芸術のなかの“痛み” 連載1

バルザックの痛み、または線維筋肉痛症候群のこと


 上野の国立西洋美術館は、松方幸次郎氏のコレクションを収蔵展示するために、1959年に建てられた。ルコルビジエの設計によるこの美しい建物は、開館当時からロダンの作品を多数収蔵し、その数はパリのロダン美術館に次ぐという。この美術館の開館にあたって来日したフランス政府の高官が注目したのもロダンの名品の数々であった。ところがこの高官は、ロダンの代表作である「バルザック像」がないのに気づいた。そこでバルザック像の鋳造が許可された。フランスから送られてきた像は、1939年以来パリの街頭に立っているものやニューヨークの近代美術館の中庭にあるものよりずっと小さい。現在ではパリやニューヨークのと同じ大きさのものが箱根の彫刻の森美術館にあり、わざわざ海外に行かなくても観賞できるようになった。
 ロダンのバルザック像は「人間喜劇」の連作を書き続けていたころのバルザックが、パリ西郊パッシーの家で、ゆったりした僧服―これは彼の仕事着であったが―を身にまとって深夜の書斎を歩き回る姿を現したものである。ところで人間喜劇の連載を執筆していたころのバルザックは、債権者が次々と押しかけてくる破滅的な経済状態と、のべつ幕なしに書き続けることによる脳の酷使、内外各地への度重なる旅行からくる疲労などが重なって、頑健無比であった肉体にかげりをみせはじめていた。悪性の頭痛、横腹の痛み、黄疸、神経痛、視覚障害、思考力の減退といった肉体の衰えを訴える言葉が、彼の書簡にたびたび出てくるようになる。30代初期の短編で見られたような青春の輝き、はち切れそうな元気はとうになくなっていた。彼はどうやら線維筋肉痛症候群の生贄であったらしい。
 スポーツや筋肉労働の後で筋肉痛を感じるのは珍しいことではない。感冒にかかったときにも筋肉痛がある。ところが生化学的検査、血液検査、X線検査などで異常所見が見当たらないのに、筋肉の慢性的な痛みや凝りがあって、疲れ易く、からだの調子が悪いと感じる症候群がある。Gowers(1909)はこれを結合組織炎fibrositisと呼んだ。筋肉リューマチmuscular rheumatism、線維筋肉痛fibromyalgia、線維筋炎fibromyositis、緊張性筋肉痛tension myalgia、疼痛増幅症候群pain amplification syndromeなどと呼ばれることがあって、この症候群に関連した病名は60種類以上に及ぶ。一般に筋肉の痛みや凝りが2、3カ月以上続くものをさすことが多い。そのうち、全身の多数の筋肉に痛みや凝りがあるものを線維筋肉痛症候群fibromyalgia syndrome、原発性線維筋肉痛primary fibromyalgia、全身性結合組織炎generalized fibrositis、あるいはびまん性筋・筋膜痛症候群diffuse myofascial pain syndromeと呼び、一つあるいは二つの筋肉に痛みや凝りがあるものを筋・筋膜痛症候群myofascial pain syndromeあるいは局在性結合組織炎localized fibrositisと呼んでいる。頸肩腕症候群もこのカテゴリーに入るとみられている。
 Wolfeたち(1989)の診断基準にしたがうと、線維筋肉痛症候群では
(1) 3カ所以上に筋肉の痛みまたは凝りが何カ月以上もあり、
(2) 同様な症状を呈しうる他の疾患は除外され
(3) 指定された18カ所の検査部位に親指(の頭髄)で約4kgの圧を加えたとき11カ所以上から圧痛を証明できる。
 以前、原発性線維筋肉痛primary fibromyalgiaと呼ばれていたものに相当する。筋肉の痛みと凝りの好発部位は左右の首、肩、腰などである。Moldofskyたちの研究によると、線維筋肉痛症候群の患者で、ノンレム睡眠(徐波睡眠)の障害がしばしばみられる。
 筋・筋膜痛症候群では、からだの特定部位の筋肉に発痛点trigger pointがあって、それが痛みの発生源になっている。そこに中等度の圧迫を加えると離れた部位に関連痛を感じる。発痛点にしこりがあって、それをつまむと局所性筋収縮がみられ、患者は強い痛みに襲われる。しばしば飛び上がるほど痛いので、jump signという。発痛点に局所麻酔薬を注入すると痛みがなくなる。筋肉の牽引や発痛点の指圧も本症候群の寛解に役立つ。力を入れる動作を反復したり、筋肉の緊張亢進が長く続くとこの症候群が現れる。
 線維筋肉痛症候群の患者では、疲労と消耗、過敏性大腸症候群、頭痛、しびれ、不安と抑うつ状態などがしばしばみられ、症状が気象条件に左右される。男女比は1:3で女性の患者が多い。若い人や中年層にもっとも多く、9歳から17歳の子どもでみられたという報告もある。
 ニューヨークのメトロポリタン美術館にシルクハットをかぶった印象派の画家エドガー・ドガのエッチングがある。40代のドガはいかにも尊大なポーズをとっているようにみえる。しかし、このころ彼が苦しんでいた腰痛のせいかとも考えられている。当時のドガは負債に苦しんでいた。眠られぬ夜が続いて、負債と線維筋肉痛症候群のダブルパンチに見舞われていたようだ。バルザックもにたような経済的困難に直面し、借金で首が曲がらなかったようだから、線維筋肉痛症候群を持っていただろう。
 バルザックはこのころ流行していたいわゆる「生理学もの」の作者としても知られていた。仏文学でいう「生理学」は、時代を代表するような職業とか典型人物を、機知に富む軽妙な文章でこと細かに解剖する一種の風俗誌で、ブリヤ・サヴァランの「味覚論」やバルザックの「結婚の生理学」などがこれに属し、他の多くの作家たちもこの新風を試みた。
 生理学という言葉を初めて使ったのは、17世紀のフランス人生理学者ジャン・フェルネールであった。フランスの近代生理学はデカルトに始まり、呼吸生理学の基礎を築いた18世紀のラボワジエ、実験生理学の祖となった19世紀のマジャンディー、そしてその弟子のベルナールへと受け継がれていく。バルザックはちょうどマジャンディーがコレジ・ド・フランスの教授として活躍していた時期に創作活動を続けていた。この職はきわめて特異で、学生教育の義務を負わなかった。そのかわりに公開講義を定期的に行った。そのとき動物実験のデモンストレーションがなされ、極めて反響をよんだ。この講義には医学に関係しない人々も多数参加し、各方面に多大な影響を及ぼした。それが文学界における「生理学」流行の一因となったのだろう。マジャンディーの後を受け継いだベルナールは、実験生理学をさらに発展され、名著「実験医学序説」を出版する。これがエミール・ゾラに多大な影響を与えて自然主義文学勃興の要因となり、ベルナールの方法論を文学にとり入れようとする動きにまで発展した。