災害医学・抄読会 2004/10/01

原子炉事故と放射線障害

(久住静代ほか:中毒研究 9: 377-385, 1996)


 1986年4月26日ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所で原発事故が発生した。2回の爆 発とともに、原子炉が設置されている建屋が吹き飛び、大量の放射線物質を含んだ煙や蒸気が高度2q の上空まで達した。事故で放出された放射性物質は、ポーランド北東部から北欧諸国一帯に広がり、 さらに東ヨーロッパから西ヨーロッパ、またごくわずかだが米国や日本などの北半球全域へと運ばれ た。UNSCEARは事故による北半球各国の初年度の国別最高平均線量は1.2mSvと推定した。事故で放出さ れた放射性物質の総放射能は、希ガスによる約6〜7EBqを含めて、12EBq程度であったと推定されてい る。事故時に原子炉にあった使用済み燃料の3〜4%および希ガスの100%近くと、揮発性放射線核種の 20〜60%が放出された。放射線物質の分布は、事故時の気象条件の変化や降雨の有無などにより非常 に不均一で、プルームスポットと呼ばれる高汚染地域がつくられた。

 一方、事故当時原子炉サイトで職業上被爆した237人が放射線被曝による臨床症状を示したと考えら れ、病院に収容されたが、134人が急性放射線症と診断された。このうち、28人が三ヶ月以内に放射線 障害で死亡している。そしてさらに2人が放射線と無関係の障害で死亡し、もう1人が冠状動脈塞栓症 で死亡したと考えられ、事故により31人が犠牲となった。そして、急性期が過ぎた後の10年間にさら に14人の患者が死亡している。しかし、この14人は必ずしも直接に放射線被曝により死亡したとはい えない。

 事故直後に現場で緊急処置にあたった被炎者で治療が必要と診断されて病院に搬送された者に対 し、全身γ線被爆量6Gy以上と推定され、家族よりHLA適合ドナーが確保できた13名に同種骨髄移植 を、HLM適合ドナーを確保できなかった6名に胎児肝血液幹細胞移植を施行した。前者のうち7名は、生 着判定前に皮膚、腸管障害で死亡、6名が生着して30日以上生存したが、4名はサイトメガロウイルス 感染症、肝障害、腎不全で死亡、2名のみが生存した。しかし、この2名も移植した骨髄が生着したの ではなく、成分輸血や免疫抑制剤などの治療過程で患者の造血能が回復して生存した者であった。後 者については、5名が2〜3週間後に肝不全で死亡。残りの1名も移植幹細胞は生着したが、その後腸管 死をきたした。同種骨髄移植や胎児肝血液幹細胞移植ができなかった6名は全員生存している。これら の成績は、急性放射線骨髄障害に対する治療として当時推奨されていた骨髄移植はほとんど利点がな かったことを示唆した。

 1989年10月、旧ソ連邦政府はIAEAに対して、チェルノブイリ原発事故後の地域住民への放射能汚染と 健康影響に対する対策が、適切な者であったかどうかの客観的評価を依頼してきた。これに応えAIEA は国際チェルノブイリ・プロジェクトを実施した。このプロジェクトによる調査は、汚染地区居住住 民約825,000人を対象として行われたものである。本プロジェクトでは、事故に関連する経緯の調査班 (タスク1)、環境影響(タスク2)、被爆線量班(タスク3)、健康影響班(タスク4)、防護対策班 (タスク5)を中心に評価した。タスク2(環境影響)では、土壌サンプルの分析結果はプルトニウム の地表汚染評価値を一致したが、ストロンチウムに関しては過大評価であるとの結論を出した。ソ連 の提出した公式地図のセシウムに関する地表汚染評価値が妥当であると確証された。飲料水および食 品中の放射線核種の濃度は、国際的な食品汚染基準値を大幅に下回り、多くの場合検出限度以下で あった。タスク3(被爆影響)では、旧ソ連が線量推定方法は線量の推定値が1/2〜1/3の範囲で、プロ ジェクトの出した値より大きくなっていた。甲状腺吸収線量は個別に検証することはできなかった。 タスク4(健康影響)によると、汚染・非汚染地域両方の住民において、放射線と関係のない顕著な健 康障害があった。これは、放射能汚染の恐れによる不安、心配、ストレスが原因だと考えられる。タ スク5(防護対策)では、旧ソ連の行った防護措置は、適切かつタイムリーなものと判断してい る。IAEAは、旧ソ連が行った事故対策はいずれの分野においてもほぼ妥当なものであったと評価し、 四つの勧告を出した。1)ホットスポットの重要性を評価する研究を行うこと、2)より現実的な線量推定 が行えるような確率論的線量評価法を開発すること、3)心理的影響を緩和する計画を検討すること。甲 状腺吸収線量の高い子供など高リスクを持った人々に対して、リスクに基づいた医療計画を立てるこ と。潜在的な健康への晩発影響について、高リスクの集団を対象に追跡調査を行うこと、4)防護対策班 では、実施された防護手段に関するデータベースを作成し、総合的で詳細な評価を行うこと。汚染地 域に継続して暮らした場合の影響の要因を解析すること。

 以上の4項目を基調とした国際共同研究や国際医療協力が、世界保険機構や世界の国々との間で始めら れた。特に世界保険機構は、血液障害、甲状腺障害、胎児脳障害、疫学調査、口腔衛生調査の5項目を 対象としたパイロットプロジェクトを開始した。

 1991年、WHOはチェルノブイリ事故の健康影響国際プロジェクトIPHECAを発足させ、活動を開始した。 その目的は、機器の提供、研修、専門的助言と情報交換などによる被災国の保険官庁の補佐と、事故 の健康影響を少なくするための努力を援助することである。

 甲状腺プロジェクトでは、小児甲状腺癌の発生率の上昇を主な課題として取り組んでいる。事故前に 比べ100倍の増加を示しており、もともとヨウ素不足という背景はあるが事故の影響が示唆されてい る。白血病やそのほかの血液疾患では、優位な差は認められないのだが、緩い上昇傾向を示してお り、血液学プロジェクトで症例−対象研究が行われている。事故の年に生まれた子供には、精神発達 地帯の発生率が高く、行動および感情面での問題が増加する傾向を示しており、胎内被曝プロジェク トにより研究されている。事故処理業者、最も汚染した地域から避難した集団、汚染地域の住民、以 上の当該者の子供、以上の4グループに分け、追跡調査を疫学調査のための登録プロジェクトで行っ た。口腔の状態に放射線がどのような影響を与えるのかを、口腔衛生プロジェクトによって行った。 放射線事故の地球環境や人体に与える影響の解明について、国際的に多大な努力が今もなお払われて いる。これからも、人類が地球上に存在するための共通テーマとして考えていかなければならない。


原因不明多数傷病者発生事案における病院災害対処訓練

(越智文雄ほか:日本集団災害医学会誌 8: 264-271, 2004)


 多施設で災害医療救援訓練が行われているが、その多くはシナリオに基づく訓練であるため、不 測の事態に職員が自ら考え行動する訓練にはならず、実践的な訓練とはいえない。このため最近で は、シナリオを訓練参加者に示さない訓練を行う施設も見られるようになった。今回はそのひとつの 例として、自衛隊中央病院で行われた訓練について報告する。

 自衛隊中央病院では、平成12年以降災害等で大量の傷病者発生時の受け入れ計画を整備してお り、大量の傷病者受け入れの要請があった場合、受け入れチームを編成し災害傷病者の診療収容に当 たることにしている。災害対処計画の詳しい内容は以下の通りである。

1)大量傷病者受け入れチームの編成、行動

  1. 総合案内・受付班:一次トリアージポストまでの救急車、患者の誘導と、トリアー  ジタッグの装着、患者名簿の作成を行う。

  2. 災害傷病者受け入れ・治療班:災害傷病者の受け入れ、治療を行う。

  3. 患者搬送班:除染場から二次トリアージまで、二次トリアージから病棟まで患者を 搬送する。

  4. 一般外来診療班:どうしても診察が必要な一般患者の診察を引き続き行う。

  5. 除染班:汚染区域、非汚染区域のゾーニングを行い、一次トリアージポスト及び除 染場を開設。除染を実施する。

 大量傷病者受け入れチームの要員は事前に指定されておらず、災害発生時の勤務の状 況から指名されて配属される。チームの各班長に指名されている者には、事前に各班 の行動について教育を行い、その他の職員には受け入れマニュアルを配布している。

2)除染ユニット

 平成13年度に自衛隊中央病院に隣接する陸上自衛隊衛生学校衛生教導隊に除染ユニットが装備さ れ、14年度の訓練から使用されている。

 自衛隊中央病院における災害対処訓練は、土曜日に平日の想定で実施し、ほぼ全職員が訓練に参加 した。シナリオは事前に配布せず、当日に病院近傍で化学剤によると思われる原因不明の多量傷病者 が発生し、患者受け入れの要請が入ったとした。訓練は2期に分かれ、第1期は災害発生から受け入れ 準備までであり、院内呼集、院内中央指揮所の開設、外来縮小・手術中止等の一般患者への対応、防 護服の準備、ゾーニングと除染ユニットの開設、院内受け入れ施設での準備を行った。第2期は大量傷 病者の受け入れを行う時期であり、患者の誘導・登録、一次トリアージ・応急処置、除染、二次トリ アージでの外来治療群と入院治療群との分類・治療を行った。訓練の評価は、各部署ごとに一人、患 者一名に一人の割合で訓練評価者を配置し、評価チャートに基づき客観的な評価を行った。

 第1期では、病院指揮所の開設、各部署への連絡、指揮命令、チームの人選・集合、物品の集積など は迅速であった。第2期では、一次トリアージでの救急車の停滞、大量の患者により救急車から患者を 降ろせない状況が発生した。原因薬物が判明してからは、迅速に治療法が示され、適切な治療が行わ れた。二次トリアージは迅速であり、病棟への患者搬送も安全迅速であった。一連の医療救護活動は 良好であり、大量傷病者受け入れチームは有効に機能を発揮した。一方、除染及びゾーニングの徹底 は不十分であった。また、診療科と看護部の連絡不足により、患者数と治療能力にアンバランスを生 じた。各部所管の通信は伝令を用いたが、情報伝達が混乱した。

(考察)

 病院の災害対処訓練では、効率的に最大多数の患者を治療するために、職員を効率的 に動かす 指揮命令系統の確立、情報伝達が重要である。災害訓練を行う医療機関は増加しているが、訓練のた めのシナリオをあらかじめ設定して行うものがほとんどであり、参加者が独自に状況を判断しつつ対 応していくといった実際の災害時に要求される能力の訓練にはなっていない。「原因不明」事案訓練 のメリットとして、指揮所の判断、連絡が適切か、症状に応じて適切な治療が行われたかを検証でき る点が挙げられる。

 訓練評価の点においては、今回のように患者一人に一名の訓練評価者を帯同させることにより、訓練 参加者の治療の適否を判定し、一連の治療の流れや申し送りを評価できる。また、患者の状況を訓練 参加者の対応次第で変化させることができるなどの利点もあり、できる限り患者一名に評価者一名を つける訓練が有効であると思われる。

 今回のような臨時編成のチームの場合、当日にならなければ誰が配属されるのか分からないため事前 訓練が困難である。チームの班長は実施手順に精通し、初めて配属された班員をスムーズに業務が行 えるよう指導できる必要がある。除染班に限っては、経験のない班員を当日指導して除染を行うこと は困難であり、事前に要員を指定し事前訓練を行っておく必要があると考えられる。 また、災害時の通信は大きな問題であり、院内LANやPHS、無線などの電話以外の通信手段の確立が必 要であると考えられる。特に収容者リストを、院内LANを用いて各部署や各病棟に連絡できるようにす ることが重要である。

 今回のように事前計画を徹底した上で、訓練のシナリオを参加者に知らせないことで、より実践的な 訓練が実施できる。また、このような訓練では常に変化する状況にいかに対応するかが重要であり、 個人の判断能力を始め指揮命令系統を評価することが可能となる。事前計画が各職員に徹底され職員 の訓練が向上したら、シナリオを知らせない災害対処訓練が有用であるといえる。


地震直後の交通渋滞と防災交通計画

(中川大、交通工学 vol.30増刊号 22-27, 1995)


 地震直後の交通渋滞を回避することは果たして可能だろうか?

 直感的にはいろいろな方法が思いつくであろうが、阪神・淡路大震災を経た結果としていえる事は、 交通規制などの交通運用策だけで渋滞が回避できると考えるのは危険であるという事だ。

 一般に想定されている震災緊急対応時の交通対応策は、一般車両の通行を規制して、救急・救援のた めの緊急車両を優先させるというものであるが、実際には多くの難しい点がある。第1にすべての人 を救急車で運ぶことは救急車で運ぶことは不可能であるという事と、一般車両で運ばれている負傷者 の方が救急車で運ばれている人より緊急度が低いとは限らないという状況がある。第2に、それぞれ の車両にはそれぞれの緊急度があって、緊急車両と一般車両を区別する客観的かつ公平な基準を設定 することが難しい点である。第3には交通は無機的な人の流れではなく、人の感情の入った動きであ るという点である。肉親の安否が不明で心配であるといったような特殊な心情の交通も多数に及んで いるのであり、社会的にみて効果が大きく、しかも公平な規制となるような基準が示されていなけれ ば実際には規制はできない。第4に、震災対応策の中で、自動車利用に代わる適当な方法が準備され ていない部分も多い点である。また自給のための自動車利用も難しい点があり、被災者の自動車利用 の規制をした時に、これらの人に対する公的物資供給の必要性は飛躍的に増加してしまう。第5とし ては、企業や個人が緊急対応時に交通に対してとるべき行動範囲が広く浸透しているとは言えない点 が挙げられる。以上のように、渋滞回避のための対応方法には未解決の部分が多く、回避できる可能 性は現状では低いと言わざるを得ない。

 次に防災交通計画に内在する困惑性について考えたい。災害緊急対応時の交通にはさらに以下のよう な本質的・構造的な困難性も内在している。第1には、「緊急輸送ルートの確保」には、消防車・救急 車などの緊急自動車をより早く走行させるという事項と、救援物資をより多く運ぶという事項の両方 が内在しているが、この2つの内容は背反的であるということである。異なる2つの目標を同時に掲 げているのであり、これを単純に両立させようとすると緩急の混在が生じ、渋滞の要因を構造的に抱 えることになる。第2には、交通規制を実施すれば、その規制区域外ではかえって混雑することであ る。交通規制が常に走行時間の短縮をもたらすとはいえず、逆に増大させる可能性もあり、規制によ るマイナスを少なくないことを踏まえておく必要がある。第3には、被災地内における救急・救援活 動を円滑に進めることと、被災地とは関係のない全国レベルの幹線交通を円滑に流すことという2つ の事項が混在しており、この両者も背反的である。被災地に通じるルートを救急・救援のために確保 しようとすれば、通過交通は大きく迂回させる必要があるが、これは、幹線交通に影響を与えないよ うにするという目的とは明らかに対立している。以上のような点は、交通理論上ある程度当然の事項 ばかりであるが、構造的に抱えるこれらの問題こそ重要であり、難しい問題ではあるが具体的な対応 策を示しておかなければならない。

 さきに述べたように、交通対応策として目標とすべきことは、交通規制によって緊急輸送ルートを空 間的に確保しようとすることだけではなく、それをいかに活用するかということも含めたものである べきであり、そのことを防災計画全般の中で位置づけていく必要がある。この点を踏まえたとき今後 の防災交通対策として検討すべき事項を以下に列挙する。

 始めに総合的な対応策を挙げる。第1に、渋滞を想定した防災体制の整備である。最も効果的な交通 対応策は、すべての防災対策において、渋滞は避けられないことを想定しておくことである。第2 に、交通調整のための組織の確立である。責任ある「組織」の下に情報を集約して判断を下すような 仕組みが必要である。第3に、広域的救援対策の再構築である。地域での自立的な救援と、広域的で 高度な救援との役割分担を具体的に検討しておくことが重要である。第4に、交通基地の適切な配置 である。公園やオープンスペースなど基地となり得る箇所の有効利用方法を、避難所などに利用され るものも含めて全体として検討・調整していくことが必要である。

 次に交通需要面からの対応策を挙げる。第1に、交通需要量の抜本的抑制である。災害とは関連しない 交通を発生させないことが企業や個人の社会的責任であり、それを果たすことが間接的な災害援助に なるという考え方を定着させる必要がある。第2に、広域避難への対応である。被災地の外の鉄道 ターミナルなどに一時的な避難者を受け入れることができるような広域避難ターミナルを設けること を検討すべきである。第3に、輸送効率の向上である。集配所の規模や設備と、道路の輸送効率を考 えた適正規模の貨物車を配備することが必要であり、また被災地域の外に設けた物流基地においてそ のような仕訳けをできる仕組みも検討すべきである。

 最後に交通規制の具体策を挙げる。第1に、規制方針の具体化と事前周知である。前述したように自動 車利用を前提としない防災対策が進めば、効果的な交通規制が可能となるが、そのための具体策を備 えておく必要がある。災害時の自動車利用のあり方や、交通行動の規範などを広報しておくことは重 要である。第2に、段階的緊急度の設定である。緊急車両の指定において、緊急度に段階を設ける方 法の検討を急ぐべきである。

 先般作成された国の防災基本計画では、交通の確保は災害応急対策の成否に関わる重要な課題である との考えを明確に打ち出しており、今後作成される地域防災計画や、関係機関・企業などの防災対策 ではそれを実現するための具体策が求められている。しかし以上述べてきたように、そのために残さ れている課題も少なくなく今後考えていかねばならない。


報告5 日米の生物災害対策:病院、救急医療部門、政府機関の比較研究(前半)

(ジリンカスR・著、杉島正秋・編:バイオテロの包括的研究、朝日大学法制研究所、岐阜、2003、 p.50-90)


 これまで、飢餓、感染症、自然災害、そして戦争は、世界中で多くの人々の命を奪い、傷つけてき た。さらに、事故による死傷者もおびただしい数にのぼる。もっとも、この50年間に限ると、武力紛 争を別にすれば、人間の活動を原因とする大規模な災害(ここでは被害者が一度に1000人以上とす る)は数少ない。

 そうしたものの中で重要なのは、東京のサリン事件である。この事件は、人為的に引き起こされ、 多数の被害者が発生する危険をはらんでいる災害に関連して、救急医療部門(Emergency Medical Division:EMD)が持っている対応能力を考察する手がかりを与えてくれるものである。さしあたり、 ここでは、多くの患者を収容した聖路加国際病院のEMDの活動は、サリン被害への対応として、きわめ て適切であったことを指摘しておきたい。また、聖路加国際病院と同程度の規模を持つ、その他の日 本やアメリカの病院でも、こうした事態を適切に処理できると思われる。しかし、病原体や毒素が使 われて多数の被害者が発生した場合でも、これらの病院は同じように対応できるであろうか。

 本報告では、バイオテロリストの攻撃に対する日米の対策を検討・分析するにあたり、次の3つの要 素からなるアプローチを採用した。最初に予備的知識として、バイオテロリズムの諸要素とテロのシ ナリオを取り上げる。次に、過去の事例から得られた教訓をふまえて、生物剤を用いた攻撃を6段階に 分け、各段階で直面する問題について日本の医師や公衆衛生機関の職員らの対応能力を検討する。最 後に、日米両国政府が実施している生物兵器防護と対応策に関する評価を行うとともに、生物学的な 脅威について両国が協力可能なプログラムを提案する。

 まず、予備的考察を行う。バイオテロリストによる攻撃を考察するにあたり、テロリストは、(1)目 的を達成するため、一もしくは複数の細菌、カビ、ウイルスなどの病原体を使用する、(2)目標の大部 分を死傷させるのに十分な量の病原体を散布しようと試みる、(3)病原体を使用するにあたっては、エ アゾル散布、食品の汚染、特定の個人を目標とした直接的使用、感染者を利用してのヒト−ヒト感染 などの手段を用いる、と想定しておく。以上を念頭に置くと、テロリストが使う可能性がある病原体 としては、

 次に、生物兵器テロの諸段階について考察を行う。生物兵器の使用を原因とする緊急事態は、重複 はあるもの、(1)攻撃の前段階、(2)攻撃段階、(3)被害発生後の対応段階(これはさらに、4〜5の段階 に細分できる)に分割可能である。以下では、日米の能力や装備を検討しながら、各段階について詳 しく述べることにする。

 攻撃の前段階だが、事情に通じた人々は一致して、アメリカの病院、EMD、公衆衛生機関、災害時派 遣職員などが、大規模な生物災害に対して準備不足である点を指摘する。1996年以来、連邦政府の予 算は増大しており、連邦政府のイニシアチブによって事態は改善されつつあるとはいえ、いくつかの 研究において、アメリカの保健衛生システムの欠陥が指摘されている。それでは、日本のEMDはどうで あろうか。1999年と2002年に筆者が日本を訪問した時、インタビューした医師や管理者らは、生物兵 器による緊急事態について準備ができていないことを率直に認めた。日本のニュースメディアは、生 物剤による災害への準備や対策が十分かどうかをほとんど論じないため、日本全国のEMDスタッフが、 彼らと同意見かどうかは分からない。しかしながら筆者は、インタビューやその後のやり取りから、 日本の病院やEMDの準備状況は、アメリカと同じかそれ以下の低水準にとどまっているとはっきり感じ た。また、日本の公衆衛生機関の職員らは、生物兵器による大規模災害に関して、市、県、国いずれ のレベルでも、ほとんど対策がとられてこなかった点について議論することに消極的である。それで も、日本政府は、2001年後半には、大量破壊兵器(WMD)による攻撃への対応能力の改善に真剣に取り 組み始めた。その背景には、9・11テロや炭疽菌レター事件にくわえて日本各地で発生した多数の「白 い粉」事件があった。こうして、2001年11月8日には、「生物化学テロ対策政府基本方針」が発表され た。

 攻撃の実行段階においてだが、犯罪目的にヒトからヒトへ伝播する生物剤を使うことにはいくつか の問題点がある。もっとも重要なことは、ひとたびこうした生物剤が散布されて流行が始まってし まった場合、目標以外へも流行が拡大して、中立的な人々のみならず、自分たちに友好的な人々や味 方にも病気が広がる危険をはらんでいる点である。ただし、このような事態が起こるかどうかは、医 療や公衆衛生面での対応の実効性に左右される。

 最後に、被害の対処段階について考察する。この段階では、被害発生報告、隔離、トリアージ、治 療、処置、病気からの回復、疫学的調査、警察による捜査などの活動のうち、4ないし5つ程度が同時 進行する。

 被害者の発生について、これまでアメリカでは、生物兵器が使われた場合の被害予測が、いくつか の病原体について試みられたが、これらの演習や研究の結論は心穏やかなものではなかった。まず、 アメリカの保健医療システムや公衆衛生システムは準備が不十分で、生物兵器による被害に適切に対 処できないことが判明した。さらに、生物兵器を原因とする災害については、郡、州、連邦などの機 関が、被害に対処する現場の医師や救急隊員への支援と支援活動の調整を行うこととされているが、 これらの機関の活動には大きな混乱がみられ、効果的ではなかった。その他にも、様々な問題や欠陥 があらわになった。こうした演習は、筆者が知る限り日本では行われていないが、日本も概ねこのよ うな問題とは無縁でいられないであろう。また、隔離措置についての問題は、やはり隔離病室の不足 であろうと考えられる。


報告5 日米の生物災害対策:病院、救急医療部門、政府機関の比較研究(後半)

(ジリンカスR・著、杉島正秋・編:バイオテロの包括的研究、朝日大学法制研究所、岐阜、2003、 p.50-90)


III.トリアージ、治療、処置

 病院の防災計画は常にトリアージに言及している。トリアージとは生存者数の最大化を目的とした順 位付けの方法に従い、患者に対する治療法を選択して実施することである。トリアージの効率や有効 性は、医師達の資質のみならず、病院の防災計画の適切さ、対応手順の明確さ、トリアージ作業の円 滑さに左右され、実際的な訓練を繰り返し行うことが不可欠である。

 現場の医療関係者が、災害の流行に効果的に対処できるかは、患者数と、患者が生じる期間の長さに 左右される。日本の保健医療システムはトリア-ジや治療をはじめ、アメリカと同程度に対処できるは ずだが、大規模な生物災害についての都道府県の対応能力は明らかではない。大規模な生物災害が発 生した場合、人手不足が問題となる。アメリカの各州には州兵がおり、知事が彼らを動員できる。日 本には、アメリカのような州兵が存在しないため、自衛隊に救援を要請するしかない。自衛隊の立場 は従来から不安定であったが、阪神淡路大震災における、被災者の援助や震災からの復興にあたり、 重要な役割を果たし、震災後には災害派遣が自衛隊の任務の一つとなった。

 自衛隊は、生物兵器や化学兵器の分野では十分な装備を持ってはおらず、薬剤に対して限られた分析 能力しかないが、化学攻撃に対する防護訓練を定期的に行っている。また、現在自衛隊は、災害派 遣、治安出勤、防衛出動の三つのレベルで非常時への対応計画を有している。自衛隊が生物災害のト リアージや治療を行う専門的技術を持っている可能性は低い。しかし、大規模な感染症の集団発生が あった場合、自衛隊に適した活動分野としては、救護所の設置、患者らへの対応、非難、隔離区域の 設定と維持などがあげられる。

IV.終結段階

 終結段階では、生物災害が終息するか管理可能な状態になる。日米両国とも、この段階で必要なこと を実施する能力を持っていると思われる。また、必然的に実施される疫学的調査によって、生物災害 の原因が明らかになり、流行は終息するが、人為的災害と証明されれば、警察が捜査活動を実施する ことになる。

V.疫学的調査と警察の捜査活動

 アメリカでは、郡と州の保険衛生部が疫学的調査の実施の責任を負っており、複雑、難解な問題や、 調査結果の検証についてCDCの支援を求めることができる。このCDCにより、アメリカは、強力な疫学 的能力を有していることは明らかである。一方、日本の保健医療システムは、アメリカよりも臨床検 査機関に依存しており、疫学的調査は重要な役割は果たしてこなかった。1996年のO157による集団食 中毒の際、感染源、感染経路を特定できなかったことから、日本の疫学的能力の低さが指摘され、保 健衛生システムの欠陥が明らかになった。

 近年までこの弱点が顕在化しなかったのは、まれな感染症や輸入感染症が、これまで、日本で問題に ならなかったためであり、最近は外来の病原体が日本へ侵入する可能性が飛躍的に増大している。そ こで、日本の疫学的能力を急速に向上させるため、1996年末に、国立感染症研究所は実地疫学専門養 成コースを設け、必要とされる疫学者を確保できるようにした。現在、国立感染研究所と自衛隊との コミュニケーションは極めて希薄である。生物災害が発生した自治体を効果的に支援しようとする場 合、これが政府機関相互の協力を阻害するおそれがある。また、国立感染研究所と警察庁、都道府県 警察とのコミュニケーションも欠けており、これが人為的生物災害の犯人を逮捕しようとする際に、 捜査の支障ともなりうる。


報告5 日米の生物災害対策:病院、救急医療部門、政府機関の比較研究(結論)

(ジリンカスR・著、杉島正秋・編:バイオテロの包括的研究、朝日大学法制研究所、岐阜、2003、 p.50-90)


 日米両国は、堅固な保健医療と公衆衛生のシステムを持つ先進工業国であるが、多数の被害者が発 生するような生物災害の場合に、システムがうまく機能するかどうかは定かではない。ただ、サリン 事件においては東京都の救急隊員や医療関係者が、非常に巧みに対応して、死者の発生を未然に防止 するとともに、被害者たちの健康をすみやかに回復させることができた。このことより、大規模な生 物災害においても日本のシステムが機能する可能性が残っていると考えられる。しかし、サリン事件 において、病院が対応できたことにはある程度の幸運が重なっただけであるとも考えられる。一つは スタッフが仕事についており、被害者の数がおおくても対応しきれたことである。あと少し患者が多 ければ、医療設備や医薬品が不足していたかもしれない。二つめの幸運は医療関係者がサリンの被害 にあってスタッフ数が減少するような非常事態が発生しなかったことである。三つめは病院には4,5 名のガードマンしか常駐していなかったにも関わらず彼らの能力を超えるような混乱が起こらなかっ たことである。これらのことより今回の件についての成功と失敗は紙一重であったと考えられる。こ のように、全ての病院には、被害者の収容・治療能力の面で限界があるが、その能力は本物の災害を 通じなくては検証できないものである。

 生物災害によって、複数の病院でも対応できないような多数の被害者が発生した場合でも、日米の 保健医療システムは、多数の被害者たちに対処して治療を行なえるであろうか。また、公衆衛生当局 は、流行を終息させ、原因を特定することができるのか。

 こうした問題に解答を出すため、アメリカではいくつかの大規模な演習が行われた。これらの演習 では、ウイルスなどがテロリストによって散布されたという想定の下で、感染症の流行が医療システ ム、保健衛生システム、行政機構などにどのような影響を及ぼすかが検討・分析された。演習では、 これら三つのシステムが広範囲にわたって破綻することが示され、政策の決定や立案に携わる人々の 間には、大規模な生物災害によって発生する諸問題に対処するうえで、アメリカの対策には改善の余 地があるという認識が広がった。

 アメリカ政府は、これらの演習前から生物災害、特にバイオテロリストの攻撃を憂慮していたた め、予算措置が講じられて実行に移されていた。その総額は、年間約110億ドルにのぼり、生物化学兵 器への対策と防護には約10億ドルが支出されており、バイオテロ問題については、今後も対策のため の努力が続けられると考えられる。

 一方、日本政府は、アメリカに比べると自国領土で大規模な生物災害がおこる可能性については低 い関心しか示していない。サリン事件の時でさえも、政府関係者に対して顕著な影響力をもたず、彼 らが警戒心を呼び起こしたようにはみえなかった。しかし、北朝鮮がらみで3件の事案が発生した後の 1999年になってから、生物兵器が日本の安全保障に対する重大な脅威であることを認識しはじめた が、これらの措置は中途半端であったため、すぐに効果の現れるものではなかった。こうして、2001 年11月まで、日本の人為的な生物災害に対する対策は低水準にとどまり、アメリカに大きく遅れを とっていたが、2001年11月より、徐々に状況に変化の兆しがみえはじめた。

 アメリカの政府関係者は、バイオテロの分野における日本の努力は、不十分で近視眼的だと考える かもしれない。他方、日本政府の関係者は、アメリカの方こそ、現段階では限定的な脅威としかいえ ないバイオテロに過剰反応して金を浪費していると思っている可能性がある。しかし、生物兵器の脅 威から自国民を防護するうえで、日米いずれのアプローチが適切かを、現時点で判断することはでき ない。ただ、テロ防護を目的とした予算の一部は、医療機関や公衆衛生の専門家達の能力向上をはか り、自然的な感染症の流行についても、彼らが従来より適切かつ迅速に対処できるようにするために 支出されている。

 日本は、国内に多数のアメリカ人が駐留するという特別な状況下にあり、一部の日本人は駐留に批 判的で、彼らが出て行くことを望んでいる。また、在日朝鮮人の中には、北朝鮮に忠誠を誓う者たち がいる。したがって、在日アメリカ軍基地が将来的に生物兵器や化学兵器による破壊活動の目標にな ると考えることも不自然ではない。これらの基地は、日本社会からほとんど隔絶した存在であり、基 地のスタッフが医療を必要とした場合、基地で治療を受けるか、重症の場合には、アメリカ政府が運 営する病院へ搬送される。アメリカ軍基地と受け入れ自治体の間には協力・連携関係は存在していな いと考えられる。

 しかし、基地司令と地方自治体が、自然災害や生物剤・化学剤による災害の場合について、公式ま たは非公式の合意を通じて、両者の協力方法を取り決めておくことは、双方にとって有益であると考 えられる。なぜなら、多数の被害者を伴う災害の場合、基地や受け入れ自治体だけに被害が限定され ないおそれが大きいからである。したがって、両者の防護を目的とした計画を立案、実行すれば双方 の利益になると思われる。かりに防護が失敗した場合でも、災害救助の面で活動の調整が行われれ ば、被害者は迅速に治療をうけることができる。これまでは基地問題について日本側は神経質であっ たが、生物災害への危機感を持つことにより、今後、地域的構想が実現する機運も生まれてくると考 えられる。


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