1995年1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災は神戸市を中心に兵庫県南部の広範な地域に大きな被害をもたらした。被災地 周辺の病院も、さまざまな被害をうけ、その機能が低下するなかで、きわめて多数の患者が病院に殺到し、さらに混乱した。 被災患者は、多くの場合、直近の医療機関に駆けつけ、病院側が対応できない場合は、さらに大きな病院に向かった。しか し、そこでも、患者が殺到していて行き場を失う状況であった。一部の病院では、報道機関に診療可能情報を伝達したが、ラ イフラインの途絶などにより情報の入手や伝達が困難であったため、被災患者の誘導が組織的に行われなかった。 震災時、活動の中心はERのない中小病院であった。神戸市内には、独立したERを持つ病院は2ヶ所(現在は3ヶ所)あったが、 その機能を果たせなかった。それらの要因には以下のようなものがある。
ここで災害医療と救急医療の関わりについて考察する。両者は密接に関係している一方で、本質的には大きな違いがある。 災害医療とは医療の需要が供給を大きく上回り、そのバランスが崩れ、きわめて多数の患者を限られた医療資源により対応す るものであり、トリアージを必要とする状態である。また、あらゆる部門の医療関係者・消防・救急、さらには行政までも巻 き込んだ包括的な医療であり場合によっては、月や年単位の長期間のが必要である。
一方、救急医療は1〜数人の患者に十分な医療資源を投入して、高度な医療を提供するものであり、時間や日単位の短時間の 対応が中心である。従って救急専門医も、少数の患者を対象にした高度な医療を実施できるように訓練される。
こうした矛盾点が存在する以上、多くの病院では、災害などで発生するきわめて多数の患者の対応を考慮されていないのが現 状である。ER単独では、大規模災害医療に対応するには限界があり、過大な期待はできないのである。
そこで阪神・淡路大震災の経験を踏まえ、1996年より独立行政法人国立病院機構・災害医療センターを中心に全国に災害拠点 病院が指定され、2000年12月には530病院が整備された。また多くの病院では、災害対応マニュアルの整備や災害救護班の訓 練・研修が行われている。独立したERを持つ病院は、全て災害拠点病院に指定され、若干の予算処置がなされており、ERは災 害医療にも対応できるように考える必要がある。
前述のようにERは物理的に災害医療に対応できるようにデザインされていない。しかし、ER以外で災害医療に対応できる人材 がほとんどいない状況では、矛盾しているがERの役割、特に救急専門医などのマンパワーは大きな力を発揮できる可能性があ る。
ERのある病院では、災害医療に関する十分な研修や訓練を受けた救急専門医を中心に災害対応計画を立てる必要があり、トリ アージ訓練では、本来の災害医療の本質を十分認識したものにしなければならない。また災害発生時には、ライフラインの途 絶などにより、通常の救急医療に必要な高度の検査機器や治療機器が使えなくなった状況下で対応できるように考えなければ ならない。
阪神・淡路大震災では、1次、2次、3次救急の区別がなくなっていた。通信手段に問題が発生し、情報の入手と伝達が不可能に なると、このような混乱が発生する。被災患者の振り分けが困難になり、患者は冷静さを失い、ERがあるかどうかよりも、思 いつく近くの病院に駆けつけるのだ。
従って、困難ではあるが、災害医療の中心となるべき病院からは、あらゆる手段を駆使して、対外的に、積極的に受け入れ可 能情報を伝達しなければならない。
最後に、震災などの大規模災害では、災害医療の本質を加味した訓練・研修を受けた救急専門医を中心に、実効性のある対応 策を立案し、発災時にその機能を発揮できることが期待される。また、周辺医療機関とも協調して対応すべきであり、そのた めに日頃から関係者、関係部署から信頼される関係を築いておく必要がある。
黒田裕子:病院防災の指針、日総研出版、1995、p.6-15
震災直後、宝塚総合体育館が臨時の救護所としてどのように機能したのか。救護所で働いていた人たちに焦点をあて地震が起 こった1月17日から順に追っていく。
【1月17日】
(AM 5:46)
激しい揺れが起こる。宝塚市老人保健施設の看護師である黒田裕子は病院の状況が心配
になり揺れが収まらないうちに外に出る。道中ガスの臭いが残っている。黒田が市役所に着いたのは6時過ぎ、地震直後のせ
いもあり職員は3人しかいない。ガス漏れの通報が次々とかかってきている。黒田は看護師として至急救護活動を開始できる
ように要請したがガス漏れの危険性から待機を命じられる。
(AM 8:15)
消防隊員から市内の病院はすべて満床で負傷
者の治療が行えないことから臨時の救護センターを開きたいという提案を受け救護活動を開始。宝塚市立病院に移動し、挿管
器具の準備とともに医師4名(内科2名、外科2名)、看護師2名に協力を要請。6名のスタッフとともに総合体育館へと移
動。市側は臨時救護所が総合体育館にできたことを一斉放送。このときより黒田の24時間体制の臨時救護所での不眠不休活
動が始まることになる。
(AM 9:31)
最初の患者が運び込まれてくる。救急車のサイレンがあちこちから聞こえ被害の
甚大さを痛感させる。救急車はすぐに足りなくなりワゴン車が代用される。
(AM 10:00)
ドクターが一人加わり計5
名に。そのうち2人は増加する死亡者に対応するため死亡診断書を書く役割に回る。遺体は体育館の敷地内の武道館へ搬送。
縫合セットなど、医療器具はすぐに不足する。満足な消毒器具も無いため、器具をヒビテン液に30分間漬け込みそのあと清
潔なガーゼで拭くことで応急消毒とする。点滴台も体育館にあった金属製のポールで代用。大勢の負傷者の前に記録に手が回
らないため、メモ用紙にサマリーだけ残すことにする。
(PM 5:00)
このころから体育館は避難所としても機能し始
め、避難する人の増加に伴い避難スペースを広げ正式に避難所として機能させる。避難所ではガス・電気・水道のライフライ
ンが早くから復旧しており暖房も完備。
(PM7:30)
入院者は2名だが外傷者は次々と手当てにやってくる。同時刻現場
はテレビ放映されておりそれを見ていた複数の看護師がそれに触発され後日現場でのボランティア活動に加わることになる。
【1月18日】
この日は武道館に圧死による遺体が次々と運ばれてくる。その一方で避難者は増えつづけている。2階にまで 避難者が押し寄せてきたため市側は救護所の廃止を検討。
【1月19日】
(AM10:00)
避難者の増加によりスペース確 保が困難になった為、市側の意向で救護所はいったん閉鎖される。しかしその間も遺体は次々と運ばれてきており、身元判明
までの遺族の相談役、身元判明後の遺族の心のケアの必要性から、黒田達は救護所の必要性を市側に説明。交渉の末救護所は
再開されることになった。
(PM12:00)
閉鎖した救護所は市の救護センターとして24時間体制で再開される。黒田達は再開と同時に感染対策に
着手、避難所には600人を超える避難者がいるため風邪の流行が懸念されていた。イソジンを説明所とともに各洗面所に置
きうがいを励行。体温管理にも気を配り、マットの下に新聞紙を敷く。救護センターではボランティアナースの数も増えてお
り、記録(SOAP形式)。食事(盛り付け、調理)も充実する。
【1月20日】
この日から一般ボランティアが参加。最初
の一般ボランティアである堀林高至(21)は避難者の相談役としてボランティアに参加、リーダーとして活躍する。またこ
の日から岐阜大学医学部の医師団が宝塚市の巡回を開始。風邪の治療を中心にこの日229人の診療を行う。様々な医薬品も
持参。医薬品の不足も大分解消される。黒田は衛生面の管理に非常に気を使っていた。巡回中トイレに避難所のスリッパで
入っていく人がいることがいることを気にかけ、これに対してはトイレに張り紙を貼り注意を促す。今回の避難所生活を送る
うちに風邪で亡くなったお年寄りがたくさんいた。衛生管理を徹底することは非常に重要である。
【1月21日】
この日は開 設日の19日とおなじ35人の受診者があった。外科的患者が多かったのはこの日まででこの日以降は減少していく。救護セ
ンターではこの日も様々な工夫を行う。たとえば新聞紙による膿盆の作成。汚染ガーゼを捨てるもので二次感染の予防であ
る。また小児の床頭台の不足については発泡スチロールで代用する。
【1月22日〜25日】
このころから一般ボランティア が増え始め、組織化が始まった。一般ボランティアは炊き出しだけではなく行政側の交渉、被災者のメンタルケアなど幅広く
活動を行う。避難所ではゴミの捨て方が問題となっていた。沢山詰め込まれたゴミはそれだけで非衛生的で、分別してすてる
ように案内を行うようにする。24日は受診者が始まって以来最高の287人。ストレスが原因と思われる風邪、口内炎、胃
炎などの患者が少しずつ増え始めた。25日以降は患者数、受診者数も減少し始める。
【1月28日】
市内の診療所の機能回 復が予想以上に早く開業医のうち9割以上が診療可能になった為診療所へと受診者を徐々に移行させる。診療時間も夕方の7
時から5時に短縮。
【1月29日】
この日をもって兵庫県医療チームによる巡回診療が終了。巡回診療者数は2091名。
【2月1日】
救護所での一般診療や入院治療はほぼウイニング終了。以降は市職員、ボランティアなどが中心となり進められ
る。市立病院内かチームにより救護所に応援体制が作られる。
【2月2日】
仮設風呂の設置。QOLが大きく向上した。入浴後はボランティアによって髪の毛を掬い上げるなどして入浴者のための快適性を保持。このころから物資要請がシャンプー、
リンス、ドライヤーなどに移る。
【2月10日】
周辺の医療機関の復旧スピードは予想以上に早く救護者はこの日をもって閉
鎖された。
原因不明の多数傷病者発生は、いかなる時や場所でも起こりうる。発生時における現場での状況判断・迅速処置はその後の治 療方針・予後を大きく左右し、またその治療効果が著しい。 医療スタッフのみならず、消防・警察職員などの初動対応要員(First responder)や、危機管理に関係する行政担当者は、生 物・化学テロを含む特殊災害発生時の対処能力に習熟しなければならない。
災害現場は通常混乱し、無秩序状態であることを理解した上で、負傷者数・負傷程度の把握・原因の推定・現場の危険性など できるだけ正確な状況を把握し、同時に最重要情報の迅速な収集にて災害評価を行うべきである。このような事象の認識にお いては、通常の事故・事件とは異なる特殊な専門知識が必要となる。
医療機関等において、原因不明のショック・意識障害・神経障害・頭痛・眩暈・嘔吐・下痢などを診察したら、毒劇物・食中 毒・化学剤・生物剤等による疾患を、まず【疑うこと】が診断への第一歩である。同一場所・時期に、2人以上の傷病者が発 生した場合は生物・化学テロを含む特殊災害の可能性も考えて準備・対処を行う。類似した症状を持つ傷病者が多数発生し、 更に患者が通常の発生率を超えて増加している場合も同様である。
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II、生物剤暴露を疑う時 |
『特定の地域で異常な数の患者/死者,死んだ家畜が出た場合』 |
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単なるサッカーの世界大会にとどまらず、国の威信をかけたオリンピッククラスの注目を受けるワールドカップであるが、 2002年、日本と韓国の同時開催ということで行われた。今回はワールドカップにおける集団災害医療体制にスポットを当 てていくわけであるが、JAWOC(2002年ワールドカップ日本組織委員会)の医事計画案には、選手、VIP、観客についての 医療体制については明記されているが、試合後にフーリガンが外で暴れたり、泥酔した人がきっかけとなって火災や建造物の 倒壊を引き起こし多くの負傷者が出るといった集団災害についてはほとんど触れられていない。つまり、「スタジアムの中」の 事故について目がいきがちで、「スタジアムの外」での事故に対する対策に乏しいということである。この集団災害への対応 は、サッカー先進国であるイギリスやフランスでは、しっかりと確立していて、大会がある時に医療体制を準備するのは「競技 場側」、ひいては地域医療、防災関連機関であり、大会が開催になれば国が関与する。日本ではというと、「イベント主催側」が 準備することになっている。この点からも日本の体制作りの遅さが際立ってしまう。
では、実際にどのような対策を立てたのかというと、札幌では過激な状況が予想されるイングランドーアルゼンチン戦に備え た関係機関の横の連絡網を構築した。ここには、スポーツ医と救急医だけでなく、ナース、救急隊、警察、消防などが連携す るが、生物テロなどの最悪の場合に備えて自衛隊とも連絡を取り合った。また、会場である札幌ドーム内とVIP関係者の治療は 札幌医大、ドーム外の治療は市立札幌病院というように、役割分担をした。
ワールドカップに限らず全般におけるMass gathering時ではどのような集団災害があったかを振り返ってみると、2001年 9月11日にニュウヨークで起きた同時多発テロが思い当たる。このテロによってNBC(核・生物・化学物質)テロについて考 えざるを得なくなった。 また、日本では、94年に松本で、95年に東京でオウム教団によるサリン事件が起きている。それをきっかけとして世界的 に「if」から「when」(もしも災害が起こったらではなく、いつ災害が起こるか、という態度で対応しなくてはならないという考 え方)に変わってきて、欧米ではそのための訓練や対策が取られてきている。ところが、日本はすでに風化し、忘れ去られて いるようにも思う。 現場に医師が駆けつけるのは世界の常識である。それが日本では常識になっていない。これを機会に、スポーツイベントのよ うに多くの人が集まる時には、誰が責任を取るべきなのかなどを含めて、きちんとした医療体制を構築するべきである。今ま では、医療側が主催者側にこのような働きかけをしてこなかった点は反省すべきである。この点を日本でも見直されなければ ならない。
援助の主体は2タイプ
現在に至る経緯
JMTDR→当初、医療支援が活動の中心。活動を重ねるにつれ、災害支援には医療
+捜索と救助(SearchandRescue :SAR)+ロジスティクス(運搬・移動など)+学術的調査
が不可欠であることが分かってきた
↓
JDR:
以下の三つのチームが存在
JMTDR
今後の展望
わが国のJDRは、活動範囲を自然災害に限定しており、国際連合も同様に、非交戦地域の保健衛生は WHO、自然災害はUNOCHA、難民支援はUNHCRと役割分担している。しかしながら、最近では単一原因 によらない災害によって多数の住民が危機的な状況に陥るいわゆるCHE(Complex Humanitation Emergency:複合災害)が増加(※注)している。こういった複合災害では、従来の戦闘地域・非戦 闘地域、急性期・慢性期に分けた、単一の援助では対処ができず、今後、国際機関が中心となり、 ここの国に合わせた問題分析を行い、各国のGO/NGが協調して対処することが望まれる。
平成7年1月17日午前5時46分、平穏な夜明けを迎えようとしていた阪神淡路地方を、マグニチュード7.3の大地震が襲った。記 憶に新しいこの災害は、多くの犠牲者を出す大惨事となるとともに、世界でも名高い先進国である日本でも、天災には全く太 刀打ちできないということを思い知らされた事件であった。
当時、崩壊した家屋や公共施設、焼け野原となってしまった街並みとともに生中継で映し出されたのが横倒しとなった高速 道路である。これに象徴されるように、この震災では交通ネットワークが壊滅的な打撃を受け、緊急時の対応に支障を来たし たばかりでなく、東西日本の重要な中継地点であるがために、全国的な規模で長期にわたり、極めて大きな影響も生じた。
この震災は、交通のあり方に対して様々な教訓を与えた。その中でも特に重要と考えられるのは、以下の二点である。
第一の教訓として、この災害は自動車に頼る都市構造や、それに立脚した生活様式が、危機的な状況下においていかに脆い
かを様々な局面において示した。震災直後には大渋滞が発生し、救援・救助活動が十分に行えなかった。しかし、これは一般車
両を直ちに規制すれば改善されるというものではなかった。そもそも緊急車両で対応できるような規模の災害ではなく、緊急
車両という「自動車」に頼っていることさえ再検討を要するような壮絶な交通状況であったということを忘れてはならない。
また、震災後最初の一週間程度の間におこった渋滞の原因は、通過車両などの車ではなく、100万人を超える被災者の人たち
が、「自動車」で水や食料を買い出しに行かざるを得なかったためである。生きるために絶対必要と考えた必死の行動が、結
果的に救命・救急活動を妨害した渋滞の原因となったのである。さらに、自動車に頼る都市構造のために、長期にわたる道路状
況の悪化が、震災後の経済復興の遅延を招いた。
第二に提起すべき点は、交通施設の持つ社会基盤としての役割である。交通施設が震災時に果たした役割や、交通機能が麻
痺したことによる社会的影響を踏まえれば、交通施設の持つ機能が再確認されたはずである。採算性や混雑度、交通需要という尺度が、交通計画で絶対ではないということをこの震災は示していた。これは、道路計画においても同じことが言える。道路が優れた防災機能をもつことは誰もがわかっていたが、路線選定の第一の尺度は、交通量や混雑度であり、道路の幅員や車線数は交通量を基準として決められる。しかし、この視点からは震災時に必要であった緑豊かな公園のような広い道路を作ることはできない。この震災は、道路整備の重要性を再認識させると同時に、その整備の視点は変わらなければいけないことも示していた。
これらの教訓を生かし、自動車に過度に頼らない都市を作ることや、採算性や需要以外のことを重視していくことは実際に
は容易ではない。広域の交通ネットワークの整備を行う一方で、市街地を貫く国道や高速道路に、都市間の幹線交通を担わせ
ている現状の改善が必要である。さらには、市街地内の道路においても、災害時に全ての人が、避難所まで安全に到達できる
ような基盤を整備しなければならない。 このような交通事情の改善は、利便性を犠牲にし、大きな負担の増加を伴う。しかし、この課題こそが、この震災の経験を踏まえた神戸が、取り組まなければならない課題なのである。震災前まで、神戸は様々なことを発信できる能力をもってきた。この災害から学んだことも世界に発信し、率先して実行することこそ神戸の責務と考えなければならない。また、そうすることで、海と坂が織り成す美しい港都神戸は、震災以前よりもさらに優れた生活環境と、競争力の高い社会基盤を備えた都市として蘇ることができるのだ。