災害医学・抄読会 070921

災害への準備(上)

(大橋教良:EMERGENCY CARE 2007 新春増刊 Page53-66)


災害の予測

 災害への準備を進めるに当たり、どのような災害が起こり得るか、そのことによって各病院でど のような事態が発生するかを考えておく必要がある。

  1. 自然災害

    わが国では地震とそれによる津波が最も破壊力が大きく、台風や集中豪雨による浸水・土石流・土砂 災害・高潮といった水害、竜巻やダウンバーストなどの風害、火山の噴火による火砕流や火山ガスに よる被害なども発生する。

  2. 人為災害 最も高頻度な人的災害は交通機関の大型事故、次いで産業事故である。最近では大規模イベントに おける群集災害(Mass gathering)も注目されている。

災害時に病院で起こる事態

 自然災害では建物損壊、地階や低階層の水没、火災などが発生し、電気・ガス・水道・通信などのラ イフラインが途絶える。廃棄物や燃料、有機物質、危険物の漏出なども起こりうる。また諸機関に はパニックになった不特定多数の人が出入りし混乱が助長される。大規模地震や病院火災では人々 の避難・誘導・安全確保が必要となる。

 人為災害ではテロリストによる二次攻撃の可能性も念頭に置く必要がある。

災害時の病院運営の標準化

 災害時の施設(病院)運営をあらかじめマニュアル化し、日頃からそれに基づいた訓練をすること が重要である。災害など緊急事態における病院運営システムの標準化モデルとも言うべき「病院にお ける緊急事態管理システム(Hospital Emergency Incident Command System;HEICS)」を紹介する。

1.Incident Command SystemとHEICSの歴史

 1970年代に登場した、指揮系統、関係団体・人・物の役割などを標準化したインシデント・コマンド・ システム(ICS)の考え方を病院にも適用するため、91年にカリフォルニア州救急医療公社により HEICSは完成、現在ver.3に至る。

2.HEICSの概略と特色

 HEICSでは、実際の救急医療活動を行う運用部門、後方支援部門、企画部門、経理管理部門の4部 門と、それらを統合する指揮部門が基本形となり、密に連携を取りながら事態の対応に当たる。

 特徴は、緊急事態に1人の責任者が有効にコントロールできる部下や部門数は5以下となるよう配慮 されていること、責任者は適宜交替することができることなどである。また上記4部門の下にさらに 責任者、班長、担当者計49人の役割分担が決められ、アクションカードに記されている。災害の種 類、規模、発生からの時間経過に合わせて最低必要な部門を立ち上げる流動的な運用が可能であ る。この臨機応変さにより、あらゆる事態への対応が可能となる。

3.HEICSの主要な部門の役割

災害のための備蓄

 災害拠点病院では外来受診者数では通常の5倍、入院は通常の2倍程度のものを3日程度持ちこたえ る医薬品、医療材料、食糧の備蓄が求められている。

1)医薬品、診療材料

 地震を例に取ると発災から2〜3日以内は救命処置や外傷患者が中心となり、3日以降は内科的疾 患、慢性疾患を念頭に置き必要な医薬品、診療材料を備蓄する。使用期限・滅菌期限に注意する。

2)水・食料

 非常時の食糧には乾パン、缶詰、調理済みのα米、乾燥野菜、フリーズドライ食品などがある。飲 料水はペットボトルで備蓄する。使用期限に注意する。エレベーターを使用せずに病棟に搬送せね ばならないことも念頭に置く。

3)そのほかの必要な備蓄品

 リネン、簡易ベッド、ヘッドランプ、無線機、テント、衛星電話、非常用小型発電機、投光器、拡 声器など


災害への準備(下)

(大橋教良:EMERGENCY CARE 2007新春増刊 Page66-75)


救援の準備

 現場出動の際は、医薬品、診療材料のほかに、出動するスタッフ自体の安全を確保するための装備も必要である。災害現場に出動する際は食料・水、睡眠場所など救援チームの生活のための資器材は出動する側の責任で用意すべきである。ヘリコプターで出動する際は離陸重量の関係で装備が制限されることもあるのであらかじめ出動の訓練をしておく必要がある。

災害訓練

 災害対策の一環で訓練が重要であることはいうまでもないが、多忙な病院業務から時間と人間をわざわざ割いてまで行うことの重要性が理解されず、また訓練を企画・運営する方法も分からない、とうい理由から思い通りに災害訓練ができないことが多い。

1) 災害医療における訓練の意義;災害疑似体験としての訓練

 災害医療は絶対的な経験不足の状態である。災害訓練とは、この災害医療における絶対的経験不足を補うために災害の疑似体験の一つとしてさまざまな教訓を引き出すという重要な意味がある。

2) 災害訓練と災害マニュアル

 災害訓練の結果、得られた教訓・問題点はマニュアルに反映させ、それをさらに訓練して検証するという具合に、災害訓練と災害マニュアルは表裏一体のものである。また、実働訓練の前には机上訓練を行いその段階で十分に問題点を洗い出しておく必要がある。

3) 災害訓練を企画する際の注意点

災害時における地域とのネットワーク

 1) 消防 災害派遣チーム(DMAT)を現場に誘導し、現地の指揮をとる。

 2) 警察 自然災害は地域課、大型交通事故は交通課、労災事故などは刑事課の管轄となる。

 3) 保健所 自然災害やそのほかの災害時に情報収集、連絡、調整などの役割が期待されている。

 4) 市町村 個々の市町村単位で防災計画が立てられ、災害救助法の運用がなされる。

 5) 医師会 各地の医師会で大災害に際して救護所の立ち上げを担当する手順を決めている場合が多い。

 6) 自衛隊 自衛隊の災害派遣は市町村長の要請を受けた知事が要請する。独自には出動しない。

 これら医療機関と地域の諸機関とのネットワークは災害が発生してから新たに構築できるようなものではなく、日ごろから連絡を密にしておく必要がある。

病院の脆弱性

 自然災害における病院の脆弱性には、建物の損壊など建造物の構造自体に起因するものと、内部の設備の破損など非構造的な原因により病院機能が著しく低下する場合がある。

1) 建物の構造に起因するもの

2) 非構造的なもの


交通マヒ・大渋滞の改善/避難所の開設運営・被災者の救援各機関の相互協力・連携の強化
―救助活動全般、特に初動の人命救助活動

(松島悠佐:大震災が遺したもの、東京、内外出版 2005、p.116-130)


交通マヒ・大渋滞の改善

1.交通規制の問題

 大規模震災の際には、発災当初の交通混乱を避けるため、マイカーなどの車両の使用を禁止するなど、強力な交通措置を講ずることが、多くの自治体の防災計画に規定されている。しかし、阪神淡路大震災の時には、家が倒壊し家族を車に乗せて、近くの空き地に避難する人、負傷者を移送する車も多かった。車社会の中で車を利用した避難に頼らざるを得ない社会事情を考えると、これを止めさせるような規制は非常に困難だろう。また、新潟県中越地震では、山村からマイカーで脱出した被災者、車を避難所として生活する人が多かった。このような被災直後の難しい状況の中で、負傷者の輸送や被災者収容のためにマイカーに代わる救急車や輸送車両などの輸送手段を確保せずに、規制だけを強行すれば、混乱はむしろ大きくなる可能性もある。

2.抜本的な施策

 大震災において当初の混乱状態は、ある程度許容せざるを得ないが、その混乱状態を速やかに解消するための総合的施策が必要である。まず被災地周辺の「緊急物資集積地域」へ緊急物資を集積させ、ここから被災地の「緊急物資集積所」にヘリ、フェリー、トラックを併用し運搬する。「緊急物資集積地域」や「緊急物資集積所」の管理運営は地方自治団体が担当し、実際の補給統制・輸送統制は、自衛隊の補給統制機能や輸送統制機能を活用すれば容易に実行でき、交通渋滞の抜本的解決策となり得る。

3.ヘリ空輸の活用

 陸上輸送が困難となる被災地では、ヘリ空輸は非常に効果的であり、積極的な利用を考えるべきである。そのためにヘリポートと飛行管制の措置が必要である。ヘリポートについては、ほとんどの地方公共団体の防災計画に記載されているが、実行上のデータの把握と実際に降着しての実証が必要である。飛行管制の問題については、阪神淡路大震災の際、王子陸上競技場が、唯一のヘリポートであり、各機関のヘリが集中して利用したため、飛行管制が必要になった。この問題を解決するため平成8年1月に「災害時における救援航空機等の安全対策マニュアル」が制定されたが、自粛を要請する注意喚起であり統制機能がない。また、ヘリを所有する各機関が、混乱を避けるため相互調整を行っているが、自粛の呼びかけで対処できる事態では、何とかなっても、錯綜と混乱が過度になった状態でどれだけ協力が得られるか疑問である。

避難所の開設運営・被災者の救援

1.被災者の救援

 新潟県中越地震では、国の総合支援体制や自治体相互の協力、あるいはボランティアの活用などが、救援活動の初動から積極的に行われ、それぞれの分野ではうまく機能し、改善の効果が出ているとの評価であったが、国や他の自治体の協力によりたくさんの食料が運び込まれていたのにもかかわらず、震災後3〜4日経っても食糧の不足などの問題が続いていた。これを改善するには活動を統合統制する対策本部の機能強化が必要である。また、被災者の救援には、前もって避難所に生活物資を備蓄しておくなどの、救援態勢をとっておくことも重要である。

2.総合的支援体制の確立、他の自治体等との支援協力

 阪神淡路大震災では、直後の30万人を超える被災者への生活物資の支援、医療支援などの確保に当初相当の混乱をきたした。また、避難所生活・仮設住宅生活の長期化にどう備えるかという大きな問題もあった。地方公共団体では対処できない限界があり国や他の地方公共団体の支援をうけることが必須であった。この教訓を生かして、新潟県中越地震では、政府は当初食糧支援を最重点にして各省庁や民間の協力を求めて総合的な支援体制を敷いた。物資輸送に関しても自衛隊と民間の航空機・へりを活用して輸送の確保に努めた。また、市町村等の自治体相互に、あるいは一般企業と支援協定を結んで、災害支援ネットワークを作っている自治体も増え、この震災の際には、これを利用して、支援が行われた。

3.自主防災組織・ボランティアの活用

 阪神大震災の救援活動を通して、自主防災組織やボランティアの活動の有用性が明らかになりはじめ、自主防災組織の育成、ボランティアによる防災活動の環境整備などの国民の自発的な防災活動の重要性が、災害対策基本法に明記されている。また、医療、福祉などの専門技術を有するボランティアの重要性も指摘され、活用に向けて検討されている。しかし、自治体の受け入れ体制が、ボランティアとの連携の支障となることがあり、円滑な受け入れが促進されるべきである。

 自主防災組織は、自治会、会社などで組織するものがあり、これらの組織は平素から活動していない。しかし、これらの組織は、非常時には近隣における情報連絡、初期の救助・救援活動を行い得る重要な存在であり、このような組織の活性化を図るためには、会社ぐるみ、地域ぐるみで防災訓練を行い、防災意識を高め、各人の役割を徹底するとともに、近隣とのコミュニケーションを図り、非常時におけるその地域において初期の救助・救援活動の主体となることが望まれる。

4.長期化への施策

 避難所生活が長期間になった阪神淡路大震災の体験から被災者、特に老人や障害者に対する「心のケア」が、医療問題だけではなく社会問題としても重視されることとなった。

 避難生活が長期化するに従って、精神的繋がりが非常に大事になる。新潟県中越地震では、高齢者の比率の高い山古志村の村民に対して村の集落ごとにまとまって避難生活が送れるように、避難所が再編成され、阪神淡路大震災の教訓が生かされた。


災害看護の実践 災害時の地域看護
−地域連携と保健師の役割−

(井伊久美子:インターナショナルナーシングレビュー28巻3号 Page60-65、2005.05)


■はじめに■

 災害時の保健活動は、被災者の回復プロセスを知り、これを支援していくことである。この時被災 した個人だけでなく、その地域自体が、災害のショックで傷つき、マヒに陥るため、地域全体を視 野に入れた支援活動が求められる。本稿では、保健師の立場で災害時の保健活動について述べる。

■災害時の地域アセスメント■

 以下の内容を把握し、被災地の全体像をつかむことが重要である。

1. 地域全体の把握

 被害状況(死者・負傷者・被害家屋・ライフライン・通信システム)、交通機関、医療機関・福祉施 設・在宅ケアシステムの可動状況、救護所・避難所の数と場所、非難していない人の状況、動ける マンパワーの種類と数、対策本部などの組織

2. 健康問題別の把握

 環境的側面(ライフライン・冷暖房・照明・騒音・粉塵・ゴミ・トイレ・手洗い・清掃・静養室・プ ライバシーの確保)、防疫的側面(食中毒・風邪・その他の感染症)、対象特性的側面(乳幼児・妊産 婦・高齢者・障害者・単身者・要介護者)、疾病問題(難病・認知症・精神疾患・慢性疾患・結核)、 避難所特有の健康問題(高血圧・不眠・便秘・食欲不振)

■災害フェーズごとの保健活動■

1.準備期

1)各機関の支援体制の整備

  1. 組織、命令系統、各機関の役割の明確化と共通理解

    組織内での具体的な担当の確認、連絡網の整備、初動期または長期化を想定した応援の受け入れの 条件整備を行う。

  2. 情報伝達体制の整備

    情報伝達方法の整備、確認とシミュレーションを行う。

  3. 支援団体の把握と役割の確認

    ボランティア団体・地域住民など多岐に渡る。ボランティア本部の立ち上げなどの確認も必要。

  4. 保健活動に必要な情報・物品の整備

    定期的な点検、更新を行っておく。

2)災害時要援護者の支援体制の整備

  1. 災害時要援護者の所在把握と安否確認、避難誘導体制の整備

    プライバシーに十分配慮し、リストを作成する。

3)防災に関する知識普及・啓発

  1. 関係機関・職員への啓発・研修

    災害時要援護者に起こりうる医療・生活上の障害の理解、ストレス反応やPTSDの理解と対応、救急 法の技術訓練、災害を想定した行動シミュレーターなどを実施する。

  2. 地域住民などへの教育(災害時要援護者・一般市民・ボランティア)

    災害に対する準備、避難場所へのルート、健康問題への対応などについて地域ごとに実施する。

2.対応期

1) 第一期

 災害直後から3日間。災害の規模や程度が分からず、建物や道路の崩壊、怪我人や死者の発生、ライ フラインの切断などによる混乱と不安の時期。救援活動が主となる。災害情報の収集、初動体制の 確立、地域巡回活動を開始する。

2) 第二期

 発災後3日から2〜3週間。外部からの応援が増え、避難所の状況も少しずつ安定して、生活再建に向 けての活動が活発になる反面、身体状況の悪化やストレスが増大する時期。地域における継続ケア の必要なケースに対する訪問指導と、避難所における巡回健康相談を行う。

3.回復期

1) 復旧期

 発災後2〜3週間から災害対策本部解散まで。住民の疲労と将来への不安も強くなり、日常生活も不 規則なことから様々な問題が発生しやすい時期。被災者の心身の健康回復を図るためには、生活を できるだけ普段の状態に戻すことが大切である。また、医療やケアの必要な人に継続したサービス が提供できるよう、ボランティアや関係者との連携、コーディネートが重要となる。

2) 復興期

 災害対策本部解散後から平常化するまでの段階。地域・家族両面で役割の喪失や交替が生じる。精 神保健活動に重点を置き、新たなコミュニティ作りを目指しながら、人生・地域の再建への支援を 行う。

■被災地域での支援活動のポイント■

1. 災害時の健康ニーズ

 災害は、外傷などの直接的な健康被害をもたらすだけでなく、生活基盤が壊れることによって長期 にわたる健康障害をもたらす。従って、医療ニーズとは区別して健康ニーズを捉える必要がある。 被災後、できるだけ早期に、できるだけ日常に近いケアが提供されることが求められる。災害直後 からの生活支援が重要となる。

2. 安心を与えることと、孤立化の防止

 災害時には「取り残されの防止」と「孤立化の防止」が重要な支援になる。災害後に行われる保健 師による全戸調査などは調査が目的ではあるが、「健康管理への動機付け」や「孤立化の防止」の ための声かけの意味も大きい。

3. 一人ひとりの健康レベルを維持する

 個々の被災者が災害前の健康レベルを維持できるよう、少なくとも肺炎やエコノミークラス症候群 のような関連死を防ぐ活動をする。避難所において、災害後に行われる健康調査では、必ず一人ひ とりに声をかける。また、生活再建には時間が必要であり、災害後中長期になっても健康ニーズが 耐えることはない。長期的支援が必要である。

4. 平時の保健活動が基礎となる

 平時から地域状況を把握するとともに、被害を想定しての「備え」が必要となる。その拠点として 広域的に地域の健康問題を把握する立場である保健所の位置づけはキーになる。

5. 連携について

 最近では、介護保険制度などの関連もあり、被災地支援に関わる専門職種が多様になり、各々の組 織からその専門性を持って、それぞれに被災地支援活動に関わっている現状がある。しかし、災害 時においては、個々に携わる人々が個々の自分の経験を持ってそれが災害時の支援活動の全てであ るかのような錯覚を持ちやすく、それぞれが連携の広がりの必要性あるいは実際をイメージするの は容易ではない。現時点で「連携」は大きな課題となっており、今後各々が、関わる人々や組織・ 機関の広がりを共通認識とし、自分は多くの支援者の一人であるという認識を持つよう努力するこ とが期待される。


9.11米国同時多発テロ事件と海外におけるメンタルヘルスケア

(神山昭男:精神医学 48巻3号 Page 319-323, 2006.03)


【はじめに】

 本事件により3,000名を超える多数の人々が犠牲となり、事件発生直後から負傷者の救護、安否確 認などが懸命に取り組まれたが、作業は遅々として進まず、突然の大惨事への対応の困難さを世界 中に認識させる結果となった。その後、本事件を契機として世界各地で危機管理が見直され、非 難・救助手段の確保、メンタルヘルス対策などを盛り込んだ救援活動が新たな世界的潮流となって きた。

 精神医学界においては、1994年に米国精神医学会がDSM-IVに外傷後ストレス障害(PTSD)の症状と 治療を掲載、これを中心とした治療戦略を国際トラウマティック・ストレス学会が2000年に公表さ れるなど、PTSDとその周辺の話題を巡るフレームワークが徐々に形成されてきた。

 他方、世界各地の在外公館(大使館・総領事館)が対応した邦人援護件数は2004年度に16,000件を上 回り、援護案件の約5%は病気に関連し、その約3割をメンタルヘルス問題が占めている。これには 本格的なケアを必要とする事案が含まれ、在外公館における医療支援の役割が年々大きくなってい る。

【9.11テロに対するNY市内の初期対応】

1. 救援活動

 事件発生4分後、NY市消防局は世界貿易センタービル1号棟ロビーに指揮本部を設置したが、有事 の際に司令塔の役割を果たすはずの同市非常事態管理室は同ビル23階に位置していたため、すでに 機能マヒに陥っていた。その後、次第にビル内の通信も途絶え、救急・警察隊員らは倒壊ビルに取り 残された。また、医療チームは同ビル周辺の高校などで負傷者の手当てと病院などへの搬送に取り 組んでいたが、負傷者の数が多いために搬送先ラベルの記入を途中で断念した。これは後に行方不 明者の捜索活動に大きな影響を及ぼし、約1,100人分の身元判明ができないまま身元確認作業を中止 することとなった。

2. 被害者支援活動

 事件後2日目、NY市は被害者支援組織を設置し、6日目にはこれを拡充した家族支援センター (FAC:Family Assistance Center)が設立された。主な業務は、1)被害者リストの作成、2)行方不明 者の捜索活動、3)食事や家財道具の無料提供、4)DNAサンプルの搬出手続き、5)葬儀、赤十字の給付 金需給手続きなどで、ここに35ヶ国語の通訳が集められた。情報の蓄積と情報提供が軌道に乗るに つれて、次第に被害者と支援者の交流が広まり、心理的サポート機能としても重要な役割を果たし た。

 また、NY市はインターネット上で情報提供サービスをし、その情報コンテンツは1)被害者の入院 先の検索、2)FACの紹介、3)避難所の案内、4)ケアを行っている病院などの案内、などであった。

【邦人社会における被害者支援活動】

 事件5日目から、日本語によるメンタルヘルス相談として、医師らによる「こころのケアホットラ イン」が、本邦では国立精神・神経センターによる「米国メンタル・ホットライン」が開設され た。ホームページ上では総領事館顧問医らが現地校の教職員・保護者向けに「心の外傷とその対応」 を、本邦では厚生労働省が米国からの帰国者向けに「米国における同時多発テロ事件に関する危機 管理対応について」を開設、さらに大学研究者や心理臨床専門家、宗教家らのボランティアによる カウンセリング、相談活動が熱心に行われた。また、緊急事態の混乱状況下で多くの邦人がボラン ティアとして支援活動に加わり、現地法人社会にとって貴重な情報交換、相互交換の場となった。

【PTSD患者発生の規模】

1. NY市当局の推定

 本事件1年後に、NY市監察官は同市の被害状況として、本事件に関連したPTSD患者概数を33,900名 と推定した。その内訳は、1)事件で被害を受けた負傷者および死亡者の家族5,000名(14.7%)、2)落 下した瓦礫による打撲、煤煙などの吸入、転倒などの身体的損傷、精神的ショックを有する1,400名 (4.1%)、3)現場近くの危険範囲内で前記と同様の身体的損傷の危険にさらされた5,000名 (14.7%)、4)現場に居合わせ事件を目撃もしくは事件の被害者を知る12.500名(36.9%)、5)事件現 場から遠く離れ、被害者と直接の関係はないがメディアを通して精神的打撃を受けた10.000名 (29.5%)。

 計算上、既存の文献などから対象母集団の発生率は、1)〜3)は20%、4)は5%、5)は0.1%と見込 んでいる。

2. 邦人企業の社員・家族

 世界貿易センタービル内に所在した日系企業の産業医は、邦人社員約100名と従業員約500名の安 否確認、生存社員の健康診断を通して、心理的ショックの強いケースを精神科医に紹介するなどの ケアを実施、睡眠障害、食欲低下、自律神経症状、不安・緊張、抑うつ、知覚過敏などの症状を社員 の55%、配偶者の74%に認めた。また、事件後1年目には 1,500 名を対象として出来事インパクト 尺度(IES-R)を用いた自己評価を実施したが、PTSDが疑われる高得点者は邦人社員の10%を超え、専 門医への受診勧奨を行った。これらの経験から、平時に健康管理も含めた緊急対策マニュアル作り を行い、緊急事態発生時は企業の担当部署の責任者と産業医が協力し、さらに現地の事情に詳しい 医療機関、在外公館医務官と連携して対処する必要があり、総じて、これらの実現には企業のメン タルヘルス対策への積極的な姿勢が重要と指摘している。

3. 現地校の邦人児童・生徒

 当時、総領事館顧問医も担当していた斉藤らは、本事件後の2年間に渡りNY市周辺の現地校で調査し、小学校5年から中学校3年の児童・生徒を対象としてIES-R、CDI(Children's Depression Inventory)を用いて調査した。事件直後は12.4%にPTSD、12.6%にうつ病が疑われ、2年後には、IES-Rの総得点と現場周辺にいなくても知人が事件に巻き込まれた場合や、ニュース番組を長時間見た場合との間に優位な相関が認められ、本事件のような大規模緊急事態では、直接の被害者以外への心のケアも重要と指摘している。

【メンタルヘルスケアの基本戦略】

 第一に、日本語によるケアの確保が大きな目標である。海外106カ国234都市の調査によると日本語の利用が可能な医療機関がある国は30カ国。利用可能な精神科医療機関はさらに限られる。これは、緊急事態時には本邦から専門家を速やかに現地に派遣し、ケアを現地で開始する必要性を示唆している。

 第二に、自傷他害の恐れによる入院時には治療目標を航空機の搭乗が可能なレベルまでとして、症状が落ち着き次第帰国することが望ましい。

 第三に、生活管理ができないことによる危機の増大を避けねばならない。生活管理ができないと事態が悪化、もしくは重症化する懸念が一段と高まるので、領事や医務官が食事、ホテル、旅行荷物の世話をすることもまれではない。なお、これらには、精神科救急、プライマリケア、旅行医学のスキルとノウハウが役立つ。

 また、現地在住の邦人医療関係者らの存在意義は大きく、平時からネットワークがあれば緊急時に威力を発揮することが期待できる。

 最後に、本事件をはじめとしてテロ、事故、災害などの犠牲者の皆様のご冥福を心よりお祈りいたします。


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