この座談会の司会である北森氏は安全問題に関わり始めてから「安全は経験に学ぶ分野で、非常に 体系化できていない」と感じた。そこで、今、様々な分野において注目されている「失敗学」の本 を出版し、失敗を体系化した畑村氏との座談会を開いた。この「失敗学」は安全・防災にも活用で きると北森氏は考える。
畑村氏は学生に講義をしていた際に、こうすればうまくいくという理論を教えても学生は真面目に 聞かないが、自分自身の失敗談や本で読んだ大事故などの話をすると、学生は興味を持ち、聞き耳 を立てたという経験から、「失敗」を扱った本を出版したり、講演を行ったりしていた。そこで、 一般人が読みやすいようにしてできたのが「失敗学のすすめ」であり、これが大変な好評を得た。
今までの安全・防災に対する一般的な考え方は、一つ一つの事象を順番に考えて、それで落ち度が ないように、すべての場合をやり尽くすという順方向の演算が行われてきた。例えば、膨大な チェックリストを作って、定期的にチェックリストに従って全部点検するといった方法であった。 しかし、安全・防災を考えるときは、逆方向の演算でなければならないと畑村氏は考える。大きな 事故や災害が起こるとしたら、どういう脈略があるのか。事故が起こる前の段階では何があり、さ らにその前の段階には何があるのかを考えつくしていくと、順方向の考えでは抜けていたものが見 えてくるということである。ところが、これまでの日本は、海外から完成された技術を輸入し、欧 米を模倣するのみで、そのプロセスについては全く関心を持たなかったために、プロセスの技術的 な破綻の結果として事故や事件が起こるということを認識していなかった。そのために、逆方向に ものを考える方法が浸透してこなかった。
畑村氏は「失敗学のすすめ」で失敗事例のデータベースについて書いており、失敗の起こる代表的 な脈略を知ることが重要であると述べている。自分の失敗は他人に言いたくないという意識が強い 日本人の文化においては、失敗の経験が個人の財産としてしか蓄積されず、なかなか一般化されな かった。そこで、畑村氏は失敗を生かせるように誰が見ても理解できるように失敗知識をデータ ベース化しようとしており、そこから、いくつかの事例でいいから、徹底的に学んで、現場で生か すべきあると考える。
「失敗学」で提起されている問題が世の中に広まってきており、世の中もそれを受ける時代へと変 わってきている。畑村氏は、近い将来には、自分で行動して、自分なりに感じたり考えたりした人 でないと物事を経験したことにならないと、誰もが思う時が来ると考える。そういう体感・実感を 持とうとする人たちが世の中に出てくれば、誰かが決めたことを上手に守っていればよかったこの 50年間の日本とは違う、この「失敗学」で言っていることをごく当たり前にみんなが考え始めるだ ろうと述べている。
この論文では,災害後に起こりやすい被災者の感情と行動を提示され,さらに被災者自身がどの
ようにこのような時期を乗り越えるべきかを紹介している.
被災後に起こりうる感情として,恐れ,無力感,悲しみ,願い,うしろめたさ,怒り,恥ずかし
さ,失望感,思い出,希望,が挙げられている.身体の変調については,疲労感,不眠,悪夢,記
憶障害,集中力喪失,めまい,発汗,ふるえ,呼吸困難,下痢,首や背部の痛み,体のこり,生理
不順,性的関心の変化などが一般的に見られる.これら諸症状は,上記の感情と同時期に出る場合
や,災害から何ヵ月も経ってから現れる場合などがある.
また,災害によって家族・社会関係にも変化が出てくる.この変化には二面性があり,一つは災
害をきっかけとして新しい友人や集団の絆が生まれることである.問題はもう一方の,既存の関係
に歪みが生じる場合である.これは,災害による環境・心境の変化から,自分が大切にされていな
い,相手の気遣いがかえって負担となる,思い通りに相手に何かをしてあげあれない,等の感情が
生まれ,それまでスムーズであった人間関係に歪みが生じるものであり,大きなストレスとなる.
このような精神的,身体的,社会的変化が原因で災害後は事故を起こしやすくなったり,飲酒や
喫煙量が増加したり,催眠薬や精神安定剤の服用機会が増加することがある.
災害後のこの時期を乗り越え易くするためには,次のような認識や行動が必要である.無感動・
無関心になる時期がある事を知る事.災害時には多くの不幸が重なり,それを一度に受け入れる事
が出来ず,一時的にこのような状態になりうる.これは受容の一過程であり,決して「自分は冷た
い人間だ」などと卑下する必要はない.また,他人を手伝うなど様々な事に積極に関わる事で気分
が楽になるので,適度な積極性をもって生活することが勧められる.そして現実を受け入れる為に
も,現実から逃げない事.葬儀への参加や,損失の調査,被災現場に戻る事は,どれも辛い事であ
るがこの様な行動から現実の受け入れる事が可能となっていく.同様に,災害の体験についてよく
考え,それについて語る事も重要で,災害の光景を繰り返し夢に見るたり,子供達が災害ごっこを
して遊んだり,災害の様子を絵に描いたりする事も受容の一過程であると考えられている.さら
に,他人の善意を拒否せず受け入れる事も大切である.そして,これらの複雑な感情を整理するた
めに,一人きりになる時間も必要である.
上記の事に注意しながら生活していくことで立ち直ることができる.しかし,それでも専門家の
助けが必要となる事がある.それは,災害後長期にわたって緊張感・混乱・空虚感・疲労感や悪
夢・不眠が続く時や,人間関係に問題を抱えた時,仕事に集中できなくなった時,自分の気持ちを
打ち明ける相手がいない時,飲酒・喫煙・服薬の量が多すぎる時,事故を起こして混乱してしまっ
た時などである.
山が多く平野が少なく、河川の勾配が急であることも災害が発生しやすい自然環境にあるといわれている。これまでにも地震、噴火、水害など多くの自然災害が発生し、人々は多くの被害を受けてきた。このような災害で被災した人々の生命と生活を守るための法律がある。災害に関する法律として、災害対策基本法、災害救助法などを中心に取り上げ、災害時、どのような法律によってどのような支援が行われ、被災者および援助者の生命や生活がいかにして守られているのかについて述べる。
災害対策基本法の内容・・・災害対策基本法では、総合的かつ計画的な防災行政の整備および推進を図るために下記のような内容が規定されている。
災害救助法の内容・・・災害救助法で定められている具体的な内容を以下にあげる。
救助の種類:1)収容施設の供与、2)炊き出し、その他による食品の給与および飲料水の供与、3)被服、寝具その他生活必需品の給与または貸与、4)医療および助産、5)災害にかかった者の救出、6)災害にかかった住宅の応急処置、7)生業に必要な資金、器具または資料の給与または貸与、8)学用品の給与、9)埋葬
救助は現物によって行うことが原則であるが、都道府県知事が必要と認めた場合は、救助を必要とする者に対し金銭を支給することができるとされている。
神戸県西宮市は、阪神大震災で非常に大きな被害を受けた。仁川地区の土砂崩れなど死者は約
1000人にのぼる。そうした中で県立西宮病院は建物自体に大きなダメージを受けず、災害医療
の中核病院として活躍した。震災のダメージからようやく立ち直りつつある1ヶ月後に病院を訪
問、看護次長2名から地震当日の看護部の対応を中心にお話をうかがった。
看護婦の宿泊場所は病院内で空いている場所を探し、マットと敷き毛布を用意して休ませた。
勤務体制は外来が大変だったので病棟の勤務体制を休日体制とし、余力を外来や、水の補給、救援
物資の整理に応援をした。
水や薬品についても1つの病院が持っておくというのではなく、地域や市で1ヶ所にまとめて備蓄
しておいた方が良い。個人の医院・小さい病院・ボランティアで医療活動しておられる方が大きい
病院からガーゼ、消毒薬をもらうのではなく備蓄している所へ行ってもらうというシステムがこれ
からは必要である。
また、事故のためのマニュアルはあるが、震災で機能しないことがわかった。今回の震災ではその
部署で必要に迫られて、行動をしたがその時には的確な判断が求められた。これには日頃の教育
と、訓練が必要になってくる。
3回目の揺れでも病院は、電気も消えず大きな損傷もなく混乱した様子はまだなかった。そんな
中、受入体制のチェックからとりかかった。まず、患者IDの発行は中止しトリアージタッグ番号使
用とした。単純Xp、CT撮影には支障がなく、血液検査も生化学検査を除き可能であった。救急外来
入り口をトリアージエリアとし、さらに夜間入り口すぐ隣りのリハビリセンターを軽症エリアとし
簡易ベッドを40台設置した。この配置は従来からの受入訓練で決まっていた。震度5以上で職員は自
主登院する決まりのため、1時間で100名、2時間で300名の職員が集まった。
時間の経過ととも
に、救急車による搬入が始まったが、打撲や熱傷などの軽症者が多く、救急車搬送例といえども軽
症エリアに振り分けられる例が少なくなかった。徒歩での受診者も増えてきた。発災24時間で296名
が受診し、うち救急車搬送は84名であった。93名が中等症以上で42名が入院となった。最重症例は
骨盤骨折で血管塞栓療法を必要とした例であった。いずれのエリアでもさしたる混乱はなかった。
ライフラインが途絶した地域からの透析患者の受診、入院は予想していたが、停電による在宅酸素
療法患者の入院や倒壊が懸念された病院からの入院患者の受入れは予想外であり、徐々に空床確保
が困難になっていった。発災72時間で受診者が431名、うち救急搬送が140名、中等症以上が151名で
73名が入院となり、ベッド確保が最重要課題であったが、入院中の慢性疾患患者を救急隊の協力で
被災のない病院に転送できたため、地震関連患者の受入れに支障を来すことはなかった。
災害時に
最も重要になるのが情報である。搬送救急隊からの情報、発災翌日の24日未明から長岡市内の大き
な避難所8箇所を巡回した結果、長岡市内では山沿いの地域の被害が大きいが全般的に道路のアク
セスは保たれていること。また、長岡市における医療環境は温存されており(どの避難所にも市医師
会の医師による診療が行われていた)、救護活動は急務ではないことが判明した。しかし、その後強
い余震が異常に長く続いたため被害が拡大し、その結果一部の地域では救護活動が必要な状況と
なった。
25日には甚大な被害を被った山古志村の全村避難が始まり、全員が長岡市内の避難所に移
動することとなったため、心のケアも必要な状況との判断から、直ちに同村の避難所を訪れ救護活
動を開始した。翌日からは北陸・中部・東海の赤十字病院から応援救護班を派遣してもらい巡回診
療をお願いした。巡回診療の対象疾患は時間経過とともに変化し、当初は慢性疾患の薬の手配や地
震発生時のけが、やけどの処置が多かったが、その後は衛生環境のよくない体育館での集団生活に
起因する上気道感染症が猛威を振るった。2度、3度罹患される方が多く、後半には感冒性胃腸
炎、喘息性気管支炎の方が多くみられた。高齢者の多い村であるため重症化させないことを目標と
し、まずまずの成果をあげられた。
救急隊との連携は極めて潤滑に行われた印象がある。以前から
当院が行う救護訓練、救急講習会や救急カンファレンスには近隣の救急隊がいつも参加・協力して
くれるため、顔の見える関係が事をスムーズに運んだのだろう。地震1週間前の院内受入訓練でも
救急隊、消防隊、救助隊が50名参加してくれた。その日頃の訓練と救急隊との連携の重要性を再認
識させられる貴重な経験となった。
自家発電システム
は水冷式であったため、地震による揺れで給水管が破裂しタンクが空になり、自家発電が停止し3
名の人工呼吸器装着患者に対しては蘇生バッグを手もみして人工呼吸を継続した。人工呼吸を要す
る患者は被害の少ない病院に転送する必要があるため、救急隊の無線の助けを借りることで対応し
た。他の入院患者はけがもなく避難し、必要な治療が続けられた。通信手段の確保と自家発電装置
の維持については大いに反省させられる結果となった。この経験を今後システムの改築に生かすこ
とを検討している。
1、小千谷市内公園を拠点に山岳地帯からヘリで救出された
被災者をヘリポートで医師がトリアージし、応急救護所または医療機関へ救急搬送。
また、自隊の安全管理を考えると連続4日勤務となったため機
関員の疲労は心配された。情報が混乱する中難しいとは思うが理想は派遣前の休養と救急隊を4人体
制にして交代要員を確保する等の処置が必要であると感じた。被災者の方々が行く先々で手を振り
温かい言葉を掛けてくれたことが印象的であり、この仕事について本当に良かったと思える場面
だった。
消防部隊の出動は、各種災害に適応する出場計画に基づいて効率的に運用される。主に1)救急特別出場計画、2)救助特別出場
計画、3)大規模災害出場計画の3つがあり、救助事象の規模に応じて救急部隊の出動数が決定される。
消防活動は組織活動であるため、災害現場全体の活動の中枢となる現場指揮本部を設置する。また、救急活動方針の決定と徹
底をさせ、効率的な活動を発揮するために救急指揮所を設置する。さらにこれらの連携を深め、担当局面の消防活動方針の決
定と徹底のために、前進指揮所を設置する。以上の指揮の下で、現場救護所と各救急隊、担架隊が活動することになる。現場
救護所では、トリアージ担当、現場処置担当、搬送指示担当にわかれて救急隊員が任務を果たす。多数傷病者発生時の救急隊
の任務は、可能な限り救急隊員の増強をすることと必要質器材を積載し、搬送することである。担架隊の任務は、災害現場か
ら歩行不能の傷病者を現場救護所のトリアージポストを経由して救護所まで収容することである。
災害の予知が可能であれば被害は激減できるが、ほとんどの災害において、予知は現段階では不可
能と考えられている。しかし、適切な計画に基づいた防災計画を確立することで、災害予知は不可
能でも被害は軽減可能である。
防災対策としては
医療は災害全体に占める割合は多くないが、生命、健康を守ることであるから優先度は高いといえ
る。
われわれが可能なことは、施設の救急医療のレベルアップと地域としての救急医療体制の強化である。強化された救急医療体制の全国的な連携が災害に防げる死の減少につながる。
被災者の心のケア
(林 春男ほか:病院防災の指針、日総研出版、1995、p.81-88)災害に関する法律
(酒井明子:黒田 裕子・酒井明子監修、災害看護、東京、メディカ出版、2004、p.59-67)はじめに
[災害対策基本法]
[災害救助法]
[被災者生活再建支援法]
[災害弔慰金]
[災害に際し応急措置の業務に従事した者にかかる損害補償に関する条例]
被災地からの提言
(大田紀子ほか:病院防災の指針、日総研出版、1995、p.29-37)
■地震当日の被害
■地震直後の体制
■地震当日のスタッフの確保
■医療薬品等の充足状況
■救急とのホットライン
■時間の経過と患者状況
■震災の経験を踏まえての提言
新潟県中越地震を振り返って
(内藤万砂文:プレ・ホスピタルケア 18: 16-29, 2005)
■地震の状況
■被災地の基幹病院の立場から
■小千谷総合病院(287床)では
■埼玉県の消防救助隊の立場から
2、小千谷市内
の医療機関に入院している被災者の転院搬送。
3、小千谷市周辺で発生した救急事案への対応。
以上が現
場派遣救急隊の活動であった。19時に撤収命令が入り、26日に解散となった。活動を振り返って、
本災害は外傷より疾病に起因した傷病者が多かった。そのため輸液セットは医師との連携で非常に
有益であった。医薬品が絶対的に不足している初期活動を考慮し、事前準備の段階で多く用意して
おくべき資器材であると考えられた。多数傷病者発生事故における東京消防庁の救助救急活動体制について
(横山正巳:Emergency Care 18: 716-723, 2005)はじめに
多数傷病者発生事故に対応する出動体制
多数傷病者発生時における救助・救急救護体制
DMAT (Disaster Medical Assistance Team)との連携活動
災害に対する危機管理
(辺見 弘:OPE nursing 19: 950-955, 2005)
はじめに
が必要である。起こりうる災害
災害の周期
災害に対する国の危機管理
災害時の医療機関
広域救急医療
DMATの育成
おわりに