災害医学・抄読会 991003

第7章 サラエボ復興に必要なのは煉瓦だけではない


 サラエボは1992年4月から1995年12月のデイント合意まで包囲下の都市であり 、食料・水・薪などを手に入れるためには常に銃弾や爆弾の危険を冒さなければならなかった。公共輸送手段は破壊され、通信手段は破壊され、住宅は瓦礫の山と化した。サラエボの再建にサラエボと人道機関が直面している問題には次のようなものがある。

 数年間は社会福祉サ−ビスを負担する経済力がなく、何千人もの社会的弱者が放置される可能性があり、国際機関は原則的にも実際的にもこの問題に対応することが難しいということ。援助の多くは経済改革と政治改革に焦点を当てる一方で、社会支援プログラムにはあまり関心が払われていない。孤独な老人など社会的弱者に対するプログラムのニーズはほとんど満たされていない。失業率の高さも問題になる。国内難民のための収容センターも政治力を持つ人々は他の再建プロジェクトに資源を振り向け、戦後復興事業から無視されるだろう。

 デイント合意では援助と援助機関の中立性が損なわれ、紛争が再燃化した場合の安全性は脅かされ、一方援助期間同士の競争が援助の効果と地元での信頼を損ねたこと。 デイント合意は政治と援助をしっかりと結びつけ、援助国会議はデイント合意の実行を援助の条件とした。サラエボとボスニア連邦は援助の主要な受益者だが、政治的なからみによって国際機関と援助対象者にぎこちない関係が生まれている。現地ではデイント合意は国際的に命ぜられた強制された平和であり、援助関係者は中立でないと見られ、信頼関係が欠けている。国際NGO間の競争がボスニア人の彼らに対する見方に否定的な影響を与えており、国際NGOはますます自己の利益を追求する団体と見られるようになっている。

 援助の持続性についての、援助活動の現地への引き渡しと援助の出口戦略の2つの問題があること。「1996年は即効性のある緊急プロジェクトを実行する年だったが、1997年には援助を持続可能な投資と改革に向けなければならない」というEC委員会と世界銀行の報告、その移行が難しいということが立証されつつある。援助の遅れと不正が行われているという主張が復興の進展を遅らせている。さらに根本的には共産主義時代の遺産があり、労働者の経営の専門知識が欠けている。

 古い憎しみと新しい分裂を抱える都市を援助するための相応の感受性が必要とされていること。サラエボ州では戦争終結後、他のどこでも見られる民族間の構想はほとんどないが、「古くからのサラエボ人」と戦闘によって避難してきた「新しいサラエボ人」との間に緊張関係ができている。

 住宅の所有権に関する法的な問題が、戦後の復興と難民の帰還に深刻な遅れをもたらしていること。共産主義時代の法律では、戦争中にサラエボに残っていた人々が空になったアパートに居住することが許されていたため、事態が複雑になった。帰還したボスニア人は住居の確保にはかなり成功を収めているが、セルビア人、クロアチア人その他の少数民族は依然として差別に苦しんでいる。

 国際赤十字・赤新月社連盟と赤十字国際委員会は、戦時と平時の異なる段階で活動を開始したが、現在はボスニア・ヘルツゴビナ赤十字の本社の崩壊にもかかわらず、現地の赤十字の支部と協力して活動を行っている。紛争中、兵士たちへの国際人道法の教育、行方不明者の安否の調査、ス−プの配給所の設立、毛布・医薬品の供給等、様々な援助を行った。赤十字の活動を知る人はこの紛争中に劇的に増加した。紛争終結後、国際赤十字・赤新月社連盟は、現地赤十字の仕事の再開への援助と同時に、セルビア人共和国とボスニア連邦の2つ赤十字の不統一問題の解決に取り組んでいる。

 サラエボは、政治・経済・社会などの多岐にわたる変貌を一度にやり遂げよう苦闘している都市である。このような懸念にも関わらず、サラエボ都市計画機関のスタッフは、同市が力強い発展を遂げることに自信を持っている。問われているのは、サラエボが国際社会の援助を受けながら、紛争の再燃を避け、社会的弱者を無視することなく自由市場の一員となることができるかということである。


第8章 対イラク制裁は災害を創り出している

(国際赤十字・赤新月社連盟.世界災害報告 1998年版、91-102)


  対イラク制裁とは、1990年8月、イラクが国連の決議を受け入れ、大量破壊兵器のすべてを廃棄するよう説得するため、国連安全保障理事会決議661により必須食料品および医薬品以外のすべての輸出入を禁じたこと。

1.制裁と栄養不良

 1997年にユニセフとイラク政府が行った調査によると、慢性栄養不良の子供たちが1991年に18%というすでに悪化していた状況から、1997年には31%とさらに悪くなっている。

2.食料購入のための原油輸出

 1995年4月 安全保障理事会は決議968を可決。
        これによってイラクは6ヶ月毎に20億ドルの石油を輸出し、
        国連制裁委員会の厳しい管理のもとで、その資金を食料、医療品
        その他の購入にあてることを許されるようになった。
 1996年6月 国連とイラクがこれに最終合意。
 1997年4月 最初の食料がイラクに到着。
 1998年4月 4/2までに食料、その他の救援物資がイラクに届けられた。

 4つの入国ポイントを通じて500万トンの食料がイラクに届けられた。 救援物資は政府の倉庫、配給地点などを経て、5万以上の小売店に届けられている。 各小売店はわずかな手数料を支払ってもらうことにより、毎月数百世帯への配給を行っている。しかし、配給食料でまかなえるのは平均して月の20日間分ほどなので、給与で購入するか、取り引きしたり、所持品を売却したり、または地域社会や家族のネットワークなどを通じて補填する必要がある。

3.経済制裁の社会に与える影響

 イラクは農村国家ではなく、都市中心の経済的にも繁栄していた国家である。 そのため、この都市化された社会では、2200万人の人口の4分の3が電力から水道まで、都市の複雑な生活様式に依存していた。しかし、1990年以降、多くの人々が、インフレ、失業率の急増など、経済制裁に苦しんでいる。

 その結果、イラク人にとってある種類の民間事業(例えば、密輸)や、他の種類(売春、強盗)など、これらすべてが成長してきている。

 この傾向の副作用として、伝統的な地域社会のリーダーの役割が小さくなり、闇社会で形成された貴族社会が最終的に、市民社会の形態に影響を与えることが懸念される。

4.医療システムの失敗

 国連安全保障理事会決議986によって6ヶ月毎に2億1000万ドル分の医療物資を供給することになっているが、深刻な遅れによって、抗生物質、麻酔薬などの不足が続いている。その上、水道設備や衛生システムの劣悪化により、今まで発生していなかったコレラ、マラリアなどが発生している。

 国連は、医療システムや設備の再建のために1回限りの4億4900万ドルの支出を行うことを提案したが、薬品や医療機器の供給が改善されても、医療従事者の人員不足は依然として問題になると思われる。そのほかにも、教育において小学校の入学比率が75%以下にまで低下している。

 戦争の影響と制裁の効果により生じているイラクのニーズは数千ドルの規模といわれている。そのため制裁が解除されたとしても、イラクとその国民が完全に回復するまでには数年を要すると思われる。

5.制裁の教訓

 制裁が開始され戦争の準備が進んでいた1990年の時点では、これほど費用がかかると誰も予想してなかっただろう。

 冷戦の終結以来、制裁は国家的な外交政策としても、国際的な威圧手段としても拡大していき、制裁は非暴力的で有効な代替手段とみられた。しかし、制裁は明らかにイラクの一般国民を貧困に追いやり、人間の尊厳を傷つけ、命を奪うという深刻な結果をもたらしている。

6.援助の教訓

 イラクで実施された「食料購入のための原油輸出」は未来に対する重要な教訓を残している。われわれの課題は、制裁の実際の結果を理解するために、基本的な統計、詳細な調査、地域に対する知識など限られた資源のなかで可能な限り効果的に管理することが重要だ。

 最後に、適切な国際システムを通じて制裁を課すことに合意したまさにその同じ国々の政府が「人道団体は最弱者、すなわち意図されなかった制裁の犠牲者を援助する行動をとる権利がある」という重要な認識を持つことが大切だ。

 この非常に重要な認識と、人道的援助の権利のために原則に基づいた支援を通じて、イラクやそのほかの制裁下にある国々では何百人、何千人もの幼い子供たち、女性、老人が援助を受けている。


自治体の救護体制と医療

(林 泰史、日医雑誌 761-776, 1998)


 地域医療機関や医療救護所に運び込まれた患者の診察に当たる地域の臨床医は、応急医療に専念する為に、全体の救護体制や情報連絡系統を知っておくことが必要だ。

 医療救護所は、区市町村が設置し、それを都道府県が応援し、要請に応じて日本赤十字社や自衛隊からも応援班が派遣されるといった仕組みになっている。被災現場には避難所が設置され、臨床医は区市町村の災害対策本部による統括の元で、都道府県からの後方支援を受けながら、医療救護所での負傷者・傷病者の応急治療に当たる。

 医療救護所には、原則として医師・看護婦(士)・その他事務員などの計3名からなる医療救護班が派遣される。東京都では、区市町村の編成した医療救護班に加えて、都で直轄医療救護班を編成して負傷者の多い医療救護所へ応援に行くことになっている。また、区市町村・東京都は、いずれも医療救護班に対して医薬品・医療資器材を供給するが、さらに東京都は血液を供給できる。 医療救護所での治療が困難な重傷者や、医療機関が被害を受けて継続が困難となった外来・入院患者に対して、後方医療施設を確保して入院・治療を行えるようにするのも東京都の役目である。

■医療救護活動の発令

 大規模な災害が発生すると第一報は東京都と各区市町村に通報される。続いて各区市町村に災害対策本部が設置され、人的被害や医療機関の被害状況、活動状況を把握して東京都に報告したり、地区医師会などに対して医療救護所へ医療救護班を派遣するように要請したりする。

 東京都災害対策本部では、衛生局が区市町村災害対策本部からの応援要請を受けたり、独自の調査に基づき医療救護所を支援する。また、本部長を通して東京都医師会、日本赤十字社東京都支部、自衛隊などへ派遣要請を行い、東京都の保健所や都立病産院へ派遣命令を出して多忙な医療救護所を補充する。

 区市町村の医療救護所が設置されるのは500人以上収容できる避難所や、高齢者、障害者などを介護する為の専用避難所、負傷者が殺到する医療機関、負傷者が多数発生した災害現場などである。ここでの臨床医の業務は、主として外科的な応急処置である。被災後約3日以内の初動期で多数の負傷者がいる場合は、必ずトリアージを行い、応急処置は原則として必要最小限にとどめ、重傷者などの後方医療施設への転送の要否および転送受二の決定をし、転送困難な患者、軽症患者などに対する医療、助産救護、死亡の確認、状況によっては遺体の検索への協力などを行う。初動期以降は内科系、慢性疾患、精神科対応などが増え、同時に在宅難病患者や高齢者、心身障害者など災害弱者に配慮した医療が始まる。本部直轄の連絡調整員による医薬品補給や本部との連絡、調整も大切な仕事である。

■災害救護体制への備え

 災害救護体制に備えて、災害を想定して人的被害予想を立てることも必要である。これらの想定に基づいてマニュアルが作成され、講習会も開催されている。

 臨床医は災害時に災害状況を把握しながら医療活動に実力を発揮するとともに、平常時から災害医療に関心を持って研修を受けるべきだ。


災害時の医療救護体制と救急医療

(林 泰史ほか、日医雑誌 777-781, 1998)


 緊急時における危機管理体制が甘いといわれている日本では、多くの臨床医 は災害医療とは関係なく疎遠になっていると思われるが、災害はいつ襲来するか予想が難解なため、災害時を想定し救急医療について訓練及びガイドラインを作成する必要性がある。

 厚生省は阪神淡路大震災の教訓から9項目の初期救急医療体制の強化を挙げ 各自治体に課した。その中での防災マニュアルに沿って実際の訓練が行われた。特にライフラインに的をしぼった訓練が行われ、自家発電時の石油の備蓄問題や医療器具の電気容量問題、エレベ−タ−の重要性が再認識された。又被災地内では基本的には医療はやらず応急処置だけでよく被災地外にどうはこび出すかを考えるのを優先する。域外搬送にはヘリコプタ−による搬送が挙げられ、現在の消防では夜間は飛べないことになっているが東京消防庁の働きにより2年後には夜間も飛べるようになる様だ。今後の構想としては被災地の中に病 院の機能を持ったコンテナやユニットが入ってこれるような体制を作る、また病院の建物が損壊した時は外に建てるというものがある。また熱傷は特殊治療であり東京都でも熱傷用の特殊救急、熱傷ユニットをつくり60人くらいに対応できるが全国では実際に対応ができるのは100人くらいといわれている。これ に関しては飛行機で搬送すれば2時間でどこかに搬送でき、重傷熱傷患者に対 応できるのではないかといわれている。

 患者の振り分け(トリア−ジ)に関しては阪神淡路大震災の教訓を生かして普段から訓練する必要があり、多くの医師にトリア−ジに関する受講をしてもらわなければならない。トリア−ジは、トリア−ジ技術と同様にバックグラウンドの情報を周知せねばならない。その情報には国土庁が持つDIS(ス−パ−コンピュ−タ−)の使用を国は考えている。またレベルごとに作っておいて1つの組織(国、あるいは都道府県)に 指令を出してもらわなければならなく、その指令を出す人(拠点病院の病院長、知事、区長)の教育を行わなければならない。医療機関側も、義務づけられている年一度の防災訓練時に訓練をしてもらわなければならない。その訓練のためには、全国的に共通な標準的トリア−ジを作る必要性があるようだ。連携体制とボランティアに出ていくという意志も大切だが、阪神淡路大震災時には医師の良心によりボランティア的な申し出があったにもかかわらず、医師であることの確認が出来ないため断ったあるいは偽医者が出現したという教訓から、医師であることの証明書が発行なされた。

 医療機関の災害時に備えての心がけとしては医薬品のストック及び自分の医療機関の能力を把握して患者の収容、対応能力を考えなければ災害時に対応出来ないことが予想され、また医薬品のストックには全国レベルでの保存がないと困難と思われる。そして普段から他地域が被災した場合の出動体制を医師として作らなければならない。

 まとめとして、災害時には多くに人は混乱するに違いないであろうから、混乱時にこそ有効なマニュアルを自分の医療施設の人と共に作成し時間的経過、物の搬送について考慮する。医療機関側の連携の上に地域との連携(消防団、警察、水道局、電力会社等)についてもあらかじめ設定する。また医療活動をスム−ズに行えるシステムを構築することが行でいには必要であるといえる。そして医師個人として良心に基づく行動、専門科の研鑽以外に災害医療について完全に把握する必要があると思われる。


■救急・災害医療ホ−ムペ−ジへ/ 災害医学・抄読会 目次へ