第十二回公判について(08/1/25)
第12回公判は午前11時より福島地方裁判所第1法廷で開催された。これより先午前10時より、期日前整理が行われ、今後の裁判の日程、証拠書類の採否の話し合いが行われた。
午前11時、検察側より証拠として採用された、検察による供述調書の内容を検察側が朗読した。検察側が提出し採用された証拠書類は、麻酔医の平間医師の供述調書、加藤被告の供述調書、病理鑑定に使用した病理標本(プレパラート)である。午前中は、検察側は加藤被告のクーパーの使用、胎盤癒着の程度、胎盤剥離の状況について、供述した内容を中心に朗読し終了。
午後1時15分より再開。
午後はまず、弁護側が証拠として採用された、池ノ上教授(宮崎大)の鑑定書、病理鑑定した中山医師(大阪府立総合母子センター)の追加鑑定書、岡村教授(東北大)の鑑定書、検察側が鑑定依頼した杉野医師(福島医大)の供述書、病理標本(プレパラート)等についての内容を述べた。この中で、杉野医師の供述書については、検察側の供述調書と公判廷における供述が矛盾しているとして、弁護側は検察官の供述調書を証拠としてとり上げたと述べた。
その後、遺族3人(夫、父親、実弟)の意見陳述が行われた。
遺族の人達の共通の訴えは、二度と同じような事にならない事を望んでいること、納得できる説明がなかったこと、病院側の対応に誠意がなかったこと、加藤医師に対して許せない心境であることを述べた。(午後3時過ぎ閉廷)
私の感想としては、亡くなった女性および遺族の方々には深い哀悼の意を表したいと思いつつ、遺族の方々は二度と同じ事が起こらないようにという思いが強いことを望んでいることがあらためて理解できた。医学的にかなり今回の件で解明されたと考えていたが、その理解がなされていないこと、そのためには遺族との話し合いに、医療事故紛争処理制度、とくに紛争解決のための対話型ADR、メディエーターの存在が重要であることが再確認されたと思いました。
本日で実質的な審理は終了した。次回は当初の予定日より各々1週間遅れて、3月21日(金)論告求刑、5月16日(金)最終弁論が各々午後1時30分より福島地方裁判所にて行われ、判決は本年夏から秋にかけてとみられる。
文責 佐藤 章
第12回公判 傍聴記詳報
(進行が早かったので、書き取れていない部分がございますことをご了承ください。)前半が書証整理、後半がご遺族の意見陳述の傍聴記録です。
(11:00開廷)
裁判長: はい、では、開廷いたします。9月、10月の期日間整理を行って、採用した証拠の取り調べを行います。検察官請求は検察で、弁護側のは、弁護側で、整理を進めていただく、ということで良いですね。では。
検察1(鈴木検事): 検察からの分です。
甲23号は、
麻酔科医の検察への供述です。被告人との手術前のやりとりと、手術の状況についてです。手術前に加藤医師より出血が多くなること、胎盤が前回帝王切開創にかかっている可能性ありと話された。腹壁を切開したときに加藤先生が、「血管が怒張していますね」と言ったこと、午後2時40分に2000 ml出血していたこと、出血が目に見えて多くなってきたので、通常、輸液を点滴で滴下するのでは間に合わないため、pumpingした。以後、pumpingを続けた。出血を補うため、ヴィーンF、ヘスパンダーをpumpingで輸液した。腹壁の切開部と、加藤医師の手の隙間から、時々子宮が見えたが、広い範囲から湧き出る出血が見えた。子宮全体から湧き出る出血だった。出血量が増えたのは、加藤医師がクーパーを使ってからである。胎盤娩出後、ノルアドレナリンをワンショットで投与し、一時的に血圧が上がったが、また低下し、pumpingを続けた。午後3時25分には、血圧が50/30まで落ちた。ノルアドレナリン投与しても変わらず、出血が増え、痛みを訴えたので午後3時30分、全身麻酔に切り替えた。輸血が届き開始した4時30分に入り、血圧が上昇した。輸血と輸液をpumpingしたが、18時5分に心室頻拍となり、救命措置をしたが、心停止となった。出血性ショックから心室細動になったと考えられ、失血死に間違いないという内容です。
甲42号は、
いわき赤十字血液センターに、当日の県立大野病院からの輸血製剤発注について照会した結果と、製剤の書類の写しが添付されています。
甲53号は、
福島県立医大の病理部長、杉野医師による、癒着胎盤についての回答書です。
甲59号は、
検察事務官が、子宮の標本写真が、杉野鑑定人と弁護側の証人の顕微鏡写真のどの位置にあたるか、特定したものです。
乙1号は、
被告の検察官供述です。経歴で、冒頭陳述の被告人の身上です。平成17年に減給1ヶ月の処分を受けたと供述しています。
乙2号は、
被告の検察官供述で、職歴です。平成8年 大学を卒業し、福島県立医大佐藤教授の知り合いの父の薦めで、入局したと述べています。研修後、I病院、N病院に勤務し、平成11年から16年3月まで、大学にいました。同期4人をあわせて、5人に対し、16年3月まで、3ヶ月交代で県立大野病院に勤務するように医局から指示され、平成16年4月から大野病院で一人医長として勤務した。県立医大医局長より、医局からサポートするから、婦人科の手術の際には応援をする。帝王切開はひとりでできるだろう、と言われ、帝王切開は一人でするものだと思っていた、と述べています。
乙3号は、
検察官供述です。用手剥離について述べています。被害者に用手剥離を試みた。癒着胎盤には、病理診断と、臨床診断がある。病理診断の分類には、嵌入胎盤、楔入胎盤、穿通胎盤がある。臨床診断は、胎盤剥離ができない場合に癒着胎盤と診断するが、胎盤剥離による出血量が多い場合を診断する。胎盤の用手剥離の方法は、右手の手のひらを胎盤にむけて、胎盤と子宮の間に入れ、右手の指先で胎盤を圧す。左手は胎盤を押さえる。右の指で胎盤を持ち上げるが、通常は指を差し入れると、スムーズに剥離できる。剥がしにくいときは、ひっかかる感じになる。胎盤が剥がれないときには、胎盤と子宮が一緒に動く。胎盤が剥がしにくいと、臨床的癒着胎盤と診断する。用手剥離を始めたときはできたが途中で指が入りづらくなり、力を入れないと剥がれなくなった。ある段階で指が入らなくなり、最初3本使って圧したが、まず3本入らなくなり、2本で剥離した。2本も難しくなり、1本で作業した。人差し指だったと思う。指も入らなくなり、クーパーを使った。途中癒着胎盤と診断したが、いつか覚えていない。嵌入胎盤にあたると考えた。手術前にAさんから、子宮摘出の可能性も話して了解をもらっており、子宮摘出をそれでためらったものではない。
後日、本人から訂正があり、臨床的癒着胎盤の診断には、剥離のしにくさ以上に出血も重要である。剥離しにくく、出血も多いときが付け加えてもらえれば、それ以外は間違いない。と書かれています。
乙4号は、
クーパーによる剥離について、終始検察官と被告人が質疑応答を続ける形で記載されています。胎盤剥離には、臍帯の牽引、用手剥離、その他(鉗子など使用)があります。その他は鉗子、ペアンで子宮を固定し、手で剥離するもので、用手剥離の一対応でないかと考えます。通常の剥離はこれだけです。私個人はペアンを子宮と胎盤の間に挿入し剥離が可能な症例を経験し、クーパーによる剥離もあって良いと思います。かつて、剥離困難の場合に、剥離を中止して、直ちに子宮を摘出するか、あるいは剥離をやめて閉腹し、子宮動脈を遮断したり、抗がん剤を投与することもあります。文献には、クーパーを用いた剥離はありませんでした。学会で聞いたような気もするが、いつの、どの学会だったかわかりません。I病院に勤務していたときに、N先生がおこなわれているのを見たと思いましたが、それは、その先生が驚くような手技をされているので、そうかもしれないな、と思ったからです。
乙5号は、
クーパーによる胎盤剥離についてです。これは乙4号の4日後に作成された調書です。クーパーを用いた剥離を、学会で見たと話したが、勘違いかもしれません。県立医大にいた時に、F先生が、羊の胎仔に電極をつけ、低酸素状態で胎仔がどうなるか実験をしていましたが、胎盤を1つ2つ、外に出して、クーパーで生きている血管を切ったことがあった。クーパーで切ったのを見たのはこの時で、それを学会やN先生と勘違いしたのではないかと思う。クーパーを指の代わりにしてそいでいった。胎盤を切ったこともあったが、どの段階か思い出せない。剥離を急がないといけないと思ったからかもしれない。どうしてそう思ったのか、よく覚えていない。血圧が低下したとか、Aさんの訴えかと思う。胎盤をクーパーで切るのは、見たことはあったかもしれないし、なかったかもしれない。父からも、クーパーを使ったのはまずいだろうと言われたので、そのように一度は考え、述べたけれど、その後色々考えて、そいだり切ったりする選択肢もありえると思う。
乙6号は、
癒着胎盤の危険性への認識についてです。研修医の頃、胎盤の用手剥離が不可能な場合に癒着胎盤と診断し、赤ちゃんの娩出後、剥離できなければ、出血量がどうであれ、癒着胎盤と診断し、大量出血の可能性があるので、子宮を温存したいときは、胎盤を剥がさないでいったん閉腹すると認識していた。子宮を温存しないときには、子宮を摘出する。しかし、これは古い考えで、新しい知識では、出血がなければ、胎盤が剥離できなくても、癒着胎盤ではない、剥離できなくても、出血がなければ、癒着胎盤と考える必要はなく、剥離できても出血が多ければ、胎盤癒着を考えるということを習ったので、海外では、チャレンジをするので、そのような新しい認識を持つにいたった。平成16年4月、大野病院に赴任直後に、経膣分娩で出血が多い症例がいくつかあった。胎盤の位置が低い例が多く、隠れた癒着胎盤があるのではないかと思うようになった。剥離は簡単でも、剥離後出血が多い症例がある。
乙7号は、
胎盤剥離を強行した理由についてです。用手剥離できなくても、剥離した理由は、研修医の時代、剥離を中止し、子宮摘出すると学んだ。胎盤を手で剥離できなくても、何らかの方法で剥離し、出血がなければという例もあるのではと思うようになった。ようやく剥離できた例で、出血がなくうまくいった例の経験がある。手の指を入れることができない時点で、子宮の収縮不良か、癒着胎盤だと思った。剥離してみないと出血があるか不明だったので、剥離を続けた。出血が多いと剥離中は思わなかったが、出血量が増えてしまった。剥離について文献を調べたが、剥離を継続が良いというのは見つけられなかった。臨床的癒着胎盤は、用手剥離が困難で出血量が多いときという記載を見つけた。
乙8号は、
被告人から検察官への供述調書で用手剥離後の処置についての被告人の見解についてです。研修医のときには胎盤剥離中止と認識していた。I病院の勤務後、胎盤剥離をしたときに出血したがその後子宮収縮して出血が止まる例をいくつも経験した。子宮収縮が良好で出血しなかった例も、胎盤剥離にペアンをつかった例も出血しなかった。胎盤剥離の際に、力を入れてひっぱっても良いと認識するようになった。ペアンを使った例は剥離しにくいのが、胎盤の端の方だけだった。ペアン以外を使ったことがなかった。案外大丈夫だという印象ができていたのだと思う。Aさん以前には、指が入らないことはなかった。Aさんはより困難だった。それがクーパーを使った一因だと思う。手術前にクーパーを使った剥離について他の医師の意見を聞いたことがなかった。後でF先生にだけ聞いて、F先生は肯定された。
乙9号は、
癒着胎盤の術前診断についてです。入院カルテの12月3日の記載で、血流(+)は、超音波検査の結果で、ここで書かれた癒着胎盤とは、広義の意味だった。尿潜血(±)は、穿通胎盤の意味で、placenta accretaと書いた。尿潜血の所見は膀胱炎のためだと考えていたが鑑別として、前置胎盤?、穿通胎盤の可能性を考えた。12月6日の超音波検査の、膀胱下血流(+)とは、血流がある、ということを書いた。尿潜血はなかったので、穿通胎盤ではない。12月3日に穿通胎盤の可能性を考え、12月6日に超音波検査をした。前回帝王切開創はわからなかったので、術中超音波検査をすることとした。
乙10号は、
癒着胎盤の危険性にかんする被告人の認識についてです。Aさんの手術のとき、癒着胎盤は嵌入胎盤、穿通胎盤の可能性を考えた。F先生が、前回帝王切開の前置胎盤?の症例で癒着胎盤の発症率を質問されたことがあった。そのときF先生から、24%と学んだ。別の機会に、35歳以下、前回帝王切開の前置胎盤?、後壁付着の症例の癒着胎盤の割合は、3,4%と学んだので、前回帝王切開創にかかっていないとき、癒着胎盤の割合は、3〜4%と認識した。Aさんは、術前、胎盤の付着位置が前回帝王切開創にかかっている可能性について、少しかかっているくらいと考えていた。可能性は3〜4%と考えていた。手術当日、超音波検査で子宮にプローベをあてた。微妙な位置だと思ったので、子宮切開創から子宮内部を見た。胎盤付着と前回帝王切開の位置は特に気にしなかったが、見てもわからなかった。
乙11号は、
子宮と胎盤の位置関係をのべ、被告が作成した図も入ります。手術前、私は全前置胎盤?だというのを違って思っていました。事故調査委員会まで、Aさんのように前後壁に均等にかかっていないので、部分前置胎盤?と勘違いしていた。Aさんは子宮口全体を覆う、全前置胎盤?だった。妊娠後期には、前回帝王切開創はわからなくなっていた。子宮を切開する位置は決まっているので、だいたい推測できた。正面から見ると、左側に一部かかっている。胎盤の端がかかっていると考えた。位置関係は推測で、確認できたわけではない。胎盤の縁が帝王切開創に付着している可能性もあり、準備した。
乙12号は、
被告人の供述調書で、術前の被害者夫妻への説明の内容についてです。12月14日、午後7時、手術説明を夫妻に、図を書いて、胎盤が子宮下方についている、そして血管で結ばれている。胎盤が前回帝王切開創にかかっていると、出血が大量になり、出血がひどいと、子宮摘出することがある。輸血や長時間の手術に伴う血栓を説明した。通常している説明をした。子宮摘出については癒着胎盤も否定できないので、子宮摘出の説明をした。説明では、普通の帝王切開も子宮摘出のことは話すようにしている。普通は、大丈夫だと思うと前置きしている。Aさんはリスクが高いので、場合によっては摘出すると、説明した。反対なく、スムーズに了解された。手術室のスタッフに、摘出の準備については連絡はしないが、Aさんのときは摘出の可能性も連絡しておいた。
乙13号は、
看護師や先輩医師からの進言にもかかわらず応援要請を断った理由についてです。外来ナースのKさんが、以前県立病院で他の前置胎盤?の症例で大量出血をおこしたので、Aさんは他の病院に転院したら、と言っていた。私はAさんは、帝王切開創全体を覆っていないから、リスク低いので、大野病院でできると考えていたので、S先生とは、手術の話が出たとき、前回帝王切開の人がいるんだって?と言われた。どちらかというと、かかっていないと説明した。手伝いを出さなくて大丈夫、と聞いてくれた。双葉厚生病院のK先生に急変時にはお願いするので、大丈夫と答えた。そのときはまだK先生にお願いしていなかったが、するつもりでそう答えた。Aさんの手術に際して、輸血は必要になっても5単位あれば充分と考えていた。大量出血のリスクは知識として知っていたが、リスク自体は低いと思っていた。出血4000ml以下なら5単位で対応可能と考えた。
乙14号は、
クーパー使用し胎盤剥離するまでの手術中の状況についてです。14時15分手術室に入り、手術開始。腹壁を縦に切り、子宮が見え開創器をかけた。プローベを子宮にあて超音波検査をおこなった。子宮切開予定のところを中心に胎盤がないか確認したが、胎盤はなかった。子宮表面に血管怒張がみられた。子宮をU字切開した。羊水と断面からの出血があり、M先生が吸引した。14時37分赤ちゃんを担当に渡し、ペアンで止血をした。多少の出血があった。臍帯動脈血をとり、胎盤付着の確認をしたが、はしのほうをみた程度。胎盤は後壁には全面にわたってあり、前壁は下の方だけだった。臍帯を引っ張ると子宮が内反してくっついてきた。子宮収縮剤をうち、収縮が良くないからと思いマッサージをした。それなりに子宮が収縮した。臍帯を引っ張ると、はがれる感触はなかったが、子宮の内反はなかった。剥がれる感触はなかったので、マッサージの効果はあったと思い、手で剥離を始めた。赤ちゃん娩出から2,3分程度だと思う。用手剥離でそれなりに剥がれていたが、途中でやりづらくなった。子宮をお腹の上に乗せていたので、お腹の中にもどして続きを行った。子宮と胎盤の間に指が入らなくなった。収縮不良と癒着胎盤の両方の可能性を考えたが、「まさか。きっと子宮収縮不良だろう」と考えて、クーパーを使って剥離することにした。収縮不良はマッサージを行った。一連の作業の中だったので、マッサージを再度はしなかったが、今思えばマッサージを行うところ、クーパーにいってしまった。収縮不良だったらマッサージするはずなのに、癒着胎盤と思っていたかもしれない。
乙15号は、
胎盤剥離状況について、前号の続きです。14時38分用手剥離中の出血は、気になるような出血量ではなかった。だんだん指が入りづらくなり、14時40分頃からクーパーを使った。麻酔記録では、14時40分出血が2000mlとあるが、この時点で2000 mlは多すぎる気がする。記憶では14時45分くらいだと思うが、ヘスパンダーを始めた頃だと思うが、出血量の報告が耳に入っていなかったかもしれない。2000、2555mlの報告を聞いた記憶がない。クーパーは、刃を閉じてそぐように剥離した。クーパーで剥離を始めた時、出血は変わらないと感じた。Aさんから気持ちが悪いという訴えがあったので、出血で血圧が低下したと思った。それが14時45分頃で、どこからか出血して血圧低下したと思ったが、このときは胎盤剥離面からの出血が増えたとは思ってはいなかった。前置胎盤?でもあったので、他の部位の出血かと思った。あと少しで剥離も終わると思い、急いで作業した。早く終わらせるために、クーパーで切ってからそぐようにする方法も使い始めた。だんだん出血が多くなっているように感じた。しみでるようじわじわした出血だった。胎盤の臍の緒のつけねの下方にあたる部分からわきでる感じの出血があった。出血量が増えてまずいと思ったか、剥離がもうすぐ終わるので終わらせようと思った。終わりのほうで、胎盤はつるんと取れて、剥離を終えた。どれくらいかかったかわからないが、1分以上5分未満かと思う。癒着胎盤は確率的に低いので、どうしようかとあらかじめ考えていることはなかった。癒着胎盤の疑いはあったと思うが、だったら出血が増えたときどうしようかとはあまりなかった。学会で癒着胎盤のときには出血が3000プラスマイナス1000 mlは知っていた。
乙16号は、
前号の続きで胎盤剥離後の手術状況です。14時50分に剥離が終わり、出血点を確認した。子宮の後壁の下から湧き出る出血があり、ガーゼ20枚ほど充填し両手で圧迫したが、しみでる出血があった。5分たったが癒着胎盤の出血が止まらず子宮収縮剤をもう1回うって、弛緩出血でないことを確認した。止まってくれるよう祈る気持ちもあった。ガーゼを除いて子宮を確認したところ、多少勢いが弱まったが湧き出る出血があり、ガーゼを詰め直しZ型に糸をかけて止血した。このとき、しばった隣からわきでるような出血があり効果がなかった。何カ所からも湧き出る出血があったが、後壁の下からで前壁は目立った出血がなかった。針糸では効果無く、圧迫した。このとき癒着胎盤の出血に間違いないと思ったが、血圧低下で子宮摘出をすぐにはできず、輸血を待った。どうやって圧迫しようか、早く輸血がくることを待ちながら待っていた。15時10分より少し前、ペアンで子宮動脈を挟んだところ、出血は落ち着いてきた。H先生やM先生から応援の話が出たときは、出血が落ち着いていたので、断った。16時30分輸血が到着し、子宮摘出は順調にすすみ、17時30分子宮摘出後は出血が止まった。後で医師記録に子宮摘出と出血量が増えた時間は、手術中の時間の記憶がないので、後から逆算して書いた。子宮摘出終了後は17時30分でなく18時に近い時刻ではないかと思う。DICが心配であったが、留置針挿入部位からの出血はなく、ダグラス窩にコアグラも確認した。子宮摘出後、膀胱損傷部位の修復を確認しているときに、突然麻酔のH先生から不整脈を知らされた。
乙17号は、
胎盤剥離を中止しなかった理由について、質問と回答の形式で記録されています。Aさんの出血の原因は、子宮後壁下からの出血で、わきでる出血だった。クーパーによる剥離の後壁の上からは問題なく、手の剥離で中止していれば、大量出血は避けられたが、子宮摘出したとしても、残っている胎盤が邪魔になり、かえって手術中の血管損傷したり、前置胎盤?の出血があったかもしれず、出血がなかったとは言えない。胎盤剥離をしなくても子宮摘出は可能だが、操作でやりづらいということがある。癒着胎盤の可能性を手術前にわかっていたわけではなかったが、癒着があるとすれば前壁だと思っていたので、剥離後後壁だったのが、まさかと思った。
乙18号は、
クーパーを使用した胎盤剥離に関する被告人の見解についてです。胎盤剥離で、最初、手で開始、次に指が入らず、Aさんの胎盤剥離面にもこもこした不整なところがあったので、用手かクーパーかわかる。剥離は手でかなり剥離したと思っていたが、実際に胎盤を見ると思ったより狭かった。
乙19号は、
同じく、クーパーによる剥離についてです。胎盤写真をもとにクーパー剥離の位置は、Aさんの胎盤剥離は用手剥離でも通常の帝王切開に比べ剥離困難だった。が出血が多いことはなかった。手の剥離とクーパーの剥離がそれぞれ何分かわからないが、手が3分、クーパーが7分くらいと思う。
乙20号は、
医師法21条による届け出を認識しながら行わなかった理由についてです。平成16年12月17日、19時1分に死亡確認し、前置胎盤?による経膣の出血がなく、癒着胎盤の剥離面の出血は確かであり、大量出血からショックになり死亡に至ったと考えた。このほかに血栓から心筋梗塞かもしれないが、ショックが長かったことが原因と考えた。H先生にも意見を聞いたら、H先生も同じ考えだとこたえた。思いがけず亡くなったので、届け出について院長に聞いた。届け出は院長が行うという病院のマニュアルについては当時は知らなかった。医師法21条にある検案した医師が届け出ると思っていて、届け出が必要なのかの確証がなかったので、院長に聞いた。過誤かどうかわからないから、いいんじゃないのと言われた。院長に過誤がないのか、と聞かれ、そのときまだクーパーのことは知らなかったので、気持ちの中ではひっかかっていたが、クーパーには理論的には問題でないという結論に達したので、院長に過誤ないと答えた。
乙21号は、
被告人の戸籍です。
乙22号は、
被告人の履歴書です。
乙23号は、
被告人の前科です。
検察からは以上です。
裁判長: では、12時5分から休憩、午後は13時15分からにします。
(13:15再開)
裁判長: はい、では弁護側お願いします
弁護1(平岩):
弁131号は、
東北大学大学院医学系研究科岡村教授の鑑定意見書です。加藤医師が種々の検査をしたが、これで前壁の癒着胎盤というのは過剰診断というものであり、後壁癒着は予見できなかった。術中超音波検査は大変慎重な行為で、剥離中に出血量が増加しても前置胎盤?の出血の認識で、癒着胎盤の認識がなくてもやむを得ない。一度胎盤の剥離をすると出血が多くて途中でやめることは出血を放置することになる。クーパーの使用禁止は一方的な見解である。
弁132号は、
宮崎大学医学部池ノ上教授による鑑定意見書です。癒着胎盤の術前診断は困難であり、MRIは超音波検査を凌駕する診断精度がある検査とは言えない。胎盤剥離中止すると出血が続くので、大量出血を招く。胎盤剥離中止よりもすみやかに剥離し、子宮摘出に移る方が総出血量がすくなくて済み、私もそのように対応している。クーパー使用は問題なく、外国の文献にもある。
弁133号は、
大阪府立母子保健総合医療センター中山部長の鑑定意見書で、弁130号に追加されたものです。癒着胎盤に関しては子宮や胎盤の内腔の観察のみならず、臨床所見も重要である。胎盤はばらけやすく、オートメーション化された処理工程中にプレパラート標本にはアーチファクトが加わる。正常娩出でも、卵膜内に絨毛が残ることもある。本件では前壁には癒着は認められず、絨毛の侵入は胎盤の壁の5分の1にすぎない。
弁153号、
東北大学の岡村教授が、弁131号に追加した鑑定意見書です。術前検査による診断に、子宮後壁のclear spaceが明確で、胎盤のスイスチーズ様の所見もなく、癒着胎盤の疑いをもてない。膀胱の血流は、癒着胎盤の診断につながらない。臨床上よくある所見である。加藤先生の超音波検査装置はMRIを上回る精度である。MRIを行っても癒着胎盤が判明したとは考えにくい。術中超音波検査を行ったことからも、検査は充分と考えられる。
弁154号は、
宮崎大学の池ノ上教授によって、弁132号に追加され、手術方法についての鑑定意見書です。加藤先生の対応は標準的で不適切とは言えない。前置胎盤?の帝王切開として充分な配慮人員配置があった。前置胎盤?は腹壁の切開で血管怒張があることがあり、術中超音波検査もやっていて、癒着胎盤が診断できなかった。後壁癒着で、ガーゼを充填しての双手圧迫をして、両側子宮動脈もペアンで遮断したなど、止血措置を講じている。
弁155号は、
杉野医師の鑑定書で、検察側が、甲7号の証拠取り調べ請求をした後で、撤回したものです。杉野医師は、病理標本写真7を見ると、子宮切開時に胎盤が一緒に切られているのがわかると、書いています。早期から出血が多かったのならば、帝王切開時に胎盤を損傷し、そこから出血と供述しています。しかし杉野医師はその1年後の公判では、帝王切開創の下に胎盤があったとはわからない、と矛盾する供述をしています。これは杉野証人は信用性を欠くという・・・
検察1: 今日は評価はしないで
裁判長: そうですね、本日は書証の中身の記載のみですから。
弁護1: はい。
弁156号は、
捜査員が撮影したプレパラートの写真です。杉野証人は、写真6について、どこかわからないと供述しましたが、4枚のうちの1枚である写真6のプレパラート写真が、天地逆と判明したものです。
弁157号は、
弁護側が作成した、平成19年11月下術の証拠開示で、杉野写真と一致することを検証したものです。
裁判長: 弁155号は、検察官の写しですね
弁護1: 検察官が原本をお持ちです
裁判長: 以上で終了ですね。はい、では、意見陳述に移ります。
意見陳述
【Aさんの夫より】
被害者の夫です。このたびは、私のために貴重なお時間をさいていただいてありがとうございます。私の立場で心境について述べるのはありがたいことです。しばしの間お聞きください。
妻の出産について、天国から地獄、そのとおりのことがあてはまる状況でした。
前回帝王切開で前置胎盤?であるということで、早めの入院を勧められて入院しました。帝王切開について先生より説明があり、出血が多いと子宮をとること、輸血は1000ccと充分準備すること、何かあれば厚生病院の先生を呼ぶと万全の体制でのぞみますと説明を受け、私どもは、そこまでしていただけるのか、なんて力強い、と思い、全てを先生に託しました。
手術の当日は安心して、子供の誕生を待ち、生まれたことがわかると、家族全員喜びました。しかし、いつまでたっても、妻が戻ってきません。病院の人にたずねてもあいまいな答えしか返ってきませんでした。しばらくして、先生から説明があるとのことで、部屋に入ると、いきなり、申し訳ありません、亡くなりました、ただ今蘇生しています、と話されました。手術経過の説明をされましたが、とても納得できる内容ではありませんでした。
私は今、父親として、責任をもって二人の子を育てています。親として当然であります。
今回、私がお話したいのは、責任についてです。手術を受ける患者は、手術中、自分の力ではどうしようもありません。信頼する先生に命を預けるのです。当然、先生には責任があると思います。命を救うことができなかったことに対して、いいわけや責任転嫁をせず、厳粛に受け止め、何が欠けていたのかとか、ミスがあったかとかに正面から向き合ってほしいです。
加藤先生の手術の内容は、弁護側の先生からは誰でもする、特に問題がなかった、と言われました。何も問題がなければ、なぜ、妻は死んでしまったのか、とても疑問です。
人はそれぞれ異なります。それを、医学的に同一と言われ扱っても良いものでしょうか。病院は、必要な安全のためのものが整っているところです。分娩室に入る前、元気だった妻が、医師の機転や処置のとりかた、手術に間違いがなければ、なぜ妻は死んでしまったのでしょうか。
関係者は、来る日も来る日もつらい悲しい思いです。あの日以来、平安がなくなりました。こんな苦しさを一生になっていくのかと思うと真っ暗になります。
私もそうですが、誰でも自分がかわいい。しかし、自分のとった行動、言動には責任をもつことが、大人として当然だと思います。言い訳をしても一人の命が消えたことは紛れもない事実です、大人として責任をとっていただきたいです。
子供と妻のために、責任を追及し、責任をとってもらいます。
私も父親の責任として、子供を育てていきます。
私は社会生活は、あらゆる分野があつまって成り立っていると思います。医療は、これまで一般の人、素人が立ち入ることができない聖域だと考えられていました。今回、司法に介入され、閉鎖的であった医療が、国民の関心をよび、社会的にひらかれたと思っています。
真実はひとつだと思います。この裁判が、医療の実態の探究につながります。そして、妻の死の原因の解明につながり、私のような家族を再び生まないことにつながると思います。
全国の女性の安心しておこなえる出産につながります。
未熟なものなので、表現に誤解があるかもしれない部分はお許しください。
【Aさんの父より】
今回の事件の被害者の父として心境を述べます。
娘から、今回の手術について、今回のお産が難しいとか言う話は一切ありませんでした。2004年12月17日、当日仕事を終えてから病院に向かいました。娘に何と言おうかと思いながら、運転しました。18時前に病院につきました。病室について家内に娘の様子を尋ねると、まだ、と言いました。
私はナースステーションに行って尋ねましたが、ちょっとお待ち下さいという返答でした。私は連絡がすぐくると思っていました。私がステーションに行くと、ナースは足早に奥の方に入っていき、私が少し離れたところで振り返ると、ナース達は私の目線をさける。ナースステーションで、ナースが逃げ隠れするのを目の当たりにして、異様な雰囲気でしたが、そういう時間が30分続きました。私は娘がまさに命を落とす状況になっているとは知りませんでした。
ナースが私たちに、執刀医の説明があると、18時45分に案内されました。先生からは、突然、なくなりました、と、淡々と説明されました。直後からナースステーションは悲鳴の中にありました。21時前に、再度説明がありました。私は先生が淡々と話す姿に違和感がありました。
医師記録を見せられ、娘が私たちが来るのを待っていたかのような記録、くやしさの痕跡が残っていて、親として、これは何かがおかしいと感じ、事故の真相を解明したいと感じ、その場で、娘に最善をつくしたのか、ときき、カルテのコピーももらいました。
病院の裏玄関で、娘のなきがらを引き取る際、先生から病理解剖をしますか、ときかれて、しない、と即答しました。先生は、子宮はあずかっていると言われました。
この悔しさを記憶しながら、病院を出ました。
加藤先生の説明では、超音波検査で一週間に一回、みさせていただき、胎盤は子宮の後ろ側にあり、胎盤が子宮につきすぎ、剥がすと出血した。それほどひどい癒着ではないと思ったが、ひどい癒着だった。剥離も、はさみでところどころ切らないといけないほどの癒着だった。出血がとても多かった。剥離にかかった時間は15分で、15分の間に、5000mlも血を失ってしまって、血圧がさがってしまった。60、50と血圧が下がり、ショックをかえられなかった。子宮をおさえこんで、待機となった。いざすすめると、前置胎盤?、癒着胎盤、予想もしない出血にみまわれた。その状態が長く続いた。2004年12月26日の病院の説明でした。
加藤先生の法廷での説明は、当時私のきいた説明をかなりちがうので、何故変わったのか不思議な気持ちです。
翌日から病院に相談しようか、警察はとりあげないだろう、自問自答し、家族の苦悩はつづきました。娘の死以来、眠れない日が肉親に続きました。
家内は、先生を信じていたのにと落胆して口をとじてしまっています。
娘がなくなってから半年過ぎると、早くも示談の話が病院からきました。私達家族は何故事故がおきたのか、納得できず、研究報告書等を入手していたことから、示談は時期尚早と考えて、質問を病院に送ったところ、中断したままです。
病院の壁の厚さから、何一つ、真実がひきだせず、苦悩がつづいていました。ただ時間が経過していました。
病院関係者から、娘の死にあたっては、他の病院、十分な検査や高度医療のできる病院であれば良かった、安全対策をしなかったという内容がわかりました。
肉親にとっては、大学病院の調査報告と報道と同じ内容でした。大野病院でなければ、娘を亡くさずにすんだと、強く感じました。これで何故事故が起きたのか、防げなかったのか、真相を究明できると感謝しました。
1年がすぎ、加藤医師が逮捕されました。癒着胎盤が極めて稀で、一人の産婦人科医が一生に一回遭遇するかどうかであるとか、1万分の1、とか、2万分の1とか、難易度が高いとか、大出血は稀だとか、亡くなったのは娘のせいだとか、二人目の出産はダメだといわれたのになぜ生んだかとか言われました。これらは、亡き娘に対する人権侵害、誹謗であり、遺族は逆境の中にいます。医学の真実を集めていない書き込みや、誤解のないようにしてくださることをお願いします。
事前に、術前に、病院内外に色々意見があったのに、私たちにインフォームドコンセントや、セカンドオピニオンがなかったのは、何故なの、と、先生にしつこく訊いたであろう、娘の言葉の代弁です。
長男はクリスマスに、お母さん、起きて、と泣きました。やさしいお母さんを返して、というのが、長男の言葉、今回生まれた孫の代弁です。
肉親は、術前診断から癒着胎盤の疑いがあったにもかかわらず、関係者からのアドバイスを無視し、暴走し、手術中の数々の警鐘にかかわらず、命を奪った、加藤先生の行為が許せません。
経験のない先生とわかっていたら、絶対に娘を預けませんでした。
事故がなぜおきたのかの原因、病院の安全を強化して、二度と娘におこったような悲劇がおこらないように、してほしいです。
医師不足と今回の事件とは、別の問題です。患者に安心安全を与える医療のために、邁進していただきたいと思います。
これで肉親の心境を終わります。
【Aさんの弟より】
今回の被害者の弟として、心境を述べます。
女の子だったら、一緒にお料理したりかわいい服をいっぱい着せたい、と生前言っていた姉の夢を思い出します。姉は明るく元気で社交的でした。近くでイベントがあれば、家族を誘い、楽しく過ごしました。姉が亡くなり、3年たった今も、元気だった姉がどこかで生きている気がして現実をうけとめられません。
2004年12月17日の、赤ちゃん誕生の喜びを祝いあうはずだったのに、一瞬にして、悪夢のはじまりとなりました。
手術当日、生まれた赤ちゃんに、姉の夢がかなったね、と胸がいっぱいになりました。保育器の赤ちゃんをみながら、長い時間、姉を待っていました。
しかし、待てども待てども出てくる気配がありません。看護師から、病室で待つように指示され、待機していました。看護師の行動が、家族との接点を拒んでいるようで、あきらかにおかしい状態でした。父が来て、看護師らに問いかけした様子でした。その後しばらくして、ナースステーションの奥に移動して、重い空気が流れました。時間がたって、父が戻って、親戚を前につぶやきました。ダメだった、娘がダメだった、亡くなった。親戚は、泣き叫ぶ声、悲鳴、怒鳴り声、地獄と化しました。
2004年12月17日、あの長時間、本当に手術で最善をつくしていたのか、もしつくしていてくれたなら、待機していた家族に、一報をいれる配慮があったはずです。病院に緊急の体制があれば、納得のいく対応があったはずです。
医師から、亡くなりました、と言われ、納得がいくわけもなく、本当に最善をつくしたのか、不信感を持つのは当然です。姉が息をひきとる前、わずかな間赤ちゃんと対面し、ちっちゃい手だね、と言ったことを聞いて、喜ぶ姉の顔が浮かびました。
それなのにどうしてこうなったのか。私も、一生懸命に生きた姉が、無念な思いでこの世を去った姉が、不憫で悔しくて悔しくて、許せません。
事実をうけとめながら、明るく元気な姉、お母さんである姉に会いたいと思っています。
2004年12月17日から、肉親家族の中で、くやしさにくれる日々の中、姉にかわって残された二人の孫をひきとり、両親は二人の子を不幸にしたくない思いで育ててきました。病気に勝てず二人の子は入院もしましたが、高齢をおして徹夜で看病した両親によって、大きく成長した子供に、真実をつたえるため、姉の分も両親には長生きして欲しいと思います。
病院から、姉がなぜ死ななければならなかったのか、説明がなく、真実が解明できず、苦悩していた両親に、光をさしのべてくれた、警察、検察に、感謝しています。
姉は1ヶ月前から病院に長期入院していたのにもかかわらず、このような事故がおきて残念です。何故おきたのか検討し、再び事故のおきない体制にするため、監視を強化し、二度と事故がおきないことを祈っています。
これを天国の姉の代弁とします。
裁判長: 以上で終了になります。次回の日程ですが、変更があり、3月21日午後1時30分から、検察官の論告求刑。その次は5月16日の午後1時30分から、弁護側の弁論です。