神戸市立中央市民病院/神戸赤十字病院

立道 清、伊藤康夫:立道 清・編、検証 そのとき医師たちになにができたか、清文 社、大阪、1996、p.71-83


神戸市立中央市民病院(救急部長 立道 清)

 大震災に遭遇し、自らもライフラインを絶たれるという予想だにしなかった状況において、神戸市唯 一の救命救急センターがどう動き、その責任者として何を考えたかをまとめる。

病院に到着するまで

 我々が病院のあるポートアイランドに到着したのは午後の三時、震災の発生以来九時間後のことで あった。車で家から病院まで約10km、普段なら車で15~20分の距離であるが、一キロメートルも行か ないうちに渋滞で進まなくなり、仕方なく引き換えして、隣家のマウンテンバイクを借りて再出発し ようやく三時に到着したのである。前日からの当直の十六名の医師ではじめ、ポートアイランド内に 住む研修医十名あまりが加わり総勢30名ほどで主として家具などによる打撲、創傷の治療を行った。

残された病院機能

 病院の機能上最大の問題は重症患者の治療の継続で、人工呼吸器の作動、IABP(循環補助装置)など の装置が働くこと、モニター類、微量点滴の機能が保てることである。震災発声時に十六例の人工呼 吸器使用があったが圧縮空気の使用不能により、直ちに用手バッグ押しによる人工呼吸に切り替え た。最長59時間のバック押しで切り抜けた症例が2例あり、医師、ナース、家族であたり、全員生存 しえたのは不幸中の幸いであった。

外部よりの要請

 病院ライフラインの完全復旧は、二月二十日までかかったが、個々の故障部位は時間単位で改善し ていた。しかし、次第にクローズアップされてきたのがアクセスの問題であった。病院機能は刻々と 回復していったのに対し、橋を渡って送られてくる患者はあまりにも少なかった。一月二十一日から の通行制限緩和とともに交通渋滞は日ごとに悪化し、救急車すら島に入るのに二時間、往復に4-5時間 を要するため、病院への患者搬送は事実上出来なくなっていた。

結論として

 今回の大震災時に、神戸市立中央市民病院救命救急センターは自らのライフラインを絶たれ、患者 搬入のアクセスを絶たれた。この空白はどうすることもできない負い目として残る。この負い目は災 害医療の具体的対策と心構えをもたなかったことによるものであり、日本の災害医療全体の負い目で あると考える。

神戸赤十字病院(整形外科部長 伊藤康夫)

 今回の阪神大震災は広域都市直下型であり、このような状況下では、当然医療機関も機能低下を来た し、有効な災害医療が展開できない。今回我々は有効な災害医療活動はいかにあるべきかを検証する 目的で、当院における阪神大震災時の医療活動の経験をふまえ、今後の災害医療への提言について報 告する。

当院の被災ならびに復旧状況

 当院は幸いにも建物は倒壊を免れたが、ライフラインは直後より中断した。電気は発災直後、空冷 式自家発電装置が作動し、午前11時30分に復旧した。水道は一週間後に、ガスは3月1日に復旧 した。医療機器では、単純エックス線撮影装置、自動現像器、血液ガス分析装置、血球計算器、電解 質測定器は地震発生直後より使用可能で、4日目より生化学検査も可能となった。

マンパワーの結集

 当院の職員の住居の全・半壊は29%に達し、当日出勤できた職員は62%であった。大量にかつ一 度に搬送される救急患者の対応を行うには、マンパワーの確保は重要課題である。震災当日の午後に は、全国の赤十字病院より20班を越える救護班が当院に隣接する赤十字県支部に到着し、当院での災 害医療と、救護所の開設にあたった。

災害医療内容

 受診患者を内科系、外科系に分けて経時的な変化を見ると、震災後3日目までは震災を直接原因とす る外傷患者が多数を占めたが、4日目より呼吸器感染症を主体とした内科系患者が増加し、外科系患者 数を上回った。また、震災後1週間ごろより、道路・交通事情の悪化による交通事故、2週間ごろより 復旧作業にともなう労災事故の割合が増加した。

転送の概要

 被災地中心にて災害医療を行うにあたり、後方支援病院との協力のもと患者を転送することはきわ めて重要である。当院は救急患者の治療と200%以上の病床可動の改善、また集中治療、透析、手 術、リハビリテーションの目的で、129名を49病院へ転送した。

考察

 災害医療では時間とともにニーズは変化し、その時期に即した医療が行われるべきであり、その中 でも初動の医療活動が最も問題となる。当院が被災地中央にて機能できた大きな要因としては、震災 当日より迅速な人員、物資の後方支援があったからである。今回の震災での患者数は、被災地域に よって差はあるが、平時の病院の機能や規模とはあまり関係なく、このことは、同時に多元多発した 患者群が、何の医療情報も無く近隣の病院に殺到したことを物語っている。また、後方支援体制の有 無により、被災地外からのマンパワーの確保は病院間で一両でなく、かつまた、被災地区内に残存す る余剰の医療マンパワーの有効利用さえも、震災初期においてはなされていなかった。これらは、医 療情報が混乱、途絶していたためで、これらを管理統合し、現地又は周辺地域に指令を発する機能を 持った施設、ならびに医師が存在しなかったことによると思われる。

提言

  1. 多元多発する多数の患者群に対しては一極集中の体制では災害医療は行えず、病院群は多極 分散型のネットワークを形成することが望ましい。

  2. また混乱する情報を統合しかつ指令を行う権限を持ったコーディネーターとしての医師の存 在ならびに拠点病院が必要である。

  3. また、これらを円滑、迅速に遂行するには、被災地外からの支援は必要欠くべからざるもの で公的機関、民間団体の枠を超えたより広域の支援体制が重要である。


災害の種類別疾病構造 その時必要とされる看護は何か

松下聖子:インターナショナルナーシングレビュー 28: 39-44, 2005


 災害の種類を自然災害・人為災害・特殊災害に整理し、主に自然災害と人為災害について、災害発 生時および中・長期的な健康障害の特徴とその時必要な看護を事例を通して述べる。自然災害は、広 域的に発生し、ライフラインの途絶や医療機関の麻痺が起こる。人為的災害は、局地的に発生するた め医療機関は正常に機能している。特殊災害は、人為的災害が広域的に発生したものである。

自然災害

I. 地震

 地震災害の特徴は、1)建物倒壊や道路の破壊によるもの、2)火災によるもの、3)津波に よるものがある。

  1. 阪神淡路大震災(1995/1/17)

     阪神・淡路大震災では、倒壊家屋や家具の下敷きになったことが死因の60%以上を占めた。家屋 倒壊により、頭部・胸部・腹部外傷、内臓損傷、窒息死があった。負傷者の多くは、四肢の骨折、捻 挫、打撲、切創などであった。

     特に挫滅症候群(クラッシュ・シンドローム)や心的外傷後ストレス障害(PTSD)は、阪神・淡路 大震災の特徴的な疾患である。本疾患は、救出された時、バイタルサインが安定し、外表所見が少な いので見逃されやすいため、疾患について十分認識し、被災者の救出時の状況をよく把握して対応す ることが求められる。PTSDは、急性ストレス障害との違いを理解し、被災者の安心感の確立や共感な ど早期介入が必要である。

     また本災害では、コミュニティが崩壊し、失業などから被災者の生活の建て直しは厳しく、アル コール依存や孤独死もあった。訪問サービスなどを通した長期的な被災者、特に高齢者への支援が大 切である。

  2. 新潟県中越地震 (2004/10/23)

     本災害の特徴的な死因は、車中泊によるエコノミー症候群であった。水分を十分取り、同一体位を 避け、適度な運動を行うことが必要である。

  3. 北海道南西沖地震 (1993/7/12)

     地震発生後、津波が襲来したため多くの人が溺死で犠牲となり、家屋は全壊、流出した。死亡や負 傷の原因は、溺水、漂流物との衝突による頭部外傷、脊髄損傷、内臓破裂、全身打撲、擦過傷、切創 などである。特に創の汚染はより高度となるため、創処置に関しては、感染に十分配慮することが必 要である。砂を含む痰を出したり、発熱する人がいたら重症肺炎や気管支炎を発症している場合があ る。

II. 風水害

 日本の風水害の特徴は、年に7〜8個の台風が上陸することである。

  1. 東海集中豪雨 (2000/9/12)

     水害では、特に創の汚染がより高度となる。そのため、避難所では簡単な処置であっても、診療所 での再診の際は、再度傷口を開き肉芽の増殖を促し、開放創に対しては破傷風の予防接種を全員に 行った。この他にも眼の痛みや咳等の呼吸器感染症状を訴える患者も多く、中には1年近く咳症状に悩 まされたものもいた。これは、水が引いた後に泥が乾燥し埃となって舞い上がる中、家屋の後始末等 を行ったためである。これに対してはうがい、手洗いの指導が必要である。

  2. 沖縄県渡名喜島「台風16号」(2001/9/6)

     台風の怖さを十分知っている島民にとっても、耳鳴りがするほどの気圧の変化、冠水していく島の 中で3日間も停電と断水の中で過ごすことは不安と恐怖の体験であり、被災後、無気力やうつ傾向のあ る被災者への精神的ケアが必要となった。また、高齢者が多く、殆どの人が何らかの薬を内服してい たため、薬の再処方が必要となった。

  3. 2004年台風23号(2004/10/13)

     傷病の特徴は暴風による落下物との衝突や、身体が飛ばされることによる機械的損傷が多く、擦過 症や切断創、挫創・骨折もある。

III. 火山噴火

 限局された場所で発生し予期ができるため避難が可能となる。但し、火山性ガスの 発生が長期化することにより住民の生活環境は変化してしまう。被害の原因は、他に噴火時の降灰・ 泥流・噴煙噴石・火砕流などがある。そのため、熱傷、高温ガス吸入による気道熱傷、降灰吸入によ る呼吸障害が主な疾患である。

    雲仙普賢岳火砕流災害(1991/6/3)

     火砕流による傷病は、広範囲な熱傷と気道熱傷、咽頭浮腫である。気道熱傷では口腔内に灰の付着や 損傷がひどく、気管内挿管が困難で気管切開を施行することもある。有毒ガス吸入後は咽頭浮腫から 気道狭窄、窒息へと移行する。

    有珠山噴火(2000/3/31)

     死傷者は発生しなかったが、災害発生と同時に集団での避難生活が強いられる場合、生活支援に伴 う看護ケアが求められる。高齢者・乳幼児・食事療法中の人への食事の配慮、身体状況に応じた排泄 援助、照明による睡眠問題、プライバシー確保などの問題がある。

人為災害

I. 列車事故(東京都営団鉄道列車脱線事故)(2000/3/8)

 ガラスの破片で顔や首に怪我をした人が多く車内は血まみれになり、衝突直後パニック状態となり2 次災害の可能性もあった。

II. 大火災(新宿歌舞伎町明星ビル爆発火災)(2001/9/1)

 搬送患者の94%はすでに死亡している状態で死後硬直がすでに始まっていた。医療機関に多くのマ スコミが殺到し、マスコミの対応に苦慮した。

III. 大規模事故(明石市花火大会・歩道橋事故)(2001/7/21)

 主な死因は圧迫による窒息死。負傷状況は、骨折、打撲、挫傷、圧迫、過換気症候群、熱中症、脱 水などであった。対応に当たった看護師は子どもをなくした家族への看護の難しさや日頃の看護とは 違った様相に、衝撃、葛藤を体験していた。

まとめ

 災害とは、それまで持っていた対処法では、対応できなくなってしまう出来事である。健康生活と社 会生活に大きな影響を与える。そのため被災地は、多くの支援を必要とする。支援することで、健康 障害をおこさないためにも、休憩を取る、水分を取る、滑動の報告をするなど、支援者の健康管理に は十分な配慮が必要である。また、各施設から支援にいく場合には、自分の支援中に職場を守ってい る仲間の存在を忘れてはいけない。

 災害看護の目的は、1)限られた条件下の中で一人でも多くの命を救うこと、2)集団感染症を発生させ ないこと、3)PTSDを発症させないことである。そのためには、それぞれの災害状況を十分理解し、災 害発生直後から長期的に被災者と関わり、その災害を忘れないことが大切である。


保健医療関係機関における活動

生物化学テロ災害対処研究会:必携―生物化学テロ対処ハンドブック、診断と治療社、東京、 2003、p.204-211


化学テロに対する活動

 化学テロは特定の地域で人々に健康被害をひき起すことを目的として様々な化学物質をいろいろな 手段により撒布することにより行われる。化学テロに対する主たる対処は被災者の救助・救急搬送 と救急医療の提供・原因物質の特定・ならびに除染である。化学テロ発生現場では消防警察が中心 となり活動をするので、保険医療関係機関の活動は主として医療機関へ搬送された被災者への医療 の提供や、原因物質の特定に関して医療機関から必要な検体を提供すること、必要に応じて地方衛 生研究所が分析の一部を担当することなどである。

化学テロ被災者への医療提供

1)広域災害・救急医療情報システム

 広域災害・救急医療情報システムは都道府県がその全域を対象として整備しインターネットによっ て全国的な情報の共有化を図るもので、円滑な連携体制の下に救急患者の医療を確保するものであ る。化学テロ発生の情報があると厚生労働省あるいは被災都道府県において広域災害・救急医療情 報システムを通常モードから災害モードへ変更し、全国の救急医療施設および関係者へ一斉通報が なされる。被災地域および周辺地域の救急医療機関が診療の可否、受け入れ可能患者数を入力する ことで、被災者の搬送を担当する消防は適切な搬送を行ったり、医療材料等に関する地域間調整が 出来るようになる。

2)救急医療体制

 救急医療機関として、初期・二次・三次医療機関がある。化学テロの被災者への医療を提供する三 次救急担当の救急医療センターには毒劇物分析器(ガスクロマトグラフィー)を整備している他、 化学防護服、除染設備、毒劇物検査キットを配備している。

3)災害拠点病院

 災害拠点病院は災害発生時の医療を確保することを目的として都道府県が整備するので災害医療支 援機能〈1)多発外傷、挫滅症候群、広範囲熱傷等の災害時に多発する重篤救急患者の救命医療を行 うための高度診療機能、2)患者などの受け入れおよび搬出を行う広域搬送への対応機能、3)自己完結型 の医療救護チームの派遣機能C地域の医療機関への応急用資機材の貸し出し機能〉を有し、二十四 時間対応可能な緊急体性を持つ。平成十五年三月三十一日現在での指定状況は533病院である。化学 テロ発生時には災害拠点病院は、救命救急センターをバックアップすることにより機能する。

生物テロに対する活動

 生物テロは天然痘ウィルスや炭疽菌といった感染性を有する病原体あるいはボツリヌス毒素のよう に微生物が産生する物質を使用することにより人に感染症あるいは中毒等の健康被害を生じさせる ものである。保険医療関係機関としての生物テロへの対処としては被災者の健康被害の救済と天然 痘など人から人に感染するものについてはその蔓延防止である。

特に留意すべき感染症

 生物テロには、感染性が高く、症状が重篤でテロの対象者が免疫を有しておらず、使用が容易な病 原体等が使われる可能性が高い。米国疾病管理センター(CDC)では特に危険性が高く対策を立てる必 要があるものをカテゴリーAとし、天然痘・炭疽・ペスト・ボツリヌス症・野兎病・ウィルス性出血 熱が含まれる。

状況レベルの想定と各状況レベルの対応

 厚生科学審議会感染症分科会感染症部会による報告書では、発生時に迅速かつ適切に対応できるよ う状況レベルと、それぞれの状況での対応が提案されている。

レベルI〔平静時〕

レベルII〔蓋然性上昇時〕

レベルIII〔国内発生時〕

事前対応の考え方

 生物テロの最も重要な被害拡大防止策は、早期把握とその確認である。特に以下の事項について準 備しておくべきである。

1)生物テロ発生の迅速な把握

 現在感染症法上で対症疾患となる感染症は、確定診断が行われた段階での報告が法的に義務付けら れている。

2)法律に基づく対応

  1. 感染症法

     平成十五年十月の感染症法改正により天然痘が一類感染症に追加されたことから、天然痘テロに対 して規定された措置等をとり迅速に行うことが可能となった。

  2. 予防接種法

     天然痘については、感染症予防にワクチンが有効である。

3)必要とされる医薬品の確保、供給

 生物テロに使用される恐れのある感染症などの有効なワクチンや治療薬などの確保と適切な供給が 重要である。現在、天然痘ワクチンは国が備蓄しており、またその他の治療薬は市場に流通してい る医薬品を活用することにより対応が可能であると考えられている。

4)医療の提供

 生物テロによる感染者に対しては、全身管理、合併症の予防、集中治療による重傷者の救命をはじ め、的確な治療を行う必要がある。天然痘およびペストは感染症法上の一類感染症であり、患者は 感染防止設備の整備された第一種感染症指定医療機関に入院することになっている。


災害をうまく乗り切るための知識(上)

林 春男:武蔵野赤十字病院、病院防災の指針、日総研出版、1995、p.89-100)


 災害とは、異常な自然現象や人為的原因によって、人間の社会生活や人命に受ける被害と定義されて いる。一過性の災害や被害の程度が軽い場合には、被災者は生活を災害の発生以前の状態へ復旧させ ようとする傾向が強いが、災害が長期間にわたって持続する場合や重大な被害を受けた場合は、人々 は復旧をあきらめて新しい生活の確立を目指すようになる。

 防災の水準が上がるにつれて、従来ならひどい被害が出た災害でも大きな被害にならないようにな る。そうなると人々が災害を軽視してしまい、何の蓄えもしなくなりその地域の災害に対する抵抗力 は弱まってしまう。防災とは自分のことは自分で守るという自助原則であることが忘れられてしま い、人々が防災を軽視する危険性があることにも注意すべきである。

 発生した災害に対して人間がどのように対応するかを、その際に起こりうる危険性から検討してみ る。図中の二重線で囲まれた部分は個人内の過程をあらわしている。環境側の力の変化に対して、個 人はまずそれがどのような変化であるのかについての状況認識を持とうとする。次にそこでなされた 状況認識に対して対応行動が選択される。また、災害の状況は時々刻々と変化するため、時間の推移 に伴って状況認識と行動を修正する必要がある。

 以上のべた災害時の人間行動には、無覚知行動、心理パニック、集合パニック、および状況の変化 と人間行動とのタイミングのずれ、という4種類の危険性が潜んでいる。

 無覚知行動とは、災害が発生したことを知らないままに行動する危険性のことである。覚知とは消 防で重要な意味を持っており、火災発生時刻とは物理現象として火災が発生した時刻であり、火災覚 知時刻とは人々が火災に気づいた時刻のことである。火災発生から火災覚知までの時間が短縮できれ ば、余裕を持って避難でき、火災を初期消火できる可能性が高まる。また覚知が遅れるほど、救助隊 の構成や出動が遅くなり、被災者の生存率が低下する。

 心理パニックとは、危険であることを正しく認識していながら効果的な対応行動をもてない状態であ る。心理学の分野でパニックと呼ぶとき通常この心理パニックを指している。集合パニックは防災関 係者が最も危惧する社会的混乱の発生に関する危険性である。

 集合パニックはこれまでの無覚知行動や心理パニックと違って個人の中には何も問題点はない。個々 人が適切な対応をしていても、それが同時に多発し、環境側のサービス提供能力を超えるような行動 の集中が起きた場合、社会的混乱が発生する。これまでの災害研究の結果、集団パニックが起きやす い行動として、避難の際の行動、銀行預金の引き出し、ものの買占め、そして電話の異常輻輳の4種類 が挙げられている。

 最後の危険性は、ある時点で最良の対応行動がなされたにもかかわらず、その後に発生した状況の変 化を正しく認識できなかったため、状況の変化と人間行動とにタイミングのずれが生じるというもの である。

 以上に挙げた危険性を低減していくことが防災であり、災害をうまく切り抜けることにつながる。無 覚知行動の危険性を減らす方策は、災害を体験した人が今何が起きているかを正確に認識できるよう にすることである。そのために、認識の枠組みとなる知識体系を災害が発生する以前から人々の間に 広めておくことが重要である。例えば、学校での授業や地域の講演会、あるいはマスコミなどを通し て、災害時にはどのようなことがおきるか、何が危険を知らせる徴候かなど具体的な知識を人々に共 有させておく。

 心理パニックが原因となる危険性を減らすためには、個人が持つ対応行動のレパートリーを広げてお く。そのためには擬似的な体験を提供してくれる防災訓練が有効である。

 集合パニックによる危険性を低減するためには、環境の処理能力を超えるような行動の過度の集中を 避ける。そのためには、環境の処理能力の向上、いわゆる施設の拡充整備が重要である。また行動集 中を避けるために人々の行動を分散させる。たとえば現在企業が採用しているフレックスタイム制度 は朝の混雑を解消するために人々の行動を時間的に分散させている。

 状況の変化と人間行動とのタイミングのずれを解消するためには、時々刻々変わる災害状況を人々が リアルタイムで周知できるような情報システムの構築が課題となっている。テレビやラジオを中心と する放送媒体、活字媒体である新聞、双方向でのコミュニケーションである電話などの媒体がある。 そこで大切なことは様々なコミュニケーション媒体を有効に組み合わせて、災害発生からどの段階で どのような情報を被災者あるいは周辺地域の人々に提供していくかである。


災害をうまく乗り切るための知識(下)

林 春男:武蔵野赤十字病院、病院防災の指針、日総研出版、1995、p.100-106)


■4、災害の時間経過に応じて必要となる情報

 災害は人々の日常生活を中断させるような急激で大きな環境側の状況変化であり、大規模な災害の 発生により人々を取り巻く力の関係は大きく変化する。災害により生じた力の不均衡を取り除き元に 戻すか、あるいは新しい均衡を求めていくかは人により異なるが、いずれにせよ従来の日常生活とは 異なる不安定な生活を送る必要があり、人々は通常持っていた生活上のニーズに変化を生じさせた り、新たなニーズを発生させたりする。このような人々のニーズの変化は災害発生後の社会の変化と 関連しており、時間的経過に応じて変化していく。この変化は秒・分、時、日、週、月、年という異 なる時間単位で分類することができる。

(1)秒・分の問題―生命の安全の確保

 秒・分単位では、揺れている時に落下物から身を守る、火の始末をする、津波から避難するな どの極めて緊急性の高い問題が含まれる。いずれも「生命の安全」を守り、二次災害を防ぐことに関 係した問題である。

 それらに応じて、地震後に津波警報の発令をできるだけ早く確実に伝達できるよう伝達体制の 整備が進められたり、また二次災害の防止として地震動を感知して必要な緊急措置を講ずるシステム が開発されたりした。他にも配水池を一ヶ所に2池ずつ設置し、一方に緊急遮断弁をつけ水の確保を行 う対策をとっている。

 こうした状況では災害の発生やその位置・規模といった災害の原因に関する情報が重要とな る。津波の場合、津波警報を人々に早く確実に伝達するにはどうすればよいかという問題が生じ、ま た、「海辺で大地震が起きたらすぐ高台へ避難する」と自分自身で判断し行動できるように、災害に 関する人々の理解を日常生活の中で高めるにはどうすればよいか、という問題も生じる。

(2)時間の問題―心理的安心の確保

 自分の生命の安全が確保された後、人々は自分のアイデンティティを確保することを求める (ここでいうアイデンティティとは家族がいることで自分は「父」であったり、「夫」であったりす ることをさす)。つまり災害直後に人々は家族の安否を確認する行動を一斉にとり始める。

 現代では職住分離が当たり前であり、家族がバラバラの状態で災害が発生する危険性が高い。 これは家族や自宅の安否がすぐには確認できにくい状況であり、災害が発生すると安否確認のため近 い距離なら帰宅し、遠ければ電話で安否確認をすることになる。これは災害の発生によって生じる新 たな住民ニーズである。結果、ターミナル駅に群集が集中し、道路が渋滞する。また、電話の異常輻 輳もみられる。つまり、家族や自宅などの安否を確認したいという情報ニーズの発生が交通の混乱、 電話の輻輳などを引き起こしている。これらのニーズの発生そのものはごく自然なことであり、これ を否定するのではなく、それをどのような形で満足させていけるかが防災対策の上で重要となってく る。都市部ではこの情報ニーズの充足をマスコミに頼らざるを得ず、テレビ・ラジオ・新聞・号外・ 広報車・電話・無線などの様々な情報メディアが果たすべき役割とその相互関連性について検討して いくことが大切である。

(3)日の問題――生活の復旧

 家族の安否、自宅の被害程度、仕事上の影響が把握できた後、被災者が取り組むことは日常生 活ができるようにすることである。この期間は人々の生活に必要なものをどのように提供するかが重 要な問題となる。仮設住宅の建築が始まったり、ライフラインの復旧工事が本格化したりする時期で もある。特に生きていくのに不可欠な水は、給水車による応急給水がなされるのが普通である。ガス に関しては過去の地震ではカセットコンロが支給されたりした。こうした状況の中で被災者は復旧に 関する情報不足への不満が高くなっている。これは復旧過程についての情報ニーズが高まっているこ とを示唆しており、関係機関に対する問い合わせや苦情がこの期間に増加する傾向がみられる。この 情報ニーズを地域内でいかに満足させるかが重要となってくる。

(4)週の問題――生活の再建

 一応日常生活が支障なく送れるようになった段階で、どれだけの災害を受けたのかその全貌を 把握し、今後の措置を考えていく必要が生じてくる。この段階では、被害は全て金銭により換算さ れ、対応策も金銭で表現される。これからは損失をどのように返済していくかという経済力が問題と なってくる。同じ被害でも経済力が豊かな人と乏しい人では、被害の重さが変わってきて不公平感が 生じる。それまで心を一つにがんばってきた被災者たちがバラバラになっていく時期でもある。

 被災者の受けた物的な損害には、見舞金、保険金、緊急融資、各種の減免措置などいくつかの 経済的な援助措置が用意されているが、これらの金額はどの場合でも対象物の被災物判定結果を基準 にして決定される。恐らくはそれ以外に公平性を確保できる手段がないからだと考えられる。そのた めこの時期は、家屋被害の被災度判定に被災者の関心が集中する。公平性を確保できるような客観的 な被災度判定の方法は重要であり、被災者に納得してもらえることが重要となる。

(5)月の問題――人生の再建

 災害は身体や財産だけでなく被災者の心にも大きな傷跡を残す。特にかけがえのない人やもの を失った人の心は深く傷つき、その状態はトラウマ(Trauma)と呼ばれる。彼らの心理状態はPTSD (post traumatic stress disorder)としてとらえられており、1)災害の光景が忘れられない、2)何 事にも無関心でいようとする、3)過度の生理的緊張状態が持続するという3種類の体験を持ちがちだと されている。

 1)の原因として、災害の光景が心に浮かんだり、夢に見たりするなど、トラウマの原因となった出来 事を繰り返し体験しているからだと解釈されている。2)では、トラウマを思い出させるような物事を できるだけ避けようとし、さらに何事に対しても心を閉ざすようにしている。結果、他人との付き合 いが表面的になったり、遠い将来を考えようとしなくなったりする。3)では結果として、寝つけな い・すぐ眼が覚めるなどの睡眠障害、イライラする、集中できないなどの心理的反応が引き起こされ る。

 災害の体験がトラウマ的であればあるほど、被災者はこれらの心理的・行動的な変化を体験す るといわれている。しかもこれらの症状を示す時期と示さない時期が交互に訪れたり、症状が出揃う のにしばらく時間がかかったり、これらの症状から開放されるには10ヶ月から2年ほどの時間が必要と いわれている。被災者が自分の悩みを自分特有のものと感じ、誰にも打ち明けないでいると精神的健 康が失われることになる。それを防ぐには、災害後の被災者が持つ心理的・行動的体験を被災者に伝 える必要がある。

表.災害発生から時間的経過によるニーズと行動の変化と防災上の問題点

局面人々のニーズ対応行動防災上の問題点
秒・分生命の安全の確保
(身体的安全)
避難行動
(火の始末、安全確保、
津波避難)
警報の伝達
緊急措置
 緊急遮断/停止
アイデンティティの確保
(心理的安心)
安否確認  帰宅、電話 交通網の混乱
 道路の応急復旧
 停電の解消
 電話の輻輳
生活の復旧
(心理的満足)
生活支障の克服
 被害の後片づけ
埋設管施設の復旧
 (断水/ガス)
仮設住宅の提供
生活物資の確保
物流の確保
生活の再建
(経済的負担)
被害状況把握
損害保険請求
減免措置請求
被災者への援助
 罹災証明請求
 資金援助
人生の再建PTSD精神的サポート
災害文化の育成体験の教訓・風化 記念碑/記念事業
記念出版物
防災訓練


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