災害医学・抄読会 2005/10/21

医療システムに対するサイバーテロ

(芦田 廣ほか:日本集団災害医学会誌 9: 1-9, 2005)


1.サイバーテロとは

 近年、テロへの恐怖と対策が叫ばれるようになり、NBC(Nuclear Biological Chemical) テロと共に、コンピューターとコンピューターネットワークに対するテロであるサイ バーテロが注目を集めている。サイバーテロは直接生命を脅かすものではないが、高 度にITに依存している先進国では、日常生活に甚大な影響を及ぼす恐れがある。日本 でもコンピューターウイルスの被害は少なからず存在し、医療システムが診療業務が 停止した事例はあるが、今のところ明確に医療機関を狙ったものはなく、大規模な被 害が発生するには至っていない。

2.医療システムは危うい

 多くの医療者は医療機関へのサイバーテロは人命に関わるとの認識があるにも関わ らず、その対策は多くの一般企業と比較しても非常に遅れており、病院内には第三者 が侵入しやすく病院内からの攻撃も起こりうるという点も意識されておらず、危機意 識は希薄である。

3.サイバーテロの内容

1)患者データに対する攻撃

 遺伝子情報や疾病情報などのデータの窃盗、公開、それを用いた脅しなどが考えら れる。またデータをもとにした医学・生物学的な攻撃(アレルゲンに曝露しアナフィ ラキシーを発症させるなど)も考えられる。また、データの改竄も、直接患者の生命 に関わる攻撃であり、重大な結果を招くと考えられる。

2)情報システム本体への攻撃

 近年の医療システムはネットワークに対する依存が強まっており、そうしたシス テム本体への攻撃は大規模・不特定多数に対する攻撃となり、深刻な結果を招く可能 性がある。

4.対処の方法

 第一の対策は予防であり、最低限のサイバーセキュリティー対策や、情報の漏洩、 窃盗、改竄を防ぐための対策(生体認証の導入、サーバ室の入退室管理など)を導入 するべきである。また、攻撃を想定した緊急マニュアルの作成なども重要であり、患 者の動揺を防ぐための対策も必要である。しかし、最大の対策は医療関係者の意識改 革である。

5.考察

 医療システムへのサイバーテロは現実には起こりにくいとの見解もあるが、現状 を分析すると必ずしもそうは言えない。医療システムへのネットワーク導入の頻度は 高まりつつあり、いかにして利便性を損なわないでシステムを安全に保つか、十分な 検討が求められる。また、ハード・ソフト両面でのセキュリティ対策はあくまでも補 助的なものであり、最も必要なものは、医療関係者の意識と倫理性の向上であると考 えられる。


天然痘発生時対応訓練

(高里良男ほか:日本集団災害医学会誌 9: 323-329, 2005)


 天然痘は第1類感染症(人から人へ接触・飛沫・空気感染する)に分類され、伝染力は非常に強 い。1980年5月にWHOによる「天然痘根絶宣言」がなされて以来、天然痘に免疫力を持たない人が 増加(日本においては約3750万人)している。このような危険性からバイオテロリズム(生物テ ロ)に使用される可能性が高いと考えられるため、優先してその対策を立てる必要がある。発生時 には適切な蔓延防止策をとり二次感染を防止しなければ甚大な被害が想定される。

 現場で活動する関連機関(病院、保健所、警察署、消防署、市役所、医師会、健康安全研究セン ター)が対応マニュアルおよび連携体制を検証し、天然痘発生時の危機管理体制の強化を図るため の実動訓練を行った。状況設定はレベルU(海外で天然痘テロが発生し、被害が発生したこと)の 状況で、市中病院で天然痘と診断された患者が発生したと想定し、感染症患者搬送専用車(ラッサ 車)等を出動させ、第1種指定医療機関へ移送するまでの一連の初期活動を実施した。訓練内容は  1)情報伝達・出動訓練 2)警察の捜査活動 3)患者隔離処置 4)接触スタッフの制限 5)疫学調査  6)情報提供および健康教育の実施 7)院内スタッフのワクチン接種 8)検体採取・搬送 9)患者 および疑い患者移送 10)現地調整会議 11)現場消毒・汚染除去 であった。

 天然痘発生時の初期活動は国の「天然痘対応指針」に基づき、保健所を中心とした活動内容となっ ている。保健所は天然痘の蔓延を防止するため、6つの組織班(疫学調査班・検体採取/輸送班・消 毒班・患者移送班・予防接種班・感染症動向調査班)を組織することとなっている。

 天然痘発生時には疫学調査を行い、一次接触者(第一級接触者・第二級接触者)・二次接触者に 分類する。全体として接触者は平均潜伏期間12日間(7〜17日間)は様子を見る必要がある。検体搬 送には基本型三重包装容器を用いる。天然痘患者(疑似症も含めて感染症法に基づく「報告基準」 に該当する患者)の移送にはラッサ車を、天然痘疑い患者には救急車を用いる。移送従事者は、事 前に予防接種を実施している者で構成されなければならない。また、移送患者のストレッチャーへ の移動はマスク(N95)、手袋、ガウンの2重着用、靴カバーを着用した上で行い、患者は非透水性の ドレープなどで保護した状態で移送する。

 天然痘患者を入院させる施設はその発生規模により選定 される。今回は患者数2名という設定であったため、特定、第一種感染症指定医療機関に移送した。 予防接種は接種後3〜4日で接種部位の皮膚変化が起こり始め、3週目の終わり、瘢痕が出来る頃には 善感者として免疫能が得られる。従って最初の局所皮膚反応がない場合は再接種を考慮する必要が ある。また、善感者における有効率はほぼ100%であり、暴露後の予防接種にもそれぞれの程度で効 果が期待できるが、明らかな発熱、他の抗生物質等の薬剤にアレルギー反応のあった者には原則と して接種は行わない。しかし、発症のリスクと接種の副作用によるリスクを十分に検討する必要が ある。

 また、保険所を議長役として現地調整会議を2度開いた。1回目は患者の状況、警察の捜査状況、疫 学調査の状況など報告、病院・保健所・消防の対応内容の確認をした。2回目は接触者調査の状況協 議、予防接種の進行状況を確認した。そして、感染者を収容した部屋は、床・壁などの表面汚染除 去のため0.05〜0.1%次亜塩素酸ナトリウム(100倍希釈)で清拭し、患者が触れたものは消毒用アル コールで清拭する。

 関連機関合同での実動訓練の結果、各機関の連携体制などの実効性の検証と問題点の把握をするこ とができ、より正確な1類感染者に対する実践マニュアルを作成できた。


有珠山ハザードマップ外に移転した新病院の施設について

(後藤義郎ほか:日本集団災害医学会誌 9: 315-322, 2005)



諏訪湖におけるマス・ギャザリングの救護活動

(上條幸弘ほか:日本集団災害医学会誌 9: 309-315, 2005)



平成16年台風16号通過後の人的被害について

(吉田 哲ほか:日本集団災害医学会誌 10: 24-29, 2005)


【要旨】

 平成16年の台風18号は、全国に強風の被害をもたらした。広島県呉市東部の中国労災病院(以下、当院)では、台風通過中に 負傷者8名を診療したが、台風通過後に21名の死傷者が救急搬送され、人的被害は復旧期のほうが大きかった。自然災害後の二 次的被害を防止には、行政と医療機関との連携が必要である。

【1.当院の状況】

 当院は、呉市東部にある410病床の地方病院で半径約30km(人口約18万人)の地域に1次〜3次救急医療を提供している。年間 の救急外来患者数は約2万2000名である。

1)台風通過中の被害

 海岸から病院に高潮が押し寄せ、冠水して救急外来へのアクセスが不能となった。また、近隣地区停電のため、人工呼吸器や 吸引器を使用できなくなった在宅患者7名が緊急避難し、臨時病棟を開設する事態となった。しかし、当地区では、猛烈な暴風 の割には人的被害が少なく、強風が吹き荒れた9月7日13時すぎからの約6時間に、台風被害のため救急外来を受診した患者は8 名であったが、台風一過の翌日から約7週間にわたって、修理中の家屋から転落するなどして、外傷患者が散発的に救急搬送さ れ、その数は21名に及んだ。

2)台風通過後の人的被害

 台風通過後の人的被害状況の代表例を提示する。

(症例1)62歳男性
 台風通過から5日後の午前11頃、廃材を処理中に、回転式電動のこぎりがコンクリートに当たり跳ね返り、前頚部に裂傷を負っ た。気管前壁にも裂創が認められたが、頚動脈は損傷を免れ、約3週間後に軽快退院した。

(症例2)64歳男性
 台風通過から7日後の午前10時頃、吹き飛ばされた工場の屋根を修理中にスレート部分を踏み抜いて約10m下のコンクリート面 に墜落し、心配停止状態で救急車担運された。多発外傷のため即死状態であった。

(症例3)64歳男性
 台風通過から1ヶ月が経過した後の午前11時頃、住宅2階の屋根を修理中に誤って約6m下の地面に転落し、頚髄損傷を負い、不 全四肢麻痺を残した。

 台風18号の通過後の復旧作業に負傷し救急受診した死傷者21名には次のような特徴が見られた。

  1. 50歳以上の男性に多い
  2. 高所での建物修理中の落下事故が全体の9割以上を占める
  3. ほぼ全例が日中に発生している
  4. 外傷の重症度が高い

【2.考察】

 今回の台風では、復旧期の人的被害が大きかった。その理由として、以下の3点が考えられる。
  1. 猛烈な風のため建物の屋根などに予想以上の被害が及んだ
  2. 広範囲の地域が被害を受けたため修理の需要が増え、業者に人手不足と過密スケジュールが生じた。
  3. 台風後も悪天候が続き、修理を待てない家主が、雨漏りをしのぐために自前で修理作業に当たった。

 災害復旧期の人的被害は予防可能で、広報活動やパトロール、安全具の貸し出し等の事故防止を行うことができる。この対策 の準備として、復旧期の人的被害の状況を記録することが第一歩となるが、自然災害後に医療現場が把握した問題点を事故防 止につなげるシステムが確立していない。消防や医療機関は負傷者の受傷機転に関して詳しく聴取するが、災害後かなりの時 間を経て発生した事故については作業の目的まで尋ねることが少ないため自然災害の人的被害が正確に把握できていない可能 性がある。今後は災害発生と同時に行政機関が病院等に調査用紙を配布するなどして正確な被害を防止するシステムを構築す る必要があると思われる。


ガス爆発事故における東京DMATの活動報告

(横堀将司ほか:日本集団災害医学会誌 10: 19-23, 2005)


 2004年8月より、東京都は全国に先駆け、日本初の災害派遣医療チームである「東 京DMAT(Disaster Medical Assistance Team)」(以下DMAT)を発足させ、活動を開 始した。日本医科大学高度救命救急センターにおいても、医師・看護師がDMAT活動研 修を受講後、東京DMAT日本医科大学チームとして活動している。今回、日本医科大学 高度救命救急センターの医師・看護師が、東京DMAT指定の都内7医療機関にて初めて 災害現場へ出動し活動した事例を経験した。その事例の報告をする。

 2004年9月18日、午後14時30分頃、東京都北区田端駅近くにて改装工事中のビルで ガス爆発が発生した。事故概要としては、ビルの解体工事現場で、作業中に地下に埋 没されているガス管が破損し、その後に、爆発が生じたということであった。作業員 3名、一般人6名の計9名が受傷した模様であった。消防隊・救急隊到着時、火災は発 生していなかったが、爆風にて瓦礫や建築資材が周囲数十メートル四方に散乱してい る状態であった。現場路上には作業員2名が倒れており、他に数名の傷病者を認め た。確認された作業員2名はともにCPA状態であり、救急隊員にCPRを施行されつつ、 近医三次救命施設へ搬送された。

 東京消防庁は複数の傷病者の発生により救急隊増援 に加え、同時に同日14時49分、日本医科大学高度救命救急センターに東京DMATの出動 を要請した。出動要請を受けて、日本医科大学高度救命救急センターからは東京DMAT 登録医師2名、看護師1名および東京消防庁委託研修生である救急救命士1名の4名の チームで、ドクターカーにより15時02分に出動した。東京DMAT日本医科大学高度救命 救急センターチームは15時11分現場到着後、東京消防庁現場指揮者より傷病者の診察 を行うよう下命され、現場救護所にて傷病者のトリアージおよび診察を行った。DMAT 現場到着約15分後、DMATによるトリアージ、および診察・搬送指示などの一連の処置 活動はひとまず終了した。現場では災害発生現場のビル地下1階で瓦礫・重機に埋も れ行方不明の作業員1名の存在が推測され、発見救出を待ったが、その間、DMATは二 次災害の危険があることおよび瓦礫の下にいるであろう不明者の救護のため、現場に ての待機を命じられ、医療活動準備を行った。約5時間30分後現場より行方不明者1名 が救出されたがCPA状態であった。CPRを施行しつつ20時55分、日本医科大学高度救命 救急センターに搬送したが、災害発生から約6時間後、同日21時05分死亡確認され た。

 東京DMATは東京都により設置された災害派遣医療チームであり、平成16年8月3日より 運用が開始された。これは大規模災害等で発生した負傷者の救命のために、医師が災 害発生現場に臨場し、治療を施す災害派遣医療システムである。アメリカでは1984年 セントヘレン火山爆発被害の事前対策として立ち上げられた。「DMAT」とはその災害 派遣医療システムに組み込まれた制度の一つであり、医師・看護師・救急隊員が一つ のチームを編成し、災害発生現場で医療活動を行う専門チームであるが、日本には以 前にはこのようなシステムは存在せず、東京DMATは初のシステムであった。東京DMAT の主要活動の一つに「瓦礫に埋もれた傷病者に対する医療処置」がある。その背景に は阪神淡路大震災があり、死亡者の大半が自宅瓦礫の中で死亡していたという事実が あった。このことから救助活動と平行して医師が現場で救命処置を施すことで負傷者 の予後を改善する目的がある。

 東京DMATは原則的に東京消防庁の指揮下に置かれ、活 動は東京消防庁の現場指揮隊の指示によりなされる。この命令系統を円滑に作動させ るために「DMAT連携隊」という消防士3名一組の隊が付き行動をともにするが、大概 互いが初対面であり円滑なコミュニケーションが難しくなっている。そのため命令系 統を円滑に作動させるために事前にDMATと連携隊の共同訓練が必要であると考えられ る。またDMAT側から医療・医学的情報を伝達する際の正確さのために連携隊にもある 程度の医学的知識を持たせる必要もあると考えられる。特に今回の事例では現場指揮 所と現場救護所が離れていたため、配置についても含めて今後検討しなければならな い。

 今回の事例は東京DMATが設置されて初の事例であった。実際現場に出動したDMATは日 本医科大学高度救命救急センターのチーム一隊のみであり、長時間に及ぶ現場待機を 余儀なくされたものであった。また、災害発生現場での二次災害の可能性が高い状況 であったため、DMAT複数隊による連携が必要であったと思われる。また、DMAT側も災 害現場での命令系統を十分に把握し、指揮者に助言を与えるべきであった。またさら に、今回現場救護所のみでの活動となったが、「瓦礫の下の医療」という理念を達成 すべく、東京消防庁とさらなる連携を重ね、活動内容のさらなる充実を図るべきであ ると考える。


―JADM創設10周年―災害医療の組織化と災害医学の体系化を目指して

(太田宗夫:日本集団災害医学会誌 10: 1-9, 2005)


 本総説は、日本集団災害医学会(Japan Association for Disaster Medicine; JADM)の設立に尽力され、同学会の初代理事長を務められた大田宗夫氏が、理事長を 辞するに当たって日本集団災害医学会第10回学術総会で行った講演の要旨である。こ こでは、日本集団災害医学会の設立の背景と経緯、学会発足後の学術総会、学会の運 営と活動、そして、今後の学会の在り方について述べられている。以下にその要旨を 示す。

【学会設立に至る経緯】

1.近代災害医学研究の幕開け

 日本の近代災害医学研究が救急医療の一つのテーマとして議論され始めたのは1980年 代初頭であるが、多数外傷患者発生時における救急医療という概念で論じられたた め、欧米諸国が戦争医学あるいは南北関係の中で議論が始まった歴史と多少異なる。 それは日本が自然災害多発国であること並びにアジアにおける特有の国際的立場と関 係が深い。

 筆者自身にDisaster Medicineを意識させたのは、後にWADEM(World Association for Disaster and Emergency Medicine)と改称されたClub of Mainzを1979年に設立 して指揮し、また、災害医療をHumanitarian actionと位置付けた先駆者でもある故 Peter Safer氏である。

2.災害医学研究組織化の提案

 筆者は、79年から始まったカンボシジア難民の救援医療をHumanitarian actionの 視点で捉え、国際救援組織としてJMTDRの結成にこぎつけた。そして、この組織を医 学的に承認される組織にすることを提案し、第16回日本救急医学会の主催(1998年) に合わせてAsian-Pacific Conferences on Disaster Medicine (APCDM)を創設した。

3.研究の意義を認識させた内外の災害

 1990年代、国外では地球温暖化の副産物としての災害や過激なテロなど我々が未経験 な災害が多発した。また、国内でも北海道南西沖地震などにより国内災害対応の現実 を見せつけられた。これを契機に国単位の災害医学研究集団の結成が議論された。

4.災害医学研究組織の設立準備

 その後の阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、O-157の集団感染等に刺激され、災 害医学研究組織の設立準備が加速された。筆者は、生命が個人にとっても社会にとっ ても最大のプロパティであるという思想を守るべきとの災害医療の理念を全国で話 し、また、発災時に即座に行動する医療展開構図として「大阪府下医療施設の災害時 行動基準」を完成させるなどした。

【学会発足以来の学術総会】

1.日本集団災害医学会の設立

 設立のシナリオ作りの主軸となったのは、金子正光、山本保博、太田宗夫である。 そして、阪神淡路大震災の1年後に「日本集団災害医学研究会」として旗揚げを果た した。

2.第1回学術総会とその反響

 筆者は、研究会発足の主軸を代表して第1回総会を主催し、予想以上の参加を得 た。本学会は設立直後より諸外国から注目され、結果的に欧・米・日を3極とする構 図ができ、WADEM、APCDM、JADMの3層で討議を交わわされた。日本の災害医学研究は この3段階の枠組みで行われている。

3.学術総会を振り返って

 学会総会の歴史は以下の通りである。

(1)第1回総会(大阪、太田宗雄):「災害死」。Preventable deathsを評価に導 入提案等

(2)第2回総会(札幌、金子正光):O-157。JICA研修生による各国のカントリー レポート

(3)第3回総会(東京、山本保博):災害拠点病院連絡協議会、集団災害セミナー をスタート

(4)第4回総会(金沢、青野 允):Dr. Burkle(USA)によるComplex Disaster の紹介

(5)第5回総会(東京、辺見 弘):研究会から学会への昇格、理事評議員制への 移行

(6)第6回総会(福岡、加来信雄):Mass-gathering medicineへの取り組み

(7)第7回総会(岡山、小濱啓次):化学テロを主題とする

(8)第8回総会(東京、前川和彦):Collaboration、災害医学教育をテーマに論 ずる

(9)第9回総会(札幌、浅井康文):化学テロの演習、国際緊急医療援助会長講演 等

(10)第10回総会(大阪、藤井千穂):東南海・南海自身での対応、阪神以降の進 歩

(11)第11回総会は仙台(上原鳴夫)で第12回総会は名古屋(野口 宏)で開催され る。

【運営と活動】

1.機関紙

 表紙を、直前の主要な災害の画面とする慣習が定着し、歴史としても、記録として も役立つ。総会号を含めて年間3回の発刊で、格付け、業績の蓄積をもたらした。

2.各種委員会

 重要な災害が発生する都度に設置されたいくつかの特別委員会は、本学会の科学的 視点で調査した結果を機関紙に報告してきた。これらが本学会の業績を象徴すると考 え、重視してきた。

3.研究会から学会への昇格

 金子理事の指示により、第5回総会を機に学会への昇格を決断した。結果的に、格 付け、会員数等多くの益をもたらした一方、この変更に対する他の医学組織からのク レイムはない。

4.会員数の推移

 会員数は右肩上がりを続け、2001年には当初組織として安定するための目標値で あった500名を超え、以降も毎年十数%の伸び率を示している。遅くとも2007年には 1000名を突破すると推測する。

5.本邦災害医療体制への貢献

 JADM創設時以来、幾つかの災害医療システムが構築された。そのプロセスで、本学 会をバックに会員が協力して貢献してきた。トリアージタッグの概念の浸透もその一 つである。

【これからのJADM】

1.軌跡の評価

 基礎的要素である会員数は、早晩確実に安定数に達する。また、内外の関連機関や政府機関も本学会に一定の評価を与え、本学会の社会的貢献の可能性が認識されてきた。

2.シナリオについての希望

 このたび、筆者を含む半数の理事が交代し、山本保博氏が理事長となったことを受けて、今後の本学会のシナリオに対する希望として、まず、学際性を豊かにするため、非医学系の会員も発言しやすい環境作りの検討が必要であること、また、本学会 がAcademic societyである一方で、社会性を意識しimplementingな側面にも踏み込まざるを得ないことを承知し議論を進めることである。そして最も気にしてこととして、災害医学の学問体系の構築がある。このことは、災害医学をリードする以上、責 任がある。議論し、その記録を重ねてゆけば具体化する可能性があるはずであり、そこに実践に即した思想や哲学を組み入れれば完成できる。

【結語】

 本学会設立の動機を与えたのは災害の変貌であり、地球環境、国際関係などグローバルな変化と関係が深い。研究対象や研究方法も一層グローバルな視点に変化させてゆかねばならないし、医学世界における立場も社会的立場も変化してゆく。その舵取 りが本学会の将来を決める。

 実活動において、災害については本学会がリードしていく自信は十分である。また社会成熟と災害対応投資との関係が認識され、Mitigationに関するDisaster Medicineの社会責任が少しづつ理解されつつあるのも本学会の貢献の一つである。今後もより新鮮な感性と強力な牽引力による新たな、そして誇りある発展を期待するものである。


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