他国の国民の利益も考慮に入れるべきであろうか」ってな文章なんじゃがの、ベンタムは後者を選らんどるわけじゃ。が、ライオンズの馬鹿はこのベンタムの答えはおれの解釈と「矛盾していないようだ」なんて抜かしておる。けっ。なめとんのかっ。ライオンズが言うには『序説』は結局のところ「国内の問題」しか扱っていないから、とか説明しとるんじゃ。な、なめとんのかっ。たわけっ。そんな説明が通用するかっ。なんでかってじゃな、他の国の国民がある国の主権者の「指導下に」あるなんてことはとても言えないわけじゃ。そうするとライオンズが「基本的な原理だ」とのたまっとる原理はどうなるんじゃっ。けっ。はっきりせんかいっ。

第二に、若き日の子ミルといったベンタムの主な弟子たちは、ベンタムが「普遍主義的なuniversalistic」原理を唱えてるって考えてたってことじゃ。だから子ミルのベンタムについての最初のエッセイでは、この普遍主義的原理がベンタムの「第一原理」としてはっきりと主張されとるんじゃ。ほれ、見てみい、もし子ミルがベンタムとこの点について考え方が全然違ったとしたら、なぜ基本的原理についての意見の相違をはっきりと説明せんのじゃ?おかしいじゃろがおかしいじゃろが。この点に関しては研究の余地が確かにあるわい。それに子ミルは馬鹿だったからこの基本的な部分で他の弟子達は犯さなかったような間違いを犯しとった可能性もあるわい。しかしベンタムにとって片腕ともいえる子ミルが、ベンタムは普遍主義を唱えているって(誤解して)受け取ってたとしたら、ベンタムが真剣になってそれを否定せんのは変じゃろが。おかしいじゃろが。けっ。

それで最後にじゃ、これがおそらく最も重大なんじゃが、馬鹿のライオンズは「ある非常に基本的な・倫理の範囲を外れたextra-ethical前提をベンタムが明らかに認めている」などと抜かしとるんじゃ。あほけっ。だぼっ。ライオンズはそんなだいそれた前提を認めることがどれほどの意味を持つのかわかっとらんっ。どういう前提かというとじゃな、まぬけのライオンズが「利害収束convergence」の命題と呼んどるやつでじゃな、それによると、「個人の利害は・特に長い目で見た場合は・社会の利害とほとんどもしくは完全に調和する」っつーんじゃ。「長い目で見ると人間の利害には自然的な調和が見られる(p. 64)。」なんて言っとる。けけ、けしからんっ。もう一つ重要な問題でベンタムの利己主義の解釈っつーのもある。ライオンズは、たとえベンタムが心理的利己主義と呼べるものを認めていたとしても、それは『序説』執筆時期よりずっと後の人生におけることであって、『序説』では例外的に「人々が常に考慮するとわれわれが信じるに足る唯一の利害は、当人自身の利害である」と言ってるだけである、とかなりの説得力を持って論じておる。

が、しかしじゃ、この利害収束の命題の生み出す結果を真剣に考えて見い、特に常識と少量のa dash of心理的利己主義が付け加えられたらどういうことになる?仮にわしらが功利主義の普遍主義的解釈に固執してるとしようぞ。そうするとまず、個人にとって適切な基準は何であると言えるんじゃ?先ほどあったように個々人は普通、本性的に自分自身の利害を最初に・または自分自身の利害だけを考えるものだとすると、利他主義なんか説いたところで意味がなかろう。しかしじゃよ、利害収束の命題を受け入れるとすると利他主義なんかそもそも必要なくなるんじゃよ。そうじゃろ?なぜなら個々人の思慮ある行動はいずれにせよ全体的な功利性と調和するんじゃからの。

それでは次にじゃの、国内の問題における政府および公共的立場で行動している人間が従う規則を考えてみようぞ。この文脈においては、政府は自己の支配下にない個々人に対して立法することはできんし・またしたがって政府はそういった自己の支配下にない人々に対しては普通は影響しえんわけじゃからの、政府が考慮する意義のある唯一の人々はその支配下にある人々、すなわち当の「社会」だけだということになるんじゃ。もちろん国際関係における場合は、全ての影響を被る国々にいる人々を考慮する必要があるじゃろ。しかし、さっきあったように、これがベンタムが実際に考えていることなんじゃ。ほれ見い、さっきの前提条件で持ってベンタムが実際に言ってること全てについて説明がいくじゃろうが。しかしライオンズの解釈では不完全な説明しかできんじゃろ、少なくとも一つは(国際関係について)矛盾がおきとるじゃろ。ほれほれ。だからじゃ、論理的に言えば普遍主義的な仮定の方がライオンズの見解よりもベンタムの言っとることをうまく説明しとるんじゃ。ベンタムの著作のテキスト解釈の問題はあるがの。テキストに書いてあることはもちろんないがしろにすべきではないし、もしもライオンズの解釈がベンタムの思想の全般的な傾向とも一致する・明快な新解釈になっておれば(なっとらんが)それはその方が良いことになるじゃろう。じゃがわしにゃあそうは思えん。なぜならライオンズの解釈によればじゃ、「自分の指導」あるいは「支配」の下にある人々を考慮することがベンタムの功利主義の基礎を成しておるわけじゃ。しかしじゃな、誰かが、特に自分以外の誰かが「自分の支配下」にあるっつーのはどういうことじゃ?当然ながらそれは、例えば幼児に対する場合のように自分の力の及ぶ範囲内にあるということか、あるいは本質的に法的・政治的結びつきがあるっつーことじゃろう。しかしわしが思うにじゃな、ベンタムの思想の全体的な傾向からすると、法的な考慮っていうのは功利主義的な考慮に従属しているものであり、それに先立つものでも、基礎をなすものでもないんじゃ。そこでもしも「指導」または「統制」の持つ法的な意味合いを切り離すとすると、「自分の行動によって影響を受ける」という考えに一気に近づくことになるのは必至じゃ。そうするとこれはライオンズとは違う・古典的で普遍主義的な原理が正しいという結果をもたらすんじゃ。うりうり。まいったか。

そこで要するにじゃな、ベンタムのテキストには古典的解釈の功利原理は明記されてはいないが、それでもやはり彼がそう考えていたと見なすのが一番じゃとわしは思うんじゃ。その理由はじゃの、古典的な解釈は彼が実際に功利原理について言っていることすべてと(内的な矛盾がない限り)矛盾しないし、またそれはベンタムの倫理の領域以外のことについての信念とも彼の全般的傾向とも最も合致するということじゃ。

(ライオンズによるベンタムの法理論解釈批判省略)

結局このライオンズの本から学ぶことといえばじゃの、ベンタムは一般的に考えられているよりはずっと明晰で複雑な思想家だったということであり、ベンタムの著作を今までよりもずっと詳細に読みといていくことは十分価値がある、っつーことじゃ。お、ほめんてんだかけなしてんだか自分でもよくわからんのう。ほっほほほっ。まあ、誉めてることにしとこう。また、わしはこの本のメインの命題には納得いかんかったが、一般に受け入れられた解釈を守ろうとするとどういう困難に直面することになるかを知ることは啓発的ではある。(現在進行中のアスローン出版のベンタムプロジェクトがこの問題に関して新たな事実を提供してくれるかどうかは、興味深いところじゃ。)そのほかにもじゃの、心理学的利己主義と心理学的快楽主義と倫理の関係といったような重要なトピックについての独創的かつ有用な議論も多くしとるが、ここではそれに立ち入る余裕はないわい。要するにじゃ。これは歴史的功利主義を学ぶ研究者には欠かせん本じゃし、その他の人にとっても有用で興味深い本であるんじゃ。ほっほほほっ。さらばじゃ。


おつかれさま


Satoshi Kodama
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Last modified on 11/09/96
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