断層を原因として発生する地震には大きく分けて、プレートの沈み込みによって発生する地震・大陸プレートの内部で発生する地震・大陸プレートの下にもぐりこんだ海洋プレートが地下深部で割れて起こる地震の3種類がある。このうち大陸プレートの内部で発生する地震は直下型地震とも呼ばれ大きいものではM7〜8に達する。内陸の活断層は都市の直下や周辺にあることも少なくなく、南関東地域でもこの直下型地震が起こる可能性が高いと考えられている。そこで、地震が起きた瞬間、何処で何をしているのか様々な状況下を想定してその対応を考察する。
地下鉄という閉塞した空間においては、揺れによる被害よりも人々がパニックに陥ってしまうことの危険性がある。閉じ込められているという焦燥感により乗客が一刻を争って車外に脱出しようと試みたとき、女性や高齢者など体力のない人は押し潰され悲鳴があがる。地上よりも地下の方が揺れによる被害が少ないこともあるので、慌てずに落ち着いて出口を探すことが大事である。
火災による二次、三次災害が問題となる。木造家屋が多く、道路が入りくんでいる地域では消火活動が難航すると考えられ、避難場所へのルートの確保も難しくなる。道幅の広い道路や鉄筋の燃えにくい建物を目安に、避難場所や避難経路を確認しておき、効率よく逃げる必要がある。
一般的に高層ビルは建築法によって地震で崩れることのないように、防火対策ができている。燃えにくい鉄骨コンクリート製の構造物がほとんどで、また、ビルとビルの間にも十分なスペースがとられているので、被害は小さいと考えられる。ただし、避難が始まると何千人もの従業員が階段に集まりもみ合いとなるので、なるだけ人混みは避けて行動すべきである。
埋立地では液状化現象が発生する。その結果、地盤上の建築物に影響が及び、さらにはガス、電気、水道などのライフラインが引き裂かれる。上水道の復旧までは糞尿の処理が不衛生となり、伝染病が発生した場合にはその拡大が危惧される。下水処理場で使用される塩素が散布し、呼吸困難に陥る可能性もある。
高速走行中の車が地震の揺れによって路面から浮き上がったとすると、ブレーキは効かなくなり、着地の衝撃でコントロールを失う。車が停止した後も後続車による追突を受ける。タンクローリーや危険物輸送中のトラックの事故では被害が大きくなる。高速道路の破壊による影響についても考慮しなくてはならない。高架が落下すれば下にいた車は潰され、交通網の遮断により救援物資の輸送や負傷者の搬送は困難となる。
各場所で被災した場合について考察してきたが、大事なことは、地震の際のパニックを起こさない個人の防災意識である。勤務中であれば自分の会社から火災を起こさない処置を優先させ、部署ごとに火元責任者、電気設備・危険物・消火器の任務分担が必要である。長期の避難にも対応できるよう食料備蓄にも気を配らねばならない。東京ガス、新潮社、新日本製鉄のようにカンパンや缶詰めの備蓄が行われている企業もある。
避難時の行動としては、まずエレベーター、エスカレーターなどの最新設備を利用してはいけない。早い、便利という利点が逆に群集にパニックを起こすことになる。
火災時に恐ろしいのは煙である。煙の中には一呼吸で倒れてしまうものもあり、姿勢を低くして煙を吸わない体勢をとる。出火元がどこであるのか確認し、なるべく火災現場から遠い脱出経路を選択する。下に逃げられない時は思いきって駆け上がり、救助を待つことも考えなければならない。気持ちをしっかりと持ち、落ちつかせることで冷静な判断と行動をとることができる。
人が多く集まる場所では、デマによるパニックを防ぐために情報を十分に吟味する。混雑が予想される日曜日のスーパーや百貨店で誰か一人でも勝手な行動をとると、それがパニックの引き金になるだろう。従業員の指示に従う方が安全である。他に人が多く集まる場所としては、映画館・スタジアム・駅などがあるが、いずれも一人一人がまず冷静になることが必要である。
地震に対する精神的な準備も大切である。地震による精神的ショックは想像をはるかに超えるもので、老若男女にさまざまな心身症状をもたらす。主に地震でショックを受けやすいタイプは、神経過敏な人、甘やかされて育った人、社会的経験が浅い人、生活が平凡で単調な人と言われ、不意の状況に対する心構えで差が出てくる。
個人個人がシミュレーションを行い、様々な状況を想定し、どういう行動をとるべきかを考え、家族の中での自分の役割を認識することが大事である。
2005年4月25日(月)午前9時18分頃福知山線の両連結の快速電車がカーブで脱線して線路脇のマンションに突っ込み、107名が死亡、555が負傷するという大事故となった。日本集団災害医学会では、事故発生後早期からこの事故対応に対する特別調査委員会を組織し、医療対応の検証作業を行うことにした。
この大事故について以下の 1.〜 9.について医学的検地からの検証と実態調査を行った。
医療救護活動の特徴
(1)事故現場と周辺医療機関のサポートに20の医療チームは参集した。
JR福知山線事故は阪神・淡路大震災の教訓から得られた様々な対策あるいは制度がその成果を発揮して避けられる外傷死を防ぐことができたものと思われるが、上記の特筆すべき事柄も、事故発生が月曜日の午前9時頃であらゆる組織にとって活動しやすい時間帯であったことや、交通の便が比較的良好で多数の医療機関が存在する都会で発生したという不幸中の幸いという面であったことは否定できない。しかしながら以下の諸点も明らかになり今後改善すべき課題として残っている。
JR福知山線の事故は人為災害の最たるものである。この種の災害は防ぐことができるはずのもので、経済効率や便利さの追求という我々人間のあくなき欲望がもたらした結果であるともいえる。しかし人間はこのような欲望を捨て去ることはできず、残念ながら違う場所で異なる人為災害が繰り返されるに違いない。また地震、台風や洪水などの自然災害を完全に予知し予防することは不可能である。それらの被害が最小限のものになるようにと願いをこめて、またこの事故で犠牲になった方々への冥福を祈りつつ稿を終える。
■搬送は大事故災害における医療支援の第三段階である。
搬送は大事故災害における医療支援の第三段階である。トリアージ、治療の決定いかんで搬送内容も変わってくる。搬送順位および搬送方法はそれまでの段階の決定によってほとんど決まってしまう。
医療支援の段階構造
保健医療サービスの指揮統制における最重要任務のひとつは、可能な限り円滑かつ効率よく傷病者を搬送するように努めることである。そのためには、現場および後方の両者で搬送体制に細心の注意を払わなければならない。治療エリアと搬送エリアの構成は、搬送方法に関する決定と同じくらいにきわめて重要な要素である。また、限られた資源で最大の効果をあげるためには、搬送担当官は搬送方法や搬送順位に関して柔軟に対処することができなければならない。
■救急車の周回路と傷病者の流れの両面から体制を整備することが、搬送活動の円滑化を図る上できわめて重要である。
救急車は(場合によっては他の車両も)さまざまな場所から現場に出動してくる。外側警戒線に到着すると、災害交通統制点(ICP)で警察の指示によって救急車駐車場に誘導される。救急車駐車場担当官は救急車収容場担当官からの要請れんらくがあるまでの間、この場所に車両を待機させる。要請があり次第、車両を救急車収容場(通常、現場救護所に隣接する)に進め、割り当てられた負傷者を収容する。救急車収容上担当官は負傷者の状態、搬送中に必要とされる処置および搬送先を説明する。収容場を出発後、救急車は周回路を進んで外側警戒線上にある出口に向かい、ここからそれぞれの搬送先に赴くことになる。このような体制の確立により、収容場での車両の台数と種類を最も効率よく運用することができる。
現場から受入病院までの負傷者の移動をできる限り効率よく行うためには、現場救護所を経由しないで患者を直接移動させる場合もあれば、救命の可能性の最も高い患者が咲きに病院に搬送されるように、他の患者を現場に待機させる場合もある。
■患者の搬送順位はトリアージカテゴリーとその他の要因によって決まる。
個々の患者を現場から搬出する際には、事前に3つの重要な決定が行われる。1番目がトリアージの優先順位、2番目が治療と搬送準備に必要なその他の処置、3番目が搬送先の決定である。
一般に、搬送の優先順位は治療後の優先順位と全く同じものである。現場救護所における優先順位の決定に用いられるトリアージカテゴリーは通常のトリアージの原則に順ずるが、どの患者から搬送すべきかについて厳密な決定を行う際には、その他の基準を考慮に入れる必要がある。(個々の患者に適した搬送方法、車両の収容人数など)
■治療および搬送準備は、安全に搬送するのに必要な範囲内にとどめるべきである。
現場治療の本来の目的は負傷者を病院に安全に搬送し、また、状態が安定しない場合には、病院に到着するまで患者がもちこたえられるように最善の策を講じることである。同じく、搬送準備も患者を安全に搬送するのに必要な処置にとどめるべきである。
■専門病院での治療を要する負傷者は現場から直接専門病院へ搬送すべきである。
医療指揮官は、それぞれの病院に各トリアージ区分の患者を何名搬送するのかを明確にしなければならない。大きな市街地で、搬送先を選択することが可能な場合、専門的な治療のできる医療機関に送る必要がある患者は災害現場で振り分けていくとよい。医療指揮官はどの患者を直接専門病院に搬送すべきかについて指示する必要がある。まれな病状や状況であるほど、適切な専門病院に搬送することがなにより重要となる。
■救急車は搬送能力の主力であるが、状況に応じて、他の車両の使用を要する場合がある。
現場から受入病院までの主たる搬送方法は救急車である。大事故災害のように日常の医療体制のみでは対処が困難な場合には、救急車両は不足状況にあり、他の搬送方法を検討する必要がある。
救急指揮官が搬送の必要性および実現性を評価する際には、3つの重要な要素を検討しなければならない。まず、どのくらいの搬送能力が必要であり、各車両がどの程度の収容能力を有するか。次に、各種車両を何台保有することができるか。最後に、進行中の業務に対して各種車両がどの程度適しているか。この3番目の要素は、速度、安全性、信頼性、装備水準などを評価した上で判断する必要がある。
1885(明治18)年頃 看護婦が組織的に養成。
1891(明治24)年 濃尾大地震
1896(明治29)年 三陸大津波
1923(大正12)年 関東大震災
日赤救護看護婦だけでなく陸海軍病院、公私立病院の看護婦が病院船、国内外の軍病院、東南アジアの戦地に赴いた。沖縄では高等女学校生徒や師範学校生が臨時看護婦となって兵士や住民の看護にあたった。
1995年1月 阪神・淡路大震災
2004年10月 新潟県中越地震
御巣鷹山日航機墜落事故(1985年)や地下鉄サリン事件(1997年)などの大型人為災害についても救護活動が行われた。同時発生で多数の負傷者に対する緊急的対応、目に見えない物質に対する不安、遺体処理という救援に赴いた者にとってもストレスフルな場面での救護活動にならざるを得なかった。そこで救援者の『心のケア』に対しても予防とケアが必要になるという報告がされるようになった。
第二次世界大戦以前
第二次世界大戦後
1960年のコンゴ動乱ははじめとして、赤十字国際委員会(ICRC)の要請に基づいて、日赤は医療救護班を派遣している。難民キャンプや戦傷外科病院で、医師、看護職、レントゲン技師、義肢製作者などが活動した。
東南アジア、アフリカでの自然災害にも世界的な支援が行われ、近年の最たるものは2004年12月末のスマトラ沖地震に伴うインド洋大津波災害である。政府機関として国際緊急救助隊の派遣を始め、日赤の国際救援センターからの医療救援班や、さまざまなNGOの救護団体も緊急支援と復興、さらに開発に向けて貢献している。
経済的に豊かになりライフラインやインフラの復興は早かったが、仮設住宅建設とともに「孤独死」や地域の人間関係のあり方が問題となってきた。長期にわたる経済や福祉の支援とともにコミュニティづくりの被災者の「心のケア」も災害看護の役割として重要視されるようになり、また被災地の医療施設の緊急モードへの切り替えや、応援体制のネットワーク化、防災教育の必要性が明らかにされるようになった。1995年の阪神・淡路大震災直後に開かれた日本看護科学会では災害看護がシンポジウムのテーマになり、1999年には日本災害看護学会が設立されて、災害看護に関する実践が研究されるようになった。
災害発生時の緊急的な行動要領を日常から備えていることや、緊急時の医療や生活の支援はもとより、インフラの復興とリハビリ、静穏期における防災体制づくり、防災や保健医療向上のための教育、政策・制度の整備など、地域住民レベルの活動も、政治的なマクロレベルの活動ももとめられている。また世界でおこる災害に関しては、災害要因に関してグローバルな関心と視野を持って、さらに世界的なネットワーク(国連・赤十字)に寄与できる基礎的な能力を磨くことがわが国の看護職にも求められている。
人類は長い歴史の中で幾度となく災害を体験していた。しかし民間による災害医学として概念化されたのは1968年、A.Pecceiによるとされ、本格的な災害医療としても歴史が浅く、さらには災害医療に包括されるようになったのは1980年以降である。
わが国においては、1995年の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件を契機に災害看護への関心が深まってきた。また急性ストレス障害や心的外傷後ストレス障害に関する知識についてもクローズアップされてきた。
災害医療とは災害時における被災者の救護と保健医療サービスをいう。注意すべき点は、災害急性期の救急医療だけではなく、その後の心のケアなどを含む広範な医療サービスであることである。ここでは心のケアに重点をおき、急性期の医療についてはトリア−ジの注意点についてのみ言及する。
急性期の医療において最も重要な概念は「最大多数への最大善」であり、トリア−ジはそれを目的に行われるべきである。阪神・淡路大震災において、患者の死を受け入れられず泣き叫ぶ家族に対して医療従事者が行った対応として、致し方なく二次救命処置を行ったケースがあった。この対応は医療従事者に役割不全感を残す可能性がある。この場合、救命処置よりも大切なことは痛みを和らげ、友人や家族と一緒にいる時間をつくることである、と筆者は述べている。
次にメンタルヘルスについてであるが、B.W.Flynnは現在実践されている幾つかの重要なカウンセリングの特徴を以下のように述べている。
しかし、いまだ心理的な介入に関する研究は不十分であり、今後、被災者の回復や復興も大きく影響するということを前提とし、災害時の対策や対応の在り方を全体的にとらえながら、適切な看護介入を見出し構築して行かなければならないと、著者はいう。
JR福知山線脱線事故
(鵜飼卓ほか、EMERGENCY CARE 19: 383-388, 2006)
(プレホスピタルケア・病院調査・被災患者調査)
(2)災害現場で医療チームと救急隊が協力したトリアージと現場応急処置を行った。
(3)消防と警察の救助や救急搬送における協力が比較的円滑に行われた。
(4)現場付近の企業を中心とした一般市民による救助活動が活発に行われた。
(5)兵庫県と隣接県である大阪府の基幹災害拠点病院との連帯が素早く行われた。
(6)消防の相互応援協定や消防緊急援助隊制度が機能して応援参集が早かった。
(7)10名の重症ないし中等症の負傷者がヘリコプター搬送された。
(8)大阪府下への重傷者の選別搬送も含めて転院搬送が比較的円滑に行われた。
(9)多数傷病者が集中した病院への他病院からの支援チームが有用であった。
(10)CSMが行われ、少なくとも2名の生命を救った。
(11)現場で黒タッグの犠牲者はまったく医療機関に搬送されず、病院の混乱を防いだ。
(12)遺体はすべて法医学の専門家により死体検案が行われた。12章 搬送
(小栗顕二ほか・監訳:大事故災害への医療対応、東京、永井書店、2005、p.127-134)
トリアージTriage → 治療Treatment → 搬送Transport 災害看護の歴史
(山本捷子、インターナショナルナーシングレビュー 28: 24-27, 2005)
大阪医科大学病院や京都の同志社病院・東京の慈恵医院・日本赤十字社病院から、多くの医師や看護婦が救護に赴く。
被災地の病院や東京の日赤病院から多くの救護班が出動。
全国から急ぎ救援活動が始まり、数日後から医薬品、食糧などが送られてきた。またアメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダ・インド等など各国からも人材・医薬品・食糧・物資など援助が行われた。その際に巡回診療を行った病院や恩腸財団済生会などの医療団体はその後も訪問看護を行った。中央保健所が設けられ、また日赤が社会看護婦の教育を始めるなど、震災後の看護活動は地域保健の契機となった。
災害発生直後の被災者の救出・救援の迅速な対応へのネットワークが構築。反省点はあったもののメディアによる情報通信の価値も見直された。膨大なボランティアも生み出され、災害時になくてはならない存在として注目を浴びた。また被災直後の避難所の巡回看護だけでなく長期にわたる被災者の仮設・復興住宅での生活への訪問支援、心理的ケアも継続して行われるようになった。
医療救護だけでなく『こころのケア』チームも積極的に行動をはじめた。
トルコ軍艦の紀州沖沈没事故(1890年)と、第一次世界大戦中の欧州(イギリス・フランス・ロシア)の医療救護に日赤病院の医師と救護看護婦が派遣されている。
難民・避難民の救護のために、国連機関とNGOである赤十字社や他のボランティア団体が協働して救援活動を展開している。心のケアの実際 災害時の対応
(石井美恵子、EMERGENCY CARE 2005夏季増刊 245-257, 2005.07)
時には指示的に、つまり強く誘導することも必要である。
例えば家が倒壊した場合、政府や銀行などを交渉が必要になる場合がある。そのときに仕事の優先順位が決められるように援助し、ストレスを軽減させるべきである。
人はしばしば現実的に可能な範囲よりも早急で完全な復旧を期待する。これを現実的なものにする。
精神保健の専門家、健康問題の専門家などの紹介システムの確立
被災者を待つのではなく、積極的に組織的に行われるべき
例えばプライマリケア医への教育は重要である。情報を大衆へ向けることは不可欠。