(大震災における救急災害医療、へるす出版、東京、1996年、p.42-53)
目 次
2)震災当日の医療
a)傷病者の疾病構造 b)被災程度の地域差
3)震災後2~3日目の医療
a)転送 b)挫滅症候群患者の救出
c)死体検案
4)4日目から2週までの医療
a)医療チームの把握 b)避難所での医療
c)医療機関への患者の紹介 d)医療機関での患者受け入れ
これまでの地震の損傷形態をみるとそれぞれに異なっ ている。1978年の宮城県沖地震ではガラス片による切創 が最も多く、落下物による負傷、転倒による負傷がこれ に次いでいる。1983年の日本海中部地震では落下物や転 倒による負傷は少なく津波による被害が大きかったとさ れている。1985年のメキシコ地震では打撲、切創、擦過 創、骨折が多かったが一方で建物から発生した粉塵によ る呼吸障害が特徴的であったとされている。
今回の地震では震災の発生した時間帯にはほとんどの 人が屋内におり、家屋の倒壊により多くの人が受傷し た。特に、四肢をはさまれた状態から救出された後に発 生する挫滅症候群(crush syndrome)が多発したことは今 回の特徴であろう。
兵庫医科大学では、初期2時間は全ての患者を救命セ ンターで診療し、震災から2時間を経た頃より軽症患者 は整形外科外来で診療を行った。カルテが作成されず不 明な患者も多数あるが軽症患者では時間経過とともに特 徴が見られる。すなわち、早期には頭頚部の挫創で出血 を伴うものがまず来院し、鈍的外傷が遅れて来院したと 考えられる。
このような患者の集中がどの程度の続くのかも詳細な 報告はない。兵庫医科大学では当日の午前中に患者が集 中していた。県立淡路病院では午後2時過ぎまで約8時間 に負傷者が次から次へと運び込まれており、県立西宮病 院では夕方に多忙な救急業務もひと段落したとしてい る。これらの記録から見ると初日の患者が来院して混乱 したのは半日程度と推定できる。
震災当日には医療需要を把握する上でもう一つの問題 が残された。地域により、需要と供給の極端なアンバラ ンスが生じていたことである。
2日目以降も救急患者の受け入れは続くが、1日目に比 べて、激減している。県立西宮病院では2日目は1/4程度 になっており、神戸大学でも外傷患者は初日の253名に 対して、2日目は72名と1/3以下となっている。この時期 には機能の低下した医療機関での診療の継続が問題とな ってくる。したがって転院のための搬送手段確保が重要 な需要となる。搬送の対象となるのは集中治療を必要と する重症患者と慢性の疾患で継続医療を必要とする患者 に分けられる。後者の代表は血液透析を必要とする慢性 腎不全患者である。これらの患者は転送にはバスのよう にまとめて同じ目的地に搬送の可能な手段が適してい る。一方、重症患者の搬送には、短時間で目的地に到着 でき、搬送中も医療が継続できることが求められる。
この時期の搬送方法としてヘリコプターが有用なこと はこれまでにも広く認識されていたが要請方法が分から ない、着陸場所に制限がある、医師同乗が必要などの問 題が残されている。地上搬送では渋滞により搬送に長時 間を要し、重症患者の搬送では医師の同乗と十分なモニ ターが必要となる。ところが被災地には医師、救急車に 余裕がない。受け入れ先の病院のドクターカーが迎えに 来て送り出し病院で十分な情報を得た上で搬送するのが 最も効率的である。
今回の震災で最も注目された病態は挫滅症候群(crush syndrome)である。これまでにあまり経験されることが なかった病態のために救急現場での鑑別診断は容易では なかった。crush syndromeは早く見つけだし、透析、外 科的処置などの適切な処置が行える施設へ早期に転送す ることが救命につながる。いかに早くこれを認識できる かにその予後はかかっている。このために必要なこと は、この時期にこのよな病態を的確に鑑別のできる救急 専門医が現場に入り、スクリーニングを行えるようにす ることである。
この時期には新たに救助される患者はほとんどなくな り、重症患者は被災地周辺の病院へ転送されることで救 急医療の現場はひと段落する。この時期には多数の医療 チームが被災地へ入ってきており、診療活動を開始して いる。ところが医療の全体像は全く把握されないままに 進んでいったのが実状である。
西宮市では、医療チーム間での個々の連絡はあった が、兵庫医大の参入を契機に1月26日に初めて行政、医 師会、歯科医師会、薬剤師会、日赤、NGO医療チーム等 が一堂に会する連絡会が発足した。神戸市でも、当初は NGO、日赤、医師会、各種病院、大学からのボランティ ア医療スタッフによる巡回救護が行われていた。1月23 日、国立神戸病院に厚生省現地対策本部が設けられ、そ の指示により自治体や国立病院から派遣された医師、看 護婦等が大挙して加わり、常設救護所125カ所、巡回班 27チームという救護体制が確立したのは1月26日であっ た。
西宮市、神戸市いずれをとっても行政が避難所での救 護体制を確立するのに10日を要したことになる。災害時 医療を効率的に行うためには被災地へ続々と送り込まれ る医療チームを早期に把握し、地域の中で連絡、調整を 行うことが必要である。今回の震災で全体をまとめるの に10日を要したのは行政側に災害医療を統率できる経験 と人材がなかったことが一因である。この問題の解決に は平素より地域の医療事情を熟知した災害医療コーディ ネータを確保しておく必要がある。
避難所での医療内容を見ると、神戸市の2月19日まで の診療実績では感冒等呼吸器疾患68%、熱傷・外傷15%、 胃腸疾患6%、高血圧・心疾患4%、その他8%であった。兵 庫医大救護班の実績では症候のみが記されたものでは発 熱(187)が最も多く腹痛(66)、下痢(46)がこれに次い だ。疾病では上気道炎(280)がも多く高血圧(133)、感冒 (94)、胃腸炎(83)がこれに次いだ。上気道炎、感冒、気 管支炎等の呼吸器疾患は48.6%を占めた。呼吸器疾患の 患者に占める割合を震災直後から1週毎に見てゆくと第1 週は76.4%であるが、以後、漸減し、4週目には42.3%と なっている。(表1) 感冒の流行時期と重なったこと もあるが、多人数が共同生活を余儀なくされる環境では 早期の上気道感染対策が重要と考えられる。
兵庫医大救護班は当初よりその活動目標を「回復しつ つある地域医療機関への医療の順調な移行」にあると定 めて、避難所から医療機関への紹介を積極的に行った。 地域医療機関への紹介率を見ると第1週は0%であった が、その後3.1%、4.8%、12.3%と増加している。(表 1) 継続医療が必要な患者を機能が回復してきた地域 医療機関に積極的に委ねる活動方針が実行され、紹介率 の上昇につながったと考えられる。
避難所での医療は2週目をピークにその後は減少して ゆく。この時期には医療機関も漸次その機能を回復して くる。兵庫医大救護班は3月15日をもってその活動を終 了したし、神戸市でも4月末日をもって救護体制は終わ りを告げた。従って、震災後3月までの期間は避難所の 医療を地元医療機関へ委ねることで、地域医療機関を完 全に立ちあげる時期といえる。
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