災害医学・抄読会 070918

災害医学の教育

(福家伸夫:EMERGENCY CARE 2007新春増刊 Page 41-50)


 災害医学の教育の目標は、災害に際して適切な医学的対応ができるための知識と技術を獲得することにある。しかし災害医学に関しては、正確な記録がリアルタイムで困難であり、大型災害などはめったにあるものではないので、経験の蓄積も難しい。すなわち、学問化・教育化しにくい分野である。しかし日本では一般市民レベルでの災害対応の基礎知識が広く普及している。これは日本が世界でも有数の自然災害多発国であることと、分盲率が高いため、教育を授ける側がさほど手間をかけなくても一定以上の教育水準が期待できるという背景があるためと思われる。大型災害はめったに起こるものではないため誰もがその対応策に習熟しておくのは困難であるが、繰り返し「どうすればよいか」というイメージを表出することで無意識のうちではあっても災害対応の「常識」を身につけさせることが期待できる。

 災害は被災地域の対応能力をはるかに超えた事態をもたらすものであり、それは医療機関においても同様である。また、被災地内では医療施設の崩壊や医療資源の不足・劣化、救急医療システムの低下、交通手段の消失・劣化のために本来受けられるはずの医療行為が受けられなくなるという事態が日常化する恐れが生じる。このように災害というものが大量の医療需要の発生と供給側の能力低下を意味する以上、災害に直面した際は病院の活動は災害モードにシフトされなければならない。そのため、「どうすればよいか」という知識を普遍化するために医療職員に対して教育を行うことは重要である。さらにそのためには、教育内容が簡単に暗記できるようなものであること、簡単に実行できること、分かりやすく文書化されていることが必要であると言える。

 以下に、各職種における災害対応の為に重要である事項をまとめた。

 医師は、医療資源が乏しい状況下では普段のような分業体制で仕事が出来るわけでないため、専門性にこだわらないことが第一となる。全ての医師に自分の得意ではない分野も仕事をしなければならないという意識を持たせることが、実際的な知識および技術を教えるのと同様に大切となる。

 看護師は院内最大の人財源であり、応用力の高さや日頃の指揮命令系統成熟している点においても、災害時に最も貴重な戦力となり得る。大型災害の場合、傷病者の生活・衛生環境および安全性を維持するのは困難であるが、可能な限り安心して治療を継続できる環境を設営する必要がある。

 救急救命士の持つ基本的技術はそのまま災害現場に通用するものであるが、彼らは直接現場に出るため危険に遭遇することも多い。放射能汚染、生物汚染、化学汚染の可能性があれば不用意に活動してはならず、汚染物質に対する基礎知識が必要である。

 薬剤師はあらゆる医薬品の管理業務を行うが、災害時は特定の医薬品のみが極端に品薄になる可能性や温度管理が出来なくなる可能性がある。医薬品の在庫状況と調達の見込みを含め、どれくらいの人数に使用できるかの情報提供を繰り返し行う必要がある。また、傷病者にとって日常使用しているものと異なる薬品で代用しなければならない可能性もあるため、服薬指導は重要な活動になる。

 各医療機関では現在、実地訓練としてそれぞれの現状にふさわしい訓練が行われている。その際の利点は、自分達の施設に最もあり得る災害を想定し、医療資源のやりくりをし、現実的な改善点を明示できるところである。一方で弱点は、災害のシナリオ作成や訓練のデザインであり、災害専任のスタッフがいる医療機関は多くないので、良いシナリオを書くことに時間を割くことは難しいことが上げられる。しかし何年かの時間はかかるがデータを蓄積していくことで、この問題は解決できると思われる。

 スウェーデンで開発された救急・災害医療の机上シュミレーションキットであるエマルゴ・トレーニングシステムを用いた演習を行っている医療施設もある。これは基本的には病院前の救出、搬送、処置が主体であり、病院訓練としてはやや弱い面もあるが、自由な発展性があるため各医療機関で適切な応用・展開が可能となっている。

 医療機関ならびにその職員は災害に直面し被災する可能性もあるが、同時に被災者の救護に当たらねばならない使命がある。そのために、災害に対応する際の「常識」を医療職員に教育し身につけさせる事が、今後重要となると考えられる。


緊急医療体制の改善/火災消火活動の改善

(松島悠佐:大震災が遺したもの、東京、内外出版 2005、p.107-113)


イ.緊急医療体制の改善

(ア)災害医療体制の整備(広域アクションプラン)

 阪神淡路大震災の際に、負傷者が被災地近傍の病院に集中し、患者の搬送がうまく出来なかったと の反省から、地震発生から24時間以内に重篤患者を広域に搬送するための「広域アクションプラ ン」が中央防災会議で策定された。

 このアクションプランでは、重篤患者を受け入れることが出来る医療機関の選定、患者搬送時の同 乗医師のリストアップ、搬送拠点となるヘリポートや飛行場の把握等を、国として一括整理して、 災害発生時に地方公共団体が行う医療搬送の取り組みを支援する計画を作成している。

 患者搬送に際して、これまでヘリの活用が低調であり、阪神淡路大震災の初期にはほとんど活用さ れていなかったことから、アクションプランでは、発災直後から積極的にヘリを活用して、重篤患 者を被災地以外に円滑に搬送する計画も策定している。

 広域アクションプランの本来の狙いは、被災地域での患者の集中を防ぎ、被災地から離隔した地域 の医療機関に搬送するところにあり、そのためにはまず、被災地の医療機関から傷病者数・不足医 薬品・ライフラインの被害状況等のデータを入力しなければならない。だが、平成16年10月の新潟 県中越地震では、震度6強に見舞われた小千谷市や十日町市等、被害の大きかった地域の病院から は、翌日の夕方までの丸一日、情報を発信することが出来なかった。被災地の病院では負傷者の処 置に多忙であったこと、非常用電源の不足で入力が出来なかったこと等が原因と見られている。こ の広域アクションプランに基づいて作られた「広域災害救急医療情報システム」は、既に42都道府 県に導入されているが、本当にシステムが機能するまでにはまだ時間がかかりそうである。

(イ).災害拠点病院の整備

 阪神淡路大震災をうけ、災害時における医療確保の基本的な考え方として、被災地内の医療機関は 自らも被災者となるものの、被災現場において最も早く医療救護を実施出来ることから、その役割 は重要であるとし、各地域に「災害拠点病院」を整備することが提言された。災害拠点病院には、 各都道府県に原則として1か所設置される「基幹災害医療センター」と二次医療圏に1か所設置さ れる「地域災害医療センター」からなり、平成14年4月現在、47都道府県で531病院が「災害拠点病 院」指定されている。

(ウ).消防救急体制の強化

 阪神淡路大震災から直接の教訓を得た神戸市消防局は、以下の改善措置を実施している。

  1. 救命救急士の充実。救急隊の能力強化
  2. 「ドクターカー」の運用
  3. 指導医師派遣制度・メディカルコントロール体制の導入
  4. 市民救命士の養成
  5. 市民救急ボランティア組織の結成

ウ.火災消火活動の改善

(ア)消防体制の強化

 神戸市では、阪神淡路大震災当時、水道管が破砕して消火栓から水が出なかったこと、さらに海岸 からの水を送るための圧力が不足し、ほとんど水が送られなかったこと等の教訓から、「10トンタ ンク車」、「ホース延長車」、「大容量ポンプ車」等の新たな装備が確保された。また、現場での 指揮活動を効果的に行うために「指揮支援隊」を編成・運用、さらに「救援隊」を導入して、消防 隊、ならびに消防用車両の強化を図っている。

(イ).広域支援体制の強化

 阪神淡路大震災における神戸市の火災では、市消防局の消防力を大幅に超える火災の発生で、隣接 地域からの応援に頼らざるを得なかったが、その態勢が十分ではなく、効果的な応援を得ることが 出来なかった。これを是正するため、国として平成7年6月「緊急消防援助隊」を創設して、大規模 な火災に対して全国地域から応援できる体制を作り、平成16年4月には消防組織法を改正して、正式 な部隊組織として発足させ、登録部隊も逐次拡張して、全国で約2800隊、26000人が消防庁長官の要 請でいつでも出動できる態勢をとっている。さらに、消防用具の形式統一や、ホース結合のための 媒介金具の活用などの措置がなされ、無線通信の問題の是正も進められている。

(ウ).空中消火の活用

 県や市は消防ヘリを所有しているが、市街地における空中消火については消極的である。阪神淡路 大震災において、消火のための水がないという状態の中で、自衛隊は海水を利用したヘリ空中消火 の可能性を追求し、消防局に提案したが、延焼中の家屋に対する空中からの散水は中にいる人に対 して損傷を与える危険があるとの消防の判断で、実行には至らなかった。水が出ないような緊急の 事態で、空中消火に頼らざるを得ないような状況において、どの程度危険なのか、うまく活用する 方法はないのか等、市街地におけるヘリ空中消火の可能性について、もっと検討を進めるべきであ る。


災害看護の実践 避難所における看護ケア

(黒田裕子:インターナショナルナーシングレビュー 28巻3号 Page52-59, 2005)


【はじめに】

 死者6433名、負傷者4万92名、家屋被害、全壊10万4004棟という未曾有の大災害と なった阪神・淡路大震災では、長期間にわたる避難所生活を余儀なくされ、多数の被害者が生まれ た。また、"災害弱者"とされる、高齢者・障害者の「避難所肺炎」に象徴される二次災害も相次い だ。

 避難所は被災者が安全、安楽、快適に生活ができるように配慮された環境が求められ、避難所に おいては医療より看護が求められる事が多い。筆者の避難所における実践において、避難所が救護 センターとしての側面も持つ事により、初動の場合は特に人道的支援の強化も図る事ができ二次災 害も予防する事ができた。

【避難所における看護士の役割】

1.避難所における入居者に対するオリエンテーション

 避難生活を安心して送るため、オリエンテーションが必要であり、避難所についての各種情報や、 保健衛生、健康管理、決まり事などを説明する。

2.避難所で看護をするものが把握すべき事

 特に住居環境については考慮すべきで、連絡網、責任者、避難所に収容されている人の個人情報、 二次災害対策、ライフラインの情報、ケアするものおよび被災者の生活状況、仮設住宅に移行する 時期とその仕組みなど、常に情報収集を積極的に行わなければならない。

3.避難所における環境づくり

 学校や体育館の避難所での集団生活はコミュニティーに配慮するとともに、個人のQOLへの配慮が重 要である。

 コーディネーターによる個人環境の調整、プライバシーのある個人スペース、共有スペースの設置 など。

【避難所における保健衛生・安全面について】

 急激な生活の変化や被災による身体的、精神的ダメージをうけた被災者は、さらに長期間にわた り、同一施設内での集団生活を余儀なくされる事から、個人のみならず集団としての健康レベルの 低下を招きやすい状態にある。

1.衛生面の管理

 感染症の発生・流行の予防のため、常に環境に留意する。清掃に留意し、清潔を保持し、避難食の 衛生管理を配慮し、ゴミの処理を当番制にし徹底する。看護者の迅速なケアはもちろん、各自で予 防するよう指導する。

2.安全面の管理

 避難所での予測できない事故を防止するため、名簿を作成し、個人の安否状況、健康状態の確認を 確実に行い、また転倒事故、余震に備えて通行や物品搬入の障害にならないようにものを置く場所 にも留意する。火の使用、タバコの始末などには十分に注意し、避難経路の説明、掲示により迅速 な避難を可能にする。

【避難所におけるメンタルケア】

 震災のショック状態にあるため、「不安」「恐れ」「悔しさ」「怒り」「悲しみ」「不眠」など 心身の不調や人間関係性の変化によるトラブルも起こり、PTSDに発展するケースもあり、その人、 その人にあわせたケアの方法を見いだす必要がある。

【避難所から仮設住宅への移行時のケア】

1.コミュニティー

 抽選による入居のため、コミュニティーの破壊につながる。新潟中越地震では神戸の教訓を生かせ ていた。

2.障害者と公助・共助

 障害者のニーズにあった仮設住宅にするため、公助とボランティアの橋渡しを行った。

【避難所における救護活動】

 大きな災害に見舞われたとき、各所の医療機関では混雑が予想され、また医療機関そのものが被 災している可能性がある。そうした状況に対応し、一人でも多くの生命を守るためにも避難所に救 護センターを設け、被災者の外傷や疾病の緊急度・重症度を把握し、応急処置を行ったり、搬送や 病院選定を行うなどコーディネート機能を持たせる必要がある。また、避難所生活が長期化した場 合、外傷や急性疾患のみならず、高血圧、呼吸器疾患、糖尿病、心臓病など慢性疾患や、花粉症・ 喘息など季節的な疾患への対応、災害に伴い健康問題や危機状況を惹起しやすい高齢者、障害者や 妊産褥婦、乳幼児への支援など、救護センターが果たす役割は大きい。

1.避難所における救護センターの設置

 救護センターのスタッフは、大災害時の救護活動の特性を踏まえた上で、24時間体制での効果 的な対応が可能な職種、人員の配置が不可欠である。

2.救護センター内の環境整備

 救護センターの救急患者搬送入口は、傷病者の重症度と治療の優先度を決めるトリアージの場所 であり、迅速に効果的なトリアージを行うためには、殺到する傷病者に対応できるだけのスペース を確保するとともに、救護センター内の各コーナーの機能・役割を明確にし、傷病者の流れが一方 向となるような配置が必要である。なお、救護センターには発災後の経過や避難所の状況に応じて 流動的に機能する事が求められ、適宜、環境整備のための工夫を図る事が大切である。

3.医薬品・医療資機材の確保・工夫

 救護センターに搬送された傷病者に、十分な医薬品や医療機材を持たない中で、できる限り有効 な医療を提供するためには、応急的に身の回りの物品・機材等を代用し、診療機能を確保する事が 重要である。優先して調達すべきものとしては、血圧計・聴診器等の診察用具、心電図、蘇生セッ ト、小外科セット(止血、縫合)救急医薬品セット、点滴輸液セット、抗生剤、消毒剤、軟膏・湿 布薬、衛生材料(ガーゼ、包帯、三角巾、脱脂綿、絆創膏など)。

【救護センターでの受け入れ体制】

 発災直後から約3日間は、救護センターに多数の傷病者が殺到し混乱状態を来したり、スタッフの 確保・稼働状況、医薬品・資機材の供給状況によっては救急医療の遅れから救命にも影響を及ぼす 事となり、救護センターでの初歩的な対応の適否が問われる。生存可能な傷病者の最大限の救命 は、トリアージにかかっており、救護センターの受け入れ体制の充実が必要である。

1.搬送された人へのケアマネジメント

 臨床経験、災害医療の知識のみならず、システムや人員についても熟知し、決断力に富む看護職 をコーディネーターとして配置する事が必要である(少なくとも1人)。

2.転送時の対応

 後方医療機関への迅速な搬送は、車両とマンパワーが必要であり、コーディネーターは受け入れ 可能な後方医療機関へのアクセス状況を把握し、確実に引き継ぐことのできる人材を配置する。そ のためには日頃より救護活動に参加可能な地域内医療機関の把握、情報交換、専門的な特殊治療、 継続治療を依頼できる後方医療機関に関する情報収集を行う必要がある。


マスギャザリング(2) 甲子園球場リニューアルから考える

(久保山一敏:救急医療ジャーナル 15(4):50-57, 2007)


はじめに

 マス・ギャザリング・メディスンは、群集が予想されながら通常の医療施設がない場所で負傷者などが出た場合、どう対応するかを考案した医療である。

 甲子園球場とその周辺では、過去に3回の大きな事故が起きている。1949年には、阪神―巨人戦で、阪神甲子園駅の出口階段で将棋倒し事故が起き、2人が死亡、36人が負傷した。1979年には、選抜高校野球の入場券売り場で将棋倒し事故が起こり、小学生2人が死亡、3人が負傷している。1983年には、アイドルによる野球イベント終了後の周辺路上で、アイドルが乗っていると勘違いされた車に殺到した観衆が将棋倒しになり、女子高生が1人死亡、9人が負傷している。それ以降、多数傷病者が発生するような重大事故は起こしていないが、2006年12月5日未明に球場に隣接した阪神高速道路上で交通事故が起こり、衝突したトラックに積載されていた重さ3トンの鉄箱が、高速道路高架上から18m下の入場券売り場に落下した。ひとけのない時間帯で傷病者はいなかったが、あわや大惨事になっていたかもしれない。

2001年の視察

 甲子園球場の、観客、球場関係者を対象とした救護室は、狭い診察室にベットはなく、古めかしいデスク、椅子、棚が置かれていた。球場内で発生した傷病者は、自力歩行が不可能であれば警備員によって担架で搬送されてくる。傷病者は診察室で座位で診察を受けるか、必要あれば隣接した10畳敷きの和室で和布団に寝かされ処置を受ける。和室には仕切りはなく、老若男女を問わず雑魚寝を余儀なくされる。また点滴ボトルなどをつるす代やフックはなかった。医療資器材や医薬品は常備されておらず、試合やイベント時に外部の病院からそのつど搬入されていた。心肺蘇生用資器材としては、気管挿管器具一式がカバンに詰めて置かれていたが、心電図モニター、除細動器、酸素ボンベはなかった。通信設備としては電話と一般のテレビが置かれていた。ただ球場の職員が適宜巡回しており、緊急通信が必要な場合は、彼らによる無線通信が可能であった。なお警備員や一般職員に対する心肺蘇生法をはじめとする応急救護講習は、ほとんど行われていなかった。多数傷病者事故や集団災害に対する備え、すなわちトリアージポストや緊急車両のアクセス、多機関が共同して対処するための本部機能や通信設備などは整備されていなかった。ただ消防は、隣接する国道43号線の高架下スペースを、トリアージポストとして独自に想定していた。

2005年球場リニューアルに際しての安全性の向上

(1)観客席へのアクセスおよび観客席からの避難路が改善された。

(2)エレベーターが12基に増設され、うち5基はストレッチャー搭載可能な大型のもの。

(3)救護室へのアクセスも良好となり、また2本の大きな道路が隣接しており、緊急車両が容易に寄りつくことができる。消防官、救急隊の詰め所はこの建物の1階部分に配置し、救急車両スペースを隣接させる。

(4)AEDは1塁側と3塁側に1基ずつしかなく、球場関係者しかアクセスできなかった。これらは増設され、救護室に1台、観客席に7台追加配備される。

(5)集団災害時のトリアージポストの候補場所は、球場内では1塁側と3塁側アルプススタンド下の投球練習場が使用可能であり、別棟では、球場に隣接した新室内練習場も使用可能である。いずれも屋根のあるオープンスペースであり、出入り口がそれぞれ2か所以上あるので一方通行の動線が設定できる。また、球場に隣接して走行する国道43号線の高架下部も使用できる。

考察

 阪神球場のリニューアル工事のコンセプトの一つにうたわれた「安全性の向上」は、本来は老朽化した球場の耐震補強工事を意味しているだけかもしれない。しかしこの言葉は、さらに救護・医療環境の改善や職員の応急救護教育、さらには集団災害対応まで視野に入れた幅広い意味に受け取ることができる。この話し合いにおいて、防災設備面の指導・監督を地元消防が行うため消防署の提案に対しては、管理者側も耳を傾けざるを得ない。よって救急救命センターは、消防の協力を求めた。

 マスギャザリングへの医療対応を検討するときに、十分な根拠が見当たらないのは、日本だけではなく、海外でも事情は似通っている。オーストラリアのArbonによる最新の創設では、さらに新しい課題も指摘されており、(表)、この分野には未解決な課題は多い。ただこれらの課題も、技術的、学術的に解決がきわめて困難なものは少なく、英知と熱意を結集して取り組めば、いくつかには短期間で回答が得られるようにみえる。

 第18回長野オリンピック冬期競技大会のメディカルディレクターの奥寺は、その経験から「よいシュミレーションの場であり、計画の初期段階から積極的にかかわることで、イベントそのものを安全に運営できるのみならず、参加した医療スタッフの災害医療への動機付けとなる」と述べている。身近で日常的なマスギャザリング環境に目を向け、考え行動することで、医療者にも救護者にも、また主催者や地域社会にもさまざまな覚醒がもたらせるのではないだろうか。


表.マスギャザリング医学の今後の課題

  1. 標準化が必要なもの:用語や概念、データ収集法、研究の枠組み
  2. マスギャザリングを巻き込んだ集団災害の危険性評価
  3. 災害弱者(高齢者、小児、障害者など)への重点的配慮
  4. 予防・緩和への努力:軽症者を減少させることで、現場医療・救護への負荷を軽減
  5. 非伝統的マスギャザリング環境(地下鉄、大規模ショッピングセンター、空港、クルーズ船、公共デモンストレーション、難民キャンプなど)や想定外マスギャザリング事象の研究
  6. 既存の病院管理学を応用して、マスギャザリング環境における作業負荷、患者の流れ、転帰を評価すること

5.日本における災害精神医学の進展

(加藤寛:精神医学 48巻3号 Page231-239, 2006)


 災害をもたらす心理的影響は外傷後ストレス障害だけでなく、多彩である。その中には、突然の外傷的な喪失体験から生じる悲嘆反応や災害後の二次的ストレスが影響する気分障害や身体化症状あるいはアルコール依存などの問題が含まれる。

 災害後の精神保健活動の必要性は我が国においては阪神・淡路大震災を契機に広く認知されるようになり、最近では大きな自然災害では何らかの活動が行われるようになった。

 阪神・淡路大震災後の精神保健活動は2つの時期に別のモデルで活動が行われたことが指摘できる。それは震災直後から数か月間に行われて「精神科救護所」活動と多くの二次的ストレスに曝される復興期の「こころのケアセンター」活動である。

 「精神科救護所」は被災した外来診療所の機能の補完と避難所などにアウトリーチし、不眠や不安・恐怖などの、被災によって新たに発生した精神的問題にも対応することである。新潟県中越地震での精神保健活動の特徴としては、外部から多数の支援者チームが被災地入りし、支援チームのコーディネートが阪神・淡路大震災と比べて機能的に行われた。今後の課題としては、第一に日常的に発生する災害に対する取り組みがいまだに不十分であること。今後は地域にとって日常的な災害に対しての取り組みも行われる必要がある。第二に、精神医療関係者がどのように関与するかという点である。地域ごとに訓練やシュミレーションを行っておく必要がある。第三の課題は、活動の質を高めることと、スーパーバイズやコーディネートを行う専門家を効果的に使えるようなシステムを整備することである。我が国では、現場の要請を得て、ごく限られた専門家が動き出すという現状である。もう一つの課題は、人為災害、すなわち大事故、大事件あるいはテロなどにおける精神保健活動についてである。これは人為災害では、被災者の根拠が必ずしも明確ではなく、自然災害に比較すると組織的な精神保健活動は十分に行われないことが多い。また、被害者が分散してしまうので、保健所などの関与が困難である。今後はこれらの課題を一つ一つ解決していく必要がある。

 「こころのケアセンター」は公的財源によって、我が国で初めて組織的に提供された災害後の精神保健サービスである。またこの組織は災害救援者の受ける心理的影響に関する研究やPTSD症状のスクーリニングに関する検討であった。被災地内の群と被災地外の軍とを比較すると被災の影響の強い群ほど強くPTSD症状や抑うつ症状が認めれれた。しかしその当時PTSD症状に関しては標準化されていない自記式評価尺度を用いていたため、PTSDの多寡を論じるのには限界があった。そのため自記式尺度や構造化面接法の標準化、そしてPTSD研究に大きく寄与された。阪神・淡路大震災以降の自然災害では精神的症状に関するスクーリニングの次第に行われるようになっており、より効率的な活動展開が指向されている。一つの災害を経験することによって準備性、組織性が高まることも多い。阪神・淡路大震災以降の自然災害では、精神保健活動が展開されることが着実に増えている。災害後の研究での問題点としては、衝撃体験や喪失感によってだれの目にも明らかに傷ついた被災者・被害者を対象としなければならないので、より繊細な配慮が必要となる。それは、調査に協力した被災者・被害者の利益を確保することを意味しており、求めに応じて結果を還元すること、必要なケアを提供する体制を整えておくことが重要となる。我が国ではあまり行われていない縦断研究が、PTSDを中心とする精神的障害の発症と遷延化に寄与する要因を検討するためには重要である。さらに、治療系乳法について、その効果を実証するための臨床研究が重ねられる必要がある。

 自然災害が毎年のように発生する日本においては、被災者の心理的問題は共感を得やすいものであり、「こころのケア」という平易な言葉で象徴されながら、心理的支援の必要性がスムーズに受容されていったという事情があるだろう。しかし災害後の精神保健活動に関しては、システムを検討しマニュアルを作成するだけ不十分であり、日常の小さな災害から実際の活動を行っておくことがなによりも肝要である。


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