災害医学・抄読会 2003/12/12

大震災と心の震災、そのケアの体験から ―非体験者としてのケア

(森田喜治、現代のエスプリ 1996年2月別冊、p.138-46)


はじめに

    1995年1月17日の阪神・淡路大震災後数ヶ月、日本各地でいくつかの地震があり、また比較的大きな予震が神戸・淡路を中心として発生した。諸外国においても大型の地震が発生している。日常生活ではほとんど気にとめることのなかった足元が波打ち、地面に築き上げてきた人間の文明はわずか数十秒の間に崩壊させられ、約9000人の死傷者を出した。また、生命をなんとか維持できても、この災害によって心に大きな傷を負い、自殺も頻発するようになった。一地域で起こった震災もその報道を通すことによって日本全国に知らされ、現実に体験していない人々の心の中にも震災を起こしており、犠牲者は全国に及んでいる。

 地面という自然のholdingは子供に対する母のholdingに似ている。地面が不動であるという信頼があるが故に人類は文明を築いてくることが可能であった。同様に人間は、母という不動の地盤を信じることによって、人としての成長、発達を遂げ、社会に適応していくことができるようになる。基本的に安定できる基盤を幼少期に形成していくことが人間として成長していく重要なベースとなる。そのベースに対する信頼を失っていったとき人間は成長の課題を遂行していくことが難しくなる。地面は、人間個人の成長に対する影響はもとより、さらには人類を含めた全生物の成長、発展する場として、普遍的、恒常的に存在し、安定した状態で存在することが要求される。母と子の関係にある依存状態が剥奪されると、人生を歩むことさえあきらめてしまう子供がいる。子供が抱かれることがその生命を維持させる重要な要素であるのと同様に、生物の生きていくベースとして、母性にも似た自然のあることを、震災後だからこそ実感すべきであろう。

 これら母と子の関係に照らして、今回の地震を考えることは、被災者の心の傷を理解する上で、また、被災者の表現している行動を理解する上でも意味のあることであろう。筆者は震災の直接の体験者ではないが、間接的なボランティアを通して震災を体験した。巡回カウンセリング、ホットラインの体験を含めて、論を進めていく。

巡回カウンセリングによる心のケア

 筆者は震災2日後に震災地に足を踏み入れた。日頃は、患者の心の世界で崩れてしまった世界を、患者の状況からおそらくこういったものがあるだろうと想像し、イメージ化し、非現実的なものとして感じていることが多い。しかし、被災地で目にした光景は、現実に目の前にあるものとして存在した。実際にボランティアとして当地にはいった人々の中に、発熱したり吐き気を催して、行かれなくなった人もいる。つまり我々治療者が、現実に体験していなくても、自分自身の内的地盤が不動のものであるという信頼を崩される体験をすることになる。数十年かけて形成されてきた人間の心の基盤さえもただ当地に入るだけでゆるがせてしまう一瞬の現実は、当然そこに住む人々に大きな傷痕を残すことになる。

 今回の震災は、母の子に対するholdingに不信感情を抱くのと同様に、震災者をひきこもりの状態に陥らせる事態であり、通常のカウンセリングのように訴えられてくるのを待つのではなく、特殊な形態をとることになり、日常とはかなり違った対応が要求された。

 筆者は震災を直接の体験者ではないので、震災者に共感できるわけもなく、被災地にはいった初期には被災者の連帯感から無視されてしまっている印象をもった。治療者は突発的な自然災害という予測不可能な事態に遭遇し、心の傷も大きいが、話をうかがおうとしても、被災者であるかどうかを尋ねられ、そうでないとわかると心の中の問題ではなく、現実的な対応を迫られることが多くあった。

 巡回面接での被災者は3つのタイプに区分できる。1)鬱状態に陥り何もすることなく、うなだれてただすわりこんでいる人。ほとんど話を伺うことはできず、臨床心理士のケアは不可能であった。2)崩れたものはどうしようもないが、先に向けての方針がたっていない人。この方達は数人で輪をつくって話しており、その輪に入って話をうかがった。政府の対応の仕方についての苛立ちや、何を引っ張り出せた、自分の家がどういう状態か、などの体験談が多かった。PTSDの治療では、体験談を話すことである程度軽減できることが述べられているが、具体的な動きはほとんどなく、ただ不満を述べるだけにおわっている傾向がみられた。3)逃避傾向にある人。地震後しっかりしているようにみえ、ボランティア活動や片付けにエネルギーを費やすが、自分の不安定状態を防御するために現実の事態から逃避的に活動していることが多い。そのため、極度の疲労で体調をくずし、命を落とすこともある。

 地震当初は以上の状況に陥っている状態がみられたが、数ヶ月すると変化し、3つのタイプの人々が、傷心、いらつき、鬱状態、不眠といったPTSDの特徴的な状態に集約していった。しかし、全体的に、震災がこれらの状態を突然作り出すのではなく、震災以前からの問題が震災をきっかけに再噴出してくることが多いように思われる。

ホットラインについて

 震災当初は、現実的な問題を中心とする相談が多く、心の状況としては、不安、鬱的な状況、不眠を主とした訴えが多くあった。電話ができる人々の多くは現実の問題はとりあえず免れており、より早く落ち込みを体験していることが多い。崩壊の程度が少なくても揺れの体験、近隣の崩壊の状況から鬱的状態に落ち込んでしまっている傾向がある。

 ホットラインの相談では家族関係の崩壊についての相談が多くあった。家庭内の問題はあっても、震災以前はそれなりの家族の形態を崩さずに維持することができていた。しかし地震というショッキングな出来事によって、内在化されていた家庭内の不満が噴出することになる。突然の災害で家族の構成メンバーが日頃みせない反応を示したことがきっかけになる例も多くあった。家や財産、地位といった今まで家族の不完全性を表面化せないようにしてきたものの崩壊によって問題が表面化してくる。

 さらに後遺症として、ボランティアとして当地で働いていた人が、ある程度仕事が落ち着いてから鬱的になりケアを必要としてホットラインを利用する人々も多くあった。

 以上の状況から、震災は単にその地域の経済を崩壊させ、多くの死傷者を出したといった外的な問題だけではない傷痕を残していった。それは、その地域に限定されたものではなく、全国的に不安を呼び起こした。しかもその不安は生死に関わる。これは地震という地面が不動であるという信頼を失った故の基本的安定感の傷つきを意味する。

 震災数ヵ月後PTSDの症状は依然として継続しており、心理的なケアが必要である。そのために連絡の拠点となる臨床に関するセンターが各地域に必要であり、臨床心理士の活動の継続が必要である。


第3編 過去の群衆事故事例

(明石市民夏まつり事故調査委員会:第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書 2002年1月、p.59-72)


1.昭和9(1934)年1月8日 京都駅事件―なだれ落ちる群衆―

 昭和9(1934)年1月8日により京都駅の陸橋(跨線橋)から群衆がなだれのように崩れ落ちて77人が死亡、74人が負傷したという事件であった。この日、呉の海兵団に入団する715人とその付き添い人約300人が、夜の10時過ぎに臨時列車で出発することになり、それを見送るため、数千人が京都駅に詰め掛けた。駅内が大混乱に陥り、このまま危ないと判断した駅員が群衆の一部を反対側の跨線橋からホームに降りるように誘導したが、しかしそこもすでに人が溢れており、降りようとする人々は階段の中で止まってしまい、激しい押合いになった。そのうちに誰かが転んで、その上になだれのように人波が折り重なり、100人以上が下敷きになったのである。

2.昭和23(1948)年8月 新潟市万代橋事件

 毎年開かれていた信濃川の川開きの祭礼に昭和23年8月より大掛かりな花火の打ち上げの行事が催された。多くの見物人が橋上に詰め掛け、後続群衆が寸歩でも前進して欄干側に近づいて花火を見ようとひしめき合っているうちに欄干に加わる圧力は次第に増し、遂に橋の西詰川下側が落下し、これとともに橋下に転落した人々のうちから数人の死者、数十人の負傷者を出した。

3.昭和27(1952)年6月18日 線路に落ちる群衆―日暮里駅事件―

 昭和27(1952)年6月18日(水)午前1時40分ごろ、上野駅構内の信号所に火災があり、上り東北線の各列車を、臨時に日暮里駅に停車させることになった。ところが、たまたま午前6時56分ころ、東北線の与野と大宮の間で浦田発大宮行電車の車軸が折れて運転中止となり、上り列車4本が大宮〜浦和間の各駅に停まってしまったため、各列車は平常以上の混乱となった。午前7時40分過ぎには、日暮里駅に臨時停車した列車の乗り換え客と、この駅をいつも利用する通勤者とが合流して、幅2.5メートルの陸橋は、すし詰め満員の状態となった。7時45分ころ、この陸橋の山手線側つき当りの壁が人波の圧力ではずれ、あっという間に十数人が7メートルの線路上に落下、おりから通りかかった電車にはねられて死者8人、重軽傷者6人を出した。

4.昭和29(1954)年1月2日 二重橋事件

 この日の一般参賀は午前9時から行われ、午後1時過ぎには皇居前広場から二重橋、記帳所前および鉄橋から宮内庁舎前にかけて大勢な参賀の群衆ができた。午後2時過ぎ、警察は二重橋の入口と真中にロープを張り、橋を渡る人々を一時停止させた。しかし、このような処置がとられたことは、群衆の後方には伝わらなかったので、後から押し寄せる群衆の圧力とロープの板ばさみになった人々から悲鳴が上がった。午後2時15分ころ、警官はロープを緩め、悲鳴を上げた数人に二重橋の通行を許した。これがきっかけとなって、橋の上の群衆が急に動き始め、橋のたもとに滞留していた人々は橋の上に殺到した。この時、高齢の女性が転び、その上に50数人がひとかたまりとなって倒れたため、もみ合い踏んづけ合うという大惨事となり、ついに16人の死者と30数人の重軽傷者を出してしまった。

5.昭和31(1956)年1月1日 弥彦神社事件―124人が死亡―

 昭和31(1956)年1月1日午前0時20分ころ、弥彦神社に初参りの人約3万人が詰め掛け、同神社で石段の上のヤグラから福餅をまいたところ、いったん帰りかけた者も引き返して餅の奪い合いとなった。そこへ臨時列車やバスによる参拝者の大群が到着したため、もみ合う人ごみと押し寄せる人波で大混乱となり、石段の上の玉垣を崩して数百の人々が約2メートル半のガケ下になだれのように崩れ落ち、下敷きとなった124人が圧死、94人が負傷した。

6.昭和31(1956)年1月15日 大阪劇場事件

 この日の午前8時45分ころ、大阪市南河原町大阪劇場で人気歌手の実演興行に際し、劇場前で10人の死傷者が発生した。出札は始まり、窓口が2箇所しかないため、8時45分ころまでに600人程度の行列は遅々として進まなかった。その時、列中に蛇の死体を投げ込んだものがあり、付近のものたちが驚いて前後左右にこれを避けたため列間に空隙を生じ、そこへ後続者が我がちに殺到したため、列中転倒者を生じその場に将棋倒しとなり、1人が圧死し9人が負傷した。

7.昭和32(1957)年2月6日 和歌山市民会館前事件

 この日の午後6時ころ和歌山市民会館において人気歌手の歌謡大会が催された際、500メートルに及び6000人程度の行列者ができた。隊列後尾の者は入場できないことを恐れ、開場が始まり、隊列が前進を始めるや列の秩序を乱し前方に押し進んだため混乱を生じ、これによって押し出された少女2人が胸部圧迫などの負傷した。

8.昭和32(1957)年5月18日 山王体育館前事件

 午後2時ころ秋田県川尻市営山王体育会館において人気歌手のショーが開催された際、長い行列の後方に一部の者が係員の制止を避け、列を乱して入口に殺到した。これによって同所は混乱に陥り、右から2番目の入口に通過中の入場者の一部が長机の足や敷居に躓いて倒れ、それに続く一団が折り重なって転倒し7,8人のものが負傷した。

9.昭和35(1960)年3月2日 横浜公園体育館事件

 この日、当時の人気タレント10人を集めたラジオの公開録音が、横浜公園体育館で行われた時、群衆の興奮と整理の不手際により、12人が死亡、14人が重軽傷を負った事件である。事件の真相は入場開始時に入口の変更に対して不満を持っているものや入場券を持っていないものが行列から離れ、整理員の止めを振り切って、強引に割り込んだ。これがきっかけとなって行列は完全に乱れ、観客は入口に殺到し一部倒れたものを乗り越えて起きた。

10.昭和42(1967)年4月22日 大阪造幣局事件

 午後8時50分ころ、大阪市北区天満の大阪造幣局の「通り抜け」で、花見客が閉門まぎわに殺到して1人が死亡、27人が重軽傷を負ったという群衆事故である。

11.昭和46(1971)年12月24日 大阪市新朝日ビル事件

 この日、大阪市中之島の新朝日ビル地下1階にあるSABホールに小中学生が殺到して入口付近の階段で転倒、重軽傷者33人を出した事故である。

12.昭和54(1979)年2月5日 小学校校舎内将棋倒し事件

 愛知県西春井郡の小学校で朝礼の後、昇降口で児童が転倒し、1人が死亡した事故である。

13.昭和54(1979)年3月29日 甲子園球場事件

 午前7時15分ころ、甲子園球場の内野入場券売り場において小学校5年生と6年生(いずれも男子)が死亡した。この日は選抜高校野球の3日目で春休み中でもあり、超満員になると予想されていたが、ほとんどの警備員は7時30分以後に配置につくことになっており、事故発生時に現場にいた警備担当者は数名に過ぎなかったことが原因であった。

14.昭和57(1982)年10月16日 豊橋市立体育館事件

 愛知県豊橋市立体育館において、開場待ちの群衆が警官の制止を振り切って入口に殺到、十数人が段差に躓いて転倒し、死者、重傷者各1人を出すという事故が起こった。

15.平成7(1995)年12月24日 場外馬券売場事件

 この日の午後3時半ころ、第40回有馬記念(中山競馬場)のレースが行われた日である。大阪市北区の日本中央競馬会の場外馬券売場「ウインズ梅田」A館の3階と2階を結ぶエスカレーターで将棋倒し事故が発生、男性5人、女性3人の計8人が下敷きになって額を切ったり足首を捻挫するなどで負傷、3人が入院した。うち男性一人は重傷である。

16.平成8(1996)年12月23日 御坊市パチンコ店事件

 午後4時35分ころ、和歌山県御坊市湯川町小松原のパチンコ店で開店を待って並んでいた客訳300人が店員の配ろうとした整理券を求めて入口付近に殺到し、将棋倒しになった。この時最前列にいた男性(77歳)が押されて入口脇のガラスを頭で突き破り、首を切って出血多量で間もなく死亡した。その近くにいた女性2人もガラスの破片で手を切るなどの軽い怪我をした。

17.平成9(1997)年10月2日 大阪市電気科学館事件

 午前10時20分ころ、大阪市中央区城見町「OBP」(大阪ビジネスパーク)にある「ツイン21ナショナルタワー」内の上りエスカレーターで、このビルの2階にある電気化学館の見学にきていた河内長野市の小学校の3,4年生164人の児童のうち、約60人が将棋倒しになり、32人が負傷、うち1人が左足の骨折で入院した。

18.平成11(1999)年8月28日 生駒市野外ステージ事件

 午後1時10分ころ、奈良県生駒市菜畑町の「スカイランドいこま(近鉄生駒山上遊園地)」の野外ステージで、ロックコンサートに詰め掛けた高校生らが総立ちになってスタージの方に殺到、約40人が将棋倒しになった。そのため最前列にいた女性が舞台前の鉄柵に挟まれて足の親指を骨折、他に15〜24歳の計11人(女10人、男1人)が軽い打撲傷を負った。

 以上5.の弥彦神社事件以外はすべて不起訴処分ないしは立件すらされないままで終わっている。


災害医療活動における Civilian Military Cooperation の重要性について

―平成14年度大分県総合防災訓練の経験から―

(岩井知久ほか、日本集団災害医学会誌 8: 41-44, 2003)


 要旨:1995年の阪神淡路大震災を契機として、災害時における自衛隊と関係諸機関との協力体制が重要視されるようになった。しかし、警察、消防、自衛隊、日本赤十字社、民間病院等との災害時における協力体制、指揮系統はいまだ確立されていない。著者らは、平成14年9月1日、杵築市における大分県総合防災訓練に参加し、大規模災害時における救援医療訓練に参加した。その概要を報告するとともに、災害時における救援医療体制の改善について検討した。

1.訓練想定

 大型台風が接近する中、大分県北部を震源とする震度6の直下型地震が発生し、上水道、電力、電話等のライフラインの使用不可、家屋の倒壊、火災などにより多数の死者、行方不明者が出たという想定。

2.自衛隊別府駐屯地医療チームの編成

 大分知事の要請後、別府駐屯地指令で自衛隊別府病院長に医療チーム派遣要請がなされ、医師1名、看護師2名、救護員2名が出動し、また多用途ヘリコプター(UH-J1)による重症患者空輸要員として医師1名、看護師1名が待機した(医療救護員は識別ベストと赤十字腕章を左上腕に着用することで、他の派遣隊員との識別を容易にできるよう配慮した)。

3.訓練概要

 UH-J1での上空偵察後、輸送ヘリコプター(CH-47J)からレンジャー隊員やオートバイを地上降下させ地上偵察を行い、必要な人員、物資、器材の見積もりを行い、陸上自衛隊、日本赤十字社がそれぞれエアドームテントを利用した救護所を開設し、自衛隊別府病院、日本赤十字社大分県支部、地元医師会の医療チームが負傷者のトリアージ、応急処置を行った。自衛隊の救護所では合計7名の患者(重症3名、中等症2名、軽症2名)が搬送され、Vitalは状況付与カードにて呈示された。応急処置はそれぞれ可能な限り実践的に行った。重症者はUH-J1にて緊急空輸したが、近隣の医療施設にヘリポートがないため別府駐屯地のグランドに空輸後、車両で市内の高度医療機関へ後送された。

 その他、地元自治体消防組織や広報車による地域住民の周知訓練、警察による警備交通規制訓練、九州電力による電力応急復旧訓練、土砂崩れによる埋没家屋からの救助訓練、給食・給水訓練、防疫防染訓練など約30項目の訓練が実施された。

4.考察

1)救護所の開設、内部配置について

 救護所は被災現場になるべく近く、二次災害を防ぐためにも危険が及ばない場所に迅速に開設し、被災者が効率よく治療を受けられることが重要である。

 テント内部は、患者、医療資材。救護要員の流れが一方向になるように配慮した。

2)トリアージについての検討

 今回の訓練では現場での救出作業の後、重症患者がまとめて同一施設に送られたり、トリアージを受けずに独歩で受診する者がいたりと救護員による現場でのトリアージがうまく機能しない部分があった。これに対しては救護所が隣接していたため、状況に応じて医師会の医師が救護所前で振り分けし直すなどして対応した。収容場所の選択可能な状況では救護所内の患者受け入れ数、処置の進行状況などをリアルタイムにボードなどで示すほう方法が有効と考えられた。

 また1次トリアージの際にSTART(Simple Triage And Rapid Treatment)方式は、over triageが多くなる傾向があることや、under triageが発生する症例(vitalに影響しない胸腹部外傷、クラッシュ症候群、頚椎頸髄損傷など)があるものの、医療器材や医学知識を必要とせず、医師なしでも行える簡便な方法として評価されており、一般市民への普及が期待される。

3)災害医療活動における Civilian Military cooperationの重要性について

 自衛隊は国土防衛に供える一方で、国内における災害派遣、離島での緊急患者輸送に従事してきた。最近では、大規模ハリケーンが起きた中南米ホンジュラスでの救援医療活動、トルコ地震での国際緊急救助活動など海外での活動も行っている。また地下鉄サリン事件では「官庁間協力」、三宅島異変の際には「自主派遣」という形で法の制約を受けない柔軟な対応も見られた。

 欧米では連邦危機管理庁(FEMA)が軍・消防・警察を統合して指揮し、準備(Preparedness)、対応(Response)、復旧(Recovery)、被害軽減(Mitigation)の部局に分けられ緊急事態に備えており、日本からも調査研修目的で訪問している。日本で今後民間と自衛隊の協力を推進するにあたっては、秘匿および安全施策について考慮したうえで情報の共有化を進め、有事の際の危機管理体制について何らかの法的な整備、計画を作成し、この計画に基づく訓練、演習を行うことが必要である。

 今後さらに多くの関係機関、一般市民の参加を持って、共同で訓練を繰り返し、緊急時における指揮命令系統を確立していくことが重要である。


災害時の適切な Triage実施に関する研究

(有賀 徹・著、有賀 徹・編:平成13年度 厚生科学研究費補助金総括研究報告書 p.5-10, 2001)


【研究目的】

 災害医療におけるトリアージはその後の災害救援医療の成否を大きく左右する。そのため本邦でもトリアージ・タッグの共通様式が決定・作成されているが、その実施面における諸問題(放棄、施行者の資質・資格)に関しては十分に検討されてきていない。本研究には災害時におけるトリアージ実施に関連する諸問題を明らかにし、対処法を検討し、実際的なトリアージ方法の具体的運用方法を検討することを目的として行われた。

【研究方法】

 1) 法的問題の解析、2)災害救援医療でのトリアージの実際、3)看護・救急面から のトリアージの3点について、医学・医療上、法規上、看護上などの各専門家から構成される研究班において検討した。

【結果】

 法的問題の解析

1.トリアージ実施自体に関して

 トリアージを施行するものの資質・資格として、すべての医師がトリアージの主体となり得ることには医師法の観点より問題はない。医師以外の職種が主体としてトリアージ行う際の法的解釈には 1.搬送順位選択説、2. 拠点病院体制確立説、3. 形式説の3つの説が考えられている。

  1. 搬送順位選択説
    災害現場においては医師が早期からトリアージを行うことは少なく、災害時には医者の不足が考えられるため、医師はその専門技能を生かす部門で働くことが医療資源の合理的活用の観点において重要でありトリアージは医師にだけ許されるというのは現実的でないとする見解。

  2. 拠点病院体制確立説
    トリアージは原則的に医師が実施することを原則としながら、現実の災害現場の実践体制を拠点病院を中心に確立すべきであるという立論。拠点病院にあらかじめ責任者を置き、その責任者を中心として日頃から適正なトリアージ実施に向けて救急救命士、看護士を実践補助者として教育し、確立された指示連絡システムの下にトリアージを行う。

  3. 形式説
    トリアージはここの傷病者や疾患の重傷度を診断する行為であるので診療行為であり、医師のみが行うべきであるという見解。

 現時点では1.の搬送順位選択説が現在の実務運用を踏まえている上に現実の要請にも合致していると考えられているが、将来的には2. の拠点病院体制確立説を主唱する方向を目指していくべきである。

2、トリアージの補償に関して

 国立大学、国立病院、自治体立病院の医師は「国家公務員災害補償法」「地方公務員災害補償法」による補償、日赤は「労災」による補償がある。その他民間のボランティア医師は災害救助法による救護命令、所属病院長の命令による場合以外は補償制度はない。しかし現実的には救護命令の発令前が最も危険で疾病や死亡の可能性が高いため、立法的解決あるいは何らかの恒久的基金などの創設が検討される必要がある。

 なお、救急救命士、救急隊員の場合はそれぞれの費用支給、補償制度がある。

 また、知事の従事命令はなく都道府県からの協力依頼に基づいて行われた場合については、法的関係は整理されておらず整備不十分である。補償の具体的内容については都道府県と病院との事前の協議、契約内容によるため、事前に十分な協議が必要である。

3、トリアージの過誤と訴訟

 トリアージによる被害に対する訴訟に関して今後議論の中心となるのは「医師の注意義務」の問題である。現在の民法において「注意義務」とは医師に故意または要件とされており、この過失を具体化したもので、一般的医療水準を基準に判定される。原告が主張する過失責任に対して被告となる病院、医師側は、トリアージ判断の妥当性の主張や「緊急事務管理の条文(民法第698条)」の援用によって軽過失部分の免責を主張しても、実務の運用が確定していない現在において過失責任が否定される保障はなく、損害補償責任を負わされる可能性がある。

 なお、通常の医療過誤補償と異なりカルテなどの客観的資料も残っていないことも考えられるから、証拠として患者ごとにどのような対応・診察をしていたかどうかが分かるものを残しておくことが必要である。さらに、トリアージにおいて医師が通常どの程度の対応・診察をするのかが重要となってくるので、目安となるような一般的な基準・マニュアルを早急に作成していくことが望ましい。 また救急看護や救急隊の視点からトリアージを見てみる。

 看護士がトリアージを行うときは一般の方の信頼度が問題となるため各施設にトリアージ責任者を指名し、責任者を中心として災害現場でトリアージを行うことになる。そのためには専門家の育成や施設ごとのトリアージプロトコールを作成し、確立されたシステムの中で救急外来でのトリアージを実施することによって災害時におけるトリアージ実践を行うことが可能になると考えられる。

 救急隊に関しては集団救急事故に遭遇する可能性が状態として存在するため、すべての救急隊がトリアージに関する知識、技術を有していることが求められる。現在も最低限必要な教育は行われていると考えられるが、将来的には養育過程において教育体制の充実を図り、トリアージ能力の更なる向上を図る必要がある。現在救急隊員の応急処置の質を医学的観点から保障するためにメディカルコントロール体制の構築が推進されている。この体制の下、消防機関と医療機関のいっそうの連帯強化が図られ、救急隊員の能力の向上が期待される。


ロサンゼルス市港湾局、交通局

(小川和久:ロスアンゼルス危機管理マニュアル、集英社、東京、1995、p.173-9)


<ロサンゼルス市港湾局>

 LA港の安全に全責任を負う港湾局は、緊急対策本部(EOC)をはじめとする危機管理システムについ て、市の一部局のモデルともいうべき備えを持っている。この港湾局ビルは、非常時の通信手段と して65台の携帯電話が導入され、うち49台は各ディビジョンの責任者が常に携帯し、残り16 台は予備としてスタンバイさせてある。さらに、全く電話回線が不通になった場合に備えて、無線 通信のシステムを整備中である。また、コンピューターに入っている情報の危機管理も検討されて いる。そのアイデアの1つとしては、それぞれの職員が持っているPCの情報をすべてフロッピー・ ディスクにまとめ、耐震構造になっている施設に保管しておき、毎年入れ替えるというものが提案 されている。

 しかし、このEOCが使用不能に陥ることもある。その場合は、港を挟んでウィルミントン側にあるメ ンテナンスビルのEOCがバックアップすることになっている。建物内のEOCが使えない場合は、MCVと 呼ばれる移動式の緊急対策センターの出番である。これは十分な指揮通信機能を備えている。この ように万全な備えがあったからこそ、ノースリッジ地震では地割れが生じて船が接岸できなくなっ たコンテナ・ターミナルをわずか1週間で復旧させることができた。

 それ以外にも港湾局の非常用物資の備蓄は目を見張るものがある。その1例を挙げると倉庫326 号には、簡易ベッド、携帯メガホン、救急用品、毛布、飲料水2079リットル、ボトルウォー ター454リットル、ラジオ付き懐中電灯、ポータブルトイレ5基、トイレ用防臭剤、プライバ シールーム(避難所の間仕切り)、食糧などである。また、バース93には折り畳み式車椅子、メ ンテナンスビルには長期間の避難生活に備えてバーベキューセットまで備えられていた。備蓄され ている場所はヨットハーバーのマリーナオフィス、パイロットステーション、メンテナンスビルの ほか、屋外に置かれたコンテナなど様々である。もちろん個々の職員にも医薬品などが入った非常 用バッグが支給されている。

<ロサンゼルス市交通局>

 LA市交通局が管轄する幹線道路のうち、3本の主要フリーウェイ(高速道路)が被害を受けた。こ のうち2本のフリーウェイは、並行して走っている幹線道路を代替機能として使うことができた が、震源地があるヴァレー地区を通っている1本のフリーウェイの場合、全部で22本あるレーン のうち16本が崩落し、6本しか使えなくなった。

 地震直後から、交通局ではLA市内の3地域に50人のエンジニアを派遣し、交通標識の設置などを 行った。さらに、100人のトラフィックオフィサーを主要交差点に配置、交通整理に当たった。 いつもはデスクワークしている職員も、現地で迂回路を作る作業などに動員された。

 交通規制とアクセスの確保に関する情報は、ATSAC(自動交通調査統制)システムというコンピュー ター化された交通コントロールシステム、ジェネラルサービス局のヘリコプター(10日間にわた り1機が提供された)、民間企業が提供した飛行船、メディアの4つの手段で確保された。 路上の障害物の撤去などは道路のメンテナンスを担当する部署が行った。


第6章 阪神・淡路大震災

(金田正樹、災害ドクター、世界を行く、東京新聞出版局、東京、2002、p.160-9)


 1995年1月17日早朝のテレビ映像は衝撃的であった。神戸を襲った震度7の地震が、一瞬のうちに市民を大混乱に陥れた。こんなことが日本にも起こったのだというのが正直な印象であった。神戸に救援に行くかも知れないと病院の上司、患者、スタッフ達に了解を取ったが、まだ誰も事の重大さに気付いていない様子であった。とりあえず大阪まで行こう、後は何とかなるだろうと仲間の医師達とともに乗用車5台に分乗して、東名高速を一睡もせずに走った。西宮市内に入った頃から異様な光景が目に飛び込んできた。道路は上下線ともに大渋滞、歩道は避難する人や救援に行く人でごった返している。ビルはつぶれて傾き、民家は倒壊し、電車まで脱線、転覆している。歩道を歩く人達は、イランからイラクに逃げてきた難民の光景だった。

 我々は西宮消防本部の救助チームと行動をともにすることとなり、芦屋の市役所へと向かった。渋滞の中車を進め、芦屋の市役所についたのは震災後3日目の朝だった。市役所は階段にまで被災者があふれ、足の踏み場もないくらいだった。対策本部は混乱をきわめており、我々が医療援助をしたいと申し出てもなんと答えてよいのかわからないようで、芦屋市の避難所を聞くのが精一杯だった。とりあえずは芦屋消防署の職員の案内で避難所を回り、いまだ傷の手当てを受けていない人の処置や健康相談を受けることを任務にしようということになった。被災者の訴えはほとんどが風邪症状、不眠そして血圧や糖尿病の薬がほしいということであった。だが、東京を急いで飛び出してきたために救急用の薬はあったが、慢性疾患に対する薬がない。時間の流れを計算できなかったため、この時期の医療要求にこたえることができない。至急大阪で解熱剤、降圧剤、小児用薬品などを手に入れる手配をしたが、災害医療のエキスパートとして不覚だった。

 また、ある体育館で若い女性に「あの隅にいる人は食事もしないし、じっと一人ぼっちでいるんです。診てあげてください。」と相談された。近づくと50代の男性だった。「あの、どこか具合が悪いのですか?」ゆっくりと振り返った彼の胸には、白い布で包まれた遺骨箱が抱かれていた。ハッと息がとまる思いだった。あの地震で、隣で寝ていた奥さんがなくなり、独りぼっちになってしまったと涙ながらに訴えかける。なんと言ったらいいのか、言葉が出てこない。話を聞いてあげたほうがいいのか、それともそっとしておいてあげた方がいいのか。眠れない時はこれを飲んでくださいと、睡眠薬を渡して立ち去るほかなかった。体育館を去る時、胸いっぱいの悲しさが襲った。わずか4日間の芦屋市での医療活動であったが、後ろ髪を引かれるようなやりきれない思いがいつまでも残った。

 ある新聞が、日本には災害医療の訓練をした国際緊急援助隊があるのに何故神戸に出さないのか、と書いた。外務省は、この組織は海外の災害に対応する法律のもとで活動するものであり、国内は想定していないと答えた。しかし世論に抗することができず、研修という目的で神戸のある小学校の避難所で援助隊のメンバーが数ヶ月間、医療活動をした。人命を法律の枠の中に押し込めてしまうのは、やはりおかしい。

 芦屋で見たこの大震災の印象は、まず災害時の緊急医療体制というものが無かったので、病院間の連絡も無く被災地内に患者があふれていたことである。電気、ガス、水道などのライフラインが途絶した状態での重症患者の治療は無理であり、速やかに被災地の外へ搬送するべきだった。

 また、災害時の指揮命令系統が不十分で、場当たり的な医療体制になっていた。例えば寒い場所での医療サービスが遅れたために肺炎になって亡くなる患者もいたくらいで、避難所開設当初から医師や看護婦が配置されれば、その種の悲劇は少なくできたであろう。道路の渋滞で患者や医療スタッフの搬送が困難なら、あれだけ飛んでいた自衛隊その他のヘリコプターをどうして活用しなかったのか。

 この地震で医療体制がうまく機能しなかった最大の理由は、我々の医療の中に「災害医療」「災害医学」といった分野が無かったことだ。そして、災害時の医療は「救急医療」の延長というような考え方があった。「災害医療」「救急医療」は別個のものである。その違いは、患者の数と医療資源との関係である。患者の数が多くて医療資源が乏しいのが「災害医療」で、患者の数が少なくて医療資源が豊富なのが「救急医療」といえる。一度に多数の負傷者が発生した場合、それに対応するセオリーを教える授業も研修も無かったのが当時の日本の現実であった。

 地震から3ヶ月後の4月になると、厚生省に「阪神淡路大震災を契機とした災害医療の有り方に関する研究会」という長たらしい名前の委員会ができ、災害医療についての議論がなされた。多くの提案がなされたが、中でも各都道府県に災害拠点病院を設けることや、インターネットで災害医療情報を流すシステムは新しい試みであり、実行に移された。しかし医学部や看護学校で「災害医療」を必須の科目として教えるという試みは、ことの重大性とは裏腹にあまり実行されていない。

 阪神淡路大震災から2年後、各自治体の防災計画がどのように変わったか、調査してみた。47都道府県12政令都市の計画書を取り寄せて分析してみると、それぞれ300ページに及ぶ計画書の中で災害医療計画はページ数にして平均4〜5ページしかなかった。ライフラインの応急復旧計画などは、その段取りから機材を供給する業者まで指定し、事細かく書かれているが、医療計画は大雑把で形式的なものだった。

 あれほどの惨禍をもたらした阪神淡路大震災も、年月とともに記憶が風化しつつあるようだ。しかし、災害医療の計画を立てるにあたって指揮命令系統、情報伝達システム、救護計画とともに医療関係者への教育、研修、訓練を確立しておかないと、また神戸と同じことが繰り返されるであろう。何よりも、危機管理のモチベーションの維持が重要である。


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