災害医学・抄読会 2001/02/02

わが国の災害医療のあけぼの

坂本重太郎:日本集団災害医学会誌 4: 3-6, 1999


 日本の国際協力は、特に人材の派遣という点で大きく世界各国におくれをとっていたが、強い国 際世論の中、1979年のカンボジア難民の発生時に医療チームを派遣したのを初めとして、我が国も 国際協力の道を歩み始めた。カンボジア難民医療に始まって20年、現在ではPKOといった大きな団 体にまで発展した。しかし、まだ国際的に国際協力の歴史は浅く、いくつかの問題点を抱えてい る。

 まず第一に、日本は技術や経済援助は積極的に行っていた反面、人道援助というものに慣れてい なかったため、技術・経済援助と同じように相手国の要請を待って出動するので、他の先進国に比 べて遅くなるという点が挙げられる。第二に、輸送手段が挙げられる。災害が発展途上国で起きた 場合、民間機は常に余裕がなく、急に飛行機をチャーターするのも無理で、やはり諸外国より出足 が遅れている。第三に、日本では援助費用を決めるのに、いちいち閣議にかけなくてはならず、大 使や担当局長の裁量で、ある程度援助額が決められるアメリカなどに比べると、明らかに柔軟性に かけるシステムである。

 こういった日本政府の独特の体制に加えて、日本人にはボランティアといった考え方があまり一 般的でなかったことも、日本の国際災害医療の未発達の一因であろう。ボランティアとして働こう といった発想がなかなか無いのはもちろんのこと、ボランティアに対する理解が少ないため、PKO や国境なき医師団などの国際協力団体に、医師が容易には参加できないというのが現状である。し かし、最近のボランティア意識の高まりや、NGOの活性化に伴って、今後こうした状況も改善され ていくだろう。


沖縄サミットの救急医療体制

真栄城優夫、救急医療ジャーナル 第8巻第6号通巻46号 8-11, 2000


指揮命令系統の一極集中

 行政、医療、消防、警備など相互の情報を共有化し、指揮命令系統の一極集中を図り、円滑な救急医療を遂行する目的で、救急医療合同対策本部が設置され、24時間対応体制がとられた。高規格救急車、ドクターヘリの運用など、全て本部の判断により指令された。

医療チームの構築

  1. 首脳対応チーム

    9人の医師からなる。各々に、小型酸素ボンベと挿管セットを含むリュックサック型の救急セット、ポータブル心電計、除細動器、パルスオキシメータ、救急薬品キットなどが配備された。

  2. 高規格救急車添乗医チーム

    各国代表団の宿泊ホテルに配置される高規格救急車に添乗するとともに、代表団員の健康問題のプライマリケアを行う為に、それぞれのホテルに医師2人、救急救命士1人が24時間対応を行う事になっていた。

  3. ICUバスチーム

    4床のICUベッドをもつ中型および大型のバス各一台、計2台が準備された。大型は空港待機、中型は医療統合本部に待機し、晩餐会に際しては会場に移動した。バスにはレスピレータを始めとするモニター類か゛常備され、いずれも医師1〜2人、看護婦1〜2人、臨床工学士1人が担当した。

  4. ヘリコプター添乗チーム

    ヘリコプターは2台。それぞれ医師2人、看護婦2人が担当し、そのほかに運行のためのパイロット4人、整備士3人、気象管理者2人、運航管理者2人、その他管理者3人が待機。

  5. 専門医療チーム

    術者、助手、麻酔医各1人、看護婦2人、計5人で構成される専門医療チームが18チーム結成され、拠点基幹病院である県立北部病院にて24時間待機を行った。チームの内訳は、外傷チーム10、整形外科チーム2、脳神経外科チーム2、心臓血管外科チーム2、循環器内科チーム2である。

最後に

 今回のサミットの過去の東京サミットとの大きな相違点として、開催地が地方都市であることが挙げられる。上に挙げた対策を策定するに際し、今回同様、地方都市で開催されたドイツ、イギリスのG8サミットにおいてとられた準備状況を事前に検討した。 本邦においても、諸外国のように、集団災害医療体制の構築とともに、それに関する法の一層の整備が必要になることが予測される。沖縄サミットにおける経験は、今後の本邦の災害医療対策の一助となるであろう。


病院災害と危機管理 1.病院管理の立場から

辺見 弘、エマージェンシー・ナーシング 2001年新春増刊 284-292, 2001


 災害時には急速に医療需要が高まり、平時の医療水準を維持するには、医療資源の供給が圧倒的に不足している状況である。平時には重症患者にすべてのもてる医療資源をつぎ込み究明に対する最大限の努力をするが、災害医療の原則は多数の医療対象者に対して、限られた医療資源でできるだけ多くの人を救命することである。そのため効率よく医療資源を被災地に搬送する後方支援(ロジスチックス)も重要になる。これは、救出、救助された重症の傷病者を被災地から離れた、ライフラインや医療施設に損壊のない遠隔地に搬送して根治的な治療をすることがより効率的な救命を可能にすると考えられる。すべての傷病者に対して1施設の能力で治療しようとする自己完結型の対応に陥ることなく病院のもつ災害対応能力を日頃から訓練をして理解しておくことが必要である。ゆえに病院が被災地にある場合と被災地外とでは対応が異なってくる。

 病院が被災地である場合の対応として、時間、マンパワー、ライフラインの損壊を考慮すると被災地の病院はトリアージと初期治療に徹して、救出された重症者は非被災地の建物、医療資源、ライフラインが正常なところまで広範搬送を考えることが重要になってくる。

 病院が非被災地である場合の対応として、救護班は被災地に負担をかけないためには、ドクターカーやワンボックスカーなどの病院車を緊急車両として登録しておき、医療資器材を携え、被災地の災害拠点病院に向かうことが望ましい。そして、広域搬送患者の受け入れにおいて、日勤タイは職員数は豊富でライフライン、医療設備もフル稼働可能であるが、通常の診療が行われていて手術室などをはじめほかの設備も使用中である。広域搬送される患者さんは初期ほどトリアージカードは赤タッグで緊急度、重症度の高い患者さんである。病院の対応も迅速性が要求される。搬送時間と人数により受け入れ準備は異なるが、初際2時間までは平時の救急患者対応人数に等しく、救急患者の手術は普段の状態で同時に2列であれば、同数の患者を受け入れることができる。それ以後に外来ストップやスタートしていない定時手術を中止することにより対応力は上がる。日勤帯以外では職員の参集が確実であれば参集人数に応じて対応力はアップする。

 あらゆる部門からなる災害対策の中で医療の占める割合は必ずしも多くはないが、人命を救うことが目的である以上、医療は最優先の事項である。しかし、システムとしての救急医療体制の早期立ち上げと、重症患者の被災地以外での治療をするための航空機による緊急搬送体制の確立、拠点病院間の連携といった組織的な救急医療体制の確立が課題である。


被災地病院での対応

1.緊急避難指示下での患者転送を経験して

後藤義朗、エマージェンシー・ナーシング 2001年新春増刊 320-310, 2001


 有珠山が2000年3月31日に噴火した。その2日前に避難勧告と避難指示が出され、某病院では入院患者281名のうち、退院や外泊を除く143名が移送対象となった。その病院での避難概略と問題点について考える。

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 院内では、避難前日に災害対策特別委員会を開催。避難手順を確認し、連絡網の整備、避難時の役割分担を行った。さらに受け入れ可能病院へ連絡し人数の調整を依頼した。3月29日未明から、2回の大きな地震があり、11時の同委員会で避難決定した。護送患者はエレベーターの動いている合間を縫って、1階へ移動し、担送患者はバスの準備が整うまで病室で待機したが、地震のためエレベーターが停止したため、人海戦術により担架で下に降りた。自衛隊救護班については、指示系統が異なるため直接連絡が取れず、到着時刻の確認ができなかった。そのため、自主避難を決行した。病院のバス以外に営業用のバス、近隣のホテルの送迎バスを依頼し、車両以外に運転者の確保にも窮した。降車の際は、受け入れ病院で行ったため手順で混乱した。重症患者については救急車で搬送した。

 避難の準備については、次のような事が行われた。患者のID明示、患者情報の整理、薬剤の準備、医師による準備、病棟における準備、書類・機器の整理、救護班としての準備、事務室での準備、移送手段の確保である。

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 避難における注意点、問題点は以下のようなことが考えられる。

 まず相互連絡体勢や手段の確立である。現状では病院と自治体、消防関係の間は電話しかない。そのため、電話通じないような事態に備えて、別の緊急回線の確保、無線を含めた連絡手段が急務である。携帯電話の利用を推進、キーとなる連絡先を数カ所決めておくと良いと思われる。とくに自衛隊との連携がとれないことが、緊急災害時の問題点である。またテレビは情報源として有用である。

 移送側は数の応対に追われたため受け入れの形態が問題である。そして、現地派遣スタッフの選択基準は、独自性を持って現状に対応でき、意志決定できる人を核にすべきである。

 患者の受け入れに際しては、治療食より安全な場所の確保が重要で、受け入れ側も病室人数を基準に考えないで、病棟単位で受け入れることが望まれる。

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 防災には冷静な判断が重要で避難勧告では自主的退避が基本である。さらに緊急受け入れのための相互ネットワークが重要である。


第1章 発災直後からの避難生活の現状及び課題
 ―阪神・淡路大震災の課題―

地震防災対策研究会、自主防災組織のための大規模地震時の避難生活マニュアル、(株)ぎょうせい、東京、1999, pp.1-9


 大規模地震発生後おおむね72時間は、消火活動、人命救助等の緊急措置が優先されるため、避難生活については、住民、自主防災組織が自力で対応する必要がある。その後も時間の経過と共に変化する被災者ニーズに対し、住民、自主防災組織および地方公共団体が協力して対応することが求められる。

 今回、膨大な被害者を出した阪神淡路大震災(平成7年1月17日発災)の事例に着目し、そこから地震災害が発生した直後(約72時間後)を中心とする避難生活の現状・課題を整理する。

【避難生活の実態調査の視点】

 調査対象は主に多数の避難者が一時的に居住した学校、公民館等の施設とする。方法は記録誌等の関連書籍、論文、新聞記事から抽出し整理した。

【阪神淡路大震災における避難生活の概要】

 被災地全体で発災後7日目に避難者が最も多かった。(兵庫全体で約31万7000人)また避難所は1153箇所に達していた。最も避難者が集中したのは神戸市で8日目を境に減少していった。ここを例に避難者数、避難場所等の数の推移を見ていくことにする。避難者数及び避難場所はそれぞれ8日目、6日目にピークを向かえ、また前者においては当時の神戸市のおける夜間人口の約15%にあたった。発災から5日目は就寝者数のほうが避難者数より多くなっており、これにより発災直後の混乱を極めた状況の一端がうかがえる。

 避難所となった施設は地域防災計画で指定されている所だけでなく、指定外の小中学校、高校、大学、役所等様々な施設があり、この他自家用車、公園や空き地に張ったテントで生活する人も多く見られた。このように様々な避難所に避難したのは,情報がない状況は下で、とにかく安全と思われる場所の非難したケース、なるだけ、自宅近くで生活しようとしたケース等が要因となると考えられる。避難率はやはり被害の程度によって大きく異なり、震度7ではなかった地域には発災当初から避難者は殆どいなかった。

 一方、他の地域の状況として震源の直近に位置する淡路島の北淡町では、地元消防団等が避難誘導に大きな役割を果たしたため住民の避難開始時期が早かったと言われている。同町ではかなりの被害に見舞われたが、発災10時間後には、すでに行方不明者はゼロとなった。これは、地元消防団を中心とした住民の自主的な救出・救護活動によるものであろう。ただし、全く予期せぬ未明の大地震であり、しかも瞬時に壊滅的な被害を受けたため、消防団としての組織的な活動は、ほぼ不可能な状態にあったが、各消防団員が独自に救出等の現場へ向かい、近隣住民とともに即席のチームを編成して臨機応変に活動したこと、殆どの消防団員が倒壊家屋の間取り、寝室等の位置を正確に知っていたことが、被害を最小限に抑える鍵となったと考えられている。


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