-3つの戦略方針-
-4つの活動中心-
災害救援・災害対策・コミュニティにおける公衆衛生・国際赤十字及び赤新月運動の基本理念と人 道的な価値観の普及の4点を活動の中心としている。
救援専門家が中心となり各国における国際災害救援法(IRDL)の制定を促進している。アプローチと しては
2000年国連安保理においてエイズについて討議が行われたことが注目される。これは国連安保理に おける初めての健康問題についての討議となった。また、同年1月のGAVI(ワクチン・予防接種のた めの世界同盟)の結成は意義深いものだった。このように2000年は公衆衛生が政治・メディアの議論 の的となり、理解が広まった年であったが、国際社会からの支援は圧倒的に不十分なままである。 災害により10万人の人々が亡くなる一方、1,300万人もの人々が伝染病により命を落とす。災害は公 衆衛生の進歩を阻害し、脆弱な公衆衛生の基盤をさらに悪化させる。
最近の議論は、発展途上国における治療へのアクセスや、高額な薬価である。国際赤十字・赤新月 社連盟の『人道的事業は商業的利益に勝る』との見解は例えば南ア共和国に対して製薬会社が起こ した訴訟問題やその後の薬価、治療へのアクセスの問題に影響を及ぼしている。
A 形態と特徴
B 病原性
C 消毒
病状は急激に進行し肺炎様症状からから呼吸不全・敗血症・DICに進展し多臓器不全になって1〜2日
で死亡する。肺ペストは治療しなければ死亡率はほぼ100%である。
またペスト菌による生物テロも懸念されている。扱いが難しいため生物兵器となりうる可能性は低
いが、感染力が強く・ヒトからヒトへの感染があり、培養が容易であり大量生産が簡単であること
から生物テロに用いられる可能性は十分に考えられる。ペスト菌の産婦方法としては、ビルの空調
に仕掛けてエアロゾル散布したり、凍結乾燥した粉末を送りつけるなどが考えられる。
特に肺ペスト患者に対する接触は細心の注意を要する。接触に際して標準予防策に加えて飛沫間腺
予防策を取り、患者を個室または1メートル以上間隔を空けたベッドに収容し、マスク・ガウン・手
袋・眼鏡等を着用して、ペスト菌の吸入に注意する。腺ペストの場合でも手袋・防護衣などで防護
する。感染拡大防止でネズミ・のみの駆除など、一般衛生の徹底と適切な防護対策が必要である。
阪神淡路大震災の教訓から震災によって発生した重症外傷患者を非被災地へ広域航空搬送すること
の重要性かつ必要性が叫ばれている。
平成15年9月に静岡県で行われた総合防災訓練において、災害拠点病院のDMATとして様々な反
省、課題が見えてきた。
<広域航空搬送時の患者の流れ>
<DMATの役割>
<訓練の結果>
ヘリコプター飛行決定に関する情報の混乱があり医療班の出発時間が45分遅れた。SCUにおいては、
指揮官がいないことで、患者の情報や状態、処置が分からず混乱することがあった。また、物品の
配置、調達の動線が悪く無駄な動きが出た。
また、飛行機は安定飛行時には静脈ラインの確保は可能であったが、離着陸時には振動が非常に大
きく診療は不可能であった。また、飛行中は騒音も非常に大きく、患者の訴えはまったく聞き取れ
ず、聴診も不可能であった。
<課題>
以上のような課題を踏まえ、災害拠点病院はSCUがSCUとしての機能を果たすために、災害時に果た
す役割の内容を十分に検討しておく必要がある。さらに、スタッフの教育、航空機で搬送可能な患
者の基準作成にも取り組む必要がある。
「人間はひとりではいきていけない」ということはわかっていても、普段、何不自由なく生活して
いる私たちが実感することは少ないかもしれない。だからこそ、震災などによって長年暮らしてき
た居住環境が激変し、築き上げられてきたコミュニティーが崩壊し、一人ひとりの生活の基盤が崩
れ去った状況の中で痛感する。
背景や条件が一人一人違う中で、介護ケアする側は様々な職種との連携を密にして協力関係を築
くことが大切である。また、多様な職種と連携し、それぞれの専門領域を補い合えるネットワーク
を構築することは、相互の機能の補充だけでなく、新たな機能や仕組みを生み出すことにつなが
る。阪神・淡路大震災では長い復興過程の中で、被災住民や社会的弱者を支援し、ケアする新しい
仕組みを生み出してきた。
災害弱者とは自分の身に危険が差し迫ったときに身を守ることが困難である人々を指すが、この
ような人々が災害時においていち早く救命されるためにはどのようなネットワークや連携活動が必
要であるかを考える。災害時に連携活動が有効に機能するためには、高齢者や肢体不自由者、心身
障害者、認知症の人々など、ひとりで生活をしている社会的弱者を平常時から支援する活動が必要
である。ただし、十分といえるシステムや仕組みは出来上っていないのが現状である。
ここで、震災後の実際の活動を例にどのような連携がとられてきたのかを考えてみる。
【事例1】 65歳の男性 無職 一人暮らし
震災によって職を失い、生活スタイルが一変し3食の副食に塩、しょうゆ、味噌といった食生活に
なってしまった。顔、下枝、足背の浮腫といった身体の変化が現れてきたにもかかわらず、公的な
経済保護を受けることを拒んでいる状況であった。
保健師や区役所の生活保護担当、地域の見守りボランティアの人々と連携を取ることで生活を支
援することにした。保健師には現状の身体の危険や生活改善の必要性について本人にしっかり話を
してもらい、区役所の生活保護担当には孤独死を回避するためにも生活保護を受けるよう話しても
らい、地域の見守りボランティアには、頻繁に巡回することによって心を癒してもらう中で、いつ
でも相談できる環境作りにつながった。
その後は自立して生きていくことの大切さを考えるようになり生活保護を受けて、安定した生活
を送れるようになった。
【事例2】 盲人の夫婦
震災のために、慣れ親しんだコミュニティーを離れ新しい土地での暮らしを営むこととなった
が、新しいコミュニティーでの生活の再構築は、精神的にも身体的にも苦痛であり、不眠、食欲低
下という状況であった。
巡回している精神科医と保健師、ボランティア、他縁組織の人たちとも連絡を取り合い夫婦の生
活を支えることにした。これらの多種職がネットワークを作りながら、新しい環境に慣れるように
歩く訓練を頻繁に行うなど日常生活の支援を実践した。
その結果、新しいコミュニティーの中でも心豊かに生活ができるようになったと満足した様子で
ある。
【事例3】 70歳 女性 認知症 一人暮らし
認知症は軽度ではあり、一人で買い物にも行ける状態ではあるが、時々、会話をしていて意思疎
通が出来ないことがある状況であった。
身の上に異状が起きないようにと、ボランティアと警察、消防署、行政、保健師、区役所のまち
づくり推進課等でネットワークを作った。行方がわからなくなった時の迅速な対応など危機管理の
連絡方法を明確にし、人間として生きていけるように総合的な支援を行った。
この事例にかかわらず、地域の中の認知症やアルコール依存症、様々な疾患のある人などが迅速
に救命できるような体制が必要である。人命救助で予防的に働ける消防署になるよう消防署にも
チームに入ってもらい、実践の中から次の手段を考えることが大切である。
【事例4】 67歳 男性 高血圧症 一人暮らし
病識がなく、薬の服用も適当で食事にも気を遣っていない状況であった。
主治医との連携をとることで支援することにした。専門ボランティアが毎日、血圧測定と生活の
様子を記録し、受診時に本人に持参してもらうといった主治医と緊密な連絡をとれるように支援し
た。
その後は病状が安定してきた。
既存の自治会や民生委員、警察、消防、ボランティア、学生などが連携し、それぞれの立場から
の意見を交換し地域社会を活性化していくことがコミュニティーの再構築には不可欠である。地域
の中で困っている人がいれば、今の状況を確認し、必要であればアセスメントを行い専門スタッフ
とのミーティングの中で次の展開に結び付けていく。そこには様々な職種の人たちの専門性が求め
られ、連携によって解決されていくべきだ。こうした中で、困難な状況に置かれた人が,人間とし
て尊重され、人間らしく生きていけるのである。
今後も「自立と共生」を目指し、ネットワークの強化を図ることで一人一人を大切にした人間とし
ての暮らしを展開できるように、条件を整えることが重要である。
チェルノブイリ原発事故
1986年4月26日(土)午前1時24分、2回の爆発と共に4号炉において発生。
当時、ソ連政府は事故の事実をすぐには公表せず、スウェーデンのフォルスマルク原発周辺で高い
レベルの放射能が検出されたことによる。ゆえに以下にある事故発生時の医療活動の記載について
はソ連側の報告に基づくものである。
【事故当時の状況】
4月25日の夜の当直医Dr.Valentin とP.Belokonであった。
事故発生後、数分以内に発電所から医療職員派遣要請の連絡が入り、彼は直ちに救急車2台と共に派
遣された。
午前1時50分頃にDr.Belokonが到着したときには、作業員1人が4号炉建物の崩壊で圧死しており、彼
が現場で最初に診た患者も全身の熱傷と打撲で26日の朝に死亡した。その他の患者(発電所の作業員
や消防士など)はいずれも共通の症状を示していた。
主な症状
孤軍奮闘していたDr.Belokon自身も26日午前6時ごろには不快感が増強していて、後にモスクワの第
6病院に移送されることになった。
【(統計)事故発生時に発電所内にいた人数】
1〜4号炉の従業員(176人)、5.6号炉の作業員(268人)、警備員(23人):計467人
この他、事故発生後救護にかけつけた人
【事故に対する政府の対応】
同日午前6時40分にかねてより編成されていた生物物理学研究所の緊急被爆医療チームが患者の受け
入れ態勢を整えた。直ちに、入院患者を診察して放射能障害のレベルによるグループ分けを行っ
て、その結果、重症患者・計129人は2機の飛行機でモスクワの放射線医学センターへ、軽症患者・計
170人はキエフの病院に緊急入院されることになった。
特に、モスクワに搬送された重症患者のうち診察によって、悪心、嘔吐、下痢、皮膚発赤などの症
状から30人は、致死線量を受けていると判断された。また、多くの患者は体表面のかなりの範囲に
高線量被爆による皮膚充血の所見を示していて、放射線熱傷も過半数の患者にみられた。
【事故の状況】
モスクワとキエフの入院患者約300人のうち、
急性放射線症:134人(モスクワ108人、キエフ26人)そのうち28人が96日以内に死亡している。半
数致死量(LD50)が6.5Gy以上であった。
*広島の原爆被害者:2.9Gy(ただし今回のデータは性別・年齢及び体格などを考慮していない。)
【その後の状況】
上述の134人中、1986年9月の時点でなお在院していたのは14人(モスクワ3人、キエフ11人)であり、
1987年1月には5人がキエフの病院に残っていた。
又、急性放射線症から回復した106人を1998年までの12年間追跡した結果によれば、11人(10.4%)が
死亡し、内訳的にはT度が3人(7.3%)、U度が5人(10.2%)、V、W度が3人(18.8%)と症度ととも
に死亡率が高くなる傾向が見られたが、これらの死亡率が急性放射線症を発症しなかった被爆者や
非被爆者に比べてどの程度高いかを判断するには、年齢構成を揃えた対照者について同様の調査を
行う必要があると考えられる。
【考察】
今後、二度とチェルノブイリクラスの原発事故が起きないとは言い切れない。また、被爆事故は広
島・長崎のように、原発事故に限ったことではないとも考えられる。事故の防止に努めることは重
要であるが、これらの事故に対する対策を事故の教訓から構築していくことも大事だと思う。
2005年4月25日9時18分頃、兵庫県尼崎市のJR福知山線で快速電車が脱線、先頭車両が線路脇の
マンションに突っ込み大破する事故が発生した。死者107名、負傷者549名(2005年5月24日現在)を出
した今回の事故では、「阪神大震災以後の災害医療」が問われる結果となった。今回最も早く現場
に駆けつけた兵庫県災害医療センターのドクターチームと、最も多くの患者を受け入れた兵庫医科
大学病院救命救急センターの方々に当日の様子についてお話を伺った。
到着時の患者搬出は事故現場の西側と東側で行われていたが、その情報は全くなく、自分たちが
活動したのは主な搬出経路となっていた西側であった。トリアージポスト内には各チームに医師2
名、看護士2名、救急救命士2名の計6名がおり、トリアージを主に医師が行い、その後の継続的な観
察については主に看護士と救急救命士が行っていた。
活動中に印象に残ったのはトリアージの難しさ、特にトリアージタッグを切ることの難しさで
あった。というのも、最初黄色タッグにしていた患者さんが少し目を離したら状況が変わっていた
り、自分が黄色と判断したことによってほかの重症患者さんに影響が出てくる可能性があったりし
たからである。また、現場では報道ヘリが上空を旋回していて、その音のせいで聞きたい情報が聞
こえないということが何回かあった。決して報道するなというわけではないが、現場では見る、聞
く、触れることしかできないので、うるさいと聴診で異常な音を聞き逃すかもしれない。人命を最
優先に考えた取材をしてほしいと思う。
また、今回は多数傷病者発生現場ということで消防の指揮下に入っていたが、情報が集約しきれ
ていなかったという問題点があった。現場には幾つもの医療チームが入っているが、お互いの携帯
番号を知らないうえに、西と東に分かれて活動しておりお互いの連絡手段が全くない状態だった。
今回は千里救命救急センターチームが無線を持っておりその無線を使って連絡を取ることができた
が、それまでは一切連絡が取れなかった。指揮本部は情報が集まるのを待つのではなく、自分から
アクションを起こして取りにいかないといけない。集団災害のときの一番の基本となる、情報を待
つのではなく奪いに行くという面が今回は少し欠如していた部分と思われる。
医療チームとして欲しい情報は、まず患者搬出がどこから行われているかということである。今
回の場合、東側でも患者搬出がされていることがわかったのは少し時間が経ってからであった。そ
の他に、どういった機序でこのような事故が起こったか、おおよその傷病者の数、搬送するための
救急車、ヘリがどれくらいあって、どれくらいで帰ってきて、また、医療チームはあとどれくらい
来るのか、というようなことを知りたい。
実際現場にどのくらいの医療チームが来るか全く把握できていなかった。一番最初の段階でDM
ATなど、医療チームをどんどん放り込んでおけば、あとは患者さんの数が減っていくだけなので
それに合わせて医療チームを解散させていけばいい。しかし、今回はその逆のパターンで、自分達
が行ったときは患者さんが多すぎて医療チームが足りない、お昼前くらいから今度は医療チームが
飽和して患者さんがいない、という状況であった。
今後は、医療の標準化、教育やチーム医療、常日頃の活動の大事さを理解し、消防の訓練に自分
たちがどう入っていけるか、そして医療チームはどの点で協力できるかというのを分かっていかな
ければならない。医者が偉いとかではなく、同じ医療従事者として、同じ目線、同じところでいか
に救急医療をするか、というのが今回の現場で大切だと思った。
今回特に困ったのは患者さんの身元確認であった。普段から災害時の救命活動や患者さんのベッ
ドコントロールなどは頭に入っているが、実際にはどうしても救命活動が優先になっていて、ハッ
と気付いたら患者さんの身元を確認するという役割を誰も担っていなかった。トリアージタッグに
ナンバーを付け一覧にするのと患者さんの身元確認を同時進行で行っていくのが今後の課題であ
る。
当院は災害拠点病院であり、普段から分かっていてもあまり自覚したことがなかった。しかし今
回の事故でそれを初めて自覚し、救命センターで働いている意味や使命感などを自覚することがで
きた。災害看護や救急看護についてもっと勉強していきたいという意識もかなりついた。年に一度
の訓練や、それぞれ個人で研修会や勉強会に行ったり、院内でいろいろな職種の人を集めての災害
医療従事者研修も行っているが、やはりそういうものをスタッフ全体や病院全体がリアルに活動で
きるくらい浸透させていかないといけないと思った。
(最後に師長)今回の事故でドクターカーチームとしてスタッフを派遣したが、院外での災害救
護の場合、二次災害の危険もある。送り出す側としても「行きなさい」とは簡単には言えない。今
後は、病院全体で災害医療を希望する者を登録制にするとか、知識や技術を身につけたスタッフを
どれだけ活用していけるかなど、管理者がやっていかなければならないことはたくさんあると思わ
れる。
プレートの移動に伴う三つの地震
プレート間地震:海洋プレートが大陸プレートの下に沈みこみ、その境界が歪みを受けて、バネ
のように弾性力を蓄え、それが跳ね返るときに地震を起こす。これをプレート間地震と呼び、M8ク
ラスの大きいものはおよそ100年周期で発生している。2003年の十勝沖地震がこれにあたる。
海洋プレート内地震:大陸プレートの中に潜り込んだ海洋プレートが地下深部で割れることによ
り起こる地震のこと。1994年の北海道東方沖地震がこれにあたる。
断層型(直下型)地震:大陸プレート内部で発生する地震である。海洋プレートに押されつづけ
た大陸プレートが、その力に耐えかねてあちことでひび割れ、押された力を上下に逃がす形で岩盤
が動くことで生じる。このとき生じるひび割れが活断層である。1995年の阪神淡路大震災がこのタ
イプである。
生物剤の医療対処、カテゴリーA、ペスト
(生物化学テロ災害対処研究会:必携―生物化学テロ対処ハンドブック、診断と治療社、東京、2003、p.149-155)I. 概要
II. 病原体
III. 臨床診断
IV. 疫学
V. 治療
が対象となり、約7日間投与する。ドキシサイクリンあるいはシプロフロキサシンの使用が推奨され
ている。VI. ペストへの対応
DMAT(Disaster Medical Assistance Team)として SCU(Staging Care Unit)立ち上げ・運営訓練を経験して
(南沢美和ほか:日本集団災害医学会誌 9: 305, 2005)多職種との連携
(黒田裕子:黒田 裕子・酒井明子監修、災害看護、東京、メディカ出版、2004、p.204-208)
これらの事例に共通していえることは、一人の人間として生きていくためには、常に「地域」と「暮ら
し」そして「人間」の一体化が大切であるということである。地域で支えあって生きていくためには、
心のバリアを取り払って、相互に求め尊重する風土作りが必要である。こうした風土作りは地域の
活性化にもつながる。チェルノブイリ事故発生時の医療活動
(重松逸造:「緊急被ばく医療」ニュースレター No.11, p.1-4, 2004)
(チェルノブイリ原発は1〜4号炉が稼動し、5,6号炉は建設中であった。)
消防士が3分後に14人、11分後に10人、その後26日午前8時までに69人:計93人
1〜4号炉従業員(507人)、警備員(113人)、医療関係者(10人)
あのとき医療者はどう動き、何を守ったか
(エマージェンシー・ケア 18: 5-11, 2005)1.『現場では何が行われたか』〜兵庫県災害医療センタードクターカーチーム〜
2.『院内では何が行われていたか』〜兵庫医科大学病院救命救急センター(看護士)〜
地震を知る
(別冊4X4MAGAZINE、第31巻2-2号, p.15-24, 2005)<過去の地震災害>
<発生のメカニズム>
<マグニチュードと震度の違い>
<地震予知は可能か>
<危険な活断層・海溝型地震はココだ!>
<もしも首都圏に大地震が起きたら‥>
<ハザードマップを役立てよう>