勝村久司
(「世界」 1998年、8月号)
■はじめに ■非開示の厚い壁 ■レセプトさえ見られなかった時代 ■不正請求は本人にしかわからない ■消費者の需要に応じた医療を ■レセプト開示からカルテ開示へ ■医師・患者の信頼関係とは何か ■文書開示時代に告知は拒否できない ■オセロの角(かど)の意味 □参考文献 |
昨年6月25日に厚生省がレセプトを開示するよう全国に通達を出してから1年。 今年6月18日には、厚生省が発足させた「カルテ等の診療情報の活用に関する検討会(本稿では以降「カルテ開示検討会」と呼ぶ)」が最終報告書をまとめ、カルテ等の診療情報の開示を法制化するよう提言した。
しかし、薬害・医療被害の歴史からすれば遅すぎた感のあるこの流れに対し、密室に慣れきった医師たちによる抵抗はいまだに続いている。
大量輸血の末、意識が回復した妻は、以下のように話した。
「『子宮口を柔らかくする薬』を飲んだ後、陣痛が来た。ところが最初から周期が短く、その後、間欠期もなくなってずっとお腹が張りっぱなしになった。初めてのお産だからよくわからないけど、陣痛が本で読んでいたのと違うので不安だったし、だんだんと陣痛そのものに耐えられなくなってきた。助産婦から『しっかりしなさい』と叱られ続けたが、その内にしゃべることもできなくなると思い、医師に対し、最後の力を振り絞って陣痛の異常を訴えた。ところが『これだけしゃべれるということは陣痛が微弱すぎる。陣痛促進剤注射!』と医師は助産婦に指示した。2時間後にようやく医師たちが慌て出すまで、拷問のように押し寄せ続ける陣痛に、意識だけは失わないようにと必死で耐え続けた。」
その結果がこれである。
私は事故後すぐに、新聞で見たことがあった「陣痛促進剤による被害を考える会」と連絡を取り、同様の被害が全国で繰り返され、訴訟が相次いでいることを知った。私たち夫婦は、子供の死を無駄にしないためにも医療裁判を起こすことを決意した。弁護士に依頼し裁判所を通じてカルテを証拠保全した。その結果、最初に『子宮口を柔らかくする薬』という説明だけで投与された薬も陣痛促進剤であることがわかった。そして、カルテや看護記録の記載には私たちの記憶と食い違う箇所もいくつかあった。(後の訴訟の中でカルテの改竄は「事務が勝手にやった」と医師が証言する場面もあった。)
私たちはレセプトも見たいと思った。
私たち夫婦はレセプトを見せてもらうために、私たちの保険者である公立学校共済組合に出かけた。ところが開示請求は冷たく拒否された。共済組合の担当者に、3時間以上にわたり、涙ながらにどれだけ頼んでも見せてもらえなかった悔しさは今も忘れられない。その理由は「レセプト開示は治療に悪影響を及ぼすことになりかねない」などとした厚生省の従来の指導のためであった。
私たちの場合、子は死亡し、妻も既に退院していた。「治療に悪影響が出る」という非開示理由に納得できるわけがない。しかし、あくまでも共済組合は「私共としては厚生省の指導に従っているだけ。言いたいことがあるなら厚生省へ行ってくれ」」と追い返された。
保険者はさらに、私たちが依頼した弁護士による弁護士法の開示請求権に基づく請求にも、弁護士会を通じた請求にも応じなかった。挙げ句の果てには、レセプトが見られないまま始めた訴訟の中で、裁判官が必要と認め、裁判所が請求した際にも拒否した。裁判所からの請求さえ拒否するのであれば、一体何のために保管しているのか。また、情報が隠され、情報が改竄される中で判決が書かれていく状況で、司法は十分に機能しえるのか。
そもそも、保険者に毎月保険料を支払っているのは、被保険者である患者本人である。保険者は患者の代理でレセプトを受け取り支払いをしているのであって、患者による、患者のための機関であるはずだ。ところが厚生省は、法的根拠もなく、患者と保険者の間に大きな壁を作り、患者を情報から孤立させていた。
私は「陣痛促進剤による被害を考える会」の会員として、スモン薬害をきっかけに超党の議員団の仲介でできた「薬害・医療被害をなくすための厚生省交渉実行委員会」に入り、約6年前から陣痛促進剤問題と共に、このレセプト開示問題で厚生省と交渉を続けてきた。個々の薬害・医療被害の解決を求めると同時に、それらが漫然と繰り返される根本原因である「医療の閉鎖性」こそを打ち破らなければいけないと感じたからである。
約2年前には、それまでに知り合った様々な医療被害者や理解ある弁護士・医師らと共に「医療情報の公開・開示を求める市民の会」を結成した。そして、レセプト開示に関する詰めの交渉を行ってきた。その結果ようやく、厚生省は昨年六月二五日、それまでの方針を転換して、レセプトを本人や遺族、委任を受けた弁護士に開示するよう全国に通達を出したのである。(詳しくは末尾「参考文献(2)」に収録の「ドキュメント厚生省交渉〜こうしてレセプト開示は実現した〜」をご覧頂きたい。)
昨年のレセプト開示通達以降、医療費の不正請求・過剰請求の実態について憶測がマスメディアで飛び交っている。その額が「約27兆円にのぼる保険医療費の約3割(または9兆円)」と推測する関係者の発言を紹介し「不正請求の実態にメスを入れよ」とするマスコミに対し、猛反発する医師群は、厚生省の局長らが「根拠となるデータはないが、何となくそんなにはないと思う」という旨の発言をしたこと等をもとに「根拠のない告発なのだから訂正せよ」と主張している。根拠のない告発に対して、根拠のない反論がなされているおかしな状況である。
実はこの状況こそがまさに、これまで日本の医療が抱えてきた問題の本質に近い。要するに、患者本人を抜きにして、平気で議論が続けられてしまうのだ。レセプトに書かれた処置・投薬・検査が実際行われたものかどうかの不正請求のチェックは、患者本人にしかできない。本人にレセプトを見せない中で実際に発覚している不正請求額は平成8年度で年間46億円だった。しかし、例えば、通院日数や薬の量の水増しなどは第三者が見てもわかるわけがない。大阪の安田病院では看護婦数の水増しで20億円の不正請求が発覚したが、それ以外にどれだけの不正請求があったかは、全く検討されていない。第3者が見てもわかる不正だけが発覚しているのであって、それ以上に相当多い不正請求がある「可能性」は誰にも否定できない。
健康保険証はクレジットカードと同じだ。本来、レセプトはカード支払いのときのように、本人に明細を見せ、確認サインをとってから請求にまわすべきものだ。
思えば、レセプト開示の通達が出されるまで、医療関係者が密室性を保持したことや、開示通達後もレセプト開示に反発する地方の医師会や医師群があったことは本当に嘆かわしい。医師たちには、お金を請求する際には、本来その明細を提示する義務があることをわかってもらいたい。
医療が満足できるものになるために本質的に必要なことは、医療消費者(患者)のニーズに応えているかどうか、という視点だ。ところが、これまではレセプトさえ開示されないために国民には何の情報も与えられず、「需要」が生まれようもなかった。医療経済社会は「需要と供給」のバランスによるものではなく、「供給」一辺倒で成り立っていたのである。
それでは、この「供給」は、どのような価値観のもとでなされてきたのか。日本の医療でこれまで診療内容を決めてきたのは、患者のニーズ(需要)ではなく、医療保険制度の中の診療報酬点数表である。これは、レセプトに書かれる明細それぞれの単価を決めた数値表だ。これが基本的に医療者の技術料・看護料等の人件費に対する報酬を低く押さえ、たくさん検査をし、たくさん薬を出さないと儲からないような仕組みを作り出している。
したがって、たとえ国民が「多くの薬より手厚い介護」を需要としても、多くの医療者は、経済性から保険点数の高い検査や薬価差益の大きい薬等を一方的に供給し、需要を無視してしまっていた。
お産の場合を例に挙げると、休日・夜間もスタッフを十分に揃え、自然の陣痛を待ち、自然の進行に時間をかけて付き合ってくれる病院にこそ、私たちは多くのお金を支払いたいと思うが、現状の診療報酬体系では十分なお金が支払われない。逆に、休日や夜間はスタッフをおかないことで人件費を節約し、自然の陣痛には付き合わず、平日の昼間に短時間にお産が終わるように陣痛促進剤等を多用するような病院が儲かるようになってしまっている。
今や、「薬をたくさん投与されるほど、何度も検査をしてもらうほど、メスでたくさん切り取ってもらうほど有り難い」「過剰な医療を受けるほど得だ」というような意識の人は誰もいないだろう(もちろん必要な範囲は必要だが)。繰り返されてきた薬害の構図を出すまでもなく、多くの妊産婦に陣痛促進剤を使用している実態や、共に一律ではなくなってきたが、予防接種や集団癌検診の中にも、患者よりも企業が得をして来たと考えられる例は少なくない。
したがって、医療にとって大切なことは総額が多いか少ないかではない。日本の皆保険制度には良い点もあるが、医療保険がまるで製薬企業等の収入を保障しているような現状を改め、患者(医療消費者)のニーズ(需要)によって生じた医療費こそを保障する真の「保険」の姿に改革する必要がある。
これまでもさんざん「医療改革」と名の付くものは行われてきたが、どれも供給側による「上からの改革」であって、何も変えることができなかったと言える。
唯一抜本改革と呼べるのは、「下からの改革」だ。
情報開示によって、患者が自らの需要にもとづいた医療を選択できるようにし、患者の価値観にあった、そして医療者にとっても納得できる新しい診療報酬点数表を作っていくこと。それが、下からの医療保険制度改革だろう。
医師たちは、下を向いて情報開示を求める患者と対峙しているときではない。そのような姿勢をとり続けることは、一部の悪質な医師ばかりか、厚生省や製薬企業の犯罪までもかばうことにつながる。医師たちはこれから患者に情報を提供して、患者と共に同じように上を向き、健全な診療報酬体系の実現に尽力すべきである。今が医師にとっても、薬価差益等ばかりに頼る製薬企業の営業マンのような立場から脱却し、医薬分業等を進めていくチャンスだと受け止めてほしい。
具体的にはまず、レセプトの写し、またはレセプト相当の詳しい明細書を病院窓口で患者が支払う際に手渡すべきである。保険者に行けばレセプトが開示される今、病院が明細書を拒否する理由はもはやない。パソコンからプリンターに打ち出す設定を変えるだけで発行でき、手間もかからない。そしてその際に、「薬や検査ばかりがお金になる今の診療報酬制度はおかしい」等の制度の矛盾を指摘するチラシを一緒に手渡してくれてもよい。さらに、「保険制度をよりよいものにしましょう」というような署名用紙が窓口の横にあってもよい。
患者に全て情報提供した上で生まれた「真の患者の声」を代弁して医師が上向きに発言するとき、真の医療改革が始まるのではないだろうか。
しかし、レセプト開示について批判的な意見も、医師向けの雑誌等にいくつか出された。これらは、レセプト開示通達が出た2週間後の昨年七月一〇日に、厚生省が発足させた「カルテ開示検討会」の中で、医師会代表の委員らによる意見としても表れた。
反論の最たるものは、「現在の医療システムやレセプト・カルテの記載方法には、欠陥や問題点が多く潜んでいるため、情報開示はかえって医者と患者の信頼関係を損ねる」というものだ。
他にも、遺族への開示にに関して「情報開示でアメリカのような訴訟社会になってもよいのか」や、「患者が癌などの病名を知ってショックを受けてもよいのか」といった告知問題にかかわるもの等の、意識改革の遅れを感じさせる象徴的な反論があった。
カルテ開示検討会は、検討会の一部の委員によるそれらの意見に押されながら、約一年にわたる審議を経て、今年6月18日に最終報告書をとりまとめたこの報告書を総括する意味でも、それらの反論に応じておきたい。
現実に見たいという声があるのに、「信頼関係を重んじるために、環境整備が整い、見せられるようなものになるまでは見せない」とはどういうことだろう。隠すことで信頼を得ようとすることが、かえって不信感を募らせることになぜ気付かないのか。おそらく「見せたら患者が内容を誤解して訴えるのではないか」等の不安や憶測のために必死になっているのかも知れない。しかし、たとえば大阪市立病院では、2年以上前から請求があればカルテを全面開示しコピーも手渡し、1年以上前から遺族にも同様に応じているが、請求の殺到も訴訟の増加もなく、何の問題も起きていない。
求められているのは「必要なときには、カルテも全部見せましょう。」という姿勢であって、「いざというときには見せる」という約束さえあれば普段は口頭の説明や別文書の交付で十分だ。
私には、日常の医療や市民運動を通して多くの信頼しあえる医療者との出会いがあった。いずれも情報を真摯に伝えてくれる人たちだ。「医師と患者の信頼関係が大切」というならば、医師がまず患者への偏見を捨て、患者を信頼して診療にあたっていくことが必要ではないだろうか。
それでも、いまだに「患者が癌(や精神病)などの病名を知ってショックを受けてもよいのか」という反論が出されるが、私たち市民団体はすべての人に無理矢理告知すべきと主張しているわけではない。「開示請求する人に開示せよ」と言っているのであって、「真実を知りたい」という人に「真実を知ってもよいのか」と聞くのは愚問である。それでもなお、真実を知らせない方が「心のケア」になるという医療者もいるが、「真実を知りたい」という人に対して嘘をつくことは、重大な人権侵害だ。「もし癌ならば医師や家族と相談の上、自分で治療方法や余生の過ごし方を選択したい。」と思っていた者の権利も奪われて、勝手に現代医療のベルトコンベアに乗せられてしまう。
私の妻が被害を受けた公立病院は「自然分娩を大事にするが、全員に血管確保の目的で点滴を打つ」と母親教室で説明しながら、事故後、事故の原因は陣痛促進剤ではないのか、と看護婦長に問うと「あの薬はみんなに使っている薬だから事故と関係ないはずだ」と言った。裁判の中で担当医師はこの点について、「本当のことを言うと不安がるから」と弁明した。言葉だけの「心のケア」を名目に不本意なお産を強制される等の、人権を無視した医療には一刻も早く終止符を打たなければならない。
そもそも、文書開示時代に告知は拒否できない。いまだに錯覚している人の誤りは、口頭で説明をしていた時代からの意識改革ができていないことによる。例えば癌患者に「私の病気は何か」と口頭で尋ねられたときには、これまでなら心のケアを理由に「大した病気ではないよ」等と、適当に嘘をつくことができた。誰も「あなたにだけは本当の病名を言えない」などと断った医師はいないだろう。こんなことを言われたら、とても心のケアではなく、逆に不安は増長する。レセプトやカルテの開示請求に対して「あなたにだけは開示できない」と断るのは、これと同じで心のケアとは正反対の行為だ。つまり、文書開示時代には、偽造したレセプトやカルテを渡すことはできないのである。
したがって、今、医療者に求められているのは「告知方法の研鑽」である。「そんなに知りたいのなら教えてやろう。」というような告知では困る。既に、癌や精神病でも積極的に告知をしてきた先進的な医師や病院からは、その方がかえって患者が不安がらず、治療効果も上がることが報告されている。告知の際には、全スタッフで情報交換の上、条件整備、タイミング等も考慮しながら、どんな人間付き合いでもそうであるように、日々悩んだり試行錯誤しながら精一杯接してほしいと願う。さらに、不本意な医療に終わらせないためにも、告知を希望する者だけでなく、できるだけ全患者に対して適切な情報提供を推進し、患者の自己決定権を保証してほしい。
情報を隠したままで検査・投薬などを行う「肉体だけの治療」から、情報を共有した上で介護やケアが施されるような、「生活の質重視の医療・福祉」になることこそが、これからの時代に求められているのではないだろうか。
しかし、私たち夫婦が被害に遭った頃は「インフォームドコンセント(IC)」という言葉が普及し始めていたときで、当時の市民運動は、第一にICの獲得、次にカルテ開示の実現、という方向で「レセプトさえ見られない」という問題は放置されていた。
ICを求めるのは倫理向上を求めるのに近く、最も重要であり、オセロで言えばたしかに中央の駒に相当するだろう。ところが、真っ黒な盤面上で、たとえ時々中央付近を白に変えることができても、オセロゲームではすぐに黒に戻されてしまう。
医者や病院、そして企業、厚生省に倫理の向上を求めたり、「悪い者をやめさせ良い者をおけ」と訴えるのは、「よくなればよくなるのに」と言ってるに過ぎない。たとえて言えば、私の部屋はいつも散らかっているが、それを片づけさせるには、倫理向上を求める妻の説教より、「来客がある」ということの方が効果がある。つまり、情報公開こそが倫理向上を実現できるのであり、中央からではなく端から攻めていくことが大切なのだ。
レセプト開示が実現した今、私は、オセロの角(ルビ:かど)の白駒の上から、やがて真っ白になるだろう盤面全体を眺めている。ところが情報開示への反論は常に大局観がなく、真っ黒な盤面の側から角に向かって「どうしてあそこだけ白いんだ。あそこだけ透明にすると誤解を招くぞ」という調子でなされる。
今は「白」が増えていく過渡期である。情報がすべて公開される将来を近くにひかえているにもかかわらず、いまだに意識改革が遅れている医師が多い。いつまでも黒い駒の上から白い駒を見る発想では、やがて全部が白に変わっていくにしたがって自らの居場所を失ってしまうだろう。
<終わり>
<参考文献>
(1)『病院(1997年11月号)』医学書院
(2)『払いすぎた医療費を取り戻せ!』主婦の友社
(3)『いのちジャーナル(1998年4月号)』さいろ社
【非開示の厚い壁】
【レセプトさえ見られなかった時代】
【不正請求は本人にしかわからない】
【消費者の需要に応じた医療を】
【レセプト開示からカルテ開示へ】
【医師・患者の信頼関係とは何か】
【文書開示時代に告知は拒否できない】
【オセロの角(かど)の意味】
「医療消費者(患者)からみた病院の情報開示」(勝村久司)
〜レセプト開示&チェックのための完全マニュアル〜(勝村久司・編著)
「レセプト開示にまつわる議論を整理する」(勝村久司)