江戸時代の考証学と考証学者について
wikipedia「考証学」
コトバンク「考証学」
コトバンク「考証学派」
小曽戸洋「江戸考証学の人々とその遺業」
町泉寿郎「江戸後期の医学の場合-幕府医学館の学績を中心に」
(「日本思想史学」35号、PDF)
江戸の考証学者の精華『経籍訪古志』(コトバンク「経籍訪古志」宮内庁京大
考証学者とその墓所
井上金峨(1732-1784)/ 青松寺(港区愛宕2-4-7)
江戸中期の儒学者であり、多紀元簡の師である。江戸医学館の前身の躋寿館にて学事顧問を務め、折衷学の講義もした。
大田錦城(1765-1825)/ 一乗寺(台東区谷中1-6-1)
江戸中期の儒学者であり、多紀元胤の師である。『九経談』が代表作。
狩谷棭斎(1775-1835)/ 法福寺(豊島区巣鴨5-34-24)
江戸後期の国学者、考証学者。『本朝度量権衡攷』の考証は精緻を極める。
海保漁村(1798-1866)/ 普賢寺(府中市紅葉丘2-26-4)
江戸後期の儒学者である。名を元備といい、漁村は号である。躋寿館の教授を務め、弟子に渋沢栄一らがいる。
目黒道琢(1739-1798)/ 月桂寺(新宿区河田町2-5)
江戸中後期の医学考証学者。曲直瀬玄佐に医学を学び、躋寿館から含め医学館にて34年間も教鞭をとった。
医学館跡/ 台東区浅草橋4-16
多紀氏/ 城官寺(北区上中里1-42-8)
多紀元考(1695-1766)
江戸中期の奥医師。江戸の医者の質向上を目的に医学校の躋寿館を開校した。
多紀元悳(1732-1801)
元考の五男で跡を継ぎ躋寿館を主宰。藍渓と号する。火災焼失した際に私財を投げうち再建し、官営の医学館に昇格させた。
多紀元簡(1755-1810)
元悳の長男で医学館を継ぎ、考証学派として後進の教育に努めた。桂山と号する。奥医師を一度罷免させられたが後に復帰している。
多紀元胤(1789-1827)
元簡の三男で嫡嗣。父を次いで医学館督事となるが、39歳の若さで死去。著書に『医籍考』がある。
多紀元堅(1795-1857)
元簡の五男で分家して矢ノ倉多紀家を興した。考証学の振興に務め、善本の蒐集・校訂・復刻に努めた。
伊沢蘭軒(1777-1829)/ 長谷寺(港区西麻布2-21-34)
江戸後期の医者、儒学者。門下からは渋江抽斎・森立之・山田業広らの逸材を輩出した。森鷗外の小説でも有名。長男は榛軒(1804-1852)、次男は柏軒(1810-1863)。
小島宝素(1797-1849)/ 貞林院瑞正寺(葛飾区東金町5-46-5)
江戸後期の奥医師であり考証学者。書誌校勘学に優れ、森鷗外の小説でも有名。
喜多村直寛(1804-1876)/ 称福寺(台東区今戸2-5-4)
江戸末期の医者であり、医学館で多くの後進を育てた。引退後は古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。
渋江抽斎(1805-1858)/ 感應寺(台東区谷中6-2-4)
江戸末期の医師であり考証学者。名は全善、抽斎は号。医学館講師となり『霊枢』研究の最高峰である講義を行い、その自筆の手元資料が『霊枢講義』である。森立之との共著である『経籍訪古志』は評価が高い。森鷗外の小説で有名。
森立之(1807-1885)/ 洞雲寺(豊島区池袋3-5-30)
江戸末期から明治の医師であり書誌学者。号は枳園。医学館講師でもあり、先輩・同僚の業績を引き継いで考証学の第一人者となった。攷注シリーズは考証学の極致。
山田業広(1808-1881)/ 蓮光寺(文京区向丘2-38-3)
江戸末期から明治の医師。医学館の講師を務め、明治における漢方存続運動の旗印として森立之と温知社を立ち上げる。

付録:亀田鵬斎 吉田篁墩

ここに挙げた考証学者は小曽戸洋「江戸考証学の人々とその遺業」を参考にした。

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