芸術のなかの“痛み” 連載4

憂愁のマリヤナ


 シェイクスピアの「以尺報尺」(尺には尺を)measure for measureは、抑圧的な法律遵守主義者が恥しらずな淫欲家に変貌するが、しっぺ返しをくらう話だ。
 ウィーンのビンチェンシオー公爵は、アンジェローを不在中の代理人にして、お供を連れずに旅立っていく。だが実は、領内に潜伏して世情を探っていたのだ。アンジェローは法律を厳しく実施し、恋人のジュリエットに子を孕ませたクローディオに死刑を宣告する。クローディオの妹イザベラは兄の助命を嘆願しようとアンジェローに近づく。アンジェローはその代償として貞操を要求する。イザベラはこの申し出を拒絶し、兄に潔く死んでもらうしかないと決意する。しかしクローディオは貞操をかけてでも助けてほしいとイザベラに頼む。イザベラは激昂する。たまたま二人の会話を耳にした修道僧ロドウイック―実は変装した公爵なのだが―は、イザベラがアンジェローの希望に添うと返事した上で、闇夜の密会には、かつてアンジェローが捨てたマリヤナを差し向けるというものだ。アンジェローはイザベラからの受諾の返事を受けると、時を移さずクローディオ処刑の命令を下す。これを知った公爵は、獄死した海賊がクローディオによく似ているのをさいわいに、その首をアンジェローに届けさせる。
 翌日、公爵は旅から戻ったふりをして、帰館しアンジェローたちに迎えられる。そこでかねての計画通りイザベラが公爵に直訴する。だがアンジェローはしらを切る。そこで、公爵は一旦退場してもとの修道僧の姿に戻り、アンジェローの前に証人として現れる。公爵は審議に加わった後で扮装を解き、観念したアンジェローに死刑を言い渡す。だがマリヤナの嘆願を受け入れて2人の結婚を条件に罪を許す。さらにクローディオにジュリエットとの結婚を命じる。最後に公爵自身がイザベラにプロポーズする。
 この芝居のプロットには、サルドゥ作の悲劇をもとにしたプッチーニの歌劇「トスカ」にどこか似たところがある。この芝居はイタリア人チンティオの「百物語」の一つをもとにして書かれたものだ。
 この「以尺報尺」のマリヤナはこんな女性だ。
Duke: Virtue is bold, and goodness never fearful. Have you not heard speak of Mariana, the sister of Frederick the great soldier who miscarried at sea?
Isabella: I have heard of the lady, and good words went with her name.
Duke: She should this Angelo have married; was affianced to her by oath, and the nuptial appointed: between which time of the contract and limit of the solemnity, her brother Frederick was wrecked at sea, having in that perished vessel the dowry of his sister. But mark how heavily this befel to the poor gentlewoman: there she lost a noble and renowned brother, in his love toward her ever most kind and natural; with him, the portion and sinew of her fortune, her marriage-dowry; with both, her combinate husband, this well-seeming Angelo.
Isabella: Can this be so? Did Angelo so leave her?
Duke: Left her in her tears, and dried not one of them with his comfort; swallowed his vows whole, pretending in her discoveries of dishonour: in few, bestowed her on her own lamentation, which she yet wears for his sake; and he, a marble to her tears, is washed with them, but relents not.
これを坪内逍遥はつぎのように訳した。
公爵:淑徳は勇敢なり、善良は曾て恐れず、とある。あんたはマリヤナという婦人の噂を聞いたことはありませんか?難船して死んだフレデリックという偉い軍人の妹さんの噂を。
イザベラ:はい、聞いたことがあります。評判のよいお方でした。
公爵:あの婦人とアンジェローさんとは結婚する筈でした。予て堅い約束があって婚礼の日まで定まったいたところが、まだ其日のこんうちに、兄御のフレデリックさんが難船せられ、さうして、其船と共にお妹さんの持参金が海底に沈んでしまった。それがやがて、其の気の毒な婦人の偉い不幸の原となった。婦人は、それが為に、立派な、有名な・・・妹思いの、親切なお兄さんを亡くしたばかりでなく、自分の運命の筋骨ともいうべき化粧料までも亡くしてしまい、かてて加えて、許婚の御亭主であったあの賢人らしいアンジェローさんまでも失してしまったのです。
イザベラ:まァ、それは事実ですか?アンジェローさんがあの方をそんな目に逢はせたんですか?
公爵:泣きの涙に暮れているのを、其儘に振棄てて、慰めようともせず、剰へ、不品行があったなぞの難癖をつけて、約束を鵜呑みにしてしまって、つまり、少しもかまいつけず、きょうが日まで、あの婦人に泣き通させ、しょっちゅうその涙で洗われるほどになっていながら、まるで石の像も同様、哀れとも何とも思わんのです。
 ビクトリア期の桂冠詩人アルフレッド・テニスンは、このマリヤナを詩にした。そして同時代の画家ジョン・エヴァレット・ミレイがこの詩を主題にして一枚の絵を描いた。
 落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知る。婚約者に拒まれて悲観にくれるマリヤナの心の痛みをミレイは腰の痛みで表現した。もちろんこの腰痛は線維筋肉痛症候群の痛みである。
 この絵に描き込まれた繊細な落ち葉は色あせて、落ちぶれた彼女の現在の生活を暗示する。ステンドグラスに描かれた色鮮やかな紋章との対比は、それを一層きわだ立せている。