「高歌一曲明鏡をおおう」

 本日は私の退官祝賀パーテイにご出席していただき、衷心より御礼申し上げます。

   (この下すぐ出ますから、しばらくお待ち下さい。)

功遂げて身を退くは、天の道なり。
 これは老子の言葉ですが、とうとう私にもその時がやってまいりました。もとより功遂げてといえるような人生ではありませんでしたが、よい恩師に恵まれ、生理学会や本学の諸先生の教えを受けながら、共同研究者や事務官の方々に支えられて、教育と研究の仕事を終えることができました。これらの方々に改めて感謝申し上げます。
 さて、大変おこがましいことですが、本日は最後の機会を作って頂きましたので、恩師や先輩の諸先生から教わって日頃心にとどめておりましたことを話させていただきます。 私は昭和29年北海道大学医学部を卒業し、インターン終了と同時に母校の藤森聞一先生の研究室に入れて頂きました。藤森先生はその頃、日本の神経生理学の第一人者であった本川弘一先生の門下生のお一人でした。私は藤森先生から電気生理学の基礎をたたき込まれ、その経験が私の生涯の拠り所となりました。間もなく藤森先生が米国に留学され、私は東北大学の本川先生の研究室に短期間留学することができました。その時生涯の友となった鈴木寿夫さんに出逢いました。この人からは
  
  得意淡然   失意泰然

 ということを教わりました。本日は遠路はるばる馳せ参じていただき大変嬉しく思います。
 本川先生の研究室に滞在したのは短期間でしたが、その後も折に触れて先生から直接、研究者の心構えを教わりました。端的にいうと、その哲学は橋田邦彦先生の流れを汲むものでした。
 高島郡安曇川町上小川のの玉林寺に中江藤樹先生の墓がありますが、その隣に橋田先生の記念碑が建っています。それによると
 橋田邦彦先生は、生粋の生理学者である。先生は研究の真っ只中にあって藤樹先生と道元禅師に私淑し、その教えに随順した。しかも先生は個性豊かな師父であった。先生は自然と人に対し無限の愛と誠をもって一生を貫いた。科学する心と言われたのは研究に没頭して科学を超えた大いなる道に至ることを示された。
 橋田先生は、自分の持っている科学が、道元禅師の「正法眼蔵」によって生かされると固く信じておられました。それで、本川先生をはじめ橋田先生門下の諸先輩は「正法眼蔵」を勉強しておられました。
 道元禅師は若い頃、「人は本来仏なのに、なぜ改めて発心して修行して悟りを求めねばならないのか」という疑問を抱き、ついに到達した結論は

「即心是仏」とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり

というものでした。「私たちのふだんの衆生の心が仏だ。煩悩妄想の罪に汚れている心がそのまま仏である。しかしそれは煩悩心のままでよいということでは決してない。道を求める心を発して、修行して、菩提(さとり)を得て、仏になる」と教えています。
 ある時、橋田先生は、研究について「立派な結果が出るということは望ましいが、必ずしも期待することはできない。根限りの努力をするところに尊ぶべきものがある」と言われたそうです。この心は道元禅師の教えに通じます。生理学会の先輩達はこれを受け継いで、しばしば「研究は行である」といわれました。そして「研究室は道場である」という伝統が生まれました。
 また生理学会の先輩達はよく「名利を求めず」といわれました。例えば、学会長をおかないという伝統が今なお続いています。正法眼蔵に

憐れむべし、汝が深愛する名利は、祖師これ糞穢よりも厭うなり。

と書かれています。「仏法は無我にて候」です。
 橋田先生も「自分が何かを独創したと思っても、自分の知識というものは、結局、人から教わったり、本を読んでそして考えてできているもので、自分が持って生まれたものは何一つない。みな昔の人のおかげなので、我こそはと威張り散らせしては滑稽になる」と言っておられました。
 正法眼蔵の「有時」の巻がハイデッガーの「存在と時間」と書名まで一致するところから両者の思想の照応が注目されました。また戦後、アメリカに始まった「心身医学」がデカルト以来の「心身二元論」を見直すきっかけになり、道元の「心身一如」論が世界に紹介されました。しかし、生理学会の先輩たちが「正法眼蔵」を勉強したのはこうした動きと無関係でした。
 ところで私自身は昭和37年、ロックフエラー財団の奨学金を得て、オーストラリア国立大学のEccles先生の研究室に留学しました。そこには世界の各地から集まった第一級の研究者がひしめいていました。佐々木和夫先生もその一人でした。先生とはそれ以来苦楽を共にした戦友のつき合いをさせていただきました。私はこれらのひと達とチームを組んで、最先端の研究に参加させていただきました。
道元禅師は、
すでに導師を相逢せんよりこのかたは、万縁を投げ捨てて、寸陰を過さず、精進弁道すべし。
(よき師に逢うということは、まことに不思議な縁と言わなければならない。すでによき師に出逢ったからには、万縁を投げ捨てて、一寸の時間を無駄にせずに努力して道を極めていかなければならない)
 と教えていますが、良い環境に恵まれ、充実した研究生活を送ることができました。
 このようにして、束の間の 2 年間が過ぎました。帰国して、これまでの経験を活かしたいと思うようになりましたが、この希望をかなえてくれるポストは日本の何処にもありませんでした。それ以後、先の見込みが立たぬまま、Ulyssesの苦渋をなめることになりました。
 最初に行ったのは、シドニーのNew South Wales大学でした。そこでDarian-Smith先生から三叉神経系を学びました。
 次いで、米国に渡り、NIH の MacLean先生に師事しました。MacLean 先生は大脳辺縁系の名ずけ親で、三位一体脳 Triune brainの学説で高名な方です。作家のArthor Kestlerなど、MacLean先生の影響を受けた著名人が多数います。時実利彦先生もそのお一人でした。私がMacLean先生から頂いた最初の勉強課題は「三叉神経系の疼痛伝導路」を調べることでした。10年後この課題と再び取り組むことになり、とうとう生涯の研究課題の一つになりました。
 次に、オランダに渡り、かつてオーストラリアで机を並べていたVoorhoeve教授のもとで働きました。
 昭和44年、新設されたばかりの北海道大学歯学部に助手のポストができたので帰国し、その後、助教授に昇任して教育に専念しました。そこで合計240名の学生達を教えましたが、その中から10数名の教授と助教授が生まれ、よい思い出になりました。
 昭和50年、滋賀医科大学に採用して頂きました。実験室を持たない期間が一年以上続きましたが、佐々木先生のご好意に甘えて、実験を続けることができました。本日、奈良県から馳せ参じて下さった橋本修二先生はそのときの共同研究者でした。それ以来、主として痛みの生理学の研究を続けました。「三叉神経系の疼痛伝導路」についても一応の答えが出て、久しぶりにお眼にかかったMacLean先生に報告することができました。
 これはその一つで、三叉神経の支配を受ける歯の痛みを視床へ中継する延髄のニューロンの分布を示しています。この仕事は20年余の歳月をかけて、ようやく完成しました。
合抱の木も毫末より生じ、
九層の台も累土より起こり、
千里の行も足下より始まる。
これはこつこつと積み上げていく、たゆまぬ努力の大切さを教えた老子の言葉ですが、橋田先生も本川先生に「奔放略筆で自然を写す絵のような科学上の仕事というものの中に、光ったものは十に一つとないものだ。それよりも丹念精細にやるやり方は誰がやっても間違いがない」と教えられたそうです。
 先日、福井で開催された日本生理学会で、小山なつ講師が学会賞を受賞し、私の退官に花を添えてくれました。この研究も7年の歳月をかけて完成しました。
 さて、退官が迫ってからというもの、一日一日の重みをひしひしと感じるようになりました。そして、
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,......................
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more:

  明日、また明日、また明日と、
  小刻みに一日一日が過ぎ去って行き、
  定められた時の最後の一行にたどりつく。

  人生はただ影法師の歩みだ。
  哀れな役者が短い持ち時間を舞台の上で
  派手に動いて声張り上げて、
  あとは誰一人知る者もない。

このマクベスの独白が仕事を終えた私の回想になりました。
しかしとにもかくにも、無事に退官することができました。生理学会の先輩や本学の諸先生のこれまでのご指導ご鞭撻, また、共同研究者であった方々や、多数の事務官の方々のご支援に深く感謝いたします。
I am a part of all that I have met;
A. Tennyson; Ulysses
現在の自分はこれまでに出逢ったもの全ての賜物である
というTennysonの詩の真実を実感しています。そして心の底から
みずからの翼のみにて舞い上がる鳥は、高くを飛ばず
と思っています。
 生理学会を通じて生涯の友となった諸先生や開学以来苦楽を共にして来られた諸先生も私と一緒に齢を重ねてまいりました。しかし先生方にもまだまだ先の人生があります。
 ただ今引用した Tennysonの Ulyssesの詩にも続きがあって、それが彼の言いたかったことです。
Yet all experience is an arch wherethrough
Gleams that unravelled world, whose margin fades
For ever and for ever when I move.
How dull it is to pause, to make an end,
To rust unburnished,not to shine in use !
......................................
And this gray spirit yearning in desire
To follow knowledge like a sinking star,
Beyond the utmost bound of human thought.
A. Tennyson; Ulysses

とはいえ、一切の経験は未踏の世界が
 ほの見える弓形門であり、
 その境界は私が進めば永遠に彼方に
  遠のき薄らぎ行く。
休息して生涯を終わり、磨かずに
  錆びたままで、
使って光らせないままでいるとは、
  何と愚かなことか!

また沈み行く星のように、
  人間の思考の極限を超えて
 知識を追求せんとする希いに燃える
  この老いた精神をも
 閑居、温存させておくなどとは
  何と下劣なことだろう。

お互いに頑張りましょう。
 最後になりましたが、本学で学んだ方々への期待を述べさせていただきます。
 開学後間もない頃、校旗と校章のデザインを専門家に依頼しました。その時、滋賀県に縁の深い伝教大師の教え、即ち、「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」を表すものと決まりました。人は暗闇の中にじっとしておられない。それで、明かりを求める。本学に学んで世に出る君たちが小さいながらも明かりを灯す人であって欲しい。そんな願いがみんなにありました。この言葉は、初めて学生を迎え入れた第一回入学式での脇坂先生の訓辞にもありました。また、中村恒夫先生の著書の表題にもなりました。
 他人の幸福を願い、「また明日があるよ」と言って、日々の戦いに疲れた人々を励まして下さい。君達ならきっとできる。人の世の暗さに明かりを灯すことが。
  君達と酒を酌み交わした日々は忘れません。あのとき熱っぽく夢を語ってくれた君達に私の姿を見ました。私がいなくなっても、嘆くことはない。いつも私の中に君達が、君達の中に私が生きているから。
 クラーク先生は札幌市郊外の島松まで見送りに来た学生達に "Boys be ambitious." の言葉を残し、馬に鞭を入れました。 残された学生たちは「青年よ、大志を抱け」と訳し、この言葉を胸に深く刻み込みました。この言葉を、普通のアメリカ人は「頑張れよ」と受け取るようです。頑張ってください。
私も「尊き野心の教え培い、栄ゆく我らが寮を誇らずや」と若き日の思い出をこめた歌のひとふしを声高らかに歌いつつ、鏡の蓋を閉じることにします。昨日の少年も白髪の老人になりました。
 
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
   「サヨナラ」ダケガ人生ダ
御静聴ありがとうございました。