災害医学・抄読会 2001/02/14

放射線事故ならびにサイト内救急医療の見直しを

小栗顕二、救急医療ジャーナル 第8巻第1号通巻41号 3, 2000


<学生の感想>

 東海村原子力発電所の救命救急に関する資料を読んで、現在の救急医療の体制について考察を加えた。

 現在の原子力発電所の救急医療は、法律で定められた救急体制により、一次救急、二次救急、三次救急となっており、事実、東海村での事故の際にも、前記にのっとって救急医療が行われた。 この論文は、行われた医療に対して、疑問をはさんだり、原子力発電所での事故を、原子力発電所の専門家よろしく非難したり、批判したりする類のものではなかった。事故そのものに関しては別にして、その事故に対してとられた医療は、現在の体制のもとでは正しかったとしながらも、現在の医療体系そのものに疑問をはさんだものであった。

 この事故で、結果的には1人の方が三次救急の病院である東京大医学部付属病院で亡くなった。しかし、患者が一次救急、二次救急を経てこの病院まで運ばれるまでに、かなりの時間が経過していた。筆者はこの事実にふれた上で、もし、この患者が被爆した時点で心肺停止の状態に陥っていたとしたら、現在の体制では三次救急に運ぶまでの時間がかかり過ぎる、としている。自分も、確かにそのとおりであると思う。が、しかし、ではどうすれば良いかと言うと、難しい問題であると思う。方法はいくつかあると思うが、原子力発電所に限らず、特殊な場所においては以下のような方法がよいと思う。一次救急、二次救急、三次救急という役割分担は必要であるが、事故が起こった時点で、特殊な状況であることが判明していれば、段階を追わずに直接、高度で専門的な医療のできる病院に運ぶ体制をとるべきであると思う。地震などのように、多数の負傷者がでるような状況では、負傷の程度に応じて、それに見合った機関で適切な治療をするのが望ましいが、東海村での事故のように、最初から高度で専門的な治療が必要だと判断される様な場合は、新たな体制を採る必要があると思う。


知っておきたうい災害医療対策

林 泰史:治療 83: 135-7, 2001


<学生の感想>

  "災害発生時に医師はどう動けば良いか"についての資料を読んで、考察を加える。

 災害が起こったら、医師はどう行動するべきか?災害時の救急医療には、いくつかの役割分担がある。それは大まかに、「医療救護班」と「後方医療施設」とに分けられる。医療救護班の役割は、被災現場や避難所に設けられた医療救護所において、運び込まれてくる負傷者に応急処置を施し、応急処置で手におえない負傷者は、後方医療施設に送り込むことである。いわば、出かける態勢の医師である。それに対して、後方医療施設では、応急処置で対応できない負傷者や、被災地の病院に入院していたが、災害によって治療が継続できなくなった患者に対する治療を行う。いわば、待ちの医者である。少し細かく分けると、医療救護班には、災害の起こった地域の医師会のもとで編成される医療救護班と、国公立病院や保健所、日赤などを中心に都道府県が編成する直轄医療救護班とに分けられる。それに対して、後方医療施設は厚生省により指定され、都市でのライフラインの機能停止時にも、応急的な診療機能を維持できる。このように、役割分担をすることで、受傷の程度に見合った医療を、より効率的に受けることができるのである。このような体制による治療を、さらに円滑に進めるのに、一役買っているのが、トリアージである。トリアージとは、負傷の程度を重症から軽傷まで分類して、治療の優先順位をつけて、負傷者に札をつけることである。

 以上のことを踏まえて、医師が災害時にどのように動けば良いのか?それは、災害時の医療体系の全体を知ったうえで、自分の役割はなんであるのかを把握し、自分の能力に合った範囲内で、自分の役割を果たしていくことが何よりも大切であるとおもわれる。

 最後に、二つの資料を読んで、同じ救急医療と言っても、より高度な医療施設に、いかに早く患者を運ぶかと言うケースと、いかに多くの負傷者に、より早く適切な治療をするかというケースで求められるものが違ってくる、そしてそのために必要な体制も違うことを知った。


被災地病院での対応 2.緊急避難指示下での転送患者受け入れの経験から

中谷玲二、エマージェンシー・ナーシング 2001年新春増刊 311-318, 2001


<要約>

 2000年3月27日有珠山周辺では火山性地震が増加し、新聞やテレビは噴火の可能性が高いことを報じた。洞爺湖を挟む有珠山の対岸の洞爺村にある洞爺温泉病院において3月28日午後1時院内の各部署のリーダーが招集され、第1回の緊急噴火対策会議が開かれた。会議では、噴火後降灰の影響や交通が遮断されることによる職員の交通や物資の供給への影響が予想されることからY2K問題対策の総点検とこれらの問題に対応した追加対策が話し合われた。

 災害時のライフラインについて、水は断水時の給水車の手配をし、電気は自家発電機を病院に備え付けている上にさらに3台リース用意した。ガスはプロパンガスのため問題なかった。

 医薬品に関しては、従来の室蘭・伊達方面からの洞爺湖経由のルートが遮断された場合札幌ルートより搬入するように卸各社に確認した。食料は約1週間分確保した。

 職員の確保について、噴火に伴う交通規制のため職員の交通ルートが遮断されることが予想されたため、最悪の場合院内や洞爺村の宿泊施設に泊まりこんでもらうことが必要と考えられた。

 3月18日有珠山の麓にある洞爺協会病院より約20名の入院患者を受け入れてほしいとの要請があった。しかし、このことによって入院患者定数を超過するため室蘭保健所に受け入れの許可を確認した。

 3月29日火山性地震は増加し、室蘭気象台は「数日以内に噴火する可能性が高い」と報じた。洞爺協会病院の後藤院長は午前11時に患者の全員待避を決断した。午後1時に後藤院長からの患者32人の受け入れ要請と自衛隊車両による搬送が午後3時に開始されるとの連絡があった。当院では協会病院患者送迎のため、救急車2台、リフトカー1台、ワゴン車2台20人乗りバス1台とそれぞれの運転手を待機させた。

 午後4時30分に洞爺湖の両岸の道路、洞爺村から札幌方面へ通じる国道に交通規制が敷かれ、洞爺村は陸の孤島となった。「自衛隊が予定通りこない。しかし交通規制を無視して有珠山の麓に職員を出動させ、もし救出中に噴火した場合職員の命を危険にさらすことになる」と葛藤と戦いながら午後6時10分に待機車両を協会病院に向かわせる指示を出した。

 次に、医薬品、食料の緊急時のルートである札幌ルートが交通規制により通行禁止となったことに対する対処だが、北海道庁の担当者に事情を話し搬入ルートを確保してもらい、伊達警察署長と交渉して当院の職員と名乗れば交通規制を受けずにすむように指示をだしてもらった。

 午後7時30分協会病院から患者搬送の救急車が当院に到着、両院の看護婦間で患者の重症度を確認し、当院の看護部長が病態に応じ病室をすみやかに選択していった。さらに患者取り違え防止のため、医事課職員がその場でカルテ作成、ベッドネームプレートの作成を的確に行った。 翌日、全職員無事検問を通過してきた。しかし、交通規制のための警察官も全道から集めてこられたため情報が錯綜しており当院の通行許可を知らない警察官もいて、一時的に足止めされたり遠回りさせられた職員もいた。職員との連絡には携帯電話が役に立った。

 投薬については薬剤情報提供書を持参された患者はスムーズだったが、持たない患者は協会病院に問い合わせることもできないため苦労した。さらに細かい現病歴を確認する時間がない場合にも、薬剤提供書から現病歴の類推が可能であった。

 今回、大量の患者の受け入れが成功した理由として、噴火の予知が正確であり時間的な余裕があったこと、常日頃から両院間に緊密な関係があり意思の疎通がはかれたこと、Y2K問題から日が浅く行政一体となって準備を整えれたことなどが考えられる。今後予知不可能な災害に備えるためにも、災害対策のマニュアルと地域一体となった訓練が必要であろう。

<感想>

 災害に対しては正に備えが大切であると感じた。特にライフラインの確保や食料医薬品の準備が大切である。また地震などの予知不能な災害に対しては普段から防災訓練などの考える機会が必要であるだろう。さらに災害時には実際何が起こるかわからないのでその時々に応じた臨機応変の態度がる望まれると感じた。


ケーススタディ 沖縄サミットの救急医療体制

前川和彦、救急医療ジャーナル 第8巻第6号通巻46号 26-28, 2000


 2000年7月21日(金)〜23日(日)の3日間にわたって、九州・沖縄サミット、沖縄首脳会議が開催された。この首脳会議に対して、わが国では未曾有の規模の救急医療体制が展開された。以下、こうした体制を構築するに至った経緯、この体制のもつ意義などについて述べる。

 G8サミットの開催地は各国持ち回りとなっており日本での開催は今回で3回目となる。過去2回のサミットはいずれも東京で開催され、この際の救急医療対応に関しては個別の医療機関に外務省より委託があっただけであり、組織的な救急医療体制作りは全く行われなかった。このことは、医の視点からの危機管理体制上、大いに問題があったと考えられる。したがって今回は厚生省健康政策局を中心に救急医療体制を構築していった。

 まず救急医療の対象は各国の首相(9人)を最優先することとし、次いで随行の上級シェルパと首相婦人(約100人)およびその他の代表団員(約200人)とした。基本的な救急医療対応とその原則は、1)沖縄県における日常的な救急医療活動に極力、過剰な負荷をかけず障害とならないようにすること、2)通常の基本的な救急医療ニーズに対応すること、すなわち初期救急医療を提供すること、3)個別の疾病、事故に対する二次、三次救急医療体制を確保すること、4)爆薬、生物兵器、化学兵器などにより、テロ行為、食中毒などを想定した医療対応体制を構築すること、であった。これらを実現するために、沖縄県における人的、物的医療資源は地域の日常診察に温存すること、本土から派遣する医療チームが首脳陣対応の救急医療チームとなること、本土からのチームが活動しやすいように、現地医療機関から医師、看護婦、事務職員らが支援すること、などが確認された。

 体制の構築について、統合対策本部(Unified Command)の考え方が採用された。これによって医療救護組織における指揮・命令系統の確立のみならず関係する組織・機関との情報の共有と資源の有効活用という災害対応の原則が実現した。

 医療資源の確保として、基幹救急医療施設にはサミット会議場の名護市ブセナホテルから救急車で8分の距離にある沖縄県立北部病院が指定された。サミット関連のイベントの場所に応じて県立中部病院などの他の病院も救急医療機関となることも決定された。医師や救急用資器材、救急用医薬品の確保については、日常的な救急医療応需体制のみならず、大量殺戮兵器(WMD:Weapons of Mass Destruction)によるテロ行為への対応を考慮し準備にあたった。

 まず、専門医療チームとして爆弾などの通常火薬によるテロ対策、その他不測の事故による外傷対策として、10チームの外傷外科チームと関連資器材の整備が図られた。さらにこれら外傷チーム以外に、脳神経外科2チーム、整形外科2チーム、心臓外科2チーム、IVR(Interventional Radiology)2チーム、循環器内科2チームが組織された。これらの外科系チームは、手術などが円滑に行うことができるよう、原則として同じ医療機関からの術者1人、助手1人、麻酔科医1人、看護婦2人で構成するものとした。

 また、首脳陣の移動に応じて各所に首脳対応医、看護婦、および大型患者収容者(Mobile ICU)と搭乗医を配備した。救急搬送は基本的には陸路を使用することとしたが、発生する地域や疾病によりヘリコプターを使用することとし、ドクターヘリと救急搬送ヘリを2機ずつ駐機させた。また多数の重症熱傷患者が発生した場合には、防衛庁との間で患者を本土へ空路搬送するcontingency planも策定された。

 今回の救急医療体制の構築にあたり、従来の「災害」に代わり「Possible Injury-Creating Event(PICE)」に基づいて準備にあたった。PICEとは、「自然、人的災害を問わず、災害が社会に及ぼす影響を、原因事象の持続、地域の対応能力、影響の広がり、外部支援の必要性をスケール化して具体的に災害の内容を表現しようとするもの」である。原因事象として火薬による爆破,化学兵器によるテロ、テロのうち最も可能性が低いと考えられる生物兵器によるテロ,食中毒などを想定した。これらに対し、本土からの支援戦力で医療対応が完結できない場合は、沖縄に存在するあらゆる医療資源の動員を図ることとした。

 本作戦の持つ今日的意義のついて主に以下の4つが挙げられる。1)本作戦では、それぞれの領域の第一人者と目される専門家を全国レベルで動員し、官民上げての救急・災害医療準備体制を展開したこと、2)テロ行為を含め,あらゆるシナリオを想定した準備体制であったこと、3)統合対策本部(Unified Command)の概念を導入したこと、4)強力な指導力の下に、十分な検討期間と準備期間を置き,官民が一致協力すればここまで可能であることを示したこと,なお,本作戦の準備,期間中の業務に関する問題点,反省点は、後日の検証会議で議論される予定である。

 今回の経験は、将来わが国で開催されるであろう同種の会議や国家的行事などに備える救急医療・災害医療準備体制の格好のモデルとなるものと考えられる。


第1章 発災直後からの避難生活の現状及び課題
(1)発災後 1日

地震防災対策研究会、自主防災組織のための大規模地震時の避難生活マニュアル、(株)ぎょうせい、東京、1999, pp.10-33.


 平成7年1月17日午前5時46分、淡路島から阪神地区にかけて、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.2の直下型の大地震が襲い、神戸市域を中心に広範囲で震度7の激震を記録した。被災市町村の中で最も大きな被害を受けた神戸市においては、死者4,484人、負傷者14,679人、全半壊した家屋86,732棟、火災発生件数166件、焼損床面積817,818平方メートルという大惨事となった。(平成8年11月18日での自治省消防庁の調査結果による。)

 今回読んだ論文には震災1日目の避難生活の様子が書かれてあった。

1.管理運営

 地震の発生が夜明け前であっため、当時避難所となった施設に管理者はほとんどいなかった。被害の大きい地域ほど管理者の到着が遅れた。施設管理者が到着する前にすでに校舎内に避難者が入っていたという学校等もあった。学校以外でも急遽避難所として施設を開放した公的施設、民間施設も数多くあった。避難場所での管理運営は施設管理者等がほとんど一手に引きうけていた。地域社会との関係が密接な施設では避難者有志がボランティアとして災害発生時から活躍したところもあった。地域のコミュニケーションが密接な地域では地域全体で自主的に避難者の対応を行った地域もあった。一方日頃から地域社会との関わりが少なかったことから、居住環境が整っている指定避難所でもほとんど避難者が集まらなかった施設もあった。

2.情報

 被害の大きかった都心部において避難場所の管理運営者の多くは、地方公共団体との連絡が取れず、状況のわからないまま避難者の対応に追われていた。災害発生直後停電した被災地における主な情報源は携帯ラジオであった。一方、被災地の人々は知人の消息を知ろうと、通じている電話に殺到した。

3.救護

 被害の大きかった地域では重症患者も多かった。地域の医療施設は重傷者で埋め尽くされていた。このため、避難場所施設は応急医療の場として重要な役割を果たした。避難場所で自発的に医療を行った人の多くは、医師、看護婦等の資格を持つ避難者自身であった。

 一方遺体は近隣の避難場所に運ばれた。これらの施設は計画上遺体安置所ではなかったが、即席の遺体安置所を施設内に設置して対応した。多くの避難者で足の踏み場の無い施設では、遺体、遺族、避難者らが同じ部屋で過ごすことになったところもあった。

4.居住環境

 大きな被害を受けた地域では、電気、ガス、水道、電話等のライフラインが寸断された。このうち電気はその日のうちに復旧できたところが多かった。特に計画上の避難所であり大勢の避難者が詰め掛けた施設では復旧作業が最優先された。被災後初めての夜を迎えた避難場所では就寝時にもほとんど明かりがついており「明るいので安心して眠れた。」と感じた避難者が多かった。

 「明かり」とともに必要不可欠だったのは「暖を取る」ことだった。多くの避難場所は暖房器具が使えず、毛布等の備蓄は無かった。避難者たちは倒壊家屋の廃材を燃料にした焚火を始めた。

 上下水道が寸断された地域では、水洗トイレが使用できなくなった。何千人もの避難者が生活することになった避難場所では施設内のトイレはもちろん、運動場のあちらこちらにも糞便の山が出来た。神戸市によると、全避難所に仮設トイレが行き渡ったのは震災発生後約2週間を経てからだった。

5.食糧物質

 地震発生当日大きな被害を受けた地域では避難者の多くはほとんど何も口に出来なかった。次はいつ来るかも分からない食糧と水をめぐってパニックが起きていた。しかしこの混乱は、水や食料が無いわけではない、という周囲の状況がわかるとともに収束していった。

 この日特に必要だった物質は、医薬品、電池、懐中電灯、携帯ラジオ、暖を取るための毛布や衣料品、カイロ等であった。このうち毛布や衣料品についてはこの日の内に救援物質として送られてきたところも多くあった。

【震災対策】

 神戸市では、同年3月から地域防災計画の改定をはじめとする抜本的な災害対策の見直し作業にとりかかり、平成8年の3月に地域防災計画(地震対策編)の改訂を行い、現在、同計画に基づいて具体的な地震防災対策事業に取り組人でいる。

 一方国も平成7年1月に発生した阪神・淡路大震災の被害の大きさをみて、新規法律の制定や防災基本計画の大幅な見直し等その強化を図っている。

  


有珠山噴火災害の対応状況

自治省消防庁防災課、月刊消防 22巻8号(通巻252号): 83-8, 2000


有珠山噴火災害の経過

(有珠山)3月27日から:地震が増加

(地方)3月28日〜29日:地元1市3町1村(伊達市、壮瞥町、豊浦町、虻田町、洞爺村)に災害対策本部設置

(有珠山)3月29日:地殻変動

(気象台)3月29日11時10分:室蘭地方気象台が緊急火山情報第一号

(政府)3月29日:官邸の危機管理センターで2回、関係省庁局長級会議を開催

(消防)3月29日:消防庁内に有珠山火山活動災害対策室を設置

(地方)3月29日:道災害対策本部、道災害対策肝振地方本部、現地災害対策本部を実施

(その他)3月29日18時30分:避難指示出される。

(消防)3月29日18時54分:北海道知事からの派遣要請を受け、消防庁長官が緊急消防援助隊として、横浜市消防局の耐熱装甲型救助車等3隊16名の派遣を要請。

(政府)3月29日および30日:災害対策関係省庁連絡会議を開催。

(気象台)3月30日:緊急火山情報第二号を発表

(その他)3月30日:伊達市、壮瞥市、虻田町の1市2町合わせて4612世帯、1万545人の住人に非難指示完了。

(消防)3月30日13時30分:伊達市消防庁および西肝振消防庁からの応援要請を受け、道内応援部隊59隊205名が出動し、有珠山周辺に展開。

(消防)3月30日16時20分:消防庁長官が東京消防庁に耐熱装甲型救助車等4隊17名の派遣を要請。

(有珠山)3月31日13時10分頃:西側山麓で噴火活動始まる。

(消防)3月31日13時30分:消防庁内に有珠山火山活動災害対策本部(本部長:消防庁長官)設置。

(消防)3月31日13時45分:西肝振消防長の要請を受けて札幌市消防航空隊が情報収集フライト開始。

(政府)3月31日14時:官邸にて関係閣僚会議を開催。

(政府)3月31日14時30分:有珠山噴火非常災害現地対策本部(本部長:国土庁総括政務次官)を伊達市に設置。

(その他)3月31日:西側山麓から噴火が始まったことにより、噴火口に近い虻田町の2087世帯、4722人に新たな避難指示。

(有珠山)4月1日11時30分過ぎ:金比羅山西側山腹から噴火始まる。

(消防)4月3日:仙台市指揮支援部隊1隊5名が出動(4月14日帰還)。

(消防)4月5日:東京消防庁遠距離大量送水部隊2隊6名が出動(5月8日帰還)。

(消防)4月5日:川崎市消防局遠距離大量送水部隊4隊12名が出動(4月26日帰還)。

(消防)4月7日:消防庁長官現地視察。

(その他)4月8日:住民の一時帰宅が始まる。

(その他)4月13日:伊達市内の避難指示地区のうち居住地域全地区が解除。

(消防)4月16日:道内応援部隊が77隊238名と最大数になる。

(その他)5月12日:壮瞥町内の避難指示地区のうち居住地域全地区が解除。

(消防)6月9日:消防庁長官現地視察

(消防)7月3日:消防の応援体制としては現地に札幌市指揮支援部隊1隊のみを残し、その他の部隊は緊急時に参集できる体制に以降。

(その他)7月6日:避難指示の対象となっているのは虻田町の1081世帯、1934名。

学生の感想

 今回の災害においては噴火の発生初期より、地域衛星通信ネットワークを 活用することにより、関係各機関では速やかに状況を把握することが可能であり、 また情報の共有化が図られ、大きな効果が得られた。関係機関が多岐にわたる 以上、情報の共有化は必須であり、その点においては関係機関は綿密に連携し、迅速かつ 的確に住民に対する指示が出せたと思われる。

 この度の災害は火山噴火であり、噴火前から多数の住民が避難をしており、被害は最低限に 抑えられた。その理由として、1つ目には専門家による火山活動の的確な判断、噴火時の危険地域をあらかじめ記したハザードマップを地元の全世帯に配布することで危険性が市民に十分認知されて いたこと、各機関が速やかな行動を取ったことが挙げられる。しかしながら大地震など比較的予知の難しい大規模災害の際に果たして住民の避難や関係機関の連絡が迅速に 行われるかは議論の余地がある。以上のことより、災害が起きてからの公的機関の対応の改善も さることながら、危険地域の住民がその危険性を十分に認知することこそが最も確実に、 また容易にできる災害被害予防であり、災害が予想される危険地域においてはハザードマップな どによる事前の住民認知が被害を最小限に抑えることに大きく貢献すると思う。


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