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胎児カルテについて

胎児カルテについて

                                    (室月淳 2015年8月5日)

この20数年以上,「胎児医療」をどのように実現するかだけを考えて仕事をしてきました.超音波診断はもちろん,遺伝医療も胎児生理学もすべてそのために研鑽してきたものです.理想はちかくなったりとおくなったりしながら,まがりなりにもようやくここまで来たという感慨があります.

胎児医療の理想は,診断技術や治療手技をきわめることではなく,カウンセリングや心理的ケアを追求することでもなく,そのすべてを包摂しながら,もうすこし根本的なところにあると思います.それは真の意味で,胎児をひとりの人間として認めること,ひとりの患者としてあつかうことです.

周知のとおり,胎児は法的に一個の人格として認められてはいません.だから健康保険給付の対象にもならないし,従来ならば独立したIDもカルテももつことがありません.法的にも社会的にも認知されておらず,IDもカルテもないということは,病院のなかですらその存在を認められていないということです.

何年か前ですが,当院ではこの一年間に「祈りの部屋をとおって退院したこども」が28人との話がありました.死亡退院したこどものことです.でもそれはあきらかにおかしかった.われわれの産科だけでもざっとみて30人以上の赤ちゃんのお見送りをしています.数があわないのです.

子宮内あるいは分娩途中での胎児死亡(死産),妊娠中期中絶などは,出生届や死亡届がだされず,また児のIDやカルテをつくることもないため,病院はその数を把握していませんでした.というより,そもそもそういった子の存在ははじめからまったく念頭にないのです.

毎年,死亡退院していったこどもたちを振りかえるのはとてもたいせつなことなのですが,はじめから胎児はそこからはじかれています.しかし出生直前に亡くなって死産となっても,あるいは生まれてその直後に看取りを行なっても,ご両親の悲しみや嘆きに差があるわけではありません.

そのふたつの状況は家族にとっては同等の悲しみなわけです.しかし一方では,死産として名前もつけられずに葬られていますし,はたしてもう一方では,カルテとIDがつくられて記録され,法的にも出生届と死亡届がだされ,すなわちひとりの人間の死としてきちんとあつかわれることになります.

どんな子でもおなじように「ひと」として扱い,亡くなったときはみなで悲しみ,みなで見送ってあげる.それが医療者として,ひととして当然なことです.そういったことがふつうにできるような医療の体制やしくみをつくることはとてもたいせつです.それが胎児医療の理想です.

胎児カルテは2001年ころに長野県立こども病院ではじめて導入されたもので,それから15年,「成育医療」をめざす病院ですこしずつですが広まってきています.国立成育医療センターをはじめとした,主に全国の小児病院や周産期センターで採用されています.

「成育医療」とは,これまでの診療科や年齢の枠をこえ,胎児から出生,小児期,思春期をへて成人への成長発達を,総合的かつ継続的にみていく新しい概念の医療です.胎児のときからカルテを作成し,その子が生まれた後から成長して大人になるまで一貫して同じカルテでみていきます.

これは医療面だけにとどまるものではありません.患者とその家族を保健面,心理面から支援をおこないます.それは母親・父親支援,育児支援,虐待予防,家族機能形成支援,軽度障害児支援などを含み,保健師,臨床心理士,SMWなど多職種にかかわるものになります.

こういったことははでな胎児治療や手術を成功させるのとおなじくらい,胎児医療の理想を実現するためにだいじなことです.いわゆる「胎児カルテ」の実現はその意味で譲ることのできない一点なのです.生まれるまえの胎児にIDをつくることに,しかしなぜこれほどまでに抵抗があるのか.

病院が,法律が,健康保険制度が,そして電子カルテシステムそのものが,胎児カルテの実現を執拗に阻むのです.出生前は法的にひととして認められていないから? 保険請求ができないから? 出生年月日がないとカルテをつくれないから? 理由としてはあまりにも愚かとしかいいようがありません.

いったいどちらを向いて医療をしようとしているのか.それは患者以外にはありえないでしょう.そして胎児をひとりの人間として,ひとりの患者として認めること,すべてはそこからはじまります.わたしたちのモットーは"fetus as a patient"です.

胎児診断治療の是非や,あるいは選択的中絶をめぐる問題ですら,そのことを前提にしないでは誠実な議論はできません.われわれはつねにそこから出発しています.そうした胎児医療の理想を実現するために,ひとりでもおおくのかたがたのご理解とご協力をいただければ幸いです.

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カウンタ 2367(2015年8月5日より)